2007年6月29日金曜日

秋夫君5歳

幼稚園から高校まで続くキリスト教系の私立校を見つけた。 何度も受験を繰り返した自分の育ち盛りに良い思い出を持たない私は自分の子供にこの人生を繰り返してもらいたくない。「可愛い子供には旅をさせろ」、これは好きな言葉ではない。 可愛いから愛でてあげたい。親が子供を可愛がらずに、この冷たい世の中いったい誰が私の二人の子供を愛してくれる。 親しか居ないではないか。
これは私の屁理屈であるが。

宗教教育は非常に盛んだ。幼稚園生に毎週聖書の一節を暗記させ、月曜にはクラスの前で暗誦させる。中々宜しいようです。プロテスタントも結構悪くないと感謝した。
夕食の準備中不注意から私は指を切った。バンソウコウは何処だったかと探している母親を見た秋夫君は自分の部屋へ走り子供用聖書を手にして来た。
「ママその怪我した手をこの聖書の上にのせて」どうして? 「聖書に手をのせれば全ての傷が癒されるんだよ」ヒエイーそれはそうだけれど、まず血を止めようよ。

小学校一年生になり、一人前に彼等にも試験期間が来た。しかし一向に自室に篭り試験勉強をしている様子はない。 たまりかねた母親はついに催促をした。
「ママ心配いらないよ。明日は100点を持ってくるから」 ヘッどうやって?
「さっき部屋で神様にお祈りしたから。明日の試験は100点が取れますようにお恵み下さいって」準備OKと満足げに漫画番組を見る息子にどう説明すればよいのだろう。
わずかに母の反撃は「多分友達も神様にお祈りしているだろうけど、それに加えて勉強もしていたらどうする」
「ソーカ、皆が祈ってたら、神様困るね」

学期末近くにPTAの会合があった。 主人と二人で人生はじめてのPTAへ出席した。 新しく校舎と建てると張り切る女校長と牧師。一時間に及ぶ寄付の必要性と奉仕精神の再教育を受けた親たちは、高い月謝の次はこれかヨとヘナヘナとなる。
「サー皆さん立ち上がって下さい、貴女方の周りにある目で見える物、机、椅子、キャビネット何でも良いです。 手を載せてください」
牧師は両手を広げて、上に掲げ目を閉じ、厳かに始めた
「祈りましょう、 神よ、あなたはわれわれ罪深き民の為にご自分の命を捧げてくださいました。 その深い愛を感謝します。 神の民であるわたしたちは今手を載せている品々が神からの賜物であることを感謝します。 
私たちは神のお慈悲によって大勢の両親がこの学校の教育を望んできます。それを感謝します。今、新しい校舎が必要です。あなたの子羊達が学ぶ新しい校舎、机、椅子が必要です。 神はわたしたちに必要な物は何でも与えてくださると信じています。 神の恵みをもう一度わたしたちにお示しください。」
その祈りの途中で主人が手をスーッと家具から離しポケットに入れた。 
我が息子が受けている教育はこれなんだ。これは他力本願ではないか。これは困る。学校側と宗教問答をするつもりはさらさらない。 昨日今日出来た学校ではない、幼稚園から高校まで大量の生徒を毎年世の中へ送りだしているこの学校の教育者に私や主人の宗教観など何の意味もない。
そこで秋夫君は小学校二年生から公立の学校へ転校した。
 
  

2007年6月27日水曜日

男って男性的?

アメリカの少年が軟弱に育ち将来が心配だと云う。 成長段階で男性の影響が皆無だからとあるラジオトーカーは焦っている。 
女性が強くなって来ているのは世界的な風潮だが、それの影響としてあらゆる職場に女性が現れた。 今では大統領の地位も自分に寄越せと演説している。 裁判官、検事、弁護士、警察官、医者、軍隊の兵士、教授そして教育の世界の学校の教師は女性が大半を占める。

 幼稚園に行き始めた男の子が、まず保母さんの世界へお目見え、帰宅して母親の勢力化へ戻る。小学校から高校まで女性の教師。 わずかに放課後のサッカー、野球、などは男性のコーチだが、柵の向こうに母親の目がしっかりと睨んでいる。彼等はめったなことでは男っぽいラフな付き合いは出来ない。少しでも親切を表せば、あのコーチは同性愛ではと問題になる。
帰宅する父親は昼間の仕事でボロキレのように疲れ、それでも家庭のChorと言われる日課がある。 食後の片付け、皿洗い。現在は一般家庭ではサラ洗い機が設置されているが、あれに食器を入れるにはやはり事前に食器を漱がなければ結果が良くない。その仕事は世の亭主の仕事とされている。きれいに片付け、カウンターを拭き、ついでにゴミも出さなければ。 勿論我が家の亭主もその仕事をしなければテレビのニュースは見られない。勢い勉強部屋に逃げようとしている息子に、「オイお前も手伝え」と来る。 かくして男の子は、食後の片付け、ゴミ出しは男の仕事と体で会得する。
その日の運が悪ければ、学校の女教師から「云いつけっこ」の電話が来るのもその頃。その電話を母親が取り、いかに己が息子の昼間の悪さを女教師から告げ口される。「アッ来た」と逃げる息子を自室まで追いかけて、二倍の怒りをぶつける母親のお仕置きを静かに聞く。 そんな時、頼りとする父親は「俺は知らんよ」とテレビの前に逃げる。 息子が可哀想とは思うが、うっかり間に入ったら自分に火の粉が飛ぶのを承知していて飛び込む勇気は持ち合わせていない。夫婦円満の為には息子を売るのは仕方が無いと心に誓う。
「息子よ許せ」一緒に住めるだけでも有難いと思ってくれ。
52%の離婚率の昨今。離婚になれば妻と子供をこの家に置いて、自分は一人アパートへ移り、長い裁判の結果、週末にほんの少し子供に逢わせてもらえるだけなのだ。それを思えは息子よ我慢セイ。
何を相談しても「ママはなんて言っている?ママに聞きなさい」
頼りにならないことおびただしい。車の運転だってママが教える。親父はただ怒鳴るだけでダメだと見放される。   
昔は、「亭主と別れたいけれど、離婚の後どうやって食べるの? それならば我慢するわ」と妥協したが、今では殆どの家庭の妻も自分の職業を持っている。自分ひとりが食べるのは簡単。子供は別れた亭主から養育費がチャント届くのだから心配ないのだ。離婚なんて少しも怖くない。
そして又男の子は明日から女の社会で生きる。いったい何処で彼等は大人の男性の影響を受けることが出来るのだろう。 やっと学校も終わり、社会へ胸を躍らせての生活へ出てみれば、 デスクの両隣は女性。上司も女性。取引き先の半分は女性。
青春を楽しもうとすれば女性にデイトの誘いを掛け、彼女に好かれようと最大限の努力をする。
ジョギングだって彼女のほうが息が長い。ロペリングをしても彼女の方が体が軽いから早い、でもテニスは男の子のほうが上手だ。だって彼女のオッバイが大きすぎてラケットがよくスイングできない。これは息子の秋夫君の言葉。車のオイルチェンジをしてくれると約束した男の子、車の下に潜ったが何処のキャップを外すのか解らない。仕方なく彼女がしたにもぐってキャップを外しオイルを出した。これは娘の直美ちゃんが教えてくれた。
彼女のアパートへ食事の招待。イソイソとワインを持参したら、缶詰め料理と冷凍食品を温めた食事だったと、今度は秋夫君が生野菜と新鮮な魚を買って持参、下ごしらえから初め料理を作る。 
やはり男性が女性化したと考えるべきだろうか? それともラジオのトークショウへ電話をしようかしら「これぞ男女平等」ですと。

2007年6月26日火曜日

ヤーさん

私は日本人、外見も中身も純血日本人であるはずだ?。飛鳥の時代には国境も無くいろいろな国からいろいろな人種が日本へ足を伸ばしていたと聞くから、もしかしたら?だが、まあ一応日本人
父方は貧乏旗本の系統であったらしい。生前の父とお酒を呑んでいたときそんな話をしていた。  
「三百俵二人扶持ぐらい?」と聞いたら「まあ、そんなとこだろう、三百俵は貰っていなかっただろう」などと云っていた。それ故か明治の初期父方の祖父は県庁のお役人をしていた。 さしずめ明治維新の後、そのまま下級武士は役人の職にありついたのかもしれない。
父は兄弟五人、妹一人。その五人の息子が明治、大正の時代に全員大学教育を受けているのだから祖父は中々の教育熱心だった。一人娘も産婆の仕事をしていたそうだ。 昔の職業婦人の草分けとしたいが、実はこの叔母の姑が産婆だったそうだから先輩がいたのだ。
母方の祖父は土建屋。今は建築会社経営と表現する。
大正の初期、母の記憶する家は、土建仕事の人足が「エ~お控えなすって~手前生国は...」と片手を後ろにまわし仁義を切っていたという。 祖父亡き後も大人しいはずの祖母が土間で渡世人の仁義を作法通りに受けていたそうだ。それを想うと嬉しくなてくる。あるときそれを友人に話したらそれ以来私の血筋には「ヤーさん」が入っているとホザイタ。すると娘の直美ちゃんはどちらを向いても渡世人とギャングの血が流れていることになる。可哀想に。

私たち夫婦には二人の子供が与えられた
息子今年32歳。グラフィック アートが生業、個人としてもサイドの仕事のお客が少しづつ増えているから仕事は順調に行っているらしい。
娘今年28歳大学院の終盤戦。専攻は臨床心理学。 心療クリニックで医者の助手をして生計を立てている。 授業もインターンとしてメヂカルセンターの大学系の病院内神経科で患者に接している。

息子はピーターパン症候群ではないかと一時期心配をした。 将来の希望は?どの親も一度は聞く質問だ。
「僕幸せになりたい」と答えた。 秋夫君高校生。
人の言葉は理解に苦しむが数学なら理解が出来ると自信があったのが、大学で数学の教授が中国人。最初は数学に言葉は必要ないと軽く考えていたが、授業が始まると教授の中国アクセントの英語がまったく聞き取れず、クラス中で、「今何んて云ってんだ」「全然解らない、どうしよう」「英語使ってくれないかナー」と大騒ぎしているが、教授の方は着々とクラスを進め、全員にCやDを与えてニンマリとしている。クラスメートは一人づつ他の教授にクラス変えをしているのに、秋夫君は留まり、イライラして、数学がすっかり嫌いになってしまう極端な性格をもっている。 数学のADD(注意欠陥多動症症候群)の診断を受ければ今後一切大学で数学を必修科目から免除されると知り、「数学ADDの診断書」を手に入れようと大学の周りの医者を訪ね歩き、結局もらえなかったと嘆いていた。
友人から、父親のドイツ系の頑固と精密性、母親の日本系の几帳面と勤勉性が同居しているはずなのに、お前はどれも持ち合わせていないと言われ、「しょうがないよMade In USAだもの」と言う。数学は最低だが、ユーモアは十分に持ち合わせている。

わたしの父

父は戦前に関西の師範学校で、現在は大学に変わっているそうだが、美術科の教授をしていたと聞いている。私が産まれる前後の頃に転職てサラリーマンになった。脱サラの逆である。入りサラとでも云うのかな。
サラリーマンを73歳で退職した。定年退職はそれ以前にしたが、何となく職場を紹介されては次の場所へ行く人生だった。退職後は朝食をすまし、新聞に目を通しそれから二階のアトリエと呼んでいる板の間の部屋に篭り毎日想いのままに油絵を描いていた。「こんなに楽しい人生があったのか」と89歳で亡くなるまで絵を楽しんだ。
私の長男秋夫君がアメリカで産まれたとき初めて外孫の顔を見るために海外旅行を試みた。飛行場に着いて南部アメリカの壮大な空、雲の色を見て、日本の空との違いを見て仰天した。
なるほど、「ワタシはね、どうしても外国人の絵描きの絵になじめなかったのだよ。でもこれで解った。絵空事ではなかったのだナー」空に風景があるんだね。雲が絵を画いている。全ての色が違うんだよ。 明るいね。なるほど、本当に明るいね。と感心していた。
それ以後、外国の空と空気に目覚めたち父はスケッチブックを片手に、母と一緒にヨーロッパ、アジア、を目指して旅行を繰り返し、八十四歳の時に「慶安」への旅を息子に引率してもらって出かけたのが最後の旅だった。
父の弟に雑誌の挿絵画家も居たのだから、案外美術系のDNAがあるのかもしれない。
隔世遺伝なのか、私の息子の秋夫君も大学は美術科。しかしこちらは写真科。写真だけでは食べられないと承知していて、今はコンピュターのグラフィック デザインで生業(なりわい)を立てている。一生涯に一冊でいいから「写真」の本を出版して見たいと希望は大きい。
私は写真は嫌いだ。カメラも持っていない。思い出は心の中になどと嫌味を言っているが本当は写真を撮られることが嫌いだ。 色白のマルポチャは写真には不向き。細面で凹凸のはっきりしている少々褐色の肌が宜しいようで。 色白は七難隠すなんてあれは写真に限り嘘。
「私は写真写りが悪い」と言ったら「写真は正直だからね~」と返した知人が居た。 勿論彼女は友人ではない。ただの知り合い。
夫と私は国籍が違う。彼はドイツとフランスとチェコの混血。雑種である。今時アメリカ人の血統で混ざっていない人を探すのは困難であろう。二十年ほど前になるがある白人女性の歌手が白人と結婚、子を産んだら黒人の子が出てきたという事件が起きた。亭主は猜疑の目で見るし、本人は、ハテ何処で何時私は?といろいろと悩んだことであろう。彼女の祖母の代で黒人との結婚が一組あったのだそうだ。それを云わなかった母親を彼女は告訴した。 血筋にたいして子供に正確に伝えなかったという理由。然し勝訴しても何が残るのかしら。

主人はドイツ人の頑固とアメリカ人の陽気性が同居している。三代前にドイツから三人の兄弟が船でガルベストン港から移民して。彼等の言葉を借りると「三人の兄弟が船から飛び降りた」と言うのだそうだ。それを言葉のまま受け取っていた娘は、自分は「不法侵入の移民の子孫」と信じていたらしい。最近になってそれが言葉のあやだと知り驚いていた。おまけに父親がこと在るごとに、自分の父親はカジノの「バッグボーイ」だったと云う。その昔ガルベストン港にカジノが存在して居た頃、賭博所から賭博所までの現金輸送は少年達の仕事だった。モノクロ映画の時代のように、吊りズボンにハンチングの少年が雑踏の中を紙袋に   入った現金をもって走り回っていた、あの種の少年だった。
娘の直美ちゃんは、不侵入の子孫ばかりか、ギャングの子孫でもあったのだ。可哀想に。 

2007年6月23日土曜日

ヨイショ

ベトナム戦争が終わって三十余年。避難民受け入れの州としては最大数の人口がこの街へ入居した。一所帯月四百ドルの援助と子供の学資の保証。子供達が成長して大学進学希望者には成績がB平均をとっている限りその州が学資を援助する。しかし働き者のベトナムの人達はその援助を十二分に活用して大きなベトナム社会をこの街に築いた。この大きな街の一角は道の表示もベトナム語や中国語の言葉に書き変えられ、新しい建物の景色はここはアメリカだろうかと勘違いするほど町並みが変わり、東洋の建物の中に銀行や弁護士の事務所が入居している。  
一世が事業を起こす際は、マイノリテイー援助を建前としている国から銀行融資はこの土地の住民より優先的に援助がうけられる。 一世は中国ベトナム食料品店、ビューテイーサロン、マニキュアサロン、レストラン、酒屋、クリーニング屋。この土地で生まれた二世は弁護士、警察官、会計士、医者といろいろな職業につき、アメリカの中産階級にしっかりと根をおろしている。マイノリテイーの格差から云えば、黒人、ヒスパニックを乗り越えて中国系やインド系としのぎを削っているようだ。
両親に連れられてきた女の赤ちゃんが歯医者になり、研修生を終ると同時に診療所を居ぬきのままサット買える援助を州の銀行が出してくれる。  これをダブルマイノリテイーと云いう。同じ融資でも女性であるほうがなお宜しいのだ。

イタリーからのピザ、メキシコからのタマーリー、そしてベトナムからの春巻きや米の粉でつくったうどん(Pho)などはもうじきアメリカ料理に入りそうなほど店の数が増えている。こんなにベトナムの麺類が喜ばれるのなら、日本のラーメンの店を開けたらずいぶんと繁盛するのではいかと考えるが、日本食店は合いも変わらず「寿司屋」しか開かない。何故かこの南部の街にはラーメン屋がない。

もうあまり会うことは無くなったが、私は一人のベトナム女性と知り合った。彼女の下の二人の子供と我が家の子供二人が同じスイミング チームとカトリックの教会の火曜日の子供のクラスで一緒だった。
彼女には五人の子供が居る。 ベトナムから連れて来た二人。この土地に来てから産まれた子が三人。上の三人と下の二人のお父さんが違うのは一目で解る。

ハノイ崩壊、米兵撤退最後の日。彼女は二人の子供を抱えて南ベトナム軍の兵隊として出兵していた夫を待っていた。  もうアメリカ軍の全てのヘリコプターは飛び立ち、輸送用のC5Aも米兵とベトナム人を満載してドンドン飛び立っている。 北ベトナム軍はもうそこまで来ている、部落全体の人達が出来得る限りの持ち物を手にして輸送用飛行機に駆け込んでいた。 この女性も早く乗ろうと手荷物はしっかりと掴み、両脇に子供を立たせて夫の来るのを待ったが現れない。 逃げてくる同国の人達に主人のことを聞いて歩くが、答えは、知らない、聞かない、合わなかった、見なかった、そして、多分死んだよとしか答えが返ってこない。  
其のうちにスピーカーが、何分後に最後のC5A輸送用飛行機が飛び立つとがなりたてている。 もしこれに乗り遅れたらもう此処からは出られない、それは兵隊も同じ、最後まで残っていた米兵も必死に走って輸送機に飛び乗っている。。   一人の若い米兵がモタモタしている彼女を見つけて駈け寄り怒鳴っている。急げ、走れ、荷物は置きなさい、子供を抱えなさい。早く、早くと叫ぶ。やっと気持ちの踏ん切りがつき彼女も最後の輸送機へ向かうことにした。彼女は二人の幼い子供に走れと怒鳴り、自分も走り出したが、彼女はその時妊娠八ヶ月、走れるわけが無い。 
若い米兵は先の方を走っていたが、ヒョイと振り帰りモタモタしている彼女の所へ戻って来た。子供の一人を肩に担ぎ、もう一人を脇に抱え、残った手で彼女の手を引っ張って走る。C5Aにやっとたどりついたときには彼女達が本当に最後の駆け込みだった。 米兵は子供を飛行機の中へ放り込み、彼女の大きなお尻を押してヨイショヨイショ。中はベトナム人、アメリカの兵隊の群れでもうあふれるばかり。ヨイショのお兄さんが這い上がって後ろのドアはバッタンと閉まり一路アメリカへ飛び立った。

蒸し風呂のような飛行機の中の長い旅も終わり、受け入れ側のアメリカの土地についてから、難民は決められた宿舎へ落ち着く。そして始まる書類の手続きが山のよう。途方にくれた。妊娠八ヶ月でいったい自分はどうなるのだろう。主人はどうしただろう。考えるが多いが手が動かない。私ってのんびりなのよと自分を批評していた。
列に並び自分の順番が来るのを待っていたら、ヨイショの米兵がその宿舎へ入ってきた。 そしていろいろな手続きを手伝ってくれる。自分はこの後除隊して故郷へ帰るけど、考えて見たら貴女方には行く場所がないんだよね。 行き先が決まるまで手伝わしてくれと。保証人がこの米国に居る避難民から早く宿舎を出られる仕組みと知りその米兵は彼女達の保証人になってくれた。
その時彼女38歳 妊娠八ヶ月、子供二人。彼は24歳の独身。

私がこの女性に初めて逢ったのはその時から十三年後。二人は結婚十三年目。米国へ来て直ぐに産まれ落ちた子供は女の子。保証人から夫に成り代わった二人の間にも女の子と男の子が生まれ、この三十七歳の元米兵と五十一歳ベトナム女性には五人の子持ちの七人家族になり。
新しく買った寝室四部屋の二階建ての家はどう割り振りをしても人数分の勉強部屋が足りないと頭を悩ましていた。
   

2007年6月22日金曜日

セロリーソルト

終戦からニ年、焼け野原に二階建ての我が家が建った。又ニ年、あれは秋の始めの夜だった。
我が家の玄関のドアをドンドンと叩く音がする。近所の人が叩くのと音が違うようだ。 いつもだったら母が「どなた~」と声を掛けるが、この晩は父親が炬燵からやおら立ち上がり「何方様ですか」と声をかけた。
ドア越しにくぐもった声がはっきりしない。然しドアを叩きつづけている。仕方なく父が玄関の扉を開けた。
お入りなさいとも云わないのに二人の米兵がグアと玄関に滑り込み自分達でドアを後ろ手に閉めた。一人の兵隊の肩には大型進言袋がある。
慌てた父が「これお前達後ろに下がりなさい」と少しか細い声で言うが、六畳の部屋のど真ん中に炬燵があるのだ、子供三人に母親が隠れる場所なんてない。 父の後ろにへばりつき、目だけは大きくして成り行きを見る。 なんか家族がさらし者になった気分だ。街を歩くと進駐軍が二人蔓って歩くのをよく見かけるが、こう鼻先に立たれると圧迫感がある。おまけにこちらは座っているからますます彼等が大きく見える。それでも彼等はニッコリしようとしているらしいがあまり笑顔には見えない。濃いカーキの制服と六尺豊かな米兵二人。
父親は腰を抜かしたようにベッチャと座りどもったように「何ですかあなた方は、此処は民間人の家ですよ」と日本語。父が大学に行っていた頃の第二外国語はドイツ語だったそうだから英語は無理だ。多分ドイツ語でも無理だろう。普段使用していない外国語なんてのはそう簡単にスラッと出て来るはずもない。
気を取り直した父はやおら正座をし、両手を膝の上に置き、一生懸命背筋を伸ばしこの侵入者達と渡り合うつもりらしい。よく見ると一人は日本人の顔をしている。それに背丈もそれほど高くはない。ナニナニ同じ日本人ではないかと考えれば気持ちも落ち着くというものだ。

米兵は肩の袋を下に下ろし紐をほどいて中から品物を一つ一つと取り出し父の目の前に並べはじめた。日本人の顔をした兵隊が説明を始める。 「ワタシは通訳です。怖くありません。ワタシ達はアメリカ兵です。この品物を買って下さい。彼等遊ぶお金欲しいです」これは後で父が説明してくれたことで、その時は私にはそんなようには聞えなかった。なんかテニオハの抜けた妙な日本語。
目の前に並べられた品物は勿論PXから兵隊への配給品であるそうだ。缶詰めにもラベルがないし、缶の色までカーキ色の1ポンド詰めのコーヒーが三個、チョコレートが数枚、バター数ポンド、そしてコーヒー缶と同じカーキ色の缶詰め3個。これぞアメリカ版押し売りである。これは彼等の違法行為だが、チョット前を失礼と表へ出てMPを呼べるわけもなし変な日本語の二世とバカ丁寧な父の日本語の商談は始まった。

母が横で「ネーもし買わなかったらどうなるの?」と父に聞いている。
「知らんよそんなこと。買うしかしょうがないだろう」
「お金ないって云いましょうよ」と母が囁く。
払うもの払って早く追い出そうとする父と、この場になっても金は出すまいとする母との小競合いは瞬時に終わった
「オイ お前の財布持って来い」と父が手を出す。そうだ自分の財布を持ってこられても何も入っていないのは本人が知っている。もう其の頃から、父は働く人、母は使う人と選別されていた。
いくらかの現金を掴み彼等は「サンキュウー ベリマッチ、グットバイ」と玄関の外へ消えた。

コーヒーの缶詰め三個、だが我が家にはコーヒー沸かしがない。早速次の日からポコ ポコ ポコポコと噴出すコーヒー沸かしが加わり日曜になると父と母はアメリカ産コーヒーとチョコレートを楽しんでいた。 もう一つの大きな缶詰めが解らない。 中は薄茶色の粉が詰まっている。舐めると塩っぱい。しかし味がある。今迄に味わったことのない味。そこで母が一つを所属しているカトリックの教会へ持って行った。 
アイルランドから赴任している神父がその粉をひと舐めして、「アー これはセロリーソルトです」調味料の一つ、セロリーの味のする塩。肉の下味、魚のソテー、野菜炒め何でも良いと言う。母は半分を彼等のキッチンへ置きうれしげに帰って来た。

それからの我が家の食卓にはいつも唐辛子とセロリーソルトが並んで座っていた。兄が考えたレセピーはアツアツのご飯の上にバターを加えセロリーソルトを振り掛けると何となく洋食を食べているようで美味しく、いくらでもご飯が食べられる。

始めがあればいつも終わりが来る。  一年もするとそのセロリーソルトはなくなった。デパートにも、アメヤ横丁にも見つからず、自然消滅の幻の塩。

十年後、高校を卒業して、カリフォルニアの大学へ留学した。そして一年、兄から一通の手紙が来た。
「お母さん、スーパーマーケットでセロリーソルトをみつけたよ」 

   

2007年6月20日水曜日

始めまして、お邪魔します

私自身は 還暦を過ぎてもう何年にもなるけれど、夫婦で 自営業をしているので まだまだ事務所に出る。 経費の節減の一端。 家族は無給でも出勤。 別に仕事をしているなどとは云わない。
いわば電話番のようなもの。

アメリカはラジオを聴く人口が多い。車社会のせいか、運転中にラジオのトークショウを聞きながら目的地に行くとなるらしい。  私も事務所との往復、片道30分25マイルをトークショウを聴きながら運転する。 
普通は最右翼、共和党の番組が面白い。もう怒り心頭、携帯の普及から、番組中の 視聴者参加には 運転しながらがなりたてる。
それを車の中や 事務所で電話番をしながら聞いていると、「人生腹を立てているのは私ばからじゃないわい」と嬉しくなる。ガンバレヤ~

「アメリカは滅びる」これが彼等の心配事。建国300年のアメリカ、日本だとまだ安土桃山の時代にも到着していない歴史の浅い国だが、現在はメキシコからの違法移住者が1.2億も居るそうだ。
カリフォルニアの州立救急病院が幾つも閉鎖を強いられているとか。小指の先を切っても救急車を呼んで病院へ駆け込むが、勿論料金は支払わない。そんな住民がどの救急病院にも人いきれがするほど押し寄せている。病院代を支払わなくても、せめて税金を収めてくれれば、州立は経済的に維持出来るけど、それもダメ。病院は仕方なくも崩壊の一歩を進む。

この街もお隣のメキシコさんとは国境線で繋がっているだけ。もうアメリカなのかメキシコなのか分からない。ウォールマートという百貨店などへ行くと英語は聞えない。テックスメックスしか聞えない。  テックスメックスとはメキシコ人の使う言葉。スペイン人に言わせると彼等の言葉はスペイン語ではないのだそうだ。あえて言うならメキシコ語だそう。しかしテキサスとメキシコが混ざって、このテキサスに住んでいるメキシコ人の言葉をTex Mex と呼ぶ。時々メキシコ料理のレストランに Tex Mex Food と書いてある。あえて言えばテキサス風メキシコ料理となるのかな。彼等の言葉もそうらしい。

一つの文章の中に必ず一つか二つの英語の単語が入る。彼等の間でも自国語で文章全体を並べないらしい。これは、少し日本語に似ているかな? 日本語でも結構英語が混ざった文章で話す人が多い。 私自身英語の会話には日本語が入らないのに、日本語の時はなるべく混ぜないように心がけるけど英語の単語が入る。
終戦直後にカリフォルニアに移住していた遠い親戚の伯母が
「アーちゃんの娘はハズバンドが居ないのに、どうしてベイビーが産まれた」と聞いたことがある。