2007年12月19日水曜日

お隣さん マイク  2

機械工、設計士、デザインのマイクと三台のコンプユーターをつなげたNetwork が必要とコンピュータを買い込んだが、さて誰がその配線をする?普通は専門業者に頼むが、彼はわが社で働いている若い従業員トマスに目をつけた。彼はかつてワイヤーマンであったから配線は得意だ。プロの時間給は普通35ドルから40ドル。仕事帰りのトマスを呼び止めてアルバイトを勧誘した。それも相場の半分の額。しかしトマスは独身者、夜学へ通いいつかは薬剤師になるのだと勉強中。副収入は誰でも有難い。 早速週末と仕事の後にお隣へ行ってコンプユーターの接続配線を始める。新しく購入する機械も今ではすべてコンプユーターである。一ヶ月後には便利なトマスを丸抱えで雇った。いわゆる引っこ抜きである。こちらはまた新しく社員募集をせねばならない。しかし「去るものは追わず」本当はそんなことはどうでも良いのだ。 若い社員が少しでも賃金の良い職場へ移っていくのは悪いことではない、しかし、四ヶ月後、新会社設立の予算を大幅に出たマイクは見事にトマスを解雇した。

アメリカでは、履歴書に克明に職暦を書き出す必要がある。一年一年年数を追ってその間にくまなく就業しているか、空白があればそれを知りたがる。何故ならその空白期間に刑務所入りがある可能性、病気、短期間の就職と解雇の繰り返しと疑いを持たれるから。また職歴の欄にかつての雇用主の住所、電話番号が必要とされている。会社側としては照会をくまなくする。 わたしのところにも十数年も前に居た社員の照会電話を受け取ることもある。「この職場をなぜ辞めた」それが大切なのだ。 また解雇とレイオフ(リストラ)とは意味が違う。就業期間の極端に短いのも、尻が落ち着かないと嫌らわれる。もう一つは、 解雇には失業保険が適用されない。これは辛い。 故に私たちのような零細企業が資金繰りに困り従業員にやめてもらうときは、次の職場への推薦状を添えることもある。

予断になるが、 中型サイズの職場への就職になると、ドラッグ テストが必ず入る。 麻薬常習者では困る。履歴書の審査、面接が終わり、そこまでOKの出た求職者は次にお小水のテストが待っている。これも男性の場合はカップを手渡されてから提出するまで必ず人が付き添う職場もあるそうだ。不埒な奴が時々現れて、家族の一員のサンプルを隠し持ってきて出すのもいるそうだ。嘘かホンとか知らないが、妻のお小水を持ち歩き、それを提出したら、未来の雇用者から、「君は妊娠していますね」と言われたなどという話を聞いた。 我が家の息子や娘も学生のころのアルバイト先で何度も経験をしている。 かつて息子の秋夫が面白い助言をくれた。 ドラッグ テストの前日に「日本の七味唐辛子」の入った食事をすると、テストの種類によっては「要注意」の結果がでるそうだ。七味の中の香料のどれかが引っかかるそうだが、それが何か教えてくれたがもう忘れた。 

昔日本では、小学校で検便の日というのがあった。今もそれがあるのだろうか。その日の朝は学校中の生徒が登校前に自宅であの小さな容器を持って頭を抱え込む。 ある年、クラスの中のガキ大将が、自分は今朝弟が庭の隅で新聞紙の上に落とした糞を後ろから掠め取ってきたと豪語していたのが居た。
  数週間後に結果が出た。わたしたちのクラスの男性教師は一人一人名前を読んで、結果を伝えてからその用紙を生徒に渡す。生徒のプライバシーなんて言葉もなかった懐かしい昔の話しである。  傑作はそのガキ大将の名前が呼ばれたとき、教師は、大声で、彼の腹の中にはサナダムシあり、肝油を飲むグループに名前を書き加えていた。教師以外クラス中の子供たちは、それが彼の弟の物だと知っている、今こそガキ大将が自分の行動に責任を持つときが来た。クラス中の子供たちが腹を抱えて大笑いをしたのを覚えている。

2007年12月13日木曜日

お隣さん  マイク 1

相棒のマイクは多少人をコントロールする癖がある。親しみを持つのに時間のかかる人のようだ。
マイクとミッキーの二人でこれから設立する会社のイメージがどうやら違うように見える。 ミッキーが吸殻をポイと工場の床に捨てるのが我慢できないと、 吸殻のある箇所をガムテープでX字を貼り付けて歩く。 もちろん吸殻はそのままだ、嫌なら捨てればいいのに、それは彼の仕事ではならしい。ミッキーの汚れた手で壁を触り汚れたと、そこにもガムテープでX字を貼って置く。 最初それを知ったとき、「異常」?という言葉が頭をよぎったがそうではないらしい。本人にしてみれば、言い出したらきりがないし、喧嘩になるとでも思っているらしい。  一日の終りに旋盤やミルの上に鉄くずが残っていると毎日ミッキーは文句を言われている。鉄やステンレスを削れば切りくずがでるのは致し方ない。だが、マイクは工場をいつも綺麗に保ち、何時誰が新会社を見に来ても整理整頓がされていて、うちの工場はこんなにきれいですと見学してもらうのが営業の一つと心得ている。いまだ大きな企業の一員として働いていたときの習性から抜け出られず、思いつき一つ、指図一つで会社は動くと信じているようだ。

自営業とは、営業、生産、経理、庶務すべてを知る必要がある。 もちろん人を雇えばよいことだが。
 中国から移住してきたある若夫婦が新しい食堂を開いたが、数年で倒産した。 理由は簡単だった。 メニューの中のすべての料理を、オーナーが料理出来なかったから。もちろん彼らはコックを雇った。 そのコックが決めた料理すべてがメニューに載っている。 しかしコックといえども人間。 病気もすれば怪我もする。
計理士上がりの若い経営者は、毎日レジスターの後ろに座り、帳簿を眺め、お客に挨拶していたが、 店が軌道にのり、この分で行けば今年はもしかしたら黒字なんて喜んでいた頃合を見て、コックが給料値上げを要求した。 とても彼が支払われる額ではなかった。値上げを渋る店主に、コックは実力行使を使った。 翌日から出勤を拒否した。若い店主はそのときに自分の愚かさをさとったそうだ。  もしも、自分がすべてメニューに載っている品を料理できていたら生き残れたと。 社員が出来ることを雇い主ができないようでは足元を見られるだけのこと。 

独立した人が必ずしもノオハウをすべて知っているとは限らない。普通自分の専門を生かしたくて始めるケースが多い。  朝の会議に出て、秘書にコーヒーを持ってこさせて、なんてしゃれたものはもうない。コーヒーを淹れるのから床掃除まで経費を節約したかったらすべて自分たちでしなければならない。現在のアメリカの銀行は小企業に資金を貸さない方針になっている。理由が面白い、借財の額が小さいからだそうだ。借金をするなら大きくしろというわけだ、自営業の必要とする小額では書類仕事に時間がかかるだけで経費の無駄だという。

マイクも必死なのはわかる。彼が誰かと話し合いたいのもわかる。絶え間なく我が事務所へ設計図を持ち込み、こちらの働き手の意見を聞きに来る。 新しく購入した機械の使い方、電気の配線、果てはコンプユーターの使い方まで聞きに来る。 なんかカラースさんを思い出す。事務所を開くことに関する質問であったらいくらでも助けるつもりだ。かつてはわたし達が始めたときも誰かのお世話になっているのだから。しかしそれが収益を伴うビジネスに入ってくるとこれは別である。こちらはわが社の働き手にいい加減にするようにと注意したが、笑っているだけだ。しかし私としては死活問題である。夕方の仕事の後とか週末であるなら構わないが、営業時間では困る。この業界は知識、博識、経験は現金収入につながる。だからコンサルタントという商売が成り立つのだ。 自営業とは、毎時間オーナー自身が働き続け、収入を出さないと運営していけない。毎日が戦いである。
ある朝、いつものようにマイクが事務所に現れた。  「彼居る?」もちろん居るさ、いなきゃ困る。 「ちょっと相談だけどね、」と私の事務所の前を通って奥へ消えた。
30分後にドアを押して出て行こうとする彼に私はにっこりと微笑んで「問題は解決しました?」と聞いた、マイクは、「解決しました」
そこで私は囁いた「請求書は後で送りますから?」それ以来マイクは二度と事務所へは来なくなった。その二ヶ月後に彼はコンサルタントを雇った。最初からそうすべきだったのだ。ただ乗りはいけません。

2007年12月6日木曜日

お隣さん ミッキー 

赤毛の女性が大好きなミッキーは小規模な会社の半分オーナー。 彼は作る人。彼もドナルドと同じ精密機器の職人さん。設計と営業担当はイギリスから移住してもう二十五年、最近やっとアメリカ市民権を取る準備を始めたエンジニアーのマイク。彼が後の半分のオーナー。 この二人は水と油ほどの性格の違いがある。どうしてこの二人が一緒に仕事をするきっかけがあったのか不思議なのだが、半年ほど前にお隣の建物に入居して新しく特注カプリングの会社を設立した。

ミッキーは一日が終わると、子供が泥んこの中に横臥して遊んだように汚い。機械工だから汚れるのはわかる。しかし同じ機械工でもドナルドはあんなに汚くない。共に黒のT-シャツに黒のジーン。機械の前に立つときは野球帽をかぶる、細身で長身までは同じなのだが、ミッキーは違う、タバコを吸っても灰皿を使わない。彼が歩くとゴミが集まるっていう感じ。鼻髯にあごひげ。長髪。女性と話しをするときなどいともやさしげにニコニコするのだが、髯ボーボーのおっさんがニコニコするとニヤニヤに見えるから不思議だ。
 
週末に友人二人とミッキーはサン アントニオへ出かけた。帰宅途中昼食はファミリースタイルの食堂でと決め込んだ。皿の上に大盛に盛られた食事は中年以降の三人には不覚にも食べきることが出来なかった。そこへ店主のデブオバチャンがいつもの顔ぶれと違う彼らのテーブルへ挨拶に来た。ミッキーの肩に手を置き、食事はどうでしたか?とにこやかに聞く。 三人とも美味しかったと答えた、オバチャンは、皆さんまだ食事は終わっていないようですね?と皿の上の食べ残しを見る。あなた方アフリカでは、食べる物も無くて飢え死にする子供が現在も沢山居るのを知っていますか? とジローと三人を見る。 ここに食べ残された皿の上の食べ物で何人の子供が今日も生きられると思いますか?ジロー。こんなに食べ残して、あのアフリカの子供たちに申し訳ないと思いませんか ジロー。
やさしく諭されたテキサス男たちはシュンと悔恨の念に囚われ、背筋を伸ばして素直に「イエス マーム」と答え、目を白黒させてもう一度フォークを手にして自分たちの食べ残しを腹に詰め込んだ。大いなる人間愛、これぞまさにファミリーレストラン。

ネー、 自分たちが、食いたくないのに、腹に詰め込むことがどうしてアフリカの子供たちを助けることになるの? 毎日食事が出来ることを何故申し訳ないと感じなければいけないのかね。 アメリカの政府は、税金をガッポリとかき集めてアフリカなど第三国へ配っているのと違うの? 自分は、十六才から働き通しですよ。 休みなく働いて、 仕事をしなければ家族を養えないから。自分は一度も社会福祉へ援助を頼もうと考えたこともない。 俺アフリカの子供たちへ機械の使い方教えに行こうかな?そうすりゃ彼らももう飢えないだろう? そんなことをぼやきながらわたしの事務所のコーヒーを飲みに来る。自分たちの事務所では相棒のマイクの淹れるコーヒーが美味しくないのだそうだ。 それなら自分で淹れたら?というと、マイクが自分の淹れたコーヒーを捨てるとボヤク。ソレッテ、ミッキーもマイクの淹れたコーヒーを捨てるの? ウヒヒーと笑うミッキー。同意が出来ないのはコーヒーばかりではないのだが。

2007年11月30日金曜日

母の日 2

小春日和の真っ青な空の日曜日。 秋夫君は六時起床、一週間分の洗濯物を持ってコインランドリーへ向かう。 土曜日に友達と遊びに行き時間がなかった、 今朝洗濯を済ませなければ、明日から仕事へ来て着ていくシャツもパンツもない。
三台の洗濯機により分けて洗濯物を押し込み、 コインを入れてオン。アパートへ戻りコーヒーを入れて三十分待つ。 ランドリーへ戻り、大型乾燥機の一つ扉が開いているのを見つけ三台分の洗濯物全部を押し込んだ。コインを入れてオンのボタンを押して彼はランドリーを飛び出た。花屋へ向う仕事が残っている。そこにやはり母親のために花を買いに来ていた友人とバッタリ、話し込んで気がついたら九時半。あわててランドリーへ戻り乾燥機を開けた。 エッ、マサカ 冗談でしょう。

約束の十時に秋夫君は我が家のドアをノックした。 手には紫陽花の花の植木鉢を持ち、 「母の日おめでとう、車は昨日一応掃除しましたから皆様が座れます」とニコニコしている。
玄関前の陽のあたるところに立つ息子、後五分かかるから中へ入るように進めても此処で待ちますと動かない。準備の出来た主人が外へ一歩、息子をハグして慌てた、ナンダお前、ビッショリだぞ。シャツ、スラックス、靴下すべてずぶ濡れの衣類を着ている。ランドリーへ一時間後に戻ったが乾燥機が最初から壊れていたのだ。 扉を開けたら、洗濯物が全部下にうずくまっていたと笑っている。時間がもうない、T-シャツやブルージーンは山ほどあるが、まさかそれを着て教会へはまずい、仕方なくアパートへ持ち帰った衣類を見てしばし考えたが、エイヤーとその濡れたシャツを着て我が家へ来たというわけだ。 
せめてシャツだけでも父親のシャツに替えたらと進める母親に、上が乾いてもスラックスが濡れていれば同じだ、このまま行こうと冷たい父親。新聞紙を座席に敷いて運転する息子が少し哀れであった。

ステンドグラスが綺麗な古い教会の中の冷房完備は抜群。 一歩御堂へ入ってヒヤーと冷たい風が天井から来る。祭日のミサは長い、今日は母の日ゆえ司祭も念入りの長い説教と聖歌隊の歌、次はお御堂びっしりと埋まった母親たち一人一人に司祭からカーネーションの花が手渡される。その時間の長いこと。 隣の息子の上に容赦なく吹き付ける冷房の風で彼は小刻みに震えている。時折立ち上がると、木の椅子の彼の座っている箇所が濡れて輪になっているのを見て直美が可笑しさをこらえて彼女の体も小刻みに震えている。

やっと終わったミサ、娘の提案で野外テラスのあるギリシャ料理の店と決めた。 陽のサンサンと降り注ぐ席で暑がりの主人は汗を流しながらの食事に店内に空席がありますけど移りますかと聞いてくるウエイトレスに主人は恨めしげに断っている。

食事が終わり、デザートは何が良いかとテーブルに来たウエイトレスが秋夫をジット見ている。少し間を置いて、彼女が息子に声をかけた、先ほどから気になっていたのですけど、 気分が悪いのですか?
「気分は悪くありませんと」と答える彼に、「あなたの体から湯気がたっているのですけど。」
それを聞いて私と娘の我慢が一度に爆発し大笑いとなった。 サンサンと降り注ぐ太陽の下に座る息子の衣類が一気に乾きだし、肩、背中といわず全身から陽炎にようにフワフワと湯気が立ちこめている。      

2007年11月27日火曜日

母の日  1

母親の居ない人間はこの世にありえないが、必ずしも誰もが「母の日」を祝うわけではないだろう。 私は子供の頃には頻繁に自分の小遣で買える範囲の小さな品を母に送っていた記憶はあるが、兄も姉もあまりそのようなことには関心がなかったようだ。最後にわたしが母に贈ったのが、和服用の草履だったのを覚えている。 もうその頃はサラリーをもらっていたので、結構高価なものが買えたのだ。しかし結婚後に遠くアメリカに住むようになり、自身が子育てと近場に居る姑への結構派手な母の日の祝い事に追われて、実家の母へは電話で話をするだけになっている。一二度花を贈ったが、 やはり遠い外国からの注文ゆえどんな花が届けられているのか皆目わからず、受け取った母から、 「もらった私が言うのは悪いけどね、もうあんなの止めなさいよ、あなたからの花腐っていたわヨ」と指摘されてから、あーもう止めたときめた。 しかしその頃から兄や姉の家庭では、子育ても終わり、老い始めた母への孝行が盛んになり始め、母の日や誕生日ともなると、兄姉が一緒に母を素敵なレストランなどへ招待をしている様子に、なんともはや置いてきぼりをされたような気分になる。
 
 まだ学校へ戻るつもりの娘直美はアルバイト料をすべて貯めこむ。 決して無駄使いはせず、食料品の買出しもクーポン券を探して少しでも安値で買い物をする徹底派だ。 しかし、クリスマス、誕生日、母の日、父の日となるとこちらが気兼ねするほどの高価なプレゼントをくれる。 こんな散財は申し訳ないと言うが、本人はその為の貯金なのだと可愛いことを言う。

しかし息子は違う。 サラリーの全てが穴の開いた財布から出ていくようだ。この子はもしかしたら「金銭感覚脳障害症候群」かな?と心配したことがある。欲しい物があるとブレーキが利かない。 必ず手に入れる。 目的を決めると、一日缶詰めのスープ一杯の生活に入る。 一ヶ月でも二ヶ月でも、その間に酒もタバコも娯楽も一切ご法度。 本当に飲まず食わずの生活を自分に強いて目的額に向かう。達成後はその苦労の結晶がカメラ、ギター、コンプユーター、新開発のゲームにソフト、ゴルフ道具に釣り道具へと消える。

毎年「母の日」が来れば、息子も何かしようという気持ちはある。まだ幼い頃は父親が二人の子供を連れてデパートへ行き、彼らが品物を選び、支払いは父親に廻し、買ったプレゼントの包装に各部屋で悪戦苦闘していたものだが、家を出て、一人前に酒も呑む男にはそれは過去の話。

二年前は名も知らない大輪の花をプレゼントしてくれた。それも新聞紙に包んであった。 息子の住むアパートの隣の庭に咲いていたのだそうだ。 隣の奥さんが、好きなだけ切っていきなさい、きっとお母さん喜ぶわよと言ってくれたそうだ。 うれしかった、胸のうちでお隣の奥さんにわたしも感謝をした。

去年は一日中我が家で奉仕活動をしてくれた。 家中を掃除機で走り回り、お茶を入れてくれて、夕食の料理を妹と二人で準備して、終わりには皿洗いもしてくれた。
娘から香水を一瓶もらい、息子に料理をしてもらい、こんなに幸せな母親がほかに居るだろうか?

今年は息子から電話が入った。「ママ、母の日のプレゼントは何が欲しい?」どうやら今年は少し余裕があるらしい。 そうです、彼も今年は二十六歳。だがなけなしの財布をはたかせるつもりは母親には毛頭ない。
リッチモンド通りにある教会がラテン語のミサがあると知った私はその教会へ行きたいと話した。 家族みんなでミサへ出て、昼食はお父さんの支払いで一緒しよう。それを母の日のプレゼントにして欲しい。 
「OK、ママとミサに与かればいいんだね? 簡単です。 何時に迎えに行けば良い?」

2007年11月19日月曜日

アクセント 2に対する投稿です

手負い虎さんからコメントの投稿です。ありがとうございます
ネットを通じ、ブログを通じ私の小さな世界が少しずつ広がっていくのがとてもうれしく思います。 

「聞き覚えがありますなあ。その「英語には敬語がない」というの。日本の中学の英語の先生も生徒に言ってます。だから日本人の大半は、そうだと思っています。 実は私は、長いこと英語塾を開いて小中学生に英語を教えていましたが、学校の先生の言葉に反することなど教えると、日本の中学の先生、怒って、生徒を殴るんです。 紫のことをpurpleと教えたら、学校の教科書ではvioletだから、そんな似非英語使うなといって殴られて、私はとんでもないうそを教えるという評判が立って、どっと生徒が辞めました。 wouldとかcouldで始まる敬語なんか教えようもんなら、殺されますよ。だいたい日本語だって、敬語教えられる先生、いないんだから。」
手負い虎

夫の転勤で始めて海外へ

友人のフラホーキさんが「アクセント」への読後感想をコメントして下さいましたので皆様と分かち合いたいと思います。

夫の転勤で始めて海外(グアム島)へ住んだ時のこと。さっそく英語学校に通う。英語圏に住むからには、聞き苦しくない英語を使えるようになりたいと思ったからだ。“語彙の多さは教養の高さ”と先生に言われた。それからうん十年、我々はテキサスに暮らし、子供を育てあげ、老後を迎えた。英語では、どれだけ冷や汗をかき、顔を赤や青にしたかわからない。しかし日本人夫婦の間の会話は日本語だけなので、英語はちっとも上達しない。
長年私の髪の手入れをしてくれている美容師はタイ人だ。彼女はアメリカへやってきて結婚し娘一人をもうけた。その彼女は、年金がもらえる年齢に達したら故郷のタイに帰って暮らすと言っている。アメリカで受ける年金は、タイで老後を送るに充分な資金だ。アメリカ生まれの娘はタイには帰らないので、夫婦二人で帰るのだそうだ。
我々はどうしよう?
沢山の引き出しにしまっておいたはずの語彙は、齢を重ねるごとに消滅して行き、必要なときに見つからなければ、開き直って頭に浮かぶ限りの単語を並べまくる以外手はない。聞き苦しかろうがかまってはいられなくなったのだ。それなら最初から無理せず自国語でまかり通しておけば良かったというような気がする。カラースさんとアリキさんのように。しかし一方、その国の言葉を使えれば、生活をより一層楽しむことができるとも言われる。
我々夫婦が年金だけを頼りに日本で暮らすのは、絶対にできないことだ。それに、日本の教育を一度もうける機会が無かった二人の子供達は、日本の社会で生きて行くことはできないとはっきり言う。彼らにとってはアメリカが自分の国なのだ。カラースさんとアリキさんの二人の娘さんのように。そして、こうなったのも親の都合の結果だ。
我々は過去英語で苦心惨憺しながらも、そしてこれからますます苦労なことであろうが、二人の子供達がいるこの国で、明るく暮らして行くつもりなのである。他国に住むという
のは、誰にとってもそれぞれに本当に大変なことなのだ。目的を持って他国に住み始めたものの、長い年月の間にはその目的の変更を余儀なくさせられることが起こるし、そしてそれは起こってみなければ誰にもわからないのだ。
フラホーキ

2007年11月15日木曜日

アクセント 2

お向かいにギリシャ人家族が最近まで住んでいた。 この奥さんの名前はアリキ。彼女に嫌味は決してないのだが、意思の疎通が実に原始的である。 彼女の二人の子供の医者への送り迎え、買い物などへの交通機関は私の手にあるのに、あまり頼むという感覚がないらしい。 私より以前にアリキへの奉仕活動をしていたお隣の奥さんフランソワさんはアリキから電話がかかってくるのに恐怖を感じるようになっていた。そして私にバトンタッチとなったのだが、イヤハヤすごい、
つたない英語はお互いさまなのだが、彼女の言葉に優しさがない。本当は情緒がないと言いたいがまあそれは外国人の会話には無理だろう。 しかし彼女の単刀直入、意味合いだけで文章が編成されている会話はいつもこちらが命令されているのではと勘ぐりたくなる。余計なものが全部省かれた単刀直入な会話はまだなれない外国人が共通して持つ欠点だが、それなら、プリーズとかサンキュウーを冒頭かお尻に取り付けてくれるといくらか情緒がでる。。ギリシャ語には敬語がないのかと聞いてみた、あるけれど友人には使わないと言われた。 彼女は一応私を友人と考慮してくれているのだと納得することにした。

最近ご主人の転勤でこちらに滞在している日本のご婦人が、「アノー英語には敬語がないんですよね?」と同席の日本女性に確認(?)していた。「ソーネ 英語って敬語ないわね」別の女性が返答していた。
「そうですよね、アメリカの英語ってイギリスの英語と違いますものね」??
同じ英語であっちには敬語があって、こっちには敬語がないってわたしは知らなかった。、日本語のように「ザーマス言葉」はないかもしれない。しかし語彙を増やすことにて、幼稚な英語から大人の英語には変化するはずだ。大学教授の会話と小学生の会話がおのずから違うように、むき出しの会話ではなく、言語表現が豊かになり、その人の知性が溢れた言葉が敬語ではないかしら。そんな意味だと英語にも敬語があるのではと考えるが、まあ私は黙ることにした。

アリキのご亭主カラースさんは小さいレストランの経営者。十四歳でギリシャを出て、カナダで皿洗いから始め、転々と移動して四十代の後半でこの街で店を開いた立身出世の有志。 見るからに精力みなぎる横から見ても前から見てもギリシャ人。ついでに中身もギリシャ人。彼は奥さんのアリキと同じに無償で隣近所の亭主族を使うのがとても上手だ。斜向かいのロンさんも、お隣のテイラーさんも我が家の亭主君もカラースさんと会話をすると結果いつも、カラースさんの家の電気器具、エアコン、自動車の修理をさせられている。ロンさんは芝刈りまでさせられていた。 どうしてそうなるのか彼等にも理解出来ないらしい。壊れた物を目の前に出されて、肩をすぼめて、ホワーイ? ホワーイ?と言われると何故か責任を感じるのだそうだ。そして結果は、「彼はグリーク(ギリシャ人)だから仕方がない」で終わる。
これはよその国の国民性を揶揄することの一つなのだ。 この地に居ると、ジョークと言う名のもとに、あらゆる国民性の特徴を笑の種にする。  
例えば、我が家の亭主が少しでも頑固な性格を現すと「ドイツだからね~」と言われるように。
 
或る日そのアリキが自分の夫の経営するキャフェテリアへ昼食に連れていけと言う。 私もどんな場所か興味があり二つ返事でOK。
町工場が立ち並ぶ中央高速から少し離れた土地柄、個人企業の店の並ぶ一群に小さな看板が「City Café」と書いてある。ドアを入って左側は四人がけのテーブルが六つほど一列に並ぶ、右側は食品の列。 トレーを持って一番奥に並び、順繰りに皿の上にドバッと盛り上げてくれる。 汁の中に浮いているステーキ、 マッシュポテト、茹でたインゲン豆、魚のフライ、ロールキャベツ、とんかつ風ステーキ、超大盛りのアメリカンランチ スタイル。町工場の職人さんたちがドアまで立ち並ぶほど大勢店に入り、人いきれでムンムンする感じ。なんか子供連れで来る食堂ではないなと感じた。わたしが息子の秋夫ちゃんと食べている姿を店中の客がジロジローのジロっていう感じのキャフェテリア。

食事が終わり支払いをしようと出口の前に設置されたレジスターの前に立った。すると奧で仕事をしていたカラースさんが大声で私の名前を呼び、ハローと怒鳴っている。 私も手を振り答えてから会計に向かい支払いを済まそうとしたその瞬間カラースさんは奥のキッチンから大声で怒鳴った。
「No 、I don’t need your money, I give you my food」
 さして大きくないキャフェテリアの隅から隅までズイーイと聞こえた。店の客も一斉に私を振り返った気がした。もちろん彼の気持ちは、「支払いは結構ですよ。 わたしの奢りです」の意味だと気持ちはわかる。しかし他の客はそんなことは知らないのだ。その時私は学んだ。アクセントなんてどうでもいい、心の通った言葉を使え。もうちょっと言い方があるだろう、敬語を使えとはイワン、だがもう少し考えろ。これは私の心の中の独り言。しかしご亭主はこの英語で人生の大半をアメリカに住み、食堂を経営している。付け加えれば従業員は大半がギリシャ人。彼に英語など必要ない。これは、「アメリカでは馬鹿でも英語を話す」に入らない。このご亭主は馬鹿ではない。しかし英語は話せない。耳障り? そうかもしれない。私は腰が抜けた。

このカラース家は夫婦共々大きな夢がある。 アメリカで働き財を築いて.、故郷ギリシャの彼らの出身地へ戻って余生を暮らす。二人はセッセとその夢に向かって歩んでいる。だからこそあらゆる家庭の修理、修繕には、ご近所の底抜けに陽気なアメリカ人たちを使うのかもしれないと私は勘ぐる。それによる人件費の損得は経営者である彼が一番良く知っているはずだ。

子供の夏休みが始まると毎年店の経営を友人のギリシャ人に頼み、二人の娘を連れて彼らは必ず故郷の町へ帰る。数年後にはヴィレッジの中に家を買った。 いつもいつもギリシャの話をして、ギリシャの食事を食べ、 パーテーを開くとギリシャのダンスを踊る。子供たちの学業が終わるときはギリシャへ家族全員が帰るのだと念じていた。 二人の生活はギリシャを向いて暮らしている。
   
 年月が経ち二人の娘も成長して高校、大学へと進む頃から子供たちのギリシャへの気持ちが少しずつ変化してきた。夏休みが来ても、自分たちはここに居るから両親だけで出かけて欲しい。 わたしたち学校へ行き始めてから一度も夏休みをアメリカで過ごしたことがないと不満を言い始めた。これは彼らの計算違いだった。親への会話も、ギリシャ語から英語へ変わり、 キャリアー女性を目指しだした。  彼らにとっての故郷はもうアメリカなのだ。
  そして二人が大学生になったとき上の娘のマリアが宣言した。  両親が故郷へ帰ることは自由だが自分と妹はここに残る。自分は大学の後、医者のコースをたどりたい、でもあのヴィレッジには病院なんてないでしよ。無医村の町では自分の就職口はない。それは言い訳の一つに過ぎない、本当は彼女には同じ研修生の婚約者が居る。
 それでは話が違うと烈火のごとく怒る父親と、がっかりする母親を慰める言葉などない。 
自分たちが十代で出た古里を三十年の年月毎日偲んできた、が、もしここで二人の子供を連れて帰れば、この子供たちが同じように、遠いアメリカを偲んで生きることになると気がついた。
無理に二人だけで帰ればそれは親子の別れ。 片道24時間が必要なギリシャへの旅、自分たちだってこの先何年この旅がつづけられるか心もとない。

昨年の寒い冬の夜、カラースさんは夜道をジョギングしている途中に心臓麻痺で病院へ担ぎ込まれた。数年前から糖尿病を患い食事制限と体重のコントロールに苦労していた彼は、毎日のジョギングを唯一の運動としていた。
救急車で担ぎこまれその父親を診たのが、医者になっている長女のマリア。 娘の看病の下に数日後に亡くなった彼は結局故郷のギリシャで余生は持てなかった。 

このカラースさんの人生を悲劇とは決して思わない。 彼なりに一生懸命に生きたと思う。決してアメリカ式に生きようとせず、同国人の中にだけ憩いを求め、一生涯ギリシャ語を通し、故郷に家を買い、しっかりと先の目的を持って生きた。その道のりで倒れた彼をアッパレと言ったら不謹慎だろうか。

2007年11月7日水曜日

アクセント 1

アメリカ南部テキサス州に来て30余年。月日は矢のごとく過ぎていく。時々自分は本当にこのアメリカで生涯を終わるのだろうかと考える。 嫌とか良いとかではなく、感無量なのだ。いまだに日本の国籍を保ちそれを唯一の自我としているが、 気持ちは川辺の葦の如く国境を揺らぐ。この国で少しでも、本当に少しでも日本を否定するニュースが流れると烈火の如く怒る。 少なくとも誰も私の居る前で日本人を笑いものにするジョークは言わないほうがいいし、皆がそれを承知している。 もちろん日本人の前で日本人をけなすことを言うほど私の回りの人は非常識ではない。 しかし、 人種の坩堝のこの国では国籍とか国民性を揶揄するジョークは朝飯前である。 そして恥ずかしげも無く私も日本に関してでは無い限り アハハと笑う。失礼な話しだ。 しかし時々日本に帰国したとき、日本のメデイアがアメリカ批判をすると、「何も分かっちゃいないくせに、何を言うか」とムクムクと反対感情が沸く。 根っこの無い浮き草である。わたしは日本人であるが、わたしの子供はアメリカ人だからかな?と結論を出している。この先何十年とこの地に生きる我が子のことを思いやるとやはり世界が批判するような悪国アメリカでは困る。

何年居てもその国の言葉を習うのは難しい。ある程度すると変化がなくなる。 日常生活で使う言葉が決まってしまるから。単語を沢山覚えても、年齢を増すごとに増えるはずの語彙が、反対に下降して行く。一つ覚えて、一つ忘れる。頭の中の知識の引き出しがもう一杯に溢れてこぼれてしまう。それと同時に下に押し込められている知識が引っ張りだせない。
言葉としては、現代の日本の言葉の使い方は私自身すっかり置いていかれた。
三十年前の若い人は「全学連口調」で 「我々ワー」節で一直線な会話をしていたと覚えているが、 今の人は自分で意見を述べて、数秒後に「ウーン」と自分で納得しているのをTVで観る。
 
さて、「自分の使う英語」は横に置いての話にしてもらいたいが、 耳だけは一人前。 理解力は? 自分では解っているつもりとしておこう。
アメリカの英語には標準語がないということになっている。皆が自分の言葉遣いやアクセントを主張する。「ここの標準語は」?と聞くと自分の使っている言葉がそうだという。 私が最初にアメリカに到着した土地はカリフォルニア。別にカリフォルニアアクセントが身につくほどに長期滞在ではなかった。帰国して、イギリスの会社の東京支社に就職して人生の海原に船出した。
給料をくれるその会社は常時 四-五名の「イギリスアクセント」の社員がイギリスから家族共々転勤して来ていた。日本人が好む英国アクセントの御仁たち。その彼らが、私の西部アクセントが強いと批評した。縦に口を開けての会話と横に口を開けてのアメリカアクセントではそれは違う。 カメラをコーメラ。スケジュールをシェジュールと発音する彼らは勿論文章の言い回しも多少違う。
一時期TVのコマーシャルにインドアクセントの英語を使うのが流行った。舌の長い彼らの英語は口の中でクルクルと丸まったようで、普通の人の二倍の時間をかけて会話をするように聞こえる。また彼らは言葉を決してはしょることをしないから結構ダラダラと喋る。しかしインドアクセントが注目されたのはもう過去のこと、今はヨーロッパアクセントのコマーシャルが良く出る。 
自動車保険のコマーシャルにトカゲの小型ゲッコーがヨーロッパアクセントで
「オーイ ユー コ~ン パア~ ゼア~」そこは駐車できないゾ~と言っているのだが一度きいただけではまず理解できない。
このゲッコー君のシリーズが何本もテレビに出てくるが、結局彼のアクセント、多分オーストラリアだと思う、どこかが開いていて空気が漏れているような、それとも口が開きっぱなしなのかナ?というアクセンが売り物なのだ。本当は三回聞かなければ彼が何を言っているのか理解できない。それゆえゲッコー君が出ると部屋の会話が止まる。凄いコマーシャルだと思う。 

昔、父方の叔父が商用でロンドンへ出かけたおり、ある晩超一流の劇場へ観劇に出かけた。  休憩の間に、黒いスーツにステッキ、葉巻をくゆらしながらお茶を飲んでいるいかにもイギリス紳士のグループの近くへ行き、あのような上品な連中はキングス イングリシュでいったい何を話しているのだろうと聞き耳を立てたそうだ。  「イヤ驚いたね、話の内容は僕らが縄暖簾で話す内容とまったく同じなんだよね~。こっちは酒が入らないと話せない内容を、お茶一杯で始めるんだから、あれスコッチとやらを飲み始めたらどんな会話になるのかネ」と笑っていた。

そんなことはさて置き少なくとも言葉とは、自分の意志を伝える道具なのだから、自分が云わんとしている意味をはっきりと相手に伝えねばならない、然し聞いた相手がその言い回しで不愉快な気分になっては意味が無い。

先日ウエブの或るレポートで、「アメリカでは馬鹿でも英語を話す」それに付け加えて「アメリカ人の英語は耳障りだ」と投稿していた。なるほど、誰をアメリカ人と言うかが問題なのだ。人種の坩堝、どこから来ても市民権を取ればアメリカ人。最近の統計で一般にメイフラワーで来た白人系といわれる、ヨーロッパからの移民のアメリカ人はマイノリテイになった。 もうアメリカのマジョリテイはメキシコ系(ラテン系)と入れ替わった。彼等が人口の52%を占める。 少数派としての恩恵、福祉、奨学金、等々は受けられなくなるかもしれない。彼らはそれを知っているのかしら? 今度は白人が社会福祉の窓口に立って福祉を申請したら少しは受け付けてもらえるかもしれない世の中になったのだから、そうなるとアメリカ英語の姿ももう一度変わることだろう。実を言うと、政府はメキシコから来た移民が英語を習わなくても生活が出来るように少しずつ国のほうで変化してきている。 
学校もラテン系は英語の授業に出なくて良い。 スペイン語ですべて勉強できる。 買い物も英語は要らない。ウオールマート、ターゲット、など大型安売りデパートへ行くと英語など聞こえない。 
昨日は私の大好きなラジオトークショウでトーカーが息巻いていた。薬局で処方箋の薬を手渡すときに、 相手がラテン系の客のときは、彼らがしっかりと処方の仕方が理解されるように、英語で説明をしてはいけない。 必ずスペイン語の通訳を常勤として置くようにとなるのだそうだ。それが浸透したら、いつか私も英語がわかりません、日本語の通訳をお願いします、もし居なければ、それは人種差別ですと言ってみたい。

スペイン人の夫とフランス人の妻がいる。 二人はオランダで知り合ったそうで二人ともダッチを話す。 ついでに夫は四分の一がフィリッピン人だそうだ。故に彼はフィリピンの言葉も少し話す。これは私が証明する。英語、フランス語、スペイン語、ダッチと少しのフィリッピン語を話すこのご亭主は実に鼻息が荒い。
しかし、彼のフランス語は奥さんに言わせると、フランスでは通じないそうだ。スペイン語は先日スペインから遊びに来ていた彼の甥っ子が、おっさんの言葉は古いとけなした。 オランダに留学していた息子が帰宅して、父親のダッチを聞いてニヤーと笑って首を振っていた。それでは最後に残るのは英語だ。 彼はスペインで小学校からアメリカンスクールへ通学していたそうだ。 話しだしたら止まらない、立て板に水がごとくおしゃべりをする。 しかし、彼のアクセントはもうこの国に来て三十五年というのに強烈なスペインアクセント。我が家の亭主でも半分しかわからない。奥さんのフランスアクセントも強烈だ。しかし彼女もスペイン語もダッチも話す。その夫がフランス人の妻の英語のアクセントを絶えず揶揄する。いくら注意しても止めないので聞いている私もいい加減頭に来た。そこで優しく説明する必要があると思い、そういうのは 「目糞が鼻糞を笑う」っていうんだよ。と説明した。分かってくれたかナ。

2007年10月30日火曜日

アパート

娘はまだ一人でアパート暮らしは心もとなくルームメイトを見つけた。専攻科目は違うが一緒に卒業したヘザー。同じ街に母親が居るが大学の一年生からアパート暮らし。それも一人ではない。同棲である。五歳年上の社会人。やっと未成年を出たばかりの女の子と同棲するとは不埒な男と云いたい。しかし逢ってみるとなんとも弱気な感じの優男だった。彼女たちの卒業式にニコニコと夫気取りで出席して来た。しかし間違っては困る。別にその男が彼女の学生生活を援助していたわけではない。同棲すなわちすべてが折半の四年間だった。その男にせめてもの私の嫌がらせ、「あなた四年もまえからこんな若い子と同棲なんて趣味悪いね」と言うだけだ。同じテーブルに居た娘は顔を真っ赤にして私を睨んでいたが、なに彼女の顔を見ないようにすればそれもわからんというものだ。

ヘザーは大学も卒業、就職口も決まり、数年は社会人として働き多少の貯蓄をしてから大学院へ行く計画を立てている。そこで心機一転身の回りの整理をしたい。彼女の下心は、社会人になれば又別の社会の男性との出会があるかもしれない。その期待を胸に抱いてこの際四年間一緒に暮らした男とはサヨナラをしようというのだ。そこで直美ちゃんがアパートを探していると知りルームメイトになることを提案した。「彼はどうするの?」 
「もう終わりにしようと思う」
「そんなこと出来るの?」
「出来るわよ、私がもうさよならしようって云えばどうしようもないでしょう?」
甘い、甘い。 世の中解ってないね。

初夏の土曜日、直美から呼び出しを受けた男性4名が集合した。父親、秋夫君、お邪魔虫、そして彼女の現在進行中のボーイフレンド、アダム。各自車を持ち寄り、 父親はピック アップトラックを持っているから家具は任せられる。筋肉の方はあまり頼りにならないが、労働の面では若くてピチピチしたのが三人居るから大丈夫、娘の号令一過すべての荷物を満載、5台の車は連隊を組んでアパートへ向かった。
見送った私は少しスカスカになった我が家で一抹の寂しさと、私の自由な時がやっと来たという嬉しさでニンマリ。彼女の門出であり、私の自由の身にもどる門出でもある。今晩はお祝いをしよう。 

夕方空トラックを運転して帰宅した主人はニヤニヤしている。 こちらが引越しをしているときヘザーも荷物運びに忙しかったが、彼女の「過去の人」のはずのアンドレも一生懸命自分のスーツなどを運び込んでいた。あの小さなアパートへ三人で暮らすらしいよ。

ヘザーとアンドレの話し合いはうまくいかなかった。彼女の別離の宣言に、僕は嫌です。
そろそろ自分は君との結婚を考えていたのに別れましようはないでしょう。何処までも君の行く所僕も行きます。かくして女の子二人のアパートへ一緒に入居して来た。

三人が二人用のアパートへ入ったんだ、まったくあれはアパートではないね、倉庫だよ。と笑う主人
「うそ、冗談でしょ?」
しかしこれがアメリカ人なのだ、主人も息子もなんと直美のボーイフレンドもアンドレが一緒に住むことに問題を感じない。
彼らはもう大人なんだ、自分たちでどうしたらうまく生活が成り立つか相談するだろうと動じない。

夕方娘から電話で報告があったとき、 自分のボーイフレンドが一緒に住むのは私には問題があるけど、ヘザーが同じアパートで彼と一緒に住むことを私が文句を言う意味がないという。 それに家賃が三等分になるし、みんな忙しい生活をしているから、三人が一緒になることは現在のスケジュールを見てもあまり機会はないと思う。あっても自分は少しもかまわない。 「それにママ、彼はゴミを出してくれるから便利だわ。」 彼女たちはゴミだし男がいつか粗大ゴミになることを知らない。

「世間体」という「天下の宝刀」を振り回す日本の母が知ったらどんな反応を出すことだろう。

2007年10月24日水曜日

真実?

真実は人を傷つける。肥満の人に、貴女はデブね。ブスに、貴女は不美人ね。言ってはいけないことだ。この場合真実は言ってはいけない。それでは美人にあなたは綺麗ね。やせている人に貴女はスマートね。相手を喜ばせることならいいのかな。そうなると真実を言うとは、相手を喜ばす事柄なら宜しい。それではお世辞ではないか。

本当の事だから話すのよ、と前置きして、家族だから、 夫婦だから、親子だから、友達だから、貴女が知りたいと思うからよ、などと云いながら結構耳の痛いことを話して相手の気持ちを傷つける。真実は怖い。

だいぶ昔になるが、主人と彼の友人が別の部屋で酒を呑みながら話をしていた。友人の八年も連れ添った妻が四年間も浮気をしていたのが解った。実際にはその浮気は哀れにも相手の不実から終りが来てしまった。悲しく討ちのめされた妻は立ち上がることが出来ず、八年の歳月を暮らした最愛の夫に打ち明けた。

話を聞きながら、ヨヨと泣き崩れる妻の話を聞いて友人は腰が抜けた。冗談じゃない。いったい何年その男と浮気をしていたのだと問い詰める夫に妻は、エッ浮気?違うわよ、彼は仕事場の上司なの。私たちは純粋な恋愛をしていたの。それでは自分は何なのだ?と聞く夫に、もちろん貴方も好きよ。愛しているわ。でも彼は別なのよ。私はいつでも貴方には良い妻でいたはずよ。貴方は私に満足をしていたでしょう?教えて欲しいの、私はどうすれば良いの、何故そんなに怒るの?正直に話しているのよ。

正直に話された友人は、ふざけるな~ と怒鳴りそのまま家を出た。もちろん離婚である。二股をかけられた友人はすっかり女性不信になりもう二度と女は信用せんと息巻いている。いや少し違う、彼はもう一杯スコッチを注いで涙ぐんでいるようだ。

何が一番驚いたと思う?彼女はね~ 私は真実を言っているのにどうして私から逃げるの? 自分の妻が悲しい思いをしているのにどうして慰めてくれないの?私たち夫婦は何でも真実を話し合いましょうって約束したでしょう?
そう言って自分は責められた。僕って不誠実な男か?自分は彼女の浮気なんて知りたくなかった。

妻に浮気をされた経験のない我が主人に助言が出来るわけがないのだ。経験不足である。しかし好奇心とは恐ろしいもので、隣の部屋で本を読んでいるふりをしている私の耳がダンボの耳のように大きくなった。自分の夫がどんな意見を吐くかこの際しっかりと聞いておこうと思った。

真実は言ってはいけない。「本当の事」からこの世の中は混乱がくる。もしもだよ、もしも自分が浮気したとしよう、 自分は決して女房には言わないね。何故なら彼女の心を傷つけたくないから。
例えばだよ、自分が浮気相手とベッドに居たとしよう、そこに女房が入って来たとしよう、それでも決して、決して、横に寝ている女性が浮気相手だと言ってはいけないのだ。これは何かの間違いです。どうしてこのようになったのか自分でも解りません。わたしはこの人を知りません。誤解です。錯覚です。貴女は夢を見ているのです。どんなに問い詰められても、これで離婚しますと言われても決して自分は真実を言わないね。言ったら全てがおしまいになる。それは自分が妻の気持ちを尊重するからなのだ。君の奥さんは君への配慮に欠けたらしい。
ヘエ~そうかいナ、それでは何を信じて生きたらいいの?
その後もこの二人はモソモソと話し込んでいたが、私は聞くべき事は聞いた。

ウオルトデズニーの映画「バンビ」の中でサンパーという名前のウサギが出て来る。いつも余計なことを言っては問題を起こす嫌らわれ者のウサギ。ついに業をにやしたママウサギが「If you can not say nice thing, best not say anything」とサンパーに諭す。 この台詞は案外一般化されていろいろな箇所で使われている。 私自身も何度も息子の秋夫が腕白坊主の頃にこの台詞を言って聞かせた。本当に妹を泣かせることしか言わないからだ。しかしよく考えてみると、サンパーは決して嘘を言っているのではない。人が言わないでおこうとすることを口に出すだけなのだ。すなわち彼は「真実」を表現しているだけ。しかしこの台詞は、嫌がることは言わないでおこう。相手が喜ぶことだけを言う。それが言えないのなら、いっそのこと黙っていようと示唆している。なかなか難しい。

2007年10月19日金曜日

エチオピア 2

一年間私たちと一緒に仕事をしてから彼女は飛行操縦シュミレーシオンの会社で整備員の仕事が取れた。 一年間訓練したのだ、もうはんだ付けも、ある程度のプリント基板の図式も理解できる。
 
追いかけるようにエチオピアから婚約者も亡命してきた。どのような経過を経て彼はこの国へ入国したか彼女はあまり話したがらない。アデイースが独り立ちしてすればドリスは次の人の保証人になれるわけだから順送りというわけか。   婚約者が来ても、まだ古い習慣を保っているエチオピアの社会では二人が一緒に暮らすことは許されない。新天地を目指してきても、習慣やモラルはそのままお国からもってきている。誠に宜しい。二人は早々と結婚式を計画している。しかし、国を捨てても、中身はエチオピア。やはり国でするのと同じ結婚式をするのだと張り切る。それには花嫁の父が必要だ。花嫁の父が花婿へ娘を手渡すのは大切な儀式。その花嫁の父にアデイースは私の主人にその役をやってくれと頼んだ。

かの国の習慣がどんなか知識もなく、アメリカでする結婚式、もちろんアメリカ式に近いものと勝手に決め込んだ主人は二つ返事でOK。しかし始まってみて驚いた、なんと結婚式の儀式は三日間続く。
第一日目は「結婚式」これは直々の親族だけで執り行なうのだそう。儀式はメソジスト教会でエチオピアの牧師によりつつがなく「娘」を花婿へ渡したとうれしそうに主人は帰宅。そして翌日は披露宴。
 
あのアフリカ独特の雄叫び、喉の奥から絞りだすような高い声でヒラヒラヒラー、ヒラヒラヒラー (私にはそう聞こえた)とおおぜいの女性達が叫びながら花嫁を囲んでの行進に秋夫君も直美ちゃんも口をポカン。白いウエヂングドレスを着た花嫁とスーツやドレスで装った一群がアフリカの土人そを想わせる行進は教会前を行きかう車も珍しそうに徐行していく。

エチオピアの女性たちが三日前から準備したという料理はすべて超辛、激辛のスパイスのきいたインドカレー風の料理。ずらりと並ぶ数々の料理は食欲をそそる。

私はどこで何を食しても、それが気に入るとサッサと我が家の台所で真似た物を料理するのを常としているが、今回もこの披露宴から一つ持ち帰った。  大鍋で煮たカレーの中にゆで卵を大量に落とす。 二日も煮込んだソースはもう材料が何かわからないほどにトロリとソース状になっている。それをナンの上にかけて食べるのだが、その大きな入れ物の中にポカリ、ポカリと白い物が浮いていた。それはゆで卵。食卓に出す前に浮かせるのだそうだ。子供たちが喜んだことはい言うに及ばす、大人の私もすっかり気に入った。それ以来我が家のカレーにはゆで卵が浮いている。 

宴席では花嫁も花婿も食卓に列を連ねない。皆の前に座り、自分たちでは食事をとることは許されない。 出席者が雄叫びをしながら、自分達の皿の上の食べ物を手でつまみ、新しいカップルの口に入れる。 入れるとはやさしい言葉である。あれは押し込んでいた。新婚さん二人が顔を見合わせてにっこりしているところへやおら誰とも知れない人が手の中で丸めた食べ物をグワッと突っ込む。一人でも多くの人から口へ入れてもらうことでその結婚への祝福が多くなるのだそうだ。




宴たけなわ、皆が皿を手に持ったまま、あちらの人と、こちらの人と会話をしながらも、右の手だけは忙しく食べ物をくるくるとかき回して手の中で丸めるとヒョイと自分の口へ入れ、又丸めて花婿の前へ行き彼の口にねじ込むと戻ってきてまた会話が続く。そのうちに別の一人がまた自分の皿の中の食べ物を花婿の口へ詰め込んでいる。
その間にも、どこかで、誰かがヒラヒラヒラーと雄叫びをしている。
もう彼らは誰の皿の食べ物か、誰の手が口にねじ込まれるか区別がつかない。
人様に食べ物を渡すときは、箸を変えるとか、箸の反対側を使うとかなんてまどろっこしいことはナシである。簡素化もここまできたら潔いとしなければ。


息子はそんな新婚さんをジット眺めていたが、宴が終わりに成る頃にはすっかり彼らに同情的になり、ママあれは花嫁、花婿への拷問だね。可哀想だよ。  

三日目はまた主人一人の儀式。今度は花嫁を花婿の家へ連れていく日。彼はもう二日も前に式の済んでいる花嫁をやっと花婿の家へ届けた。
突然振って沸いた「花嫁の父」に我が亭主は三日間楽しませもらった。

あれから15年。「15回目の結婚記念日の夕食会」の招待状が届いた。
教会の会館は溢れるばかりのエチオピア人。 並ぶ食事はもう私たちにはなじみの品ばかり。あれ以来新婚の二人のアパートへは何回か訪ねたし、アデイースの母親が癌の治療にアメリカに来ていたときも会っている。

彼女の下の弟がアメリカに着いたときも私たちはしばらくの間彼を預かった。 しかし夕食会には彼女の六人の妹が一列に並んで挨拶をしている。
15年の歳月、アデイースと夫は、二人の子供を育て、家を買い、永住権と次の市民権を取得して、今は自分たちが保証人になって親族一同を呼び寄せている。 妹たちの中にはもちろん結婚しているのも居た、そうなると家族ひっくるめての移住だ。 大変な勢力である。
「アデイース、あなたはエチオピア全部をアメリカに呼ぶつもり?」と聞く私に彼女は出来たらそうしたいと笑う。

十五年前に亡命した一人の若い女の子がもう彼女自身の社会を造りあげていた。

痩せていつも恥ずかしそうにしていた娘が今は、すっかり体重もふえ、ニコニコと微笑みも顔から消えることなく妹たちを紹介するアデイースは、少し民族衣装のスタイルを取り入れたとても素敵なドレスを着て、これも妹の一人が縫いました、綺麗でしょう?どこかにお針子の仕事があったら妹をお願いしますと宣伝もわすれない。
もう家では何もする必要ないです、妹達が私の子供の面倒から料理、掃除までします。私身内の中では女王様なんです、今とても幸せですとうれしそう。


故郷には彼らの父親は他界しているが、癌の治療が成功して元気になった年老いた母親が居る。数年前に刑務所から釈放された弟がただ一人母親の世話をしながら家を守っているという。

11歳になるアデイースの娘がフォークを使って食べていた。 やはりお母さんの国のお料理は美味しいねという私に、でもハンバーグのほうが好きとニコニコしていた。そうなのだ、この子達はアメリカ生まれ。もうお母さんが戦火の中を走り回って逃げ延びたエチオピアは知らない。 同じように私の二人の子供たちが本当の日本を知らないように。彼らは皆なアメリカ人なのだ。
 



 

 

2007年10月15日月曜日

エチオピア 1

エチオピア連邦民主共和国これがアヂイースの母国の名前。 1987年代共和国が樹立する前の内乱の折彼女は独裁政府を嫌って戦う反乱軍に名前を連ねていた。 わずか22歳の若さだった。 在る夜反乱軍の集会が行われていた場所へ兵士の襲撃を受けた。誰ひとり武器を持っていない集会へなだれ込んだ兵士達の乱射に 皆が夜の町へチリジリに逃げる中で彼女は、「アメリカへ逃げろ」「アメリカへ政治亡命しろ」という言葉を聞いた。 逃げ延びた若者はアメリカ大使館の方角へ走って行ったが、アデイースは何を思ったか国際飛行場へ走った。 大使館へ行くよりも直接アメリカへ逃げよう。
 年老いた両親と妹が6人、弟が2人、その一人は先月政府軍に逮捕され刑務所に居る。そして彼女の婚約者もこの町に居る。でも彼女は亡命することに決めた。皆とはしばらくの間会えないけれどアメリカにさえ行けばきっと何とかなる。  きっと家族を呼ぶ心に決めた。弟のように刑務所に行くのは絶対に嫌だ。

まだ半文明国の飛行場は周りが柵で覆われているだけ。彼女は難なく柵を越えて滑走路にたどり着いた。あとはアメリカの飛行機を探すだけ。ドラム缶の積み上げてある箇所を見つけジットすわり込めば暗い中警備員や軍隊の兵士から姿が隠せる。 やっと一機見つけた。ジット息をひそめて待つった。バスに乗ってタラップの下まで来た大勢の乗客が乗り始めた。最後の一人がドアの向こうへ消え、添乗員がドアを閉めようとする瞬間アデイースはタラップを駆け上がり扉の内側に滑り込んだ。 添乗員が彼女を見つけ押し出そうともみ合ったが彼女は魔法の言葉を大声で出した「アメリカ合衆国への政治亡命を希望します」

難民収容、亡命者収容、違法移住者収容とこの国は外国からのお客様には大きく門が開いている。実に面白い国だ。 世界中の人たちから嫌われ、傲慢だ、不遜だ、政治は世界への恐喝だとあらゆる言葉をぶつけられる国だが、それでも次々と人たちはこの国に逃れて来る。

一人の若い女性が、家族へ連絡もせず、荷物もパスポートも現金も持たず、本当に身一つでアメリカという国に自分を任せる。彼女は果たしてそれが安全な道だと本当に考えたのだろうか。自国の政府を信用しない若者がどれだけ未知の国アメリカを信頼していたのだろうか。

どこの国でクーデターが起きても、内乱が始まっても必ずどこかでアメリカが関与していると社会は非難する。 武器を売ったアメリカ、武器を買う資金を何らかの形で援助したアメリカ。武器を生産する第三国への資金援助をしているアメリカ、 アメリカは悪い。いつもそんなコラムを読む。
中にはアメリカで修士課程、博士号、研修などを済ました人たちがこの地を出るとアメリカ大批判をコラムに書き込む。 それでは自分の受けた教育も否定しているのかと思うとそうではないようだ。肩書きだけはしっかりと前に出している。 

一人の男が街娼を買った。 運悪く取り締まりに会って警察に捕縛された。 さて、一時の春を売った街娼は留置所行く。買った男は一晩お泊まりして釈放。さて彼が支払った街娼への資金はどこから来たのだろう。それはもちろんその男が働いている企業のサラリーである。そうなると資金を調達した企業も悪者として留置所へいくのだろうか? その街娼が生まれ育った国も悪者なのだろうか。

アデイースの乗った飛行機が最初にどこの街に着いたか知らない。政治亡命として認めらるまでの手続きがどれほど困難なことかも知らない。しかしアデイースは数ヶ月の間に私たちの住むこの街へたどり着いた。
この街にもエチオピアからの政治亡命グループの小さいながらも組織だった社会がある。 助け合いの集まりだ。この社会もしっかりと三角形の形態が成り立ち、 独裁を嫌って亡命したはずなのに、私の素人目から見ても結構上下の仕組みは強いようだ。だがそれだからこそ受け入れ態勢は強いのかもしれない。  

先に着いた彼らはもう永住権を持ち、仕事を持ち、家族を持ち、あとから続く同国の人の受け入れ準備のネットワークはしっかりしている。

そのグループが一人のアメリカ女性をアデイースに紹介した。
名前はドリス。10年前に夫を亡くした未亡人。夫の残した文具店を経営していが贅沢をしなければ平穏な生活が出来る毎日、子供が居ないことも手伝って何か奉仕活動をしたいと考えていた。
キリスト教教会を通して知り合ったエチオピア人のグループが亡命してくる同士の保証人を探していると知り参加することにした。

アデイースはドリスの手にゆだねられた。 保証人はその人の一切の生活、素行、を保障する。警察沙汰になれば保証人の責任だ。病気をしても医療費は保証人。 5万ドルの貯蓄を移民局に示す、この金額は投資などに使用できない、利息の良い定期預金などに入れておくことも出来ない。 突発事項が起きたとき直ぐに引き出せるようにしておくため。

しばらくの間はドリスの自宅に住むが、まず仕事を探すのが先決。 大企業では過去の履歴がないので数年は受け付けてもらえない。 職歴、経験、スキルがものを言う国。まだ無理だ。しかし個人企業なら経営者の胸一つで引き受けてくれる可能性が高い。また事情を含んで将来一人歩きが出来るように育ててくれ可能性もある。これは組織立った会社に働く人には出来ない。
エチオピアで機械の組み立て会社でプリント基板のはんだ付けの仕事をしていたというアデイースにはやはり精密器械を扱う個人企業が良いと考えドリスは知人の一人である私の夫に連絡してきた。精密器械のデザインやプロトタイプを作る個人企業を営んでいる彼なら企業同士のつながりがある、適当な場所を紹介して欲しい。

翌日訪ねて来たアヂイースは結局一年の歳月を私たちと一緒に過ごした。 まず英語の勉強からはじめ,エチオピアでの彼女の経験がこの国の十年前のテクニックであることを見て夫は電子器械の初歩を教えることにした。
毎朝八時から四時まで彼女の見よう見真似の仕事が始まった。そして夕方から近くの短期大学へ入学。
彼女がこの新しい土地に馴染み、アパートを借り、車を買い、質素ではあるが独り立ちするのに時間はいらない。
  

2007年10月10日水曜日

直美卒業

いろいろありました。そして四年と六ヶ月で末娘もやっと大学卒業です。 専攻科目心理学と哲学ではNational Honor Roleに席をもらい、卒業式はCumLaudeで卒業したのだからこれは褒めてあげなければならない。しかし彼女は四年と六ヶ月が必要だった。 五月の卒業間じかに事務所で卒業手続きを始めたが、単位が足りないから卒業は出来ないと知らされた。 大変だ~。  又大学生のやり直し。 夏季コースと九月からの新学期に再度四年生を繰り返す。十二月まで授業に出てやれやれ。 翌年の五月の卒業式の手続きを再度する為に事務所へ行く。 今度は違う事務員が座っている。 彼女は卒業手続きをしながら聞いてきた。 何で十二月まで留年したのですか?貴女はこの五月で卒業出来たのに。知っていますか?
単位が足りなかったはずという説明に、「あーアレね、あの事務員はもう辞めました。 彼女あの頃何名かの生徒の単位をPCに入力する作業を怠ったのですよ」
そんな馬鹿な。 冗談ではない。 一人の事務員の怠慢が起こした被害は甚大である。 五月に卒業できなかったために大学院進学も一年見送り、半年分余計の授業料の支払い、この大学は私立である、おまけにカトリックの神父で占められた教授陣、 各クラスの生徒数は十五名以下。州立の大学より月謝高いんだぞ。
まだあるのだ、夏期講習になんと直美ちゃんはイギリスの大学を選んだ。例え二ヶ月とはいえ自分の取りたい課目の教授がイギリスの大学の夏期講習へ向かうからと、そのクラスを取りたい生徒がグループを作って教授の「追っかけ」をするというのだ。ついでに皆でヨーロッパまで足を伸ばしてバックサック旅行をしてくると実に嬉しげであった。
どうしてその教授がこの大学へ戻ってくるまで待てないの?と言い出したいのを必死で耐えた母親の身にもなって欲しい。いったいどのくらいの生徒がこの間違いの被害にあったのだろうか? 本当にもう授業料返してもらいたいワ。
怒り心頭の母親を尻目に直美ちゃんはあまり気にしていない。 おかげでイギリスへも行けたし、フランスにもイタリーにもオランダにも。

夏期講習の後このグループは一日の終わりの宿泊所を決め後は皆が別行動をとることにしたのだそうだ。両親の財政の豊かな子は何枚ものクレヂットカードを持って買物に忙しい。別の子は観光を望み、又美術館めぐりをしたい子と其々が違う好みが一緒の行動をすることはない。その間の連絡はサイト喫茶に入ってE-mailをチェックする。そんなやり方だったらしい。 そのアイデアには賛成だ。 なにも皆が吊るって同じ行動をとることはない。生徒の中にはヨーロッパに居る親戚や知人へ訪問する子も居る。毎晩決めた宿泊所へ一同が集まりまた翌日の計画を立てる。そんなことをしているうちに一人の男の子との連絡が途絶えた。 ウエブ喫茶店をみつけては誰もが自分の行動を書き込み各々のメールへ送信していたが最終地の国で彼はついに姿を見せなかった。

たぶん汽車を乗り間違えてサイト喫茶もないような片田舎へ行ってしまったのだろう。 そんなの待っていたって時間の無駄になるし、彼は英語もスペイン語も堪能なのだから大丈夫とかってに結論をだした 
。そこで彼女たちはまた彼のメールアドレスに各自の予定を書き込み、グループを解散、各々の親戚友人の居る土地へと出発してしまった。
直美ちゃんも幼友達がオランダにサッカー留学をしているからと彼のアパートへ向かった。

世の若い男の子に伝えたい、 女の子を甘く見ないこと。モタモタしていると置いてきぼりを食いますよ。

十二月で授業が終わっても卒業式は翌年の五月。大学院進学は九月から、それには大学院進学統一テストを受ける。その為の勉強、内申書、教授陣への推薦状の依頼、エッセイ書きとすることは山ほどある。 遊んでなどいられない。空白の五ヶ月は彼女の為にはよかったのだと考えを切り替えることにした。

大学の事務員が一つ良い話をした。 数ヶ月以内に他所の州から大きな心療クリニックがこの街に移転してくる。もう建物も決まり、医者と患者は殆ど全員この街に移動するが、必ずしも病院の全従業員が移動はできない。看護婦、研修生などかなりに人数が来られない。そこで当大学の心理学部にも研修生の推薦者の依頼が来ているが、貴女の名前もリストに載せましょうか?

2007年10月3日水曜日

娘の一人たち

我が家では子供の独立宣言は親の貧困経済と睨み合わせて各々個人の経済のもとで執り行われることに暗黙の約束がある。  息子も娘も間違っても「お母さんアパート代少し援助してくれる?」などと聞かない。 聞いても出さない。出せない。家はここにある。この家に居ればよい。けれど外へ出ると言い出しても止めない。 本人が出来ると思うからするので、親の口を出すことではない。  もうひとつかつて在る本に、年齢を重ね、伴侶が先立った折に、子供に頼らず一人で頑張れるのは、若い時代に一人住まいをした経験の持ち主とあった。 長い人生一度とて一人暮らしをしたことのない年寄りは寂しさに打ち勝てないのだそうだ。 真実かどうか知らない。しかし、一人暮らしをしで、どんなに待っても誰も帰ってこない家に毎日一人で帰宅し、一人で食事をし、一人で居るのはやって見なければ判らない寂しさ。それゆえ、若いうちに試すのであれば大いに結構。
子供たちは皿洗い、洗濯、掃除?一応見よう見まねで出来る。娘にもスカートの裾上げぐらいは教えてある。 
直美ちゃんが大学を出てからの独立宣言はむしろ遅いほうかもしれない。

昔、私が二十五歳、まだ日本に居るとき、アパートへ移りたいと言い出した。「世間体が悪いからいけません」と母に一括された。やはり習慣の違いだろう。

日本からの留学生がアメリカの家庭へホームステーをする場合この個人の自由という問題がある。子供は中学生ともなれば、男女を問わずチョアーと呼ぶ日課がある。ゴミだし、食卓上の皿の片付け、洗濯物のたたみ。小さいころ母親が遊んだ後のおもちゃの片付けにうるさかったように、少し大きくなってもやはりするべきことはしなければ家族の一員ではない。 
日本からの留学生が下校して自室に篭り勉強をする。夕食の時間が来ても、食後でも大手を振って自室にこもるのが理解されない。 留学生に言わせると、自分は勉強しているのだから何もする必要がない、家の掃除は自分の仕事ではない。 学生は勉強をしていればいいのだ。」日本でまかり通る理屈だが、国が違うとそれは奇異に映る。 共同体の観念が違うのかもしれない。一時期或る地域の団体では、日本からの留学生のホームステーお断りが出たことがある。家族として受け入れる側としては自分たちの家族への影響を恐れるという理由から。

個人の自由の確立と言葉は綺麗だがやはりそこには共同体の一員である、家族の一員であることは否めない。それを学ぶ場はもしかしたら家族で出かける日曜日の教会ではないだろうか? 毎日バラバラに生活していても、日曜日になれば皆が一緒に教会へ向かう。 一緒に説教を聞き、聖歌、賛美歌を歌い、ときには会館や前庭で紙の皿とプラスチックのフォークでケーキを食べ、一緒に帰路に着く。これは日本にはない習慣。 私の昔を振り返っても、一度として家族一緒のミサへ出た記憶はない。いつも一人だった。

自分の子供が生まれ、幼児になって暴れまわる息子や娘を押さえ込みながらのミサが辛く、二人が交代で行けば、お互いに一人静かに祈れると提案したが主人は妥協してくれなかった。 教会へは子供を連れていく、子供が暴れるなら暴れないように親が努力するまでと言われた。 だが、今二人の子供たちは思い出話として、妹がチョロチョロと歩き回り、それをママが追っかけたとか、お兄ちゃんが鉛筆をわざと床に落としてはそれを拾う振りして床を這いずり回ってパパに足を引っ張られたとか話す。
親の努力が子供たちの想い出になっているなら、あの頃の親の憤怒も消えるというものか。
 

2007年9月29日土曜日

秋夫22歳

病気がちになり、介護施設での生活もままならなくなり姑今は次の段階の老人ホームに住まいを移して一年。
ホームから連絡があり彼女が病院に入院したと知らせが来た。私達は夕食後二人の子供を連れて見舞いに出かけた。
 
私と姑との折り合いは決して結婚以来良くはない。「郷に入れば郷に従え」の考えと、「日本人丸出し」の考えの違いは絶えず一触即発の状態であった。彼女も私も相当な短気、頭で思ったことを心の中へいったん納めてから口からだすというプロセスをとらず、頭から直接口へいくからお互いの言葉には優しい心根が入っていない。どうしてもむき出しになる。まだ私も若く、子育てに無我夢中の時期に暇を持て余して何か面白い事は無いかとたえず訪ねてきてはジメジメと姑からジャブの応酬はイライラするだけ。けっしてそこから何かを汲み取るなどというゆとりはなかった。
主人はそれを見て見ぬ振りをしていたが、息子は違う見方をして居た。彼が中学生になった頃だった。その夜も姑が我が家での夕食後主人が母親を自宅まで連れ帰っている間に彼は言い出した。 ママ、おばあちゃんがママに喧嘩を吹っかけているのにどうして買わないの? もう見てるの嫌だよ。 弱いママは嫌いだ。ママはどうして遠慮しているの。僕たちに言ったように、売られた喧嘩を買わないのは卑怯だよ。それから喧嘩をしたら勝たなきゃ意味がないよ。
ショックだった。 子供達は見ていた。もうだいぶ以前になるが一度私は爆発して主人に怒鳴ったことがあった。「あなたのお母さんをだまらせろ!」と。彼の返事は、それって母親を殺せってこと? 出来ないよ。母親殺しはできない。それだけは勘弁してくれ、でもアンタが彼女を殺すのなら話は別だけど?これほど情けない言葉を聞くとは心外であった。  
秋夫ママの喧嘩見たい?  見せてよ。隣で直美ちゃんもウンウンと首を立てに振っている。

そこで結婚十五年目に私は夫に彼の母親との宣戦布告をした。彼には援軍になるか、敵軍に加わるかこの際腹を決めること。もうこの家では中立国スイスはありえないこと、もしも敵軍に加わるのであれば、この家での居心地は非常に悪いものになることも言い含めた。夫は私に忠誠を近い援軍に加わり手に武器を持った。(可哀想に~)  姑側も弟二人を援軍に加えてのそれは凄まじい関が原の合戦であった。そして三ヵ月後に我が家は国交断絶の宣言をだした。
それ以後二人の子供は祖母及び叔父達との接触をしていない。クリスマス、感謝祭、イースター、誕生会一切の親族の行事を子供達二人は参加しない。勿論従兄弟達とも接触をしない。 日本に居る伯父、伯母や従兄弟達ともまったく接触のない私の二人の子供は考えてみると寂しい子供達なのかもしれない。

しかし、ここに来て老いと病気は別である。私は子供達に後悔の人生を歩んでもらいたくない。悪かったのは私達で在って、子供達ではないのだ。

先月主人が養老院へ訪ねた折はもう自分の息子と他人の見分けがつかなかったと話してくれた。 「あなたは誰?」と母親に聞かれたと主人は帰ってから涙ぐんでいた。

窓際のベッドに一人寝ていた姑は丁度夕食が終わったらしく看護婦がトレイを下げていた。主人が部屋に入る。 
「ハロー」と声を掛ける訪問者へ彼女は曖昧な顔を向け「何方?」早くも主人の目が潤んでいる。 
後に従う私と娘が「ハロー」、「まあ奇麗なお二人さん、どちらから来ましたか?」と嬉しそう。
最後に息子が「ハロー おばあちゃん元気?」と声を掛けるなり
「秋夫ちゃん、私の秋夫ちゃん、こっちへ来て、早くこっちへ来て」と首を持ち上げて興奮している。彼女は息子を中学生の頃から会っていないのに。 自分の長男も見分けられない姑が孫の秋夫をしっかりと覚えていた。 皆口をポカンと開けて「ウソー」、主人の目から感傷の涙が吹き飛んだ。

半時間ほど取り留めのない会話をしていると二人の看護師が病室に来た。 就眠の前に点滴の袋を取り替えるという。
彼等は点滴の袋を変え、管の先が患者の手の甲に注してある針へと確認、その左腕全体を小さなタオルで軽く巻き外側を紐で縛りベッドの柵に紐の先を縛る。これで彼女の腕は上下に少しは動くが、その紐の長さは膝まで届かないので右の手が届くことはない。その頃から姑の顔色が変わり始めた。 か細い声の会話、水差しの水を家族に助けられて飲んでいた姑が猛然とその看護師との無言の戦いを始めた。 
ベッドから身を乗り出し若い男に掴みかかっている。 絶対にこの腕は縛らせないと頑張る。彼等に向かってする言葉は普段子供達に口にはしてはいけないといさめている単語をポンポンと投げつける。 管の付いた手で猛烈なパンチを食わせようとモガク。そうはさせぬと若い男は彼女の両腕を掴み相手の同僚に「紐、紐」と怒鳴る。
一回戦はあっけなく姑の勝ち~ 看護師はフーッと呼吸を整え二回戦へ挑む。
それを眺めている家族は恥ずかしさと恐ろしさでどうしていいのか解らない。なんとも居心地が悪い。
「どうして紐で結ぶんですか?」と馬鹿な質問をした私に看護師はジロリと睨みつけられた。 夜中に点滴の針を抜くからだ。
「毎晩こうですか?」と聞く主人にその男は自分の左手の甲を見せた。彼の甲には五センチほどのミミズバレが二本赤く腫れていた。
「ママのことだ、わかるなー」と変なところで感心している。
三回戦の後、姑はついにダウン。左腕はしっかりとベッドの柵に縛られた。
意気揚揚と病室を出ていく二人に彼女は最後の言葉を吐いた「Fxxx You]。

彼等が出て行くなり姑は主人にこの紐を解けと強要する。断る主人に彼女は「役たたず」と罵った。次は私と娘をハッシと睨み、「アンタ達ならこれはずせるね?」まだ高校生の直美ちゃんはスーット病室を出て行ってしまった。
出窓に半腰をのせてニヤニヤと眺めていた秋夫君へ「秋夫こっちへおいで、これ外してくれるね?」とニッコリと笑う。 あんな笑顔が出来るなら外して上げてもよかったのに。
ベッドの横に来た秋夫はお婆ちゃんに顔を近づけて、「何ですネーおばあちゃん?」
「この紐を外して頂戴」 
「それを僕にはずして貰いたいの? フーン、おばあちゃん今金いくら持っている?」
一瞬私は凍りついた。何という事を言うか。彼女も一瞬何を言われたのか戸惑っている。そして目をキョロキョロと自分の持ち物を探しているようだ。 ジーと考えている、そして頭を横へ振り孫を見上げた。
「ヘー おばあちゃん金持ってないの? じゃダメだな。解いてあげられないよ」
「お金なくちゃダメ?」
「ダメ ダメ 何事も金次第」
姑はベッドの中で静かになる。なんとも恨めしげに自分の左腕を眺めている。それを見た主人は、さあ帰えろう帰えろうとそそくさと椅子から立ち上がり、「じゃ又来ますから」と口の中でモソモソと言いながら病室を出ようとしている、息子は再度お婆ちゃんのベッドへ近づき「おばあちゃん、 もう帰るけど五分待ってナ、五分したら戻って来てその紐といてあげるから、待ってなネー」
「マッテルヨー」と又嬉しそうに笑って私達を見送ってくれた。

駐車場に来てから息子に説明を求めた
「何であんなこと言うの」
息子の返事は実に明快だった。 ボケ防止は脳を使うことです。時々刺激を与えないとね。 お金があるかって?聞いたらお婆ちゃん目をキョロキョロして自分の置かれた状態を考えていたじゃない。それから自分が病院のベッドに居て金の持ち合わせがないって自分で理解したじゃない。で、払うもの払わなければ欲しい物が手に入らないって理解したでしょうが。 あの瞬間お婆ちゃんものすごい速さで脳を働かせていたじゃない。あれでいいんですよ。 解ってないネ。 解いてあげるふりしてもよかったのよ、それから試したけど出来ないって言ってもよかったのに、-ダメですーだからね。人生面白くないですよ。
「でも、戻ってほどいてあげるって言ったでしょう。今ごろアンタの来るのを待っているわよ、気の毒に」
「ご冗談でしょう、思考力の持続五分です。でも五分あとに未来への期待をもっただけ。 今ごろはもう僕たちが訪ねたことも忘れて次に部屋に入って来た人にホドケ、ホドケって脅迫していますよ。」
「まったく悪知恵だね~」
「悪知恵ではないよ、専攻科目に心理学も入っているの。 高い月謝払っているのはママですよ、一部が利用出来てうれしいでしょう?」          






 

2007年9月21日金曜日

坂を下るように姑の老人性痴呆症は進み、もう一人暮は無理になった。
息子達は母親を介護付きのアパートへ入居させる手続きを始めた。
姑が入居した老人介護アパートは一人用にしては比較的大きめな寝室と小さな居間。トイレ風呂場そして小さなキッチンも付いている。食事付きであるが、自分のキッチンで簡単な食事の準備も出来る。毎朝同じ時間には看護師が部屋に訪れ投薬と身の回りのチエックをしてくれる。勿論部屋の掃除も、洗濯のサービス付き。

毎日家族の世話と仕事で忙しい私にはホテル暮らしに見えた。

施設が持つ何台ものミニバスで希望の個所へ買い物にも出かけられる。 娯楽も宗教も寄りどりでサービス隊が外から来てくれる。 クラフトのクラス、ダンスのクラスと盛り沢山。
 
個人生活が確立しているこの国では、老後を子供と暮らすという習慣はあまりない。子供達は18歳になれば皆両親の元を出て行く。又親達もそうして来た。

最近私が住む通りでも二組の夫婦が伴侶を数ヶ月の違いで亡くした。二人共1年間の間は1人住まいをしていたが、彼等の決断の時が来たのか前後して2人共持ち家を売って介護付きのアパートへ移っていった。
ご婦人の方は軽い脳梗塞を一度起こし多少の障害が残っているが1人で買い物へも行き、庭仕事もまだ張り切っていたように見受けたが娘達とその伴侶が来て二ヶ月ほど前にガレージセールをして余分なガラクタを売りさばき、きれいに掃除をして家を売りにだした。
もう1人は心臓麻痺からの生き返りと本人が言う。彼がリハビリの最中に介護をしていた奥さんが心臓発作であっけなく亡くなり、彼も1年間は犬と一緒に暮らしていたが、家具やガラクタの後始末をしてサヨナラをして行った。
 
我が家の姑は、自分の意志での人生の転換ではないゆえ多少の悲しい行き来はあったが収まるところに収まった。姑の生活は食事の時間ももう一人ではない、人との接触が毎日あれば少し人間性の快復があるだろうし、私達も何となく安心と結論を出さなければ。

引越しの手伝いもすみ、姑を1人置き去りにする一抹の寂しさも交えて、昼食を一緒にしてから帰ろうと硝子戸を開けて外へ出た。
 横一列に並ぶテラスのドアの向こう3軒両隣。その一つから老夫婦が姿をみせドアの前に置いてあるテラス用の椅子に座り膝の上に小皿を載せた。すると野良猫がキャフェテリアへ行く道すがらにある花壇の中で寝ていたらしくノコノコと現れて老人の膝にヒョッと乗り彼の手から餌を食べ始める。 なんとものどかな風景。施設の世話人が言うには、その夫婦の唯一の楽しみでもう半年も続いているという。
 誰も此処に住む人はあの猫に餌を与えない暗黙の約束があるらしく今のところは上手く行っていると話してくれた。

一ヶ月が過ぎ主人と私は姑を訪ねた。また昼食を一緒にするつもりで出かけた。時間が来て立ち上がり私はガラスのドアを開けた。又猫と老人を見たかった。しかしあのドアは閉まり、老人は居ない。 椅子も置いてない。おかしい。食事中私は姑に猫のことを話題にしてみた。彼女は健康な頃は常時4匹の猫は飼ていた猫好きなのだ。その姑がそんな猫は知らんという。知らないはずはない。そこで帰り際に事務所に立ち寄り聞いた。

「あーアレね。 貴女のお姑さんが入居の一週間後にあれに気が付いてね。彼女早速餌を買って来て皿に入れ自分のドアの前に置き始めたの。餌も水も常時そこにあれば猫はもう老人の膝へ行かなくてもいいでしょう?」
なんとマア、少し恥ずかしかった。どうして姑に注意をしないのかと尋ねる私に彼女は笑いながら説明する。 お姑さんのしたような嫌がらせは此処では毎日です。 皆さん年は取っていますけど、体にも少し障害がありますけど、オツムに少しボケが始まっていますけど、それは彼等が天使になるわけではないのですよ。この施設にも現実の世界とまったく同じように小競合い、嫌がらせ、悪も善も、被害者も加害者も居るんです。それに皆さん本当に暇ですからね。其れだけが楽しみらしいですよ。
なるほど 

2007年9月17日月曜日

カセットテープ

正月二日の朝知り合いから電話が来た。彼女はお向かいの高校生の娘さんが大晦日の夜に汽車と衝突して即死したので葬式に出ると話している。その娘さんは秋夫君の通う高校の生徒だった。 自動車社会のこの街では普通汽車とは貨物車が通過するだけのもの。旧道ガルベストン通りに沿って一日何本も貨物車は走る。実にのんびりと、昔観た西部劇映画の中に出てくるように、馬が走る汽車と一緒に走り、ヒョイと馬上の人が中へ飛び込んで..そんな映画の記憶が戻るような昔懐かしい汽車。しかしそうとばかりは云っていられない、
先日は私自身が夕方の忙しい最中に遮断機の前で40分も待たされた。上りが通過するまでその汽車は踏み切りの前から動かない。少し位置をずらしてくれたら好いのにと思うが列車があまりに長く、何処で停車しても何処からの遮断機を邪魔することになるのだが。その後の車の渋滞は思い出したくもない。 こうなると誠に迷惑な話である。

十二月三十一日大晦日はクリスマスや感謝祭と違い、アメリカ中が大晦日のパーティを楽しむ。十二時近くなるとどの家庭でもテレビをつけ画面から広がるパーテイに逢わせて最後のカウントダウンをし、その瞬間が来ると皆が抱き合い新年を祝う、良く話しに聞くアメリカの大晦日がどの家庭でも行われる。その後に子供達は野外に飛び出て花火を楽しむ。

友人の家のお向かいの高校生の女の子もボーイフレンドと連れ合って目指す家のパーテイーに急いでいた。男の子の運転する車は汽車の汽笛を後ろに聴いてスピードを上げた。早く汽車を追い抜いて遮断機が下りる前に踏み切りの向こう側へ渡らなければ何十連結もの貨車が通過するのを待た去れると、急げ、急げ、遮断機は降りかけているが、下を潜って渡れると判断したらしい。しかし、踏み切りの個所は何処でも盛り上がったように小高くなっている。左にカーブを切りながら坂のような個所を登り、線路とコンクリートのガタガタ個所にくれば車のスピードは極端に落ちる。彼等が踏み切りに乗り上げた瞬間汽車は其処まで来ていた。
二人の高校生は汽車の下に巻き込まれて即死。

あれから三ヶ月が過ぎた、亡くなった娘の遺品を整理していた父親は彼女の部屋にあったカセットプレーヤーの中に一つのカセット テープを見つけた。 これは誰か個人の持ち物と考え近所の同じ高校へ通うジェフに電話をした。 
電話を受けたジェフはそれは彼女の死の一ヶ月ほど前に彼女から頼まれてコピーを作ってあげたテープだと想い出した。自分はオリジナルを持っているから始末をして欲しいと頼んだが、父親から申し訳ないが取りに来てくれないか。 一応は君の手に返したいからとの云われた。

二週間後ジェフは高校のホームルームの時間に彼の手元に戻って来たそのカセットテープと自分のオリジナルのテープとプレーヤーを教室に持ち込んだ。
彼は教壇にプレーヤーを設置してクラスの皆にこのカセットテープが何処から戻って来たかと説明した。同じ高校に通っていた彼女の不幸は学校中の生徒が知っている。ジェフはこのテープは事故に遭った車からではない、車は殆ど大破され二人の遺体を引き出すだけがやっとだったそうだと説明した。もちろんそれは皆が知っていることだ。彼はクラスの皆に一緒にこのテープを聴いてくれるように頼んだ。 

最初はジェフのオリジナルのテープ。 メタリックのハイピッチなロックが部屋中に流れクラスの高校生は体を揺らしてその曲を楽しんだ。
ジェフがもう一つのコピーしたテープをプレーヤへ入れる。スイッチ オン。部屋中に前と同じメタリックの音楽が流れ出た。  そして五分後、この音楽のバックグラウンドに汽車の警笛が聞こえ出した。シュシュー シュシュー そして次に汽車の警笛が聞える、小さかった警笛がだんだん近づいてきて大きくなっていく。何度も何度も警笛が聞える。オリジナルのテープには汽車の音はない。 クラスの生徒が何故音楽の中に汽車の警笛が入っているのかといぶかしみはじめた頃 突然絹を裂くような断末魔の叫び声が「キャーッ」とテープから聞えた。その声はまさしくあの亡くなった女子高校生の声だったそして音楽がプツンと切れた。
 
放課後帰宅した息子の秋夫君がその話をしてくれた、それでどうなったの?と聞くと
「後は知らない、叫び声が出た瞬間にクラス中の誰もが教室から飛び出たから。もう凄かったよ、先生も一緒に飛び出して来た。あの先生の走り方速かったナー 女の子達は泣き出すし、 男には便所に走ったのが結構居たし、もう誰もクラスには居なかった。自分はいつも後ろのドアの近くに座るから今日はラッキーでした。一番早く走り出られた。」
ジェフも一緒に飛び出てた。 彼はクラス全員にあの叫び声を聴いてもらって、自分だけに聴こえるのではないと確認して恐怖から出たかったそうだ。

 在るんですね~ 怖い話が~

2007年9月13日木曜日

老いるって?

我が家では大学へ入るまでは子供に車は買わない。それまでは母親の車を共有する。何故か父親の車は対象外。 

息子は遠距離の大学で楽しい寮生活を満喫したらしいが、娘は同じ街の大学へ進学してもらいたいのが父親の希望。この街だってアメリカ四大都市の一つに入るのだ、良い大学はいくらでもある。父親はまだ娘を手元に置いておきたい。けっして寮生活が悪いわけではない。だが秋夫君に電話連絡をするときは女子寮へ電話をしたほうが早かったという経験のある両親としては女子寮を絶対的に信用しても居ない。高校生の頃に「僕は女は嫌いだ」と意思表明していた男の子がどうしていつも女子寮に居たのか不思議なのだが。

自宅通学でも車が必要条件。 彼女にも小型の車を買い与えた。真っ赤な二人乗りの車。勿論中古である。この車も持ち主が直美ちゃんと決まってから、波乱万丈な車の道を歩まなければならなかったのが気の毒である。ドアは凹んだし、エンジンは取り替えたし、スピード違反は両手の指が必要なほど貰ったし、二年後には遠くブラジルまで売り飛ばされたのだから。
 
秋夫君のアパートに日曜日の午後妹から呼び出しが来た。買い物を付き合えと頼まれた。たった一人の妹の直美ちゃんにお兄ちゃんはいつも甘い。彼が妹にノーと言っているのを聞いたことがない。

直美ちゃんの運転で出かけた二人だが、三十分後には真っ赤な車は見事に事故を起こした。商店街を走り抜けようとして右側の駐車場から出てきた車に助手席側をぶつけられた。

住宅街に近いのと、相手の車が駐車場から出てくる瞬間だったので事故としてはダメージが小さかったのが幸いである。 助手席にいた秋夫君側のドアに真っ直ぐに来たのだ。


ドカーンと同時に車が止まり、ショックの一瞬が終わると、怒り心頭に来た直美ちゃんは車を飛び出た。相手側の車へ走りまだショックで立ち直れていない相手の車のドアをムンズと掴んで開け怒鳴った

「What is your Fucking Problem? 」

シートベルトを外しかけていたその男はポカンとしていたそうだ。 ドアを開けようともがいていた秋夫君も小さな妹のその言葉を聞いてスーット座席に沈んだ「オッソロシー」 
母親もこの時から夢に描いていた「しとやかな娘」を追い求めることを諦めた。

電話を受けて駆けつけた父親が見た光景は、五フィート二インチの小柄な女の子がつま先立ちになって腕を振り回しながら抗議をしているその相手は六フィートをはるかに越えた大男。



然しその加害者は八十に近い老人。警察を呼ばないでくれと主張するのをそれは困ると直美ちゃんは抗議していたのだ。彼はこの衝突事故がこの二週間で三回目だと恐ろしいことを言う。 もう保険会社も支払ってくれないだろうなどとなんとも情けないことを言う相手では示談にするのも致し方ないというものだ。 

しかし我が家が事故の報告を警察に連絡しなくても、この老人は一週間後には自動車の免許証を差し止められた。 ボケの始まった老人はもう警察のリストに載っていたらしい。
この自動車社会と個人生活が確立しているアメリカで年齢を重ね体のあちらこちらに支障が出始めてたときから各々の家庭内で悲しい決断が強いられる。  警察に親の運転免許証を取り上げられるか、成長した娘や息子が彼等の判断で自分の親と話し合い車を廃棄処分にするかどちらにしても辛いときが来る。

主人の母親は四十代で未亡人になり、三人の息子が各々独立してからは一人暮らしを始めてからもう長い。その姑ももうじき八十歳、老人性痴呆症が始まった。  3軒の息子の家へ順繰りに訪問をするのが彼女の唯一の楽しみだが、最近は時々目的地へたどり着かない。 
「呼び鈴を押しても居ないからドアにメモを貼っておいたよ」と電話が来るがメモはない。
「いつ番犬を飼ったの、うるさく吼えられたよ」と文句が来るが誰の家にも番犬は飼っていない。その内に夕方姑の家へ電話をしても家に居ないことがある。 帰り道が解らなくなるのだそうだ。あの頃携帯電話が普及していたらどんなに便利であっただろう。 車での徘徊を探す息子達は必死である。 これはどうにかしなければと思案の結果。母親から車を取り上げることになった。免許証を手放さない母親に業を煮やした弟のロバートは彼女の車を売ってしまった。もうこれで彼女は一人外出は出来ない。食事はミール オン ウイール (一日二度の食事の配達)に以来して台所で料理の心配もしないですむように準備した。 なんとも手際のよい弟達だ。 

外出が出来なくなった姑に一つ楽しみが出来た。 毎日イギリス、カナダ、ニューヨークやカリフォルニアから若い男性の声で電話が来る。 彼女の名前を呼んで甘く囁くそうだ。 「エリザベスさん今日もお元気ですか?」宝くじの勧誘。それも毎日のようにいろいろな種類の宝くじ。 支払いも受け取りも彼女の銀行口座でしてくれる。 たいした金額ではない。それに時々儲けも出る。一切の憂さを晴らしてくれる興奮の瞬間。 電話口で、昨日は三十ドル儲けましたよ、早速口座に入金しておきますから。 さて今日はモット大口ですよ。どうします?


数ヶ月後にはそれもロバートの知るところとなった。彼は早速彼女の銀行口座を調べた。そして結構な金額が毎週引き抜かれていることを知る。 彼女の年金の額にはまだまだだが弟にしてみれば、これはまだ序の口。今の内に抑えなければと自分の母親から「委任状」を取り付け銀行口座を変え、全てを弟ロバートの名義にした。 家の名義も。株の名義も。

哀れにも姑は自分の家で完全孤立、これは痴呆症に手を押しているのと同じ。私達に出来ることはしばしば訪問することと、買い物に連れ出すだけだった。

「痛いよ~ 血が出ているよう~」と姑からの電話が来た。 風呂場で転び立ち上がれないという。主人と私はが駆けつけてみると彼女は風呂場の床に横たわり、膝から出血している。 やっとの思いで抱き起こし、傷の手当てをし、着替えをさせてベットに寝かしつけた。
「又明日来るからね」と約束して帰路の車の中でどうにもおかしさがこみ上げ私は主人に聞いた
「アノネ、あの家のお風呂場には電話はないのよね~ お風呂場で転んで動けないお義母さんがどうして寝室にある電話に出られたの?」

「それを言わないでくれると嬉しいんだけどね」と主人にたしなめられた。        

2007年9月8日土曜日

秋夫とケリー

今年もクリスマスは来たが秋夫君は一人で帰宅した。アンとの恋愛は二年と続かなかった。 イースター、感謝祭、いろいろな家族の集まりがあるたびに彼はアンの両親の家へボーイフレンド気分でいそいそと顔を出していた。その内に彼女の家族及び親族の覚えもよくなり悦に行っていたが、一つの問題が出た。彼女は seven days evangelica と呼ばれるキリスト教。伝道と聖書に重点を置く宗派。彼女は週に三回礼拝に出る。 子供達の聖書の勉強もうけもち中々厳しい。それに加えて寮のルームメイトがモルモン教の両親を持つ息子。 この学生の目下の問題はどうしたら目の前に迫っている二年間の伝道生活から逃れられるかと悩んでいる学生。
大学生が集まれば何かと討論するのは学生の常だが、この二人は宗教の話が大好きらしいく、三人寄ると戦わす宗教論争に秋夫君は少し疲れた。 もともとが論争の嫌いな彼にはアンは少し重荷になったようだ。  それに加えての最後のノックアウトは彼女の両親からの一言。
「君達何時結婚するの?」  
我が人生の始まりと全てがばら色だった彼には青天の霹靂である。 我が息子は無責任にも彼女から逃げ出してしまった。 

アンを伴っての帰郷には愛車の「ぼろクソワーゲン」を走らせていたが、一人での帰宅は長距離バスのグレーハンドを利用するようになった。 昼寝をしながら帰れると本人はいとも幸せそう。
何時の間にか金髪や緑の髪がもとの色に戻ったが今度は長いポニーテールに変わり、母親がセッセと送っていたシャツやズボンは何処へ消えたのか身に付けてくるものは赤十字の売店で買う代物だ。 破けたズボンにシャツ、帽子まで破けていると思ったらなんと手袋まで穴が開いていた。 軍隊のナップザックに洗濯物を詰めてうれしそうに出迎えの母親を探している姿はどうみてもホームレスに似てる。
母親として言えることはただ一つ、「どれも穴が開いて風通しよさそうだけど、寒くない?」 

休暇中は夕方になると友達のケリーが静かに我が家の台所へ入ってくる。 いつも実にタイミングが良い。彼は私の作る親子丼、カツ丼、ステーキサンドイッチが大好きだそうだ。本当に良く食べる。

ケリーの両親も離婚組。 父親に引き取られたケリーは子供の頃別れたきりの母親が現在何処に居るか知らない。
 もう何年も父親と二人暮しだったがその頼みの父親が最近再婚した。次の奥さんは中年の看護婦。小太りのその女性は結婚の際の条件が、一緒に住んでも掃除はしません、食事は作りません、洗濯もしません。二人の夕食は食べに出かけましょう。 老後を二人で一緒に楽しみましょう。
ケリーの父親はその条件を呑んだ。
 
なんと素晴らしい条件だろう、本当に羨ましいことをおっしゃる。私もいつか言って見たい、してみたい。
ケリーは大学へ行きながら父親と二人で暮らしていたが、新しい女性が来てから父親も息子に条件を出した。  自分はもう結婚したのだから、18歳を過ぎている息子はアパートを借りてこの家を出て行くか、 此処に留まるか選ぶように。もしこの家に留まるのであるならアパート代として、ケリーが掃除、洗濯をすること、食事はこの家での自炊を許す。だが食料品は自分で買う。

16歳からしているアルバイトで車も買い、車保険も買い、今はバイト代は大学の授業料に全部消えているのにこの上アパート代はとても出せない。 親父と暮らしていても結局自分が掃除洗濯はしていたのだからと彼はその条件を全てのんだ。息子から住み込みの小生になった。

そう大学生のケリーは父親の家に住まわせてもらう為に父親と継母の家の掃除、ベットのシーツの取り替え、家族三人の洗濯、週末は庭の芝刈りをする。そして彼女が宣言したように、父親と継母は毎晩二人で夕食は外へ出て行く。 本当に毎晩である。 傍目にも良くつづくと思うがそれは他人のこと。この際愚痴るまい。

ケリーにしてみれば、せめて友達の秋夫が自宅に帰っているときぐらい自炊をしないで、あのオバサンの少しましな料理が食べたいわけだ。そんなことが解っている気のいいオバサンとしてはケリーがニコニコと台所に入ってきても嫌な顔は出来ない。
 
息子の友達も娘の友達も子供の頃から入れ替わり立ち代り我が家で食事をしていく。彼等は一応にお世辞を言うのが上手だ。 食事を出すと必ず丁寧にお礼を口に出し、私の料理が美味しかったといいながら食べ終わると食器を洗面台にもって来てサット水で流して出て行く。特に男の子達のマナーはじつに良い。帰り際には私が何処に居ても見つけて、「オバサン食事ご馳走様」と声を掛けてから出て行く。 皆良いお父さんになるだろうなと納得したくなる。

ケリーと秋夫君は夕食が終わると夜の街へ出ていく。そして帰宅はいつも真夜中を過ぎる。二人共財政的には緊迫状態だからクラブへ呑みに行くなどということは出来ないはずだ、友人の家に転がり込んでも夜中までは居られまい。 あの二人は高校生の頃からいつも妙な遊びを試みては面白がっていた。 廃墟にもぐりこんで一晩寝てきたり、 建築中のビルの屋上へ這い上がり一晩明かそうとして蚊の群生に襲われ逃げ帰ったりと次に朝母親に報告出来ないことをいくらでもしている。 しかし彼等はもう大学生少しは悪戯も大人になっていることを望む。 

或る日主人が聞いた。 「お前達一体何処で時間つぶしているんだ?」二人はニヤーと笑う。
彼等は夜になると「救急病院めぐり」をしているのだという。 州立、市立の救急病院の診療所のベンチに座っているのだそう。なんの為。 ただ見て居るだけ。 毎晩サイレン鳴らして運ばれる患者の数って凄いよ。  特に金曜の夜はもう担架のラッシュだね。  腹にナイフが突き刺さったままの患者、 腕を切り落とされた男、その腕を抱えて後から走る家族、ピストルで撃たれた奴、指を切り落としたと喚く女。ぶたれたの、蹴られたのと凄まじいと話す。 この間はどこかのアパートで大きな喧嘩があったらしく、 あれはメキシコ人の出入りだね、もう次から次からと運び込まれて、看護婦さんが僕達を見て、そこの二人なにボヤボヤしてんのー この担架を押しなさーいって凄い剣幕だった。僕もケリーも入って来る担架を押してあっちへ行ったり、こっちへ行ったり、臨時の奉仕活動ですよ。と涼しい顔をしている。 テレビ番組のERなんて目じゃないと嬉しげだ。
住宅街と都心に近い病院また下層階級地帯の病院の患者の怪我の種類が違うのママ知っている?
あれぞ人生劇場ですヨ。出来たら写真機を持ち込みたいけど、それは無理だろうね。まあ今は見て居るだけです。何時かカメラを持ち込むつもりだけどねと二人はニコニコしている。
日によっては忙しい病院を探して救急病院の梯子をしているそうだ。 
    

2007年9月2日日曜日

テリーとリンダの旅

現世という言葉があることは来世があるからだと皆が信じ、その来世に一抹の希望を持ってこの難行苦行の現世を少しでも人間らしく生き抜きたいとみな頑張る。

その来世を垣間見て来た人が時々居る。 死との境界線をさまよった人がお花畑を見たと良く話す。  人間の最後の瞬間呼吸が止まり脳への酸素が欠乏した瞬間に私達は暗いトンネルの中へ入った幻覚にとらわれるらしい。そして蘇生したその瞬間暗いトンネルを出て明るいお花畑を見るということだろうか。それともあちら側に出たからお花畑が見えるのだろうか。 私にもいつかその瞬間がくるはずだから、その時はしっかりと目を凝らして目撃者になろう。しかしそれは帰ってこられたらで、あちら側に行ったきりになればまた別のお話。

あの頃テリーはまだ三十八歳の電子技師だった。わが社へ毎日通勤して主人の助手をしていた。スラリーとした美人で無口で礼儀正しく申し分のない女性。
 
テリーは高校卒業後に陸軍へ志願兵として入隊。 四年間猛烈な訓練を潜りぬけて電子技師の資格をとって除隊した。セクハラなんて考えたら軍隊では生きられませんよ、反対に男性へこちらからセクハラする気構えでなければダメ。泥沼の中でのホフク前進で自分達の隊が遅れをとると他の兵士に体を引っ張られるとき、其処触るな、アッ嫌らしいなんていってたら兵隊にはなれません。それに戦場のシャワーが男性用女性用なんてありませんからね。トイレも同じ。羞恥心なんてどこかへ吹き飛んでしまいます。でも自分で選んだ道。文句は言わない。そんなことを時々昼の休みに話してくれたことがある。 
休みには黒の皮ジャンを着てハーリー デーヴィソンのバイクに乗る超お転婆娘だったが、結婚と同時に女性に復帰したそうだ。男の子と女の子を産み、大人しく我が社の仕事場へ勤務していた。

秋も深まり、夕方の来るのが少し早くなりだした頃だったろうか、テリーは仕事からの帰宅後十二歳の娘リンダを連れて子供が明日提出する宿題の材料を買いに出た。夕食の支度をと焦る彼女は帰宅路で前方に見える交差点の信号の黄色を確認、赤になる前にと急ぎ突っ走った。同時に左側からトラックの運転手が信号が赤であるのを確認しながら、自分が通過する瞬間には緑に変ると予測して交差点へ突っ込んで来た。スピードを速めた二つの車は交差点のど真ん中でぶつかり、 トラックはテリーの小型車に真横ぶつかり三十メートルほど押し切り、ガードレールにぶつかり止った。テリーの車はトラックとガードレールの板ばさみになり人が皆駆けつけたが素手で救助は不可能な状態。 車の屋根を切り取っての救助活動に二時間の時がかかりそれからの救急病院への運び込みと全てに運が悪かったとしか言えない。 

母子は全身打撲で昏睡状態を続ける。 母親のテリーは数日後には個室に移つされ、片足と片腕は石膏でしっかりと固められているが昏睡はまだ続く。
リンダは集中治療室の中で管による延命処置の状態。 もう全身骨折に内臓圧迫でまず生きる望みはないと診断されたが、母親が目覚めるまでは娘を生かしておいて欲しいと父親の希望で延命装置器具と共に昏睡状態。

二週間が過ぎてもテリーの目覚める気配はない。一縷の望みも捨てない父親は娘と妻の二つの病室を行き来して二人の名前を呼びつづけていたが、患者は時として昏睡状態でも体の痛みは感じるもの、もしこの子がそれを感じていたらその痛みは想像を絶するものですよ、痛みを除くための薬を投与していますがもう二週間が限度です。 こんなに若くしての植物人間はあまりですと医師からの提案を受け入れてリンダの小さな命を楽にしてあげることに同意した。

母親のまだ眠る中での父親と小さな弟と二人での葬式は悲しくてやるせないものだった。 
小さな棺を埋葬した直後父親は病院へ急いだ。先ほど病院から電話がありテリーが目を覚ましたと連絡して来たから。車に飛び乗る彼は病院側がもう二日待ってくれたら妻にも娘がまだ生きている姿を見せられたのにと怒り狂う。 親族から目を覚ましたばかりのテリーに娘の死を知らせるのは待つようにと止められたが走るように病室に駆け込んだ彼は妻を抱きしめて泣きながら小さな娘の葬式の報告をした。 

そんなむごいことをと反対するテリーの妹が病室に駆けつけたとき彼女はテリーの口から出る言葉を聞いて側の椅子にへたり込んだ。

「リンダがもう居ないのは知っています。 でも彼女は安全な場所に居ます。私は少しも悲しくないから心配しないで。 私がリンダの手を引いて連れて行ってあげたから彼女は迷うことなくゲイトの中へ入りました。白い服装の老人がゲイトの前に立っていて、リンダの為にゲイトを開けてくれた。 とても優しそうな老人だった。 中を覗いたら素敵な音楽が聴こえてきたのを覚えている。 リンダの後に自分もゲイトの内へ入ろうとしたらその老人が押しとめて、アナタはまだその時ではない。 ご主人がアナタを必要としているから戻りなさいって言われ扉が私の前で閉まったの、そしたら看護婦さんが目覚めましたか?って聞いていた。 お願い、泣かないでください。私は少しも悲しくありません、リンダが羨ましい」 多少残った言語障害のたどたどしい言葉ながらしっかりと夫と家族に話して聞かせた。

親族、友人の間でこの話を信じるかどうかで二つに分かれた。彼女の夫は真っ向からこの話を否定して彼女が頭を打たれた結果の幻覚だと主張する。
夫は頭の打撲による精神の狂いと判断し外科病棟から出して陸軍病院へ彼女を移しリハビリセンターでの治療と精神科の治療を依頼した。ついでに彼はまだ後遺症に悩む妻に「二度とリンダと扉の話は口にしないように」と口止めをした。

アナタはどう思いますか?
わたしはテリーが現世と来世の間をほんの少し旅をして来たと信じたい。
素晴らしいでは有りませんか。来世は在るのですヨ。

2007年8月28日火曜日

秋夫君大学一年生

わが長男の大学入学。ダラスの北60マイルほどの小さな大学町。一言で言うと田舎である。我が家から500 マイル前後だろう。 本人が見つけた大学は美術科の写真部には多少名の知れた教授が席を置いていると説明を受けた。なるほど。願書を出す前に家族全員でオープン ハウスへ出かけた。新入生の為の大学説明会である。上級生達がニコニコと愛嬌を振り舞いて接客に忙しい。 すっかり気に入った秋夫君は、もうこの学校へ入らなければこの世が無いありさまだ。


当学校の特色は最初の学年二年間で専攻課目を取らせてくれること。 そして教養課程は後の二年間へ後回し。 お勉強の嫌いな秋夫君はこれに飛びついた。数学だ英語だなんてそっちのけで写真だ、色彩だ現像だとすっかりのめり込んだ。そして「ママ金足りない」コールも始まった。カメラ一つぶら下げての写真家希望は認識不足であった。 瞬く間に三台のカメラを買わされた。そしてまあ材料費の高いこと。 

12月クリスマスが来る。 誰でも家族から離れて暮らしている人たちの一年で一番楽しい時季が来る。秋夫君もガールフレンドを連れて帰宅すると宣言した。
彼女の名はアン。一年上級の「年上の女」。

六時間の運転から開放されて二人が荷物を運び込むその中に子猫が二匹籠の中でミー ミーと鳴いている。双子なのだそうだ。
アンが女子寮で飼っているがクリスマスで寮の生徒が居なくなるからと連れてきた。しかし我が家には性格のとても悪い小さい婆さん犬がいる。どうやら我が息子は彼女に先住者の犬の話は出来なかったらしい。彼女も婆さん犬を見て驚いていた。 私は知らないよ。

アンは秋夫君の部屋、我が家の一番奥まった部屋へ、秋夫君は玄関脇の部屋と一応部屋割りはスムーズに行った。これが母親のせめてもの注文。 私の道徳観念を尊重してもらわなければ我が家には入れないと一応彼等が来る前に伝えておいた。 目に見えるところだけ規律を守ってもしょうがないかもしれないが、何事も目の前から一歩が始まる。
猫はどうするのかと見ていたら、二匹の子猫、猫のトイレ、餌皿、水のボールと子猫が持参した荷物はアンがイソイソと秋夫君の部屋へ設置している。我が息子は年末と正月を猫と同室のようだ。 アンが好きならアンの猫までもと男の意地を貫くらしい。

朝アンが息子の部屋を開けると二匹の産毛もまだ生え揃っていない頭でっかちの子猫が秋夫の頭の上、脇の下からミャーと顔を出す。モソモソと起きだし、身に付けようとする息子のシャツの中へ飛び込む。なんとも可愛げな子猫達。


我が家の息子と娘の寝姿は今だうつぶせである。乳児の時主人がアメリカでは皆赤ん坊をうつぶせにしてクリブに寝かせはずだけど?と云い、あーそうかいなとそうした。 大人になったら半回転して上を向いてくれるのかと思ったが、まだそのままである。 夜秋夫君がうつぶせで寝るとその背中の上に二匹の子猫が上に乗って寝ている姿は正に猫が息子を支配している図としか見えない。

猫には驚いた、ガールフレンドにも驚いた。しかし耳と眉に付いているピアスと、茶色の髪を金髪に染めている息子を見たときは少しビビッタ。
日ごろから流行の刺青だけは警戒していた。折に触れ子供達に私がどんなに刺青に反対か熱弁を繰る返した。青春は一度しかない、でも誰もが必ずいつか老ける。引力の法則で全ての人間の体が年齢を増すと共に地球の中央へ引き込まれる。例外はナイ。その時垂れはじめた肉体は皺々(しわしわ)になって皮膚と共に刺青も地球の中心部へと垂れ下がるのだと力説して来た。
もし刺青を彫りたい欲望が湧いたら、自分の80歳の姿を想像してくれと子供達へ頼んできた。

だいぶ以前になるが、ミシン専門店へ針を買いに行った。およそ洋裁用具の店にはそぐわない老年の男性がカウンターの後ろで売り子をしていた。 ごま塩の角刈りの頭、出っ張った腹、サスペンダー付きのダブダブブルージーン。長袖のシャツの袖をたくし上げていたその腕に自慢?の刺青が手首から肘へとある。ピンク色をした裸体のベテイさんが腰をくねらせている画。かつて海軍の水兵さんだったのだろう。終戦直後に日本に駐屯していたと私に話しかける。この手の人間には良く合う。私の顔を見ると日本で駐屯していた頃の楽しかった話を始める、かつて日本に居たときに彼女が居たと言うのも同じだ。「彼女の名前はサチコさん、知っているか?」と聞く。彼等の為にも40年前のサチコさんが元気であって欲しい。
毛むくじゃらの腕に彫られた40年前のベテイさんのピンクの肌は色あせ何となく彼女の腹と乳が垂れて見える。
何度もこの話を二人の子供にして来たので刺青の話が出ると息子は「垂れ乳のベテイさんだろ」と返事をする。一度宗教面から話してみたことがある。 カトリックでは神様から与えられた肉体に故意に傷をつけたり、姿形を変えることは好まれないと話したら、「ママの耳のピアスはどうなるの」と来た、シマッタ。

クリスマスの帰宅中秋夫君の顔を見るたびに眉毛に張り付いている銀色の玉コロがチロチロしているのは非常に目障りである。母親の目が絶えずそこへ行くのきずいた主人がいち早く私の耳元で囁いた。
「何も言わない、何も見えない OK?」
金髪と銀の玉ころチロチロの秋夫君とアンは毎日楽しそうに遊びに行く。高校時代の友人が皆年末で帰ってきているのだろう。
しかし秋夫の眉のピアスの個所が赤く腫れ上がり炎症をおこしている。主人はそれでも母親は何も言うなと釘をさす。 親に言われて意地になり外すつもりの気持ちを止めてはいけないと言う。痛いのは本人なのだからこちらが口を出すことではないそうだ。


正月休みも終わり二人は大学へ帰っていった。 数日後息子から父親に電話があった。何となく新学期の話をしながら、眉のピアスは外したと報告して来た。 アンが取るように忠告をしたのだそう。 持つべきものはガールフレンドらしい。それからネー金髪の髪も一般的で面白くないから今度はグリーンに染めたから。



   もう本当に大学で何やってんだろうね。

2007年8月25日土曜日

A.A.A.D.D. Age Activated Attention Deficit Disorder

暫くぶりに天気のよい日で私は庭に水をまこうと決めた。そこで ホースを出し栓を開けようとして車を見たら汚れていてこれは洗車をしなければ。
そこで洗車もしようと車庫へ行き始めたらさっき郵便受けから出した今日の郵便の束が置いてあった。

私は洗車の前にまず郵便物から片づけようと思い、車の鍵を郵便物が置いてあった棚に置き、ジャンクメールを棚の下にある小さなゴミ箱へ投げ込もうとしたらそのゴミ箱がもう一杯。

そこで私は請求書などの郵便物を又棚に戻し、まずゴミ箱を空けることにした。でも 大きなゴミ箱は郵便受けの側にあるんだと気がついてそれならまず支払いの必要なものから小切手を切って封筒に入れてしまえば一緒に郵便受けに出しておけると考えた(アメリカの郵便受けは、出す郵便物の回収もしてくれます)。

居間のテーブルに座り小切手帳を開いたら残りが1枚しかない。新しい小切手帳を取りに書斎へ入ったらデスクの上にさっき飲みかけていたコーラーの缶を見つけた。
小切手帳を取るために引き出しを開けようとして、コーラの缶が落ちてはいけないと横へ置き換えようとして缶を持ったら少しコーラが温かくなりかけていたので冷蔵庫へ入れようと台所に行こうとしたらカウンターの上にある花瓶の水が減っている。 コーラをまずカウンターに載せたらそこに午前中探していた眼鏡があった。早く眼鏡とコーラの始末をしなければと考えたけどまずは花瓶の水を先にしようと決めて眼鏡をカウンターに戻し、ジョウロに水を入れていたら突然其処にテレビのリモートがあった。誰かが台所に持って来て置き忘れたのだと思い、今晩テレビを観るときに又リモート探しは嫌だと居間のテレビの前にリモートを戻しておこうと思ったけど、まずは花瓶に水を足そうとしていたら少し水を床にこぼしてしまった。そこで手に持っていたリモートを台所のテーブルに戻し、タオルを取って床を拭いていて考えたの、私は今日は一体何をしようとしていたのだろうって。でも思いだせない。

洗車は済んでいないし、支払いは済んでいないし、
ぬるいコーラはまだ書斎にあるし、小切手帳はまだ残りが1枚だし、
リモートも眼鏡も何処にあるか見つからないし、車の鍵を何処へ置いたか全然思い出せない。

結局今日一日忙しかったけど、私は一体何をしていたのかしら?
でも笑はないで下さいよ、 アナタにもその日が来るのですから。
それとも一緒にカウンセリングを受けましょうか?

2007年8月24日金曜日

コメントへの返事

じゅんたろうさんコメントありがとうございます。私のたわ言をいつも読んで頂いて本当に感謝です。
今朝TVのワイドショウの話題の一つとして、離婚家族の子供の権利を再考慮する案が出されているそうです。話題の一つですから詳しくは説明されませんでしたが、子供にも一緒に暮らす親を選ぶ権利が与えられるとか、 離れていった片親の「悪口」は子供の前ですることを禁止するとか、いろいろあるようですが悪口を云々とはどうするのかと思いましたら、親のセミナーみたいのを考案中とか。 
子供が絶えられないのは、分かれている片親の悪口を聞くことなのだそうです。

これはあくまでも私の見る目からの感想ですが、 アメリカの妻は日本の妻のように「絶対的に保証された磐石な地位」ではないです。競争相手が出てくればいつでも追い出されます。又彼女達も出て行きます。夫も妻も他に愛する人が出来たら、 二股はかけませんね。 日本の夫のように、「ほんの浮気だよ」が通じない国です。 妻が許しません。 面白いことはキリスト教の土台(許し)のもとになっている国のアメリカで妻達は夫の浮気を許しません。 
もうだいぶ前になりますが前大統領のクリントンさんがモニカ ルインスキーさんと浮気遊びをしたのを妻のヒラリーさんが許しましたね。許したヒラリーさんへの批判は大きかったです。
又現在大統領候補のジュリアニー前ニューヨーク市長が現職中に愛人を作って見事に妻を市長邸から追い出しました。 その時の手順が悪かったと現在は元妻と子供からの選挙妨害で苦労しています。

ジェームスもトラビスも今は三十二歳の立派な男性に成長していることでしょう。 トラビスは高校卒業と同時に陸軍へ入隊。四年後にレーダー技師になって除隊。現在サンホゼで仕事をしています。
ジェームスは大学でエレクトロニクス エンジニアーを専攻。卒業の年に一度我が家に訪ねて来てくれました。とても素晴らしい大人に成長していました。


じゅんたろうさん、こちらでは一週間分のまとめ買いをしますので、(勿論合間には新鮮なミルクやパン野菜の補給はしますが)手押しバスケットをサッカーボーイ(サックの中へ食品を入れる仕事です)
に時には車まで押してきてもらい車のトランクへ詰めてもらいます。その場合チップは出します。

2007年8月21日火曜日

ジェームスの場合

アメリカの離婚率は現在の統計で52%とあるテレビで発表していた。 私の周りで中年を過ぎても離婚せずに連れ添った夫婦を探すのはむずかしい。正直な話私と主人にしても良くまあ此処まで持ったものだと感心する。ひとえに私の努力の賜物と自負しているが多分連れ合いも、こんなにも波乱万丈、虐待の人生、殺されもせず良く生き延びたと自分をいとおしんでいることだろう。 

もう成長した息子と娘にある晩、親として働くことだけは一生懸命したけれど残念なことに財政的豊かな子供時代を二人に与えてあげられなかったことは残念に想うと話したことがある。これは私の正直な気持ちなのだ。
子供には生まれてくる前に親を選ぶチャンスは与えられない。子供達だって他所の両親の元に育っていれば又違う人生もあるかもしれない。しかし、秋夫君は嬉しいことを言ってくれた。  「自分の両親が離婚しないでいてくれたことだけで十分に感謝しています。今の時代に産みの親に育てられるなんて幸せなことですヨ。それ以上は何も要りません」これは以外な答えだった。

二人の子供の友人の六割は家庭崩壊の子供達だが、彼等は表面上は決して不幸を表に出さない。 彼等の間でも自分の環境を愚痴らない。隠すこともせず、いとも気楽な様子で自分の家庭環境を話題にする。暗くない。週末遊ぼうと誘っても 「今週末は出て行った親父の家へ行く週だから遊べない」そんな返事が戻るのもさして珍しいことではない。 ただ生き延びるだけである。ボヤイテも嘆いても子供達には何も出来ない。 両親の離婚に子供の思惑などなんの助けにもならない。 子供が別れないでくれとせがんで取りやめてくれる夫婦なら最初からそれほどの問題はない。 
裁判所で離婚と決定したその時から十八歳未満であるなら子供達が両親のどちらを選ぶからあまり権利がない。全てが離婚裁判の決定に従う。 
別れて行った片親に逢う日は、 週日、週末、学校の夏休み、祭日全て裁判所に定めらたとうりになる。そこには子供の意思は入らない。

母親側に引き取られてもいつ母親が次の男性を連れてくるか解らない。いずれ母親の再婚の日が来ても新しい父親が子供を連れて来るかもしれない。自分達だって連れ子になるのだ。まあ仲良くやるよりしょうがないだろう。寂しさに耐えて週末に産みの父親の住む家へ行けば父親にも新しい女性の姿が見える。あわよくば彼女には過去の結婚の連れ子が居ないことを望むだけだ。

ジェームスも秋夫と同じ高校生。 父親が小さな妹とジェームスを置いて一人家を出て行ってからもう久しい。 先日は学校の夏休中の夜のイベントが校庭で開かれたが、約束した父親は新しい彼女を連れて参加した。それを予測していた母親も競うように新しいボーイフレンドに参加を呼びかけた。 二組の嬉しげに寄り添うカップルの両親を眺めジェームスはニヤニヤするだけ。まだ若い両親は子供の思惑よりも彼等の気持ちが優先する。彼の母親だってまだ四十代。 これからの長い人生を思えばやはり寡婦のような人生は歩みたくないであろう。もう一花もふた花も咲かせてみたいのは女の性。

ジェームスは授業中我慢したが、どうも腹の具合が良くない。今朝食べたものが良くなかったらしい。 学校の医務室で少し休ませてもらったが少しも良くならない。こんなところで寝るより家へ帰ろうと決め教師から承諾をもらった。 この時間は母親が仕事だし、スクールバスは下校時まで動かない。 仕方ない彼は三十分の道のりを痛い腹を抱えて歩いて帰った。やっとたどり着いた自宅の前に母親の車が駐車してある。そして、もう一台見知らぬトラックが止まっている。冗談じゃないとジェームスは思った。 世慣れた彼は勢い自分の鍵を使ってドアを開けるような無粋なことはしない。子供だって嫌な場面は見たくない。 呼び鈴を押した。何度目かの呼び鈴で母親もドアの向こう側で返事をした。「何方?」 
医務室のベットで休む代わりに自分のベットを願ったジェームスは、炎天下のドアの外で母親がドアを開けてくれるまで三十分待たされた。

夏休みも終わりの日曜日、ジェームスの妹は昨晩から友達の家でのスランバーパーテイー。彼女は まず夕方にならなければ帰らない。 母親がジェームスに映画に行って良いと言ってくれた。なんと映画代、パプコーン代もくれるという。 昨日からつづく雨が少し気になったが、暫くぶりの映画に彼はその提案に乗った。母親が運転して映画館まで来た時も降り止まない雨に、映画が終わったら電話をするから必ず迎えに来てよと念を押して建物の中へ向かった。
映画館は入場券1枚で上手にすれば幾つかの映画が観られる。わずかの時間差で部屋を違えて上映しているから、一旦入場すれば切符をしらべられることはない。 どのドアに入って行こうが自由だ。 ジェームスも最初から二つ三つの映画を観るつもりで来ている。 しかし、雨音が激しくなり館内に居てもそれが聞えるようになると観客も一人二人と帰る様子。館内放送が始まり、映画館の従業員の帰宅安全の為に映画の続行を止めると放送がありジェームスも他の観客と外へ出された。

早速ジェームスも母親に電話をして迎えに来てもらよう頼む。
彼女は言下に言った。家の近辺も水かさが増し運転する車が危険のため少し水が引くまで待つように。 サテどうしよう。 雨の勢いは少し和らいだが水は自分のくるぶしまである。 秋夫に電話をした。そっちは水が出ているか? 我が家の近辺は水は出ない。少し高台になっているから。そこでジェームスは秋夫の家へ向かって歩き出した。
一時間後にずぶ濡れのジェームスが秋夫の家にたどり着く。 乾いた秋夫の洋服に着替え、キッチンでサンドイッチ食べ、ヤレヤレ、そこで母親に又電話をして自分の移動位置を知らせる。
二時間後もう雨もすっかり止まり、水もドンドン引き始めた。 太陽も顔を出し雨台風があったなんて忘れたような一変した天気に二人の高校生は遊びに夢中だが、気が付いて見たら今だ母親が迎えに来ない。 もう秋夫の家へ来て二時間、そろそろ夕方も近く彼もいい加減家に帰りたい。 あれから二度も母親に電話をしているが返事は同じで、まだこの近辺は水があると言う。

外も薄暗くなり、秋夫の頼みで私はジェームスを送っていくことにした。乾いた道路を走り、彼の家の前に来て私達が見たのは母親の車とトラックが家の前い止っていて、どうひいき目にみてもこの近辺も水かさが増したとは見えない。たとえ床上浸水の状態でもあのトラックなら難なく迎えに来られたのにと想うとなんともジェームスの顔が見られない。 
「ジャーまたナ、 オバサン有難う」とジェームスは車を降り自宅の呼び鈴を押していた。

帰路わたしは息子に聞いてみた。ジェームスはお母さんのあの無責任をどう感じているの?
しかし返事は意外であった。彼にしてみれば少しも無責任ではないという。 後二年、十八歳になって大学へ行くときに彼は家を出て、それからは帰るつもりはない。 大学はアパートか寮に入り、その後は就職して「ハイお母さんお父さんさよーなら」のつもり。その後の為にもやはり息子としても早く母親に次の男性を見つけてもらいたいと気にかけているそうだ。  寂しい一人住まいのお袋は困るって。  ただ彼が気にしているのは、お母さんの男性の趣味がもう少し良かったらいいのにと気にしているそうだ。
  
「子供は見ている」そんな題名の映画があったかしら。

2007年8月14日火曜日

パートタイマー

車の免許証は手に入ったが秋夫君もガソリン代を稼がないことには車は動かない。  車はママのを使えるが、ぶっ飛ばす車のガソリン代まで親がかりとは少し無理だろう。 そこでアメリカの高校生は仕事を見つける。 彼等の父親の時代は近所の家の庭の芝刈りが結構な収入源だったが、一時期はベトナム難民がグループになって仕事を始めていたが何時の間にかそれがメキシコ人の仕事に入れ替わっている。 グループの一人がわずかの英語を話すだけで仕事は成り立つ。 客が余計な仕事や文句を言っても、「言葉ワカリマセーン」でおしまい。 彼等はトラックに数台の芝刈り機や諸々の工具を積み込み4人5人とグループになって各家庭のドアを叩くようになれば、一匹狼の高校生たちでは太刀打ちできない。高校生が二時間かけてする一つの庭の芝刈りを四人の男が二十分で済ませ、隣の庭、またその隣の庭と大量生産並で芝を刈っていく。そこで少年達は身分証明証(ID)提示と尿検査の必要な職場へと流れていく。故にアメリカの若者は十代から所得税、失業保険税、老後年金を払い始める。
 ハンバーガー店、レストラン、 グローサリー(食料品が主なスーパーマーケット)の店員、薬局の店員、ピッザ店、などなど仕事はやる気があればいくらでもある。


秋夫も二流のレストランのバスボーイから始めた。 客の食後のテーブル掃除と皿洗いである。一時間5ドル、夕方から閉店まで、週3日私が仕事から帰宅すると待ってましたと私の車に飛び乗りセッセと稼ぎに行く。社会勉強の第一歩。 お金の有り難さと社会の理不尽さも一緒に勉強してくれる。高校生や大学生のする仕事には小売業の客との接触する仕事が多い、彼等には良い勉強である。 早くに職場の嫌がらせや、客の横柄な態度や理不尽を嫌になるほど見せられるわけだ。しかし客あしらいを悪くすれば即時首である。 次の日からの職探しを考えたらやはり言いたい言葉も飲み込んでニコニコすることを学ぶ。パートタイマーには職の訓練はするが、客の扱いに関しての訓練はしてくれない。 皆自分で覚えるのだ。 レストランで仕事をして客扱いが悪ければチップは望めない。 グローサリーで客と問題を起こしたり、相手に不愉快な思いをさせれば客は直ぐに支配人に報告する。普通苦情三度で職を失う。店によっては三度まで待ってくれない。
このように現場を見ながら社会勉強をする、その間に一生涯こんな仕事をしていたくないと思えば学校の勉強に身も入るというものだ。

若いときに要らぬ苦労をさせるよりも子供はおっとりと育てたほうが良いという考えもあるだろう。でも自分が痛みを感じるから人の痛みも解るという育て方も又一つ。
  
自分の子供が社会の端で仕事を始めるようになると、親自身も少し社会に目を向けることも学ぶようになる。 ピッザの配達に、「遅かったわね」という代わりに「有難う、ご苦労さん」と言葉も変わり、レストランでテーブルや床を汚しても、「悪かったわね、ごめんなさい」と掃除をしている店員に自然に謝れるようになった。 

自分の息子がアルバイトの年齢になるとは、彼の友達も同じである。 グローサリーストアーで大きなリンゴを選りすぐっていたら店員が後ろから「秋夫のお母さんでしょ こんにちは」と声を掛けられる。
買い物を車に積み終わり、店員にチップを渡すと「秋夫のお母さん有難う」と来る。チップの額を気にしてこちらはドキッと来る。近所のレストランにも友達があちらこちらで働き初めているから気が落ち着かない。
 
先日主人と二人で食事に出た。 翌日「ママのチップが昨晩の彼の最高だったって、サンキューって言ってたよ」本当に落ちつかない。高校の中で日本人の母親を持っているのは秋夫君一人なんだからやはり目立つのかもしれない。兎に角一度見られたら彼等は私を覚えてしまう。迷惑である。

まだ中学生の直美ちゃんが欲しい人形があるの、「たったの10ドルよ」と話すのを聞きつけて「10ドル稼ぐのに僕は何枚の皿を洗うか知っている?」と妹に聞いている。

世の中は金次第のアメリカ的子供の育て方には批判もあるかもしれない。 日本人が嫌やがるのがチップ制度だ。だが本当は日本の旅行者はその心配をする必要がないのだ。何故なら日本人がチップを置かないのはもう知られているから。 レストランで普通15%から18%のチップが常識になっている今日この頃だが、ウエイターやウエイトレスの基本給は普通2ドルから3ドルと低い。彼等はチップが収入が収入源と決まっている。サービスをして稼ぎ出す仕事だそうだ。コックや皿洗いはチップを受け取らないが基本給も彼等よりも高い。
これは高給レストランでも同じだそう。  そこでサービスが彼等の勝負となる。少しまともなレストランへ行くと殆どがウエイターで占められ、彼等は実に機敏に動く。 客の目線一つでサーッとテーブルに来て何か欲しい物はないかと聞く。週末などは彼等のチップは一晩で四百ドルを出ることもあるそうだ。医者やエンジニアーの卵、若い会社員が子供が生まれ妻が又仕事へ戻れるまで自分はウエイターをして副収入を得るなどといろいろある。
せっかく働いて見入りが無くては意味がない。サービスすることで収入が増すならサービスします。 それだけのこと。 その代わり客の側も気に入らなければチップの額で表現をすればよい。 もう二度と来るものかと思えば一銭も置かなくても誰も何も言わない。 客が不愉快だったのだと彼等が悟るだけ。
 
そこでいつも私が不愉快に思うのは、日本食のレストランだ。彼等はサービス料として18%をもう請求書に加えてくる。請求書の一箇所に明記してあるが、楽しい食事と快い酒による酔いと薄暗いレストランの光の中でそ明細書の項目などあまり読まない。そして明細書の最後にチップの欄が必ずあるからついつい其処に18%を加算してサインをする。 客がチップを置けばそれは黙って受け取る。サービス料とはサービスをしてもらわなければこちらは支払う義務はないのだが、たいしたこともせず請求されては困るのだが。 レストランへ入って食事を注文してそれをテーブルまでもってきてもらうのはサービスには入らない、問題はその後だ。 客が他に何を必要としているか? ナプキンは有るか、飲み物は有るか、他に何か注文したい品があるかと気を配る、結構な支払いをするのだ、今晩は楽しかったな、こうやって下へも置かないサービスもたまには良いものだと感じさせてもらわなければ 15-18%を出すのは辛い。それがサービスである。若いハンサムなウエーターが私の注文品を前に置き、今晩はごゆっくりとお楽しみくださいとニッコリされれば、前に座っている少しくたびれた連れ合いがチップを置くのに文句など言わない。  

この街の日本食レストランは、チップを全部集めてキッチンのコック達と一緒に頭割りで分けると聞く。自分のサービスの見入りが全部彼女達に行くのではない。それゆえか、まず日本食店のウエイトレスのサービスを期待しないほうがよい。アメリカのレストランでステーキの焼き方が悪いと突っ返すことは出来る。 レアを注文したのにこれは焼きすぎだから困ると言えば焼きなおしてきますと注文とおりのステーキを持ってきてくれる。
日本食のレストランで気に入らないからと返すと「キッチンに持ち帰り別のを持ってきますが、この品の料金はチャント頂きますよ」と恥ずかしげもなく言う。誰が一食しか食べないのに二食分支払うか、結局それならいいわよ「食べればいいんでしょう」となる。
寿司を注文したが、何となく幾つかの握りの上に乗っている魚の鮮度が悪そう。ウエーターに理由を言ってこれ食べられないはといったら、あーそうですかと私の皿から取り払ってくれた。 しかしそれだけである。 一緒にいた友人が、別のお寿司をもってこないの?と聞いたら? 「あのー嫌だったんでしょう。 ですからとりはらったのです。当店では品物の換えは致しませんといわれた。 こうなると怒りなどは湧かないおかしくて笑いこけた。 でもサービス料18%が請求書に加えられていた。 
小倉アイスを注文して、上に乗っているアイスクリームはいらないから取りはずして欲しい。かき氷とあんこだけにしてもらえないかと頼んだ、勿論アイスクリーム代は払いますと言ったが、 小倉アイスにアイスクリームがのって来た。何故と聞いたら、小倉アイス程度に特別注文は受け付けませんと言われた。

最近の話である。その日は直美ちゃんの新しいボーイフレンドに日本食を紹介したいという彼女の希望から起きた。もう食卓にはお寿司に天婦羅、焼き鳥、茶碗蒸と一般的な日本食が並んでいた。本当はおでんも欲しかったがこの街でおでんは中々見つからない。元気な若者はいくら食べてもまだ済ました顔をしている、どうやら底なし沼のような腹を持っているらしい。 そこで鰻の蒲焼をと考えてメニューを見たら「うな重」としか書いてない。ウエートレスに鰻とご飯を別々に注文できるかと聞いた、返事は出来ません。  それでは、うな重を注文するから上の鰻はお皿に載せて、ご飯はお茶碗にいれて下さいなと頼んだ。もちろん出てきたのは「うな重」である。そして山椒の粉を下さいと言ったら黒胡椒が出てきた。これもれっきとした日本食のレストランである。
しかしウエートレスは韓国人だという。 それもまだ英語の出来ない女の子。メニューを指で指し番号を書き取るだけの仕事。日本語もダメ、英語もダメではどうやってこちらの希望を知らせることが出来るのだろう。経営者が最初から、メニューの中のものだけを黙って注文してくれと意志表示しているだろうか。 
   

2007年8月4日土曜日

ドナルドの場合

私たちは彼をドニーと呼ぶ。長身で細身、もう五十代になっているかと思うが中年肥りもせず中々姿の良い男である。彼は新しい奥さんと時々日本料理屋へお寿司を食べに行く。日本酒も好きで酒屋で見つけると買って自宅で呑むが何となく雰囲気が出ないとボヤク。目の前に寿司がないと呑んでも美味しくないそうだ。アメリカ人には酒とお酒のおつまみという習慣がないから、箸でししゃもの焼いたのつまみながらという楽しいことは知らない。誠に残念なことである。

 そこで我が家が時々人を招いて「手巻き寿司」をすると聞き、彼は「自分と妻を招待した」これはアメリカ語的言い方なのだが、日本語では「謎をかける、何となく催促をする」というが、英語では He invited himself と表現する。なかなか面白い言い方だと思う。

彼は精密工作機の技師。今の時代に遅れをとらじとコンプユーター導入の研磨機だ旋盤だと大型機械を数台購入して請負仕事をしているが、人の会社の工場の一箇所を借りて営業している。 経理一般もその会社を通し彼の名前も収益も表に出ないように世の中から隠れた生活をしている。

十年前にドナルドはこの街で精密工作店を経営していた。
家庭には双子の可愛い娘もあり、妻と四人で平穏な毎日であった。
彼の妻は二人の娘に手が掛からなくなってから自分自身も学校に戻り、念願の女性弁護士を目指した。司法試験もとおり、就職先はこの街でも大手に入る「離婚訴訟専門弁護士団体事務所」。瞬く間に彼女は頭角を表し事務所ではやり手の弁護士になった。 彼女は仕事に励み、経験を積み、 いずれ独立して自分の会社をと希望している。
そして或る日彼女は夫のドナルドへ離婚の申し立てをした。彼女は仕事が楽しくなり家庭の妻をもうやっていられないと思った。

脳天をドカーンと叩かれた気持のドナルド、理由を「性格の不一致」と云われ己の過去を一生懸命に考えたという。何処で自分は間違いを犯したのだろう。何時自分は妻に不愉快な思いをさせただろう。 覚えていることは仕事が猛烈に忙しかったこと。やっとここ数年営業が上向きになって来たこと。やっと家族一緒に休暇を取れると心待ちにしていたことだけだった。

いつの間にか立派な弁護士に変身していた妻は意味不明な法律言葉を並べ分厚い書類を取り出し、署名を請求する。そして、「私を自由にしてくれ」と懇願する。
ドナルドは友人の中から急ぎ弁護士を探し助けを頼むが畑違いの弁護士では経験のない離婚訴訟にウロウロするだけで少しも頼りにならない。

裁判所からの呼び出し来た。
一歩裁判所の中へ入り彼はもう一度大変なミスをしていたことに気が付いた。

妻の母親、ドナルドの姑はこの街の司法検事だったのだ。 離婚裁判は陪審員裁判ではない。 裁判官と双方の弁護士で成り立つ裁判である。 そして妻の弁護士と共に司法検事の姑が同席していた。 
ドナルドの財産目論見書、営業の経理内容の書類、向こう十年間の収益見積り書など自分でも知らない彼の全てが裁判官の手元に渡っていた。 

妻側の要求: 二人の娘は妻のもとで養育する。それは子供の生活環境を変えない為、家屋敷は妻と子供が取る。

結婚後の共同財産は法律によって半分は妻の取り分。
ドナルドの経営する会社は妻との共同名義ゆえ、権利の半分は妻へ、それを妻は即時現金での支払いを要求。
離婚後の彼の収入の半額は二人の娘が十八歳になるまで養育費として支払う。
ドナルドが会社経営を続けるとして技術者としての収入を見積もって向こう十年間の利益の半分を妻への慰謝料として支払う。
「その査定金額二百万ドル」
その時ドナルドは全ての戦いを諦めた。裁判官と司法検事の密着を考えると勝てる目算のない戦いはする必要なし、彼は一切の要求を受け入れた。
「査定金額二百万ドル」彼はこれが姑からの案であることを知った。彼女は娘に満足な結婚生活を与えなかった婿を完全に抹殺することに決めたのだ。 これからどのように彼が頑張ろうが、個人企業の機械工場がこれだけの借財を荷っての営業は不可能である。


数ヶ月後、ドナルドは自分の精密機械工作店を売り、半分を妻に支払い、残額で三十年月賦の家屋のローンの支払いを済まし家を彼女達に手渡した。

妻が或る日離婚を申し立てた日から半年後、ドナルドは会社をなくし、家をなくし、妻も二人の娘もなくした。残された個人財産も半分は取られ、残りの半分を向こう数年間の子供達への養育費として手渡した。

無一文になった彼の手元に残ったのは、二百万ドルの元妻への借財と一匹の愛犬。その二つをトラックに乗せて彼はカリフォルニアへ向かって旅った。

サンヂエゴの地で彼は機械工として就職、家を持たず、アパートへも入らず、古びたヨットを借りそこに住み始めた。住居不定者になることが目的だった。少しでも稼いでは二人の娘へ送りつづけた。 自分が養育費滞納をした時の元妻の蔑みの言葉を可愛い娘達に聞かせたくなかったから。同時に住み始めたヨットを毎月少しでも支払い買い取らせてもらうように交渉した。他に何をする気もしない、暇を見つけてはそのヨットの修理をするのが唯一の楽しみ。

五年の歳月が過ぎた。二人の娘から嬉しい便りが届いた。双子の娘の一人は陸軍士官学校ウェストポイントへ入学。専攻はエンジニアリング、十八歳になり養育費はもう要らない。

それから二年。ドナルドは新しい妻と一緒に又この街へもどって来た。相変わらず何も持たず、おんぼろ車を転がしながら、又始めからやり直しだと言う。だがサンジェゴの港には彼が五年間で造り変えた大型ヨットには五万ドルの値で買い手がついている。

四年後の現在、ヨットの売上金を元に又彼は精密機械を買い始め、二百万ドルの借金はまだそのままだが、昔の友人知人に助けられ、昔の客も噂を聞いて彼のもとへもどって来ている。

長い間別れていた双子はいつの間にかに父親の新しい生活の中へ入って来て、昨年のクリスマスには婚約者と共に現れわれ、「お父さん、私たち明日のクリスマスにこの家で結婚式したいのお願いします」とドナルドを慌てさせた。

娘の一人はウエストポイントを卒業後、最近ドナルドの家で結婚式を済まし、二ヶ月後には将校としてイラクへ出兵、現在イラクで戦闘中である。。
もう一人の娘も消防士として男性に混じってこの街の消防署に勤務している。
彼は我が家で手巻き寿司を口に入れながらニコニコと今の楽しみは毎晩イラクの娘へメールを送って、「生きてるか~?」と聞くことが日課だと言う。

2007年8月1日水曜日

ボーイスカウト 2 ジャンボリー

全世界のボーイスカウトの結集がワシントンの郊外で四年毎に開催される。
「ボーイスカウト国際大会」である。 二週間の長さで世界中の少年が彼等の情報、技術、親睦の交換をする。スカウトに所属する少年なら一度は参加したい大キャンプである。

この時までの歴代アメリカ大統領は必ずこの大会で世界のボーイスカウトへ向かって演説をするのも恒例のひとつ。又歴代大統領が皆少年の頃ボーイスカウトの隊員であったことも親しまれてきたひとつに加えられているのだそう。しかし、それもこの年までのこと、次期大統領のクリントンの時代になり、彼は隊員であった過去がなかったことと、そこ頃論争の最中だった「スカウトの同性愛者参加禁止」にたいするクリントン氏のプロテストとして始めてアメリカ大統領の演説は中止になった。

十四歳以上の隊員が参加を許可される。 十一歳から十八歳で終わるスカウトに四年に一度の開催ではどの子も参加は一度しか機会がないことになる。今年を逃せば秋夫君ももうチャンスはない。経費は一応自己負担となる。飛行機代、二週間のキャンプ費、いろいろなイベントへの参加料、世界から集まるために突発事故への対策として保険料がバカ高い。わずかな金額では参加できることではない、そこで個人負担を少しでも少なくする為に、各隊ではあちこちに援助を求める。放課後や週末に少年達が制服を着て各商店、企業へ寄付を募りに歩く。

ある旅行社を営む婦人が隊に条件を出した。  二年ほど手入れをしていない空家を売りに出すつもりだが、その家の庭の手入を隊員がしてくれたら一人分の飛行機の切符代を出すと提案した。 くじ引きの結果それが秋夫君に来た。 

週末秋夫君と父親は芝刈り機、エッジャー、チェインソー、ウイールバロー(一輪の手押し)シャベル、鎌、と考える限りの道具と水とサンドイッチを持って出かけた。

住宅街を離れてだいぶ運転するが目的地にはまだ遠い。旧道を南に走って暫く進むとほどなく目指す門が見えた。野中の一軒屋。どうりで二年も手入れをしなくても市から文句が出なかったわけである。車を降り、門の内へ一歩?? 庭がない。ジャングルがあった。雑草は一メートルの高さ。木と木は枝葉がお互いに絡まりもう森林と言いたい風景。 恐る恐る主人が手に持っているメモを見た。 広さなんと二エーカー。 
秋夫君真っ青になって「お父さん、僕一人じゃないよね。 お父さんも手伝ってくれるよね」とビビッテいる。  
少し青い顔をしていた主人も一つ大きく深呼吸をして

「さあ 始めるゾー」とチェインーソーを手にしてジャングルに入っていく父親の後を行く秋夫君がなんとも情けなそうで、そこに二人を置き去りにする私の胸は少し疼いた。

四週間の週末を通い続けて働いたが二人の男のする仕事ではジャングルは一向に人並みの庭には変化してくれない。この土地は亜熱帯で、雨が多く、太陽光線も強いため、木々の育ちは早い。 その間に肥満隊の予備軍だった主人は少しスマートになり、秋夫君は少し筋肉がついたようだ。

当の婦人が様子を見に来て自分の提案が少し過酷であったことを認め、一応仕事は打ち切りになった。

秋夫君はそれでも一人前の飛行機の切符代をスカウトの預金箱へ寄付することが出来た。

何キロも痩せ、体中傷だらけになり、風呂上りには救急箱へ手にして、あちらこちらとバンソウコウを貼っている主人がか細い声でぼやいた。 
「これで息子は飛行機の切符一枚の重みが解ったかナー」


犬の品評会の糞掃除、車椅子の人たちの集まりの奉仕、飛行機ショウなどいろいろなイベントの群衆整理、大会のテント張りとスカウトへの奉仕活動の以来は春先になると毎週のように来る。それを一つ一つ出かけて行く息子だが、今回ほど肉体を酷使した奉仕活動はまずなかったはずだ、良い思い出になってくれればいい。

二週後にはこの州から参加するスカウト達のチャーター機はワシントンDCへと飛び立って行った。ちなみにこの時のアメリカ大統領は父親のブッシュ大統領。 秋夫君はしっかりと彼の演説を聞いて来た。

2007年7月25日水曜日

ボーイスカウト 1

六歳で始めたカブ スカウトから ウイーブロ、ボーイスカウトとあれから十一年。 十八歳で終わるまでにイーグル(最高ランク)を早く取らなければと少し秋夫君は忙しい。いろいろと経験を積まなければ貰えないランクだからだ。

冬はクリスマスの後、夏は学校の夏休みに開かれる二週間の大キャンプ。これは遠距離の大きな牧場まで行く。私も家族参加の日にこのキャンプ場へ一日参加をした。あまりに大きキャンプ場ゆえ食事の場所と少年達の活動の場所が大きく分かれていた。日に三度の食事をスカウト達は二十分も丘を登っていく。 勿論一日参加の両親達も同じ。待ちに待った昼食の鐘。 誰もその丘のことを教えてくれなかった私は息子の後ろを勢い良く歩き出した。その屈辱の丘を私は登りきれず二人のスカウト少年に手を引っ張ってもらい、息子に後を押して貰ってのテント到着だった。 でも私はまだ良いほうだ、それでもスカウト達と一緒に食事にありつけたのだから。 中には登りきれずに、息子から食事を運んでもらった母親も居たそうだ。

普通は第三週の週末二泊のキャンプは六十マイルほど離れた林の中。息子は数えること四十五回のキャンプ経験者になっている。 今年は彼も小隊長。十人のスカウトの面倒を見ている。 キャンプ出発前の隊長は週末の献立を決め食料の買出しもする。 経費は頭数で割り、見送りにくる父兄から支払ってもらうのが彼のやり方。後払いの徴収は難しいことをもう彼は知っている。

トラビスは秋夫君と高校の同級生。彼は母子家庭の子。母親は離婚した夫を信じられなかったと、彼が置いていった息子も決して信じない。 別れた夫への恨みを残された子供へ転換する女性の一人だろう。親子の摩擦は傍目に見ても時々すさまじい、それゆえか時々週末は我が家に泊まりに来る。

私が夕食の買い物から帰ると黙って車のトランクから食料品を出し台所まで運ぶ。食事が始まる前はゲームを止めて戸棚から食器をだして並べる。食後はテーブルのかたずけ、極めつけは翌朝自分の寝たベットのシーツをはがして洗濯物の籠へ入れて帰っていく。 何処から見ても十七歳の少年とは見えない。

トラビスの母親が暫くぶりに今月のキャンプへ行っても良いと許可をくれた。 金曜日の放課後急ぎ帰り彼は準備を始めた。バックサックに荷物は全部入れた。制服も着た。後は家を出るだけと、その瞬間ドアが開き母親が帰宅した。彼女は離婚後公認会計士のライセンスを取るために金曜日は仕事の後夜学へ行くはずの日だったが帰宅した。そして真っ直ぐにトラビスの部屋へ入り、彼のベットの下へ手を入れた。彼女が取り出したのはもう採点も終わっている試験答案紙だった。すでに紙くずも同じだ。しかし彼女はいきりたった。 ベットの下にあるとは、私に見られたら困るからでしょう?何故隠すと怒鳴る。試験の点数はそれほど悪くない。そんなときトラビスは決して弁明しない。 その価値がないことは十分知っているから。 彼女は今日気分が悪いだけなのだ、だからトラビスにも楽しんでもらいたくないそれだけのこと。
トラビスはキャンプ不参加となった。

一名隊員が抜けた。 秋夫君はトラビスの分の集金が出来ない。 良くある話だ。 買ってしまった食料品は結局他の隊員が食べるのだからと彼はトラビスの分を残った頭数で他の隊員へ振り分けて集金した。一人頭セイゼイ十ニー三ドルの額を九等分しただけのことだ。

キャンプが終わって一週間。隊員の一人の母親がそれを知りスカウトの大隊長に報告した。秋夫君の処理は一人の隊員の迷惑を他の人に押し付けたというのだ。
「ママ、悪いことをしての結果なら僕はトラビスへ請求出来るけど、あれは彼の母親の嫌がらせなんだからそれでも請求すれば又トラビスの母親がヒステリーを起こすだけだよ。僕出来ないよ」
しかしかの母親は後に引かない。 リーダー剥奪をすると秋夫君に電話で脅かしをかける。世の中どうでもよいことに猛烈に怒りを持つ人が居るらしい。
秋夫君はこの母親の怒りの理由を知っている。 彼女の息子がキャンプ場で怠け、鉄鍋の底を洗うはめになったからだ。それを息子から言いつけられた母親は我慢が出来ない。
「アナタが鍋洗いさせたの?」と秋夫に聞いてみた
「そうだよ、彼どうしよもない怠け者だから三つほどの鍋を洗わした。 彼はいつも自分がやらなければ誰かがしてくれるといつも決め込むから。 しかしママ、女って嫌だね」 
スイマセン

2007年7月19日木曜日

直美17歳 つづき

直美ちゃんはやはりいつかは結婚したいそうだ。子供は二人が望み。誠に宜しい。
子供を産むとなれば必ずある産前産後の休み、その後3歳保育園へ行くまでは母親の手で育てたい。子供の成長過程を見守る喜びを味わってもらいたい。その間少なくとも4年は仕事から離れるとして、その後の職場復帰の可能な仕事。子供の成長に合わせた下校時に母親が家に居る生活は情緒教育の上出来ればこれも必要である。それから、まだ早いが、将来の娘の伴侶の仕事のことも考慮にいれなければなるまい。 間違っても単身赴任などと家庭崩壊の予備軍のようなことも困る。妻がいさぎよく職場を変えることの出来る仕事。 やれやれこれは大変な事である。

そんなにまでして「働く女」にする必要があるのか?そうではない。一人の女性として、自分の専門職を持ってもらいたいのだ。所詮人生は計画通り希望通りには進まない。いつの日か過去への悔恨を引いて、あの時こうしておけば私の人生はもっと違っていたのに。どれだけの人がそう呟いているだろう。 だから、出来るときに、選択の機会が恵まれている今考えて見たかった。どうせ一度の人生、やるだけやるさ。

ライセンスの必要な職業。これが私の結論。 ライセンス保持なら、それを更新しているかぎり休職しても、復帰は難なく出来る。 

まず弁護士。 娘は職業選択テストを何度か受けたという。結果は何度受けても「弁護士」が最適と出る。無口で議論を極端に嫌うこの娘がと不思議。だが弁護士への道は大きな障害がある。彼女の父親である。彼はゴキブリの如くに弁護士を嫌う。 「世の中の弁護士を一列に並べて、端から連発銃で撃てば世の中が住みよくなる」と恥ずかしげもなく言う。 同じ屋根の下でこういう同居人は困るであろう。
しかし一がいにその意見を責められない。現在のアメリカに「正義」はない。 正義とは金の力である。弁護士社会が国から正義を取り去った。少し前のタイム マガジンに統計が出ていた、世界の中でもっとも弁護士人口の多い国はインドだという。それ故にインドの国からは生産物は出ない。 物を生産する前に理屈をこね、搾取を考え、訴訟を生産するから。己の国の人口増加や貧困を是正する以前に、豊かな国を批判し、融資を引き出す。しかしもし誠の正義が行われている国がこの世に存在しているならば私はその地へ移りたい。今だ開発途上の原始的な生活に近い国はお断り。内乱で自国民同士が殺しあう国もお断り。 近代国で、教育程度が多少あり、多少豊かで、電気もガスも水道もあり、娯楽もあり、食料の豊かな国で、まだ「正義」が罷り通っている国があるだろうか?
貧困の国には正義があるのだろうか? 原始的な国には正義はあるのだろうか?もうこうなると、「正義」が何か解らなくなる。  
又娘の調査によると、女性弁護士の大半は先へ進むほどに男性ホルモンの分泌が異常に増えるのだそう。闘争心を養い、議論を由とする訓練の結果男性的になるらしい。
知り合いの男性弁護士が偶然に訴訟相手の女性弁護士と裁判所のドアでかち合った。彼はドアを開けて、「どうぞお先に」と示したら、その女性弁護士が「ドアは自分で開けます。私を女性と思わないで下さい。私を弁護士と思ってください」と怒られたそうだ。それは困る。私は娘を産んだ。私の可憐な娘が歩く前には数多の男性がドアを開けて欲しい。

警察官: 小粒の娘がピストルを腰に大男の窃盗犯を追いかけて、さてどうするかだ。

社会福祉官:これは警察官より危険な仕事だ。武器を持たず貧民街での排他的な生活をしている人達の中へ入ることは危ない。 世の中は情熱と愛情が通じないヤカラが多すぎる。理屈や夢では成り立たないのも人生。現実を見つめましょう。

教師: これは即座に却下された。高校生までの生徒との接触はゴメンという。忍耐がないそうだ。
「ママ、教師って薄給でしょう?わたしお金欲しい」さよか~ 
 
医者: これはダメである。彼女は死体解剖の授業の前にモルモットやウサギの糞の掃除も出来ない。これは保証する。我が家に愛犬が居たときも、現在居る猫でも彼女動物の汚物の掃除ができない。やる気を起こしてそばへ寄っても ゲーッと始めてトイレへ走る。
子供が欲しいなどと言っているが、オシメはどうやって取り替えるのだろうと聞いたら、アラそのために父親が居るのでしょう?と来た。人を頼るととんでもない手違いがことを知ることだろう。この子がいつの日か母親になって最初に赤ん坊のオシメを取り替えるとき私は側に居てしっかりとその瞬間を見たい。その為には長生きをしなければ。

血を見ないで、手術もない、解剖もない医者家業があった。 精神科だ。夜勤も少ないだろうし、夜中の救急病院の仕事でもあるまい。それに、大学の講師の道もある。これならば子供の夏休み冬休みには一緒に居られる。
私の提案に直美ちゃんは考え込んでしまった。そうであろう、レストランでメニューの中から一品を選ぶのに二十分は必要な娘だ。十分に考えたらいい。まだ時間はある。

「それで、わたし結婚は何時するの?」やはり乙女心は結婚にあこがれるらしい。相手も居ないでどうして心配するのだろう。 
結婚はいつでもするが良い。相手が現れ、この人と思ったらいつでもするが良い。 ただ結婚が人生の究極としてもらっては困る。結婚で女の人生は止めてはいけない。家庭を持ってそれが幸せならそこに留まるがいい。家庭の中で時間が出来たら又自分の専門職にもどればいい。いろいろな事情で戻れなかったらそれも人生。兎に角娘には自分の将来に真剣に向きあって貰いたい。
まあこんなところが母親の望みであるが、さて選択権を持たない私は自分の出来る考えを提供はするだけ。 あとは娘がどの道を選ぶかは本人次第。 母親の私が進むのではない。考えてあげる以外に何も他にしてあげられない。 ただ自分の悔いのない道を歩んでもらいたい。

 

2007年7月14日土曜日

直美17歳

娘の直美から大学進学の相談を受けた。息子が大学へ進んだとき授業料の問題が出るまでは部外者であった私にはうれしいことである。さあこれは忙しくなる。

さて娘の得意性はなんだろうと考える。 運動神経は抜群に良い。水泳は6歳から始めて高校は水泳部に所属していた。 155センチの超小型の女の子にしてみれば、180センチにとどく大型の女子高校生も混じる部員の中で今迄良く頑張った。全て練習量のなせる業であったが、肩を痛め鎮静剤を飲みながらのレースには本人が限界を知って三年生で辞めた。ちなみにアメリカの高校は四年間。



まずお転婆である。5歳の時、家の前で秋夫君が数人と取っ組み合いの喧嘩をしているのを見てお兄ちゃん 危うしと家の中へ駆け込み、東京のオジイチャンがくれた木刀を持ち出して振り回し男の子達を蹴散らかしたのも直美ちゃん。自分の身長より長い木刀を振り回す姿は中々傑作だった。


6歳でバレーとピアノを始める。 7歳のバレーのリサイタルの時丁度東京のお婆ちゃんが来ていた。 「白鳥の踊り」むろん直美ちゃんたちは湖畔で羽根をバタバタする白鳥の群れのはずだったが、お婆ちゃんは「ダチョウの踊りだね」と批評した。
ピアノの才能はない。まず音感がない。音楽の才能はお兄ちゃんに持っていかれたようだ。秋夫君はいつもピアノの先生から、「秋夫ちゃん大好き」と言われていた。今でもギターは楽しんでいる。  彼のアパートへ行くとベットの横、食卓の横とテレビの前のソフャーと三本のギターが立てかけてある。 毎日の生活の中でその三箇所に必ず座る、その時ギターを抱え込んでのテレビ観戦や食事に入るのだそうだ。
「お兄ちゃんは芸術センスは私の分もママから貰ったけれど、脳みそは忘れていったから私が二つ持て出てきた」と嬉しげである。
だから成績は良い。まあアメリカの学校は高校まではあまり勉強しなくても「A」が取れるようになっている。

それにつけても想いだすのは私が高校三年生のあの日だ。
結婚した姉が実家へ遊びに来ていた土曜の午後だった。 二階から降りて来る途中で自分の名前が聞えたので足を止めた。姉が母に、高校を卒業してからの妹の進路を聞いている。 
「どうって、大学へやるよりしょうがないでしょう。 だってあの子雑巾一つ縫えないのよ。どうするの、どっかの大学へ入れて、卒業したら適当なところ見つけて嫁にくれるよりしょうがないでしょう」
母の言葉、ショック、「嫁にくれる」とは何だ。結婚ではない、嫁にくれるという言葉の表現に驚いた。 女性が女性蔑視の先方を荷っている。世間の母親達が女性の向上心を阻止している。 自分の意志で人生を選ばず、自分の力で生活することを由とせず「女は三界に家なし」自分達で造った言葉に自分達で合点している。

その昔から、女医、産婆、教員、看護婦、賄い婦 女性でしか出来ない仕事はいくらでもあった、皆働いてきた。農家の主婦、商家の主婦、家業を手伝いながら子育てもする女性はいたが、世にサラリーマンの言葉が出来たときから彼等の妻が家庭に残り、婆抜き、とか昼寝つきなどという言葉が生まれた。そして主婦とはこう在るべきという気風を広めた。 母の実家は土建屋だったそうだが、兄弟姉妹全て商売人の道を進んでいる。 料理屋、八百屋、米屋(精米所、)工務店、何でも在りだが、どの伯母達も独楽鼠のように働いている。しかし給料取りと結婚した母は、自分の結婚が一番幸せだと言う。何故なら働かなくて良いから。

月曜の朝になると母が出勤する父の財布の中をのぞき
「お父さん、お小遣いお財布に入れておきましたよ。  先週はだいぶ遣いましたね、何を買いました?」
「俺は何も買ってないゾ、昼飯食っただけだ」
「そうですか?」
だが父は昼間呉服屋が大風呂敷を担いでこの家に現れ、その都度母の箪笥の中の着物の数が増えているのを知らない。
時折母の外出姿を見て父が
「オイ、その着物きれいだな、新しいのか?」そんな単純な言葉へ
「お父さんはそんなこと知らなくていいのですよ。うるさいですね」
「ソーカ、わるかったな」でおしまい。
 
私の知人が食料品店で店員のアルバイトをしている奥さんが居る。 彼女の夫は昼間はサラリーマンだが、夜間の短大で週三日講師のアルバイトをしている。 その夫が自分の余録の収入で魚釣りの道具を買った。彼女は猛烈に怒った。自分に相談しないで無駄遣いをしたという。彼女はその余録で二人で旅行を考えていたのだ。
夫は、これは自分のアルバイトの給料であって、昼間の仕事の給料は全部君の手元に行くではないか、それに君のアルバイト代を遣ったのではないと弁明したが、エスカレートした彼女は、男が妻のアルバイト代に気を回すとは情けないと烈火した。
「私が働いたお金は私の物です」
その彼女の息子が結婚して共働きをしている。若い二人は給料を全額出し合って一つの口座へ入れて生活しているのを見て、彼女は愚痴る。 「息子が可哀想よ。あの子の給料の方がずっと高額なのよ。不公平だと思わない?」
彼女には娘が居る。現在婚約中。知人はその娘に知恵を授けている。 
アノネ、結婚したら決して給料は彼のと一緒にしちゃダメよ。貴女のは別口座にしなさいよ。 生活費の中へ加えてはダメよ。自分の給料は自分の物としっかりともっていなさい。  女性とは摩訶不思議な生き物なり。

 

2007年7月10日火曜日

お向かいのテイラーさん

お向かいに住むテイラーさんと我が家の主人は同じ場所に猟場のリースを持っている。これは双方の連れ合いが考えたことで、猟場へ間違っても同行者が居ないからと一人で出かけないようにとの愛情深い配慮からの結果。年齢に関係なく一人で人気のない森の中や林でキャンプをして心臓麻痺だ怪我だと騒いでもどうしようもない。いつも二人仲良く出かけて行ってもらわなければと、猟場の下見には私たち女性軍も同行しての調査の結果現在の場所になっている。
片道四時間、300マイルほどの距離。日帰りは少し無理な場所だが、あまり街から近いとメンバーの数も増え、これはいろいろな面で危険になる。

夏場は猟をしないが、その代わりする事はいろいろある。自分が立てたブラインドの近くに鹿がたむろするように仕掛けなければ「イザ鎌倉」と云っても何にもならない。まず射程距離内に大きな塩の塊を埋め込む。動物が習慣的に塩を舐めにくるように仕向ける為だ。そしてトウモロコシも近辺にばら撒く。人によっては高いポールを立て、巨大なバケツを上に取り付け、その中に乾燥トウモロコシを入れる。 鹿が塩を舐め、側にある棒に頭を寄せ角をこすり始めると上のバケツがゆらゆらと揺れて、開けておいた穴から餌がパラパラと落ちてくるのだそうだ。中にはロープを下げて、そのロープを鹿が引っ張ると餌が落ちる仕掛けを考えている御仁も居る。鹿がそこに立つと足元のレバーがクリックして上に仕掛けてあるバケツの底が開きトウモロコシがばら撒かれるのなど、いろいろ考えているようだ。
鹿の家族がいつも同じ場所に塩を舐めに来て、側に立っているポールで角を磨き、ついでに落ちてくる餌を食べ、それから数歩歩いて紐を引っ張り又餌を食べてから自分の場所へご帰還になるのだ。そんな仕組みを知って餌を我が物にする頭脳明晰な鹿が冬になるとどうして人間様に撃たれるのかと理解に苦しむが。 多分鹿の人口?が増え過ぎて、口減らしが必要になり、「楢山節考」の如く哀れにも年寄りの鹿がライフルの前に身を投げ出すのだろうか?

一年間のリース代。 幾度も出かける大型トラックのガソリン代、夏は暑いし、シャワーを浴びる必要があるからと泊まる近場のモーテル代、大袋で幾つも買うトウモロコシ代、毎年更新される猟のライセンス代、冬場になってのお出かけ代、獲れたときの肉を解体してからの肉屋の加工賃、もう一頭の鹿肉の値段は牛の霜降りステーキ肉に値する。それが男のロマンなのだそうだ。

ブラインドの補正や修正。ペンキの塗り替え、時には新しく作り変えたりも夏場の仕事。
お向かいのテイラーさんもその年は新しいブラインドを作り猟場へ持っていくと決めた。週日の夜と週末を利用して毎日ガレージで大工仕事に忙しい。
まずブラインドの仕上げ。見張りの穴、出入りのドアと工夫に余年がない。小さな箱に自分の体を押し込めて、座ってみたり、寝転んでみたり、ライフルを構える格好をしたりと本当に忙しい。それが終わって次は櫓造り。 二メートルの高さにすると決めた。毎晩夜になるとお向かいから楽しげな大工仕事の音が聞えてくる。ご近所の旦那軍も暇さえあれば集まって、あーでもない、こうーでもないと男性軍も中々かしましい。

或る日の土曜の朝、まだ朝食の最中にテイラーさんがドアをノックした。
「チョット来てくれないか? 櫓が昨晩でき上がったよ」
喜んでいいはずのテイラーさんがあまり嬉しげでない。
どうせなら思い切り高くしようとガレージの天井に付くまでの大型を造った。そう、櫓がガレージから出なくなったのだ。あまりの高さで横へ傾ける方法がない。傾けられなければ出せない。櫓はどちらにも倒れず四つの足を広げて中でフンバッテ居るそうだ。
「じゃ解体しなけりゃナ」
「しかし、あれを組み立てるのに一ヶ月掛かったんだ。 嫌だよ」
家の中で船を組み立てた男の話を彼等は知っているのかナー
     
     

2007年7月7日土曜日

初めての鹿狩り

毎年十一月第一週は鹿狩りの解禁日。可愛いバンビが孤児になる季節。哀悼の意を表します。
我が家の主人は自称ハンター。猟シーズンが過ぎると冷凍庫に哀れにも解体された鹿肉がソーセージ、ひき肉、ステーキとなって眠る。
娘の直美ちゃんは一徹して小鹿が可哀想と食さない。食卓に出されたものは必ず食べるのを躾と子供を育てているが、鹿肉に関しては私も大目にみる。「反対勢力」も意味のあるものなら、そこはそれ政府も考慮しなければいけない。

獲物を持ち帰った男達には鹿肉は牛のヒレ肉より美味らしい。大鹿を二頭も持ち込まれるとこちらは一年中何かと言えばそれを食卓に出すように強制される。 本当は懇願するのだが、鹿肉の嫌な私には強制と感じる。
カレー、シチューなど長時間煮込むが何故かあまりやわらかくならない。どだい脂のない肉は美味しくない。トンカツのように衣をつけて揚げたほうがいくらか食べられるが。一般に皆ソーセージをつくる。
 
我が家でも一度試したことがある。肉屋から腸詰めの袋を買い、豚肉と混ぜてひき肉にし、香辛料を加え、腸の中へ詰め込む。挽き肉器から搾り出す肉を破かないように詰めるのにはやはり練習がいる。ゆっくりと押し出して、ヤレヤレ一本、二本と出来たがそこまでで主人は台所から消えた。
「君もやってみたいだろう?」とエプロンを手渡してそれきり、この先がない。仕事だ、時間がない。疲れたと逃げるだけ。そして又週末が来るとイソイソと猟銃を持ってお泊りに行く。しかし、鹿肉一頭分の肉と大量の豚肉は冷蔵庫の中で出番を待ている。結局妻の仕事となり、生肉と血の臭いと戦いならがのにわか肉屋は頭が痛くなる。 最初からする気もないのが強制労働の果てのソーセージは日曜日の朝食に姿を表すとあの臭いが戻り食が細くなるのは致し方ない。

今年の解禁日には息子を同行することに決まった。ある大きな農場主からの招待で数人のハンターが集まり、冬に備えて農場近辺の鹿の数を減らす。冬場に食べる物が見つからない鹿が民家や農場を荒らすのは致し方ないが、やはり荒らされる側には彼等の理屈があるのだろう。死活問題だそう。しかしそこにもルールがある。 その季節によって雄が多いとき雌が多いときで規則は変わり、 普通一人のハンターは一シーズンで二頭までが決まり。月ぎめで牡鹿と雌鹿の獲る時期も違う。又獲れる牡鹿は角が付いている必要がある。 子供の牡鹿にも小さな角がある。そこで、角は普通の男性の結婚指輪のサイズほどの太さを角と呼ぶ。昔から猟は食べるだけ獲れというのが規律だから、友人が肉が欲しいと言うからとか、獲るのが面白いからとその季節で決められた規律以上をハントすることは禁じられている。

秋夫君の初めての猟。銃の扱いの再訓練、射撃場でのライフル射撃の練習、夜はガレージで弾造りの仕事。毎夜遅くまで薬きょうを並べ、鉛を溶かし、火薬を詰めてと父と息子の楽しい時は流れる。世の父親達が息子へ順繰りに伝えていく男の世界の習慣は見ていて微笑ましい。

解禁日が近ずくと男達は髭を剃るのを止める。 山男を装う為だ。 動物は臭いに敏感だからと猟場でアフターシェーブなどご法度。石鹸の臭いも彼等に悟られるそうだから無論シャワーも浴びない。
朝食には彼等はキャンプ場でコーヒーも沸かす、ベーコンも焼く、中には葉巻を吸う男も居る。その臭いはどうなるのだろうと聞いたが返事は来なかった。

髭だらけのハンターに混ざったヒョロヒョロの16歳の少年が一人前にお父さんのライフルを腰の脇に下げ、各々決められたブラインドへ消える。 二メートル近いやぐらの上に備えられた木箱。半畳ほどの広さの木箱に座ると目の高さの個所に二十センチほどの開きがある。そこから見張り、ライフルの突端を突き出す。人によっては木の上に登り待つ。 一時間、二時間、三時間と待つ間聞えてくるのは鳥のさえずりや子動物の走る音。秋夫君の父親がこよなく愛する静寂の時間。 

二日目、息を静めて待つこと二時間。牡鹿がヒョイと首を出した。 三十メートルほど離れたブラインドに居る父親にも見えた、彼は心の中で囁いた「息子よ今だ」秋夫君の一発 ズドーン見事に仕留めた。

最近では一般のハンターは獲物をそのままトラックに積み肉屋に持って行けば処理してくれる。一週間もして受け取りに行けば、ソーセージ、ステーキ肉と書き込んだ包みを手渡してくれる。しかしこのグループはそれを認めない。自分の獲物は最後まで自分で面倒をみる。秋夫君も荒縄で牡鹿を縛り、その端を肩にかけズルッ ズルッとキャンプ場まで引っ張る。大木の枝に鹿を吊るす。男達はその場に輪になり、父親がバックナイフを息子に手渡し皮剥ぎの作業に取り掛かる。
ビールの呑みながら男達は秋夫君に頑張れと声援をおくり最後に一人の男が鹿の後ろ足二本の真中にある突起物をしっかりと掴み下へ引っ張れと言った。素直にそれに従った秋夫君は牡鹿から最後の仕返しを受け飛び跳ねる。
農場主から、秋夫おめでとうとビールを一本手渡され、始めてのビールを瓶ごともらいラッパ呑みを許された。

2007年7月5日木曜日

わたし27歳

この時期に父親が東京で小さな運送会社を運営していた。 印刷会社の傍系で印刷物全般の運搬を受け持つ。 トラックの運転手は殆ど地方からの若者が多く、運転免許証を持たずに入社。最初は助手席で(これをアメリカ語で言うとショットガン シートというのをご存知かな? その昔ステージ コーチの時代に、馬車を走らせる人とその横に座ってショットガンを構えてインデアンの来襲に備えていた人。 そこで車の助手席をショットガン シートと表現することがある)荷物運びの補助をしながら会社が教習所へ通わせて一人前の運転手になる。

私営の教習所が一括して何人かの未来のトラック ドライバーを格安で引き受けるのだが、ある月父が、一人分の人数が足りないが、費用自己負担であるならグループの中へ組み込んでもよいと誠に良い話をする。
毎週土曜日の早朝東京のお隣の県へ直行。駅前にはミニバスが待っている。
若き未来のドライバー達は平均25回の練習で仮免を済ましハイ サヨーナラと鮫洲行きの電車に乗り変える。「これに将来のメシが掛かっているから」みんな真面目な男達。
一括前払いのお客さまにはそれがノルマだそう。それ以上居残られると業者の儲けが薄くなるわけだ。

回数を重ねること29回。 仮免テスト一回落ち。こっちも必死である。 もう一緒に居たお友達が誰も居ない。みんな「オイ、頑張れよ」とワタシの肩を叩いて置き去りにして行った。一人残されたのだって辛いのに無情にも営業のお兄さんがワタシを事務所へ呼びつけた。
「アノネー、アンタいつ此処を出て行ってくれるの? こんなに長くいられると商売にならないんだよね、仮免落ちたんだって、困るんだよ」もう少し違う言い方があるだろうに、傷ついた。
―すみませんーと言えば少しは可愛げなのだろう。
窮鼠猫をかむという言葉があるのをコイツは知らないらしい。
「仮免は私が落ちるんではありません、この教習所が私を落とすんです。出て行ってもらいたかったら出して下さい」口からポロッと出てしまった。
「そういう言い方ないだろう、アンタが落ちるんだよ」
「私は真面目に練習しているんです。試験官はここの人でしょう?」
男の顔が真っ赤になった。
「それって試験に手加減しろってことかよ」
「私そんなこと言いましたかしら?」
「アンタって可愛い顔しているけど、口から出てくる言葉キツイネー」
―ザマーミロー 
もちろんこれは声には出さなかった。
先週の教官が私の運転を見て呟いた
「君が運転しているんじゃないんだよ、 車が君を乗せて進んでいるんだよ。此処の車はネーもう行く順序知ってんだよね」犬じゃあるまいし。でも可能性はあるかも。今でこそコンプユーターのメモリ-チップというのが在るんだから。
次の土曜日に仮免は取れた。
次は打倒「鮫洲」。 免許証が手に入っても運転する車がない。 母は運転免許は取ってもいいと許可してくれたが、車を買うなとおかしな理屈を押して来る。 「娘が自動車を運転している間自分が心配だから」と理屈に合わないことを言う。27歳にもなり仕事をして自分のサラリーをもらっている子供の生活設計や買い物へ口をさしはさむのは日本の母の典型である。
結婚して数年経つ姉の家で子供達が増えたからとマイーカー購入の話が出た。 姉も免許をと言い出したら、「止めて頂戴、そんなことをしたらお母さん心配で眠れないから、絶対に車なんて買っちゃダメよ」と阻止をした。 眠れないのなら目を覚ましていたらいい。しかし、姉夫婦は断念した。理解に苦しむ日本の母親像。今もつづく、「あのね、ママの為にアノ学校へ入学して頂戴」これである。


ペーパードライバーを心配する父から会社の乗用車を一日貸してくれる話が出た。 待ってました、運送会社だ一台ぐらい週末に使わせてくれてもバチはあたるまい。私はトラックでも少しも構わない。タイヤが四つ付いていれば何でもいい。日本の国が私個人を信用して一般自動車運転の資格の許可を与えてくれたのですぞ。

春うららかな日曜日、会社の運転手主任が自宅まで車で来てくれた。 私が乗り込むと主任も助手席に乗りこんでくる。オカシイ。なんでだろう?
「アノー」
「お嬢さん、道不案内でしょう? 僕休みですからご一緒しますよ」予定どうりに郊外を目指すが、横に座る主任が注意をして来るがそれが中々真っ当を得ている。
「サー お嬢さん、肩の力を抜いて、左側確認、右側確認、  ア~ 追い越されても自分のペースにしてください。誘いに乗ってはいけませんよ。  やはりスピードの波にのってくださいね。 渋滞を誘発しますから」
「なんですか教習所を思い出すんですけどね」
「そうですか? まだその雰囲気残ってましたか ワハハハ」
彼は運送会社へ勤める前は教習所の教官だったそうだ。  ナルホドあのニックキ営業マンはいらぬ告げ口をしたらしい。わたしの持つ自動車免許証を誰も信用していない。ワカルナー。         

2007年7月4日水曜日

秋夫16歳

秋夫君16歳 ついに来た親泣かせの自動車免許取得年齢。
15歳半から学校内に出向してくる自動車教習クラスで練習を始め、仮免まで取り16歳の誕生日が過ぎて規定の役所へ実技の試験を受けるのがこの当時の決まり。四年後の直美ちゃんの時は全てを学校内で済まし、誕生日に免許証が郵便で送られてくる組みに変わる。  暴走族一人上がりーお有難うさんでーす。秋夫君から電話が入る「ママー 予約は3時だよ。忘れないでね、 学校の前で待っているから必ず来てよ。」勇躍して試験場に向かう息子は前方をカッと睨み、鼻息まで荒く聞える。相当な興奮である。
免許証が手に入れば自由行動範囲は天井知らず、明日からは「ママ抜き」さしずめ母親に連れられて出かけるのは人生で今日が最後ぐらいに考えていることであろう。解るナー。親の方は来月からの男子25歳未満の自動車保険費をどうやりくりしようか頭が痛い。
ちなみに、女の子の場合、16―7歳であっても、妊娠をすれば、未婚でも保険料が大人並に値下げされるのをご存知だろうか。彼女は「母親」になる、すなわち大人になるからだ。 そこで妊娠をさせた男子も「父親」になるから値下げと思うがそうではない。男子にはこの規定が与えられない。
申し込み手続きに続く車の点検。 もし受験する車の保険証、車検の証明、登録番号の支払済み査証など一つを欠いても受けさせてくれない。米国では車の免許の実技に使用する車は個人負担である。

私がアメリカに着いて三ヶ月目で試験を試みた時はまったく無知であったため随分とバカをした。 夫が出張している合間に済まそうと、電話帳で見つけた試験場へタクシーで出かけた。 万が一にも落ちたときに知られるのが嫌だったからだ。
 筆記が終わり実技の予約を翌日に取り付け、翌朝再度タクシーで試験場へ出かけた。順番待ち30分、自分の番号が呼ばれた。 制服の中へ入りきれないほどの大きなお尻と胸。出ッチリ、鳩ムネの女性が車を裏の駐車場の横へ持ってこいと私に指示をする。
「車って?」
「試験用の車ですよ」
「チョット待ってよ。車の免許証の試験に来たのよ」
「だったら車持ってこなきゃ出来ないでしょう」
「免許証が無くてどうして車持ってこられの?無免許運転になってしまうでしょうが」
「誰かに運転してもらてくればいいでしょう」
「その誰かが居ないから一人で来たのよ。 ここまで運転してこられるなら試験なんていらないわ、試験用の車があるでしょう?」
制服のオネーチャンとの言い合いは延々と続くが、負けは私である。ガードマンが聞きつけて中へ割って入った。受験用の車は本人持参なんてまったく知らなかった。

秋夫君は母親と一緒に続けた路上運転半年。これは絶対と自信満々。ヨーイ スタートそして結果はバッサリと落とされた。  理由は「前方注意怠慢」前を向いて運転していてどうして前方の注意を怠ったのだろう。兎に角落ちたことは落ちた。明日の予約を取り付けて明日は敗者復活頑張ろうねと励ます。翌朝私は仕事場で従業員の一人ににその話をした。
 そこで彼女が話しによると、たまたま私たちが行った試験場は受験に来た16歳の男子には殆ど全員に最初の試験を落とす暗黙の決まりがあるのだそうだ。 少年達が路上運転ですっかり一人前の運転者の気になっている傲慢な気持ちを殺ぎ落とす目的なのだと話してくれた。何か分かるような気持ちだ。 彼女は、自分もあそこへ受けに行って落ちたし、彼女の夫も落ちたという。弟も落ちたし、義理の弟もダメ、そこで試験場の秘密を知った友人が他所の試験場へいったらパッチリ一回目で受かったそうだ。「今日再度挑戦でしょう?大丈夫、試験受けなくてもライセンスもらえるかもよ」と笑っていた。

免許証の取れた後の息子達は、アンレ我が息子はこんなに優しかったかしらと戸惑う。
「ママ、明日のミルクが足りないの知ってる、僕買ってこようか? ママ車の鍵どこ?」
「妹の水泳の練習へ僕が連れて行くから、ママ車の鍵どこ?」
「今度買い物いつ行くの?車運転してあげようか」
「今日のボーイスカウトの集会は自分で行くから、あっそうだ、友達も乗せて行くから、ママ車の鍵貸して?」 少年期の中で一番親にやさしい一ヶ月。  

2007年7月2日月曜日

直美ちゃん小学校5年生

或る日教室でクラスの黒人の女の子から「中国人」と娘の直美ちゃんは呼ばれた。これは東洋系の顔をしている私達にはよくあることで、訂正したところで本当は東洋の国々の違いなどわかってはいない。多分ヨーロッパ人の違いも理解できていないだろう。だが、ドイツ人にオマエはフランス人かと聞けばやはり「NO」と応えるのは当然のこと。ニャニヤ笑ってやりずごるヨーロッパ人にはいまだに合ったことはない。
仕事などで初めての相手と電話で会話をすると、最後に「アノー 外国人ですか?」と聞かれる、「どこの国の発音ですか?」などと聞かれることもあるが、少しでも日本を知る人とか、仕事で日本へ出張した人はあちらから「日本の人ですか?」と聞いてくる。そしてその後にどれだけ日本で楽しかったかと話は長引くのだが。

直美ちゃんも速やかに訂正した。私は中国系ではない、日本系だと。女の子は、それがどうした、中国人も日本人も同じだと返した。「日本と中国の違いもわからないのなら人にそんな事を聞くな」と、そして一言付け加えたのだ。
「私は日本人の血が入っているのよ、だから私はあなた方よりも頭が良いのよ、わかった」
婉曲に「バカ」呼ばわりをされた子は虫が治まらない。下校時に自転車通学をしている直美ちゃんを待ち伏せ、彼女が10スピードの自転車で走り始めた瞬間に後ろから長いボニーテールをワシつかみにして引っ張った。地面に叩きつけられた娘は毛がガバッと抜け、タンコブの大きいのを頭の後ろにつけてのご帰還となる。一晩中痛いコブを氷で冷やし、毛の抜けた箇所を手でさすっていた彼女は翌日かの女の子を洗面所で見つけ飛び掛ったそうだ。しかし目的達成の前に教師に現場を見つかった。暴力生徒の現場を見つかった我が娘は、父兄同伴で相手の生徒と親に謝罪するようにと日時を指定した手紙持参で帰宅。
もう中学生になっている息子は手紙持参の常習犯だ。電話の苦情、手紙での苦情本当に世の先生方はお暇でいらっしゃると感心するほど子供の逐一を親に告げる。
それらの一切の処理をしてきた私は娘までは嫌だ。「ブルータスお前もか」と云いたい。

渋る父親に、これがエスカレートしていつか娘の愛らしいの顔にナイフの傷でも付けられたら後悔するのはこちらだからと説得して学校へ追い出した。
帰宅した主人は、やはり今日の会合は母親が出席すべきだった言う。札付きの悪がきを殴りつけようとした女の子の親の顔が見たかったと教師が漏らしたのだそうだ。それなら母親の私が顔を見せるべきだという、どうみてもあの挑戦的な性格は自分から出たものではない。あれは君からだよ。失礼な話である。

主人のその意見は間違っている。以前実家の隣に住んでいたというご婦人にあったことがある。「ヘーッあのガキ大将と結婚したの?それはそれは。」と妙な目で見られた。あなたの旦那さんには昔てこずったわね、何回警察に電話をしたかしれないワ、でも何時もパトカーが来る前に逃げちゃうの。逃げ足の速いかったのは近所で一番だったわ」と話してくれた。 もっとも主人に言わせるとあの程度のことで警察を呼ぶのは税金の無駄使いだと言い訳するが。
二つ下の弟とインデアンごっこをして、弟は空気銃を持ち出し、兄は手製の弓矢をもちだしての追いかけっこになった。屋根の上に逃げた弟を兄は弓を引き狙いを定めて引いた。矢は真っ直ぐに弟の胸に突き刺さった、屋根からころげ落ちてその戦いは弟の負けとなった。  今六十代の弟はお酒が入るとシャツをたくし上げてその傷口を見せるから本当の話なのだろう。しかしこの話には続編がある。数日後、兄貴よ隙ありと見た彼は空気銃をぶっ放したが、逃げる兄のお尻に命中した。いくら酔ってシャツはたくし上げれても、さすがにパンツを下げての武勇伝は無理なようで可哀相に名誉の負傷は誰も知るところではない。

2007年6月29日金曜日

秋夫君5歳

幼稚園から高校まで続くキリスト教系の私立校を見つけた。 何度も受験を繰り返した自分の育ち盛りに良い思い出を持たない私は自分の子供にこの人生を繰り返してもらいたくない。「可愛い子供には旅をさせろ」、これは好きな言葉ではない。 可愛いから愛でてあげたい。親が子供を可愛がらずに、この冷たい世の中いったい誰が私の二人の子供を愛してくれる。 親しか居ないではないか。
これは私の屁理屈であるが。

宗教教育は非常に盛んだ。幼稚園生に毎週聖書の一節を暗記させ、月曜にはクラスの前で暗誦させる。中々宜しいようです。プロテスタントも結構悪くないと感謝した。
夕食の準備中不注意から私は指を切った。バンソウコウは何処だったかと探している母親を見た秋夫君は自分の部屋へ走り子供用聖書を手にして来た。
「ママその怪我した手をこの聖書の上にのせて」どうして? 「聖書に手をのせれば全ての傷が癒されるんだよ」ヒエイーそれはそうだけれど、まず血を止めようよ。

小学校一年生になり、一人前に彼等にも試験期間が来た。しかし一向に自室に篭り試験勉強をしている様子はない。 たまりかねた母親はついに催促をした。
「ママ心配いらないよ。明日は100点を持ってくるから」 ヘッどうやって?
「さっき部屋で神様にお祈りしたから。明日の試験は100点が取れますようにお恵み下さいって」準備OKと満足げに漫画番組を見る息子にどう説明すればよいのだろう。
わずかに母の反撃は「多分友達も神様にお祈りしているだろうけど、それに加えて勉強もしていたらどうする」
「ソーカ、皆が祈ってたら、神様困るね」

学期末近くにPTAの会合があった。 主人と二人で人生はじめてのPTAへ出席した。 新しく校舎と建てると張り切る女校長と牧師。一時間に及ぶ寄付の必要性と奉仕精神の再教育を受けた親たちは、高い月謝の次はこれかヨとヘナヘナとなる。
「サー皆さん立ち上がって下さい、貴女方の周りにある目で見える物、机、椅子、キャビネット何でも良いです。 手を載せてください」
牧師は両手を広げて、上に掲げ目を閉じ、厳かに始めた
「祈りましょう、 神よ、あなたはわれわれ罪深き民の為にご自分の命を捧げてくださいました。 その深い愛を感謝します。 神の民であるわたしたちは今手を載せている品々が神からの賜物であることを感謝します。 
私たちは神のお慈悲によって大勢の両親がこの学校の教育を望んできます。それを感謝します。今、新しい校舎が必要です。あなたの子羊達が学ぶ新しい校舎、机、椅子が必要です。 神はわたしたちに必要な物は何でも与えてくださると信じています。 神の恵みをもう一度わたしたちにお示しください。」
その祈りの途中で主人が手をスーッと家具から離しポケットに入れた。 
我が息子が受けている教育はこれなんだ。これは他力本願ではないか。これは困る。学校側と宗教問答をするつもりはさらさらない。 昨日今日出来た学校ではない、幼稚園から高校まで大量の生徒を毎年世の中へ送りだしているこの学校の教育者に私や主人の宗教観など何の意味もない。
そこで秋夫君は小学校二年生から公立の学校へ転校した。
 
  

2007年6月27日水曜日

男って男性的?

アメリカの少年が軟弱に育ち将来が心配だと云う。 成長段階で男性の影響が皆無だからとあるラジオトーカーは焦っている。 
女性が強くなって来ているのは世界的な風潮だが、それの影響としてあらゆる職場に女性が現れた。 今では大統領の地位も自分に寄越せと演説している。 裁判官、検事、弁護士、警察官、医者、軍隊の兵士、教授そして教育の世界の学校の教師は女性が大半を占める。

 幼稚園に行き始めた男の子が、まず保母さんの世界へお目見え、帰宅して母親の勢力化へ戻る。小学校から高校まで女性の教師。 わずかに放課後のサッカー、野球、などは男性のコーチだが、柵の向こうに母親の目がしっかりと睨んでいる。彼等はめったなことでは男っぽいラフな付き合いは出来ない。少しでも親切を表せば、あのコーチは同性愛ではと問題になる。
帰宅する父親は昼間の仕事でボロキレのように疲れ、それでも家庭のChorと言われる日課がある。 食後の片付け、皿洗い。現在は一般家庭ではサラ洗い機が設置されているが、あれに食器を入れるにはやはり事前に食器を漱がなければ結果が良くない。その仕事は世の亭主の仕事とされている。きれいに片付け、カウンターを拭き、ついでにゴミも出さなければ。 勿論我が家の亭主もその仕事をしなければテレビのニュースは見られない。勢い勉強部屋に逃げようとしている息子に、「オイお前も手伝え」と来る。 かくして男の子は、食後の片付け、ゴミ出しは男の仕事と体で会得する。
その日の運が悪ければ、学校の女教師から「云いつけっこ」の電話が来るのもその頃。その電話を母親が取り、いかに己が息子の昼間の悪さを女教師から告げ口される。「アッ来た」と逃げる息子を自室まで追いかけて、二倍の怒りをぶつける母親のお仕置きを静かに聞く。 そんな時、頼りとする父親は「俺は知らんよ」とテレビの前に逃げる。 息子が可哀想とは思うが、うっかり間に入ったら自分に火の粉が飛ぶのを承知していて飛び込む勇気は持ち合わせていない。夫婦円満の為には息子を売るのは仕方が無いと心に誓う。
「息子よ許せ」一緒に住めるだけでも有難いと思ってくれ。
52%の離婚率の昨今。離婚になれば妻と子供をこの家に置いて、自分は一人アパートへ移り、長い裁判の結果、週末にほんの少し子供に逢わせてもらえるだけなのだ。それを思えは息子よ我慢セイ。
何を相談しても「ママはなんて言っている?ママに聞きなさい」
頼りにならないことおびただしい。車の運転だってママが教える。親父はただ怒鳴るだけでダメだと見放される。   
昔は、「亭主と別れたいけれど、離婚の後どうやって食べるの? それならば我慢するわ」と妥協したが、今では殆どの家庭の妻も自分の職業を持っている。自分ひとりが食べるのは簡単。子供は別れた亭主から養育費がチャント届くのだから心配ないのだ。離婚なんて少しも怖くない。
そして又男の子は明日から女の社会で生きる。いったい何処で彼等は大人の男性の影響を受けることが出来るのだろう。 やっと学校も終わり、社会へ胸を躍らせての生活へ出てみれば、 デスクの両隣は女性。上司も女性。取引き先の半分は女性。
青春を楽しもうとすれば女性にデイトの誘いを掛け、彼女に好かれようと最大限の努力をする。
ジョギングだって彼女のほうが息が長い。ロペリングをしても彼女の方が体が軽いから早い、でもテニスは男の子のほうが上手だ。だって彼女のオッバイが大きすぎてラケットがよくスイングできない。これは息子の秋夫君の言葉。車のオイルチェンジをしてくれると約束した男の子、車の下に潜ったが何処のキャップを外すのか解らない。仕方なく彼女がしたにもぐってキャップを外しオイルを出した。これは娘の直美ちゃんが教えてくれた。
彼女のアパートへ食事の招待。イソイソとワインを持参したら、缶詰め料理と冷凍食品を温めた食事だったと、今度は秋夫君が生野菜と新鮮な魚を買って持参、下ごしらえから初め料理を作る。 
やはり男性が女性化したと考えるべきだろうか? それともラジオのトークショウへ電話をしようかしら「これぞ男女平等」ですと。

2007年6月26日火曜日

ヤーさん

私は日本人、外見も中身も純血日本人であるはずだ?。飛鳥の時代には国境も無くいろいろな国からいろいろな人種が日本へ足を伸ばしていたと聞くから、もしかしたら?だが、まあ一応日本人
父方は貧乏旗本の系統であったらしい。生前の父とお酒を呑んでいたときそんな話をしていた。  
「三百俵二人扶持ぐらい?」と聞いたら「まあ、そんなとこだろう、三百俵は貰っていなかっただろう」などと云っていた。それ故か明治の初期父方の祖父は県庁のお役人をしていた。 さしずめ明治維新の後、そのまま下級武士は役人の職にありついたのかもしれない。
父は兄弟五人、妹一人。その五人の息子が明治、大正の時代に全員大学教育を受けているのだから祖父は中々の教育熱心だった。一人娘も産婆の仕事をしていたそうだ。 昔の職業婦人の草分けとしたいが、実はこの叔母の姑が産婆だったそうだから先輩がいたのだ。
母方の祖父は土建屋。今は建築会社経営と表現する。
大正の初期、母の記憶する家は、土建仕事の人足が「エ~お控えなすって~手前生国は...」と片手を後ろにまわし仁義を切っていたという。 祖父亡き後も大人しいはずの祖母が土間で渡世人の仁義を作法通りに受けていたそうだ。それを想うと嬉しくなてくる。あるときそれを友人に話したらそれ以来私の血筋には「ヤーさん」が入っているとホザイタ。すると娘の直美ちゃんはどちらを向いても渡世人とギャングの血が流れていることになる。可哀想に。

私たち夫婦には二人の子供が与えられた
息子今年32歳。グラフィック アートが生業、個人としてもサイドの仕事のお客が少しづつ増えているから仕事は順調に行っているらしい。
娘今年28歳大学院の終盤戦。専攻は臨床心理学。 心療クリニックで医者の助手をして生計を立てている。 授業もインターンとしてメヂカルセンターの大学系の病院内神経科で患者に接している。

息子はピーターパン症候群ではないかと一時期心配をした。 将来の希望は?どの親も一度は聞く質問だ。
「僕幸せになりたい」と答えた。 秋夫君高校生。
人の言葉は理解に苦しむが数学なら理解が出来ると自信があったのが、大学で数学の教授が中国人。最初は数学に言葉は必要ないと軽く考えていたが、授業が始まると教授の中国アクセントの英語がまったく聞き取れず、クラス中で、「今何んて云ってんだ」「全然解らない、どうしよう」「英語使ってくれないかナー」と大騒ぎしているが、教授の方は着々とクラスを進め、全員にCやDを与えてニンマリとしている。クラスメートは一人づつ他の教授にクラス変えをしているのに、秋夫君は留まり、イライラして、数学がすっかり嫌いになってしまう極端な性格をもっている。 数学のADD(注意欠陥多動症症候群)の診断を受ければ今後一切大学で数学を必修科目から免除されると知り、「数学ADDの診断書」を手に入れようと大学の周りの医者を訪ね歩き、結局もらえなかったと嘆いていた。
友人から、父親のドイツ系の頑固と精密性、母親の日本系の几帳面と勤勉性が同居しているはずなのに、お前はどれも持ち合わせていないと言われ、「しょうがないよMade In USAだもの」と言う。数学は最低だが、ユーモアは十分に持ち合わせている。

わたしの父

父は戦前に関西の師範学校で、現在は大学に変わっているそうだが、美術科の教授をしていたと聞いている。私が産まれる前後の頃に転職てサラリーマンになった。脱サラの逆である。入りサラとでも云うのかな。
サラリーマンを73歳で退職した。定年退職はそれ以前にしたが、何となく職場を紹介されては次の場所へ行く人生だった。退職後は朝食をすまし、新聞に目を通しそれから二階のアトリエと呼んでいる板の間の部屋に篭り毎日想いのままに油絵を描いていた。「こんなに楽しい人生があったのか」と89歳で亡くなるまで絵を楽しんだ。
私の長男秋夫君がアメリカで産まれたとき初めて外孫の顔を見るために海外旅行を試みた。飛行場に着いて南部アメリカの壮大な空、雲の色を見て、日本の空との違いを見て仰天した。
なるほど、「ワタシはね、どうしても外国人の絵描きの絵になじめなかったのだよ。でもこれで解った。絵空事ではなかったのだナー」空に風景があるんだね。雲が絵を画いている。全ての色が違うんだよ。 明るいね。なるほど、本当に明るいね。と感心していた。
それ以後、外国の空と空気に目覚めたち父はスケッチブックを片手に、母と一緒にヨーロッパ、アジア、を目指して旅行を繰り返し、八十四歳の時に「慶安」への旅を息子に引率してもらって出かけたのが最後の旅だった。
父の弟に雑誌の挿絵画家も居たのだから、案外美術系のDNAがあるのかもしれない。
隔世遺伝なのか、私の息子の秋夫君も大学は美術科。しかしこちらは写真科。写真だけでは食べられないと承知していて、今はコンピュターのグラフィック デザインで生業(なりわい)を立てている。一生涯に一冊でいいから「写真」の本を出版して見たいと希望は大きい。
私は写真は嫌いだ。カメラも持っていない。思い出は心の中になどと嫌味を言っているが本当は写真を撮られることが嫌いだ。 色白のマルポチャは写真には不向き。細面で凹凸のはっきりしている少々褐色の肌が宜しいようで。 色白は七難隠すなんてあれは写真に限り嘘。
「私は写真写りが悪い」と言ったら「写真は正直だからね~」と返した知人が居た。 勿論彼女は友人ではない。ただの知り合い。
夫と私は国籍が違う。彼はドイツとフランスとチェコの混血。雑種である。今時アメリカ人の血統で混ざっていない人を探すのは困難であろう。二十年ほど前になるがある白人女性の歌手が白人と結婚、子を産んだら黒人の子が出てきたという事件が起きた。亭主は猜疑の目で見るし、本人は、ハテ何処で何時私は?といろいろと悩んだことであろう。彼女の祖母の代で黒人との結婚が一組あったのだそうだ。それを云わなかった母親を彼女は告訴した。 血筋にたいして子供に正確に伝えなかったという理由。然し勝訴しても何が残るのかしら。

主人はドイツ人の頑固とアメリカ人の陽気性が同居している。三代前にドイツから三人の兄弟が船でガルベストン港から移民して。彼等の言葉を借りると「三人の兄弟が船から飛び降りた」と言うのだそうだ。それを言葉のまま受け取っていた娘は、自分は「不法侵入の移民の子孫」と信じていたらしい。最近になってそれが言葉のあやだと知り驚いていた。おまけに父親がこと在るごとに、自分の父親はカジノの「バッグボーイ」だったと云う。その昔ガルベストン港にカジノが存在して居た頃、賭博所から賭博所までの現金輸送は少年達の仕事だった。モノクロ映画の時代のように、吊りズボンにハンチングの少年が雑踏の中を紙袋に   入った現金をもって走り回っていた、あの種の少年だった。
娘の直美ちゃんは、不侵入の子孫ばかりか、ギャングの子孫でもあったのだ。可哀想に。 

2007年6月23日土曜日

ヨイショ

ベトナム戦争が終わって三十余年。避難民受け入れの州としては最大数の人口がこの街へ入居した。一所帯月四百ドルの援助と子供の学資の保証。子供達が成長して大学進学希望者には成績がB平均をとっている限りその州が学資を援助する。しかし働き者のベトナムの人達はその援助を十二分に活用して大きなベトナム社会をこの街に築いた。この大きな街の一角は道の表示もベトナム語や中国語の言葉に書き変えられ、新しい建物の景色はここはアメリカだろうかと勘違いするほど町並みが変わり、東洋の建物の中に銀行や弁護士の事務所が入居している。  
一世が事業を起こす際は、マイノリテイー援助を建前としている国から銀行融資はこの土地の住民より優先的に援助がうけられる。 一世は中国ベトナム食料品店、ビューテイーサロン、マニキュアサロン、レストラン、酒屋、クリーニング屋。この土地で生まれた二世は弁護士、警察官、会計士、医者といろいろな職業につき、アメリカの中産階級にしっかりと根をおろしている。マイノリテイーの格差から云えば、黒人、ヒスパニックを乗り越えて中国系やインド系としのぎを削っているようだ。
両親に連れられてきた女の赤ちゃんが歯医者になり、研修生を終ると同時に診療所を居ぬきのままサット買える援助を州の銀行が出してくれる。  これをダブルマイノリテイーと云いう。同じ融資でも女性であるほうがなお宜しいのだ。

イタリーからのピザ、メキシコからのタマーリー、そしてベトナムからの春巻きや米の粉でつくったうどん(Pho)などはもうじきアメリカ料理に入りそうなほど店の数が増えている。こんなにベトナムの麺類が喜ばれるのなら、日本のラーメンの店を開けたらずいぶんと繁盛するのではいかと考えるが、日本食店は合いも変わらず「寿司屋」しか開かない。何故かこの南部の街にはラーメン屋がない。

もうあまり会うことは無くなったが、私は一人のベトナム女性と知り合った。彼女の下の二人の子供と我が家の子供二人が同じスイミング チームとカトリックの教会の火曜日の子供のクラスで一緒だった。
彼女には五人の子供が居る。 ベトナムから連れて来た二人。この土地に来てから産まれた子が三人。上の三人と下の二人のお父さんが違うのは一目で解る。

ハノイ崩壊、米兵撤退最後の日。彼女は二人の子供を抱えて南ベトナム軍の兵隊として出兵していた夫を待っていた。  もうアメリカ軍の全てのヘリコプターは飛び立ち、輸送用のC5Aも米兵とベトナム人を満載してドンドン飛び立っている。 北ベトナム軍はもうそこまで来ている、部落全体の人達が出来得る限りの持ち物を手にして輸送用飛行機に駆け込んでいた。 この女性も早く乗ろうと手荷物はしっかりと掴み、両脇に子供を立たせて夫の来るのを待ったが現れない。 逃げてくる同国の人達に主人のことを聞いて歩くが、答えは、知らない、聞かない、合わなかった、見なかった、そして、多分死んだよとしか答えが返ってこない。  
其のうちにスピーカーが、何分後に最後のC5A輸送用飛行機が飛び立つとがなりたてている。 もしこれに乗り遅れたらもう此処からは出られない、それは兵隊も同じ、最後まで残っていた米兵も必死に走って輸送機に飛び乗っている。。   一人の若い米兵がモタモタしている彼女を見つけて駈け寄り怒鳴っている。急げ、走れ、荷物は置きなさい、子供を抱えなさい。早く、早くと叫ぶ。やっと気持ちの踏ん切りがつき彼女も最後の輸送機へ向かうことにした。彼女は二人の幼い子供に走れと怒鳴り、自分も走り出したが、彼女はその時妊娠八ヶ月、走れるわけが無い。 
若い米兵は先の方を走っていたが、ヒョイと振り帰りモタモタしている彼女の所へ戻って来た。子供の一人を肩に担ぎ、もう一人を脇に抱え、残った手で彼女の手を引っ張って走る。C5Aにやっとたどりついたときには彼女達が本当に最後の駆け込みだった。 米兵は子供を飛行機の中へ放り込み、彼女の大きなお尻を押してヨイショヨイショ。中はベトナム人、アメリカの兵隊の群れでもうあふれるばかり。ヨイショのお兄さんが這い上がって後ろのドアはバッタンと閉まり一路アメリカへ飛び立った。

蒸し風呂のような飛行機の中の長い旅も終わり、受け入れ側のアメリカの土地についてから、難民は決められた宿舎へ落ち着く。そして始まる書類の手続きが山のよう。途方にくれた。妊娠八ヶ月でいったい自分はどうなるのだろう。主人はどうしただろう。考えるが多いが手が動かない。私ってのんびりなのよと自分を批評していた。
列に並び自分の順番が来るのを待っていたら、ヨイショの米兵がその宿舎へ入ってきた。 そしていろいろな手続きを手伝ってくれる。自分はこの後除隊して故郷へ帰るけど、考えて見たら貴女方には行く場所がないんだよね。 行き先が決まるまで手伝わしてくれと。保証人がこの米国に居る避難民から早く宿舎を出られる仕組みと知りその米兵は彼女達の保証人になってくれた。
その時彼女38歳 妊娠八ヶ月、子供二人。彼は24歳の独身。

私がこの女性に初めて逢ったのはその時から十三年後。二人は結婚十三年目。米国へ来て直ぐに産まれ落ちた子供は女の子。保証人から夫に成り代わった二人の間にも女の子と男の子が生まれ、この三十七歳の元米兵と五十一歳ベトナム女性には五人の子持ちの七人家族になり。
新しく買った寝室四部屋の二階建ての家はどう割り振りをしても人数分の勉強部屋が足りないと頭を悩ましていた。
   

2007年6月22日金曜日

セロリーソルト

終戦からニ年、焼け野原に二階建ての我が家が建った。又ニ年、あれは秋の始めの夜だった。
我が家の玄関のドアをドンドンと叩く音がする。近所の人が叩くのと音が違うようだ。 いつもだったら母が「どなた~」と声を掛けるが、この晩は父親が炬燵からやおら立ち上がり「何方様ですか」と声をかけた。
ドア越しにくぐもった声がはっきりしない。然しドアを叩きつづけている。仕方なく父が玄関の扉を開けた。
お入りなさいとも云わないのに二人の米兵がグアと玄関に滑り込み自分達でドアを後ろ手に閉めた。一人の兵隊の肩には大型進言袋がある。
慌てた父が「これお前達後ろに下がりなさい」と少しか細い声で言うが、六畳の部屋のど真ん中に炬燵があるのだ、子供三人に母親が隠れる場所なんてない。 父の後ろにへばりつき、目だけは大きくして成り行きを見る。 なんか家族がさらし者になった気分だ。街を歩くと進駐軍が二人蔓って歩くのをよく見かけるが、こう鼻先に立たれると圧迫感がある。おまけにこちらは座っているからますます彼等が大きく見える。それでも彼等はニッコリしようとしているらしいがあまり笑顔には見えない。濃いカーキの制服と六尺豊かな米兵二人。
父親は腰を抜かしたようにベッチャと座りどもったように「何ですかあなた方は、此処は民間人の家ですよ」と日本語。父が大学に行っていた頃の第二外国語はドイツ語だったそうだから英語は無理だ。多分ドイツ語でも無理だろう。普段使用していない外国語なんてのはそう簡単にスラッと出て来るはずもない。
気を取り直した父はやおら正座をし、両手を膝の上に置き、一生懸命背筋を伸ばしこの侵入者達と渡り合うつもりらしい。よく見ると一人は日本人の顔をしている。それに背丈もそれほど高くはない。ナニナニ同じ日本人ではないかと考えれば気持ちも落ち着くというものだ。

米兵は肩の袋を下に下ろし紐をほどいて中から品物を一つ一つと取り出し父の目の前に並べはじめた。日本人の顔をした兵隊が説明を始める。 「ワタシは通訳です。怖くありません。ワタシ達はアメリカ兵です。この品物を買って下さい。彼等遊ぶお金欲しいです」これは後で父が説明してくれたことで、その時は私にはそんなようには聞えなかった。なんかテニオハの抜けた妙な日本語。
目の前に並べられた品物は勿論PXから兵隊への配給品であるそうだ。缶詰めにもラベルがないし、缶の色までカーキ色の1ポンド詰めのコーヒーが三個、チョコレートが数枚、バター数ポンド、そしてコーヒー缶と同じカーキ色の缶詰め3個。これぞアメリカ版押し売りである。これは彼等の違法行為だが、チョット前を失礼と表へ出てMPを呼べるわけもなし変な日本語の二世とバカ丁寧な父の日本語の商談は始まった。

母が横で「ネーもし買わなかったらどうなるの?」と父に聞いている。
「知らんよそんなこと。買うしかしょうがないだろう」
「お金ないって云いましょうよ」と母が囁く。
払うもの払って早く追い出そうとする父と、この場になっても金は出すまいとする母との小競合いは瞬時に終わった
「オイ お前の財布持って来い」と父が手を出す。そうだ自分の財布を持ってこられても何も入っていないのは本人が知っている。もう其の頃から、父は働く人、母は使う人と選別されていた。
いくらかの現金を掴み彼等は「サンキュウー ベリマッチ、グットバイ」と玄関の外へ消えた。

コーヒーの缶詰め三個、だが我が家にはコーヒー沸かしがない。早速次の日からポコ ポコ ポコポコと噴出すコーヒー沸かしが加わり日曜になると父と母はアメリカ産コーヒーとチョコレートを楽しんでいた。 もう一つの大きな缶詰めが解らない。 中は薄茶色の粉が詰まっている。舐めると塩っぱい。しかし味がある。今迄に味わったことのない味。そこで母が一つを所属しているカトリックの教会へ持って行った。 
アイルランドから赴任している神父がその粉をひと舐めして、「アー これはセロリーソルトです」調味料の一つ、セロリーの味のする塩。肉の下味、魚のソテー、野菜炒め何でも良いと言う。母は半分を彼等のキッチンへ置きうれしげに帰って来た。

それからの我が家の食卓にはいつも唐辛子とセロリーソルトが並んで座っていた。兄が考えたレセピーはアツアツのご飯の上にバターを加えセロリーソルトを振り掛けると何となく洋食を食べているようで美味しく、いくらでもご飯が食べられる。

始めがあればいつも終わりが来る。  一年もするとそのセロリーソルトはなくなった。デパートにも、アメヤ横丁にも見つからず、自然消滅の幻の塩。

十年後、高校を卒業して、カリフォルニアの大学へ留学した。そして一年、兄から一通の手紙が来た。
「お母さん、スーパーマーケットでセロリーソルトをみつけたよ」 

   

2007年6月20日水曜日

始めまして、お邪魔します

私自身は 還暦を過ぎてもう何年にもなるけれど、夫婦で 自営業をしているので まだまだ事務所に出る。 経費の節減の一端。 家族は無給でも出勤。 別に仕事をしているなどとは云わない。
いわば電話番のようなもの。

アメリカはラジオを聴く人口が多い。車社会のせいか、運転中にラジオのトークショウを聞きながら目的地に行くとなるらしい。  私も事務所との往復、片道30分25マイルをトークショウを聴きながら運転する。 
普通は最右翼、共和党の番組が面白い。もう怒り心頭、携帯の普及から、番組中の 視聴者参加には 運転しながらがなりたてる。
それを車の中や 事務所で電話番をしながら聞いていると、「人生腹を立てているのは私ばからじゃないわい」と嬉しくなる。ガンバレヤ~

「アメリカは滅びる」これが彼等の心配事。建国300年のアメリカ、日本だとまだ安土桃山の時代にも到着していない歴史の浅い国だが、現在はメキシコからの違法移住者が1.2億も居るそうだ。
カリフォルニアの州立救急病院が幾つも閉鎖を強いられているとか。小指の先を切っても救急車を呼んで病院へ駆け込むが、勿論料金は支払わない。そんな住民がどの救急病院にも人いきれがするほど押し寄せている。病院代を支払わなくても、せめて税金を収めてくれれば、州立は経済的に維持出来るけど、それもダメ。病院は仕方なくも崩壊の一歩を進む。

この街もお隣のメキシコさんとは国境線で繋がっているだけ。もうアメリカなのかメキシコなのか分からない。ウォールマートという百貨店などへ行くと英語は聞えない。テックスメックスしか聞えない。  テックスメックスとはメキシコ人の使う言葉。スペイン人に言わせると彼等の言葉はスペイン語ではないのだそうだ。あえて言うならメキシコ語だそう。しかしテキサスとメキシコが混ざって、このテキサスに住んでいるメキシコ人の言葉をTex Mex と呼ぶ。時々メキシコ料理のレストランに Tex Mex Food と書いてある。あえて言えばテキサス風メキシコ料理となるのかな。彼等の言葉もそうらしい。

一つの文章の中に必ず一つか二つの英語の単語が入る。彼等の間でも自国語で文章全体を並べないらしい。これは、少し日本語に似ているかな? 日本語でも結構英語が混ざった文章で話す人が多い。 私自身英語の会話には日本語が入らないのに、日本語の時はなるべく混ぜないように心がけるけど英語の単語が入る。
終戦直後にカリフォルニアに移住していた遠い親戚の伯母が
「アーちゃんの娘はハズバンドが居ないのに、どうしてベイビーが産まれた」と聞いたことがある。