2007年7月25日水曜日

ボーイスカウト 1

六歳で始めたカブ スカウトから ウイーブロ、ボーイスカウトとあれから十一年。 十八歳で終わるまでにイーグル(最高ランク)を早く取らなければと少し秋夫君は忙しい。いろいろと経験を積まなければ貰えないランクだからだ。

冬はクリスマスの後、夏は学校の夏休みに開かれる二週間の大キャンプ。これは遠距離の大きな牧場まで行く。私も家族参加の日にこのキャンプ場へ一日参加をした。あまりに大きキャンプ場ゆえ食事の場所と少年達の活動の場所が大きく分かれていた。日に三度の食事をスカウト達は二十分も丘を登っていく。 勿論一日参加の両親達も同じ。待ちに待った昼食の鐘。 誰もその丘のことを教えてくれなかった私は息子の後ろを勢い良く歩き出した。その屈辱の丘を私は登りきれず二人のスカウト少年に手を引っ張ってもらい、息子に後を押して貰ってのテント到着だった。 でも私はまだ良いほうだ、それでもスカウト達と一緒に食事にありつけたのだから。 中には登りきれずに、息子から食事を運んでもらった母親も居たそうだ。

普通は第三週の週末二泊のキャンプは六十マイルほど離れた林の中。息子は数えること四十五回のキャンプ経験者になっている。 今年は彼も小隊長。十人のスカウトの面倒を見ている。 キャンプ出発前の隊長は週末の献立を決め食料の買出しもする。 経費は頭数で割り、見送りにくる父兄から支払ってもらうのが彼のやり方。後払いの徴収は難しいことをもう彼は知っている。

トラビスは秋夫君と高校の同級生。彼は母子家庭の子。母親は離婚した夫を信じられなかったと、彼が置いていった息子も決して信じない。 別れた夫への恨みを残された子供へ転換する女性の一人だろう。親子の摩擦は傍目に見ても時々すさまじい、それゆえか時々週末は我が家に泊まりに来る。

私が夕食の買い物から帰ると黙って車のトランクから食料品を出し台所まで運ぶ。食事が始まる前はゲームを止めて戸棚から食器をだして並べる。食後はテーブルのかたずけ、極めつけは翌朝自分の寝たベットのシーツをはがして洗濯物の籠へ入れて帰っていく。 何処から見ても十七歳の少年とは見えない。

トラビスの母親が暫くぶりに今月のキャンプへ行っても良いと許可をくれた。 金曜日の放課後急ぎ帰り彼は準備を始めた。バックサックに荷物は全部入れた。制服も着た。後は家を出るだけと、その瞬間ドアが開き母親が帰宅した。彼女は離婚後公認会計士のライセンスを取るために金曜日は仕事の後夜学へ行くはずの日だったが帰宅した。そして真っ直ぐにトラビスの部屋へ入り、彼のベットの下へ手を入れた。彼女が取り出したのはもう採点も終わっている試験答案紙だった。すでに紙くずも同じだ。しかし彼女はいきりたった。 ベットの下にあるとは、私に見られたら困るからでしょう?何故隠すと怒鳴る。試験の点数はそれほど悪くない。そんなときトラビスは決して弁明しない。 その価値がないことは十分知っているから。 彼女は今日気分が悪いだけなのだ、だからトラビスにも楽しんでもらいたくないそれだけのこと。
トラビスはキャンプ不参加となった。

一名隊員が抜けた。 秋夫君はトラビスの分の集金が出来ない。 良くある話だ。 買ってしまった食料品は結局他の隊員が食べるのだからと彼はトラビスの分を残った頭数で他の隊員へ振り分けて集金した。一人頭セイゼイ十ニー三ドルの額を九等分しただけのことだ。

キャンプが終わって一週間。隊員の一人の母親がそれを知りスカウトの大隊長に報告した。秋夫君の処理は一人の隊員の迷惑を他の人に押し付けたというのだ。
「ママ、悪いことをしての結果なら僕はトラビスへ請求出来るけど、あれは彼の母親の嫌がらせなんだからそれでも請求すれば又トラビスの母親がヒステリーを起こすだけだよ。僕出来ないよ」
しかしかの母親は後に引かない。 リーダー剥奪をすると秋夫君に電話で脅かしをかける。世の中どうでもよいことに猛烈に怒りを持つ人が居るらしい。
秋夫君はこの母親の怒りの理由を知っている。 彼女の息子がキャンプ場で怠け、鉄鍋の底を洗うはめになったからだ。それを息子から言いつけられた母親は我慢が出来ない。
「アナタが鍋洗いさせたの?」と秋夫に聞いてみた
「そうだよ、彼どうしよもない怠け者だから三つほどの鍋を洗わした。 彼はいつも自分がやらなければ誰かがしてくれるといつも決め込むから。 しかしママ、女って嫌だね」 
スイマセン

2007年7月19日木曜日

直美17歳 つづき

直美ちゃんはやはりいつかは結婚したいそうだ。子供は二人が望み。誠に宜しい。
子供を産むとなれば必ずある産前産後の休み、その後3歳保育園へ行くまでは母親の手で育てたい。子供の成長過程を見守る喜びを味わってもらいたい。その間少なくとも4年は仕事から離れるとして、その後の職場復帰の可能な仕事。子供の成長に合わせた下校時に母親が家に居る生活は情緒教育の上出来ればこれも必要である。それから、まだ早いが、将来の娘の伴侶の仕事のことも考慮にいれなければなるまい。 間違っても単身赴任などと家庭崩壊の予備軍のようなことも困る。妻がいさぎよく職場を変えることの出来る仕事。 やれやれこれは大変な事である。

そんなにまでして「働く女」にする必要があるのか?そうではない。一人の女性として、自分の専門職を持ってもらいたいのだ。所詮人生は計画通り希望通りには進まない。いつの日か過去への悔恨を引いて、あの時こうしておけば私の人生はもっと違っていたのに。どれだけの人がそう呟いているだろう。 だから、出来るときに、選択の機会が恵まれている今考えて見たかった。どうせ一度の人生、やるだけやるさ。

ライセンスの必要な職業。これが私の結論。 ライセンス保持なら、それを更新しているかぎり休職しても、復帰は難なく出来る。 

まず弁護士。 娘は職業選択テストを何度か受けたという。結果は何度受けても「弁護士」が最適と出る。無口で議論を極端に嫌うこの娘がと不思議。だが弁護士への道は大きな障害がある。彼女の父親である。彼はゴキブリの如くに弁護士を嫌う。 「世の中の弁護士を一列に並べて、端から連発銃で撃てば世の中が住みよくなる」と恥ずかしげもなく言う。 同じ屋根の下でこういう同居人は困るであろう。
しかし一がいにその意見を責められない。現在のアメリカに「正義」はない。 正義とは金の力である。弁護士社会が国から正義を取り去った。少し前のタイム マガジンに統計が出ていた、世界の中でもっとも弁護士人口の多い国はインドだという。それ故にインドの国からは生産物は出ない。 物を生産する前に理屈をこね、搾取を考え、訴訟を生産するから。己の国の人口増加や貧困を是正する以前に、豊かな国を批判し、融資を引き出す。しかしもし誠の正義が行われている国がこの世に存在しているならば私はその地へ移りたい。今だ開発途上の原始的な生活に近い国はお断り。内乱で自国民同士が殺しあう国もお断り。 近代国で、教育程度が多少あり、多少豊かで、電気もガスも水道もあり、娯楽もあり、食料の豊かな国で、まだ「正義」が罷り通っている国があるだろうか?
貧困の国には正義があるのだろうか? 原始的な国には正義はあるのだろうか?もうこうなると、「正義」が何か解らなくなる。  
又娘の調査によると、女性弁護士の大半は先へ進むほどに男性ホルモンの分泌が異常に増えるのだそう。闘争心を養い、議論を由とする訓練の結果男性的になるらしい。
知り合いの男性弁護士が偶然に訴訟相手の女性弁護士と裁判所のドアでかち合った。彼はドアを開けて、「どうぞお先に」と示したら、その女性弁護士が「ドアは自分で開けます。私を女性と思わないで下さい。私を弁護士と思ってください」と怒られたそうだ。それは困る。私は娘を産んだ。私の可憐な娘が歩く前には数多の男性がドアを開けて欲しい。

警察官: 小粒の娘がピストルを腰に大男の窃盗犯を追いかけて、さてどうするかだ。

社会福祉官:これは警察官より危険な仕事だ。武器を持たず貧民街での排他的な生活をしている人達の中へ入ることは危ない。 世の中は情熱と愛情が通じないヤカラが多すぎる。理屈や夢では成り立たないのも人生。現実を見つめましょう。

教師: これは即座に却下された。高校生までの生徒との接触はゴメンという。忍耐がないそうだ。
「ママ、教師って薄給でしょう?わたしお金欲しい」さよか~ 
 
医者: これはダメである。彼女は死体解剖の授業の前にモルモットやウサギの糞の掃除も出来ない。これは保証する。我が家に愛犬が居たときも、現在居る猫でも彼女動物の汚物の掃除ができない。やる気を起こしてそばへ寄っても ゲーッと始めてトイレへ走る。
子供が欲しいなどと言っているが、オシメはどうやって取り替えるのだろうと聞いたら、アラそのために父親が居るのでしょう?と来た。人を頼るととんでもない手違いがことを知ることだろう。この子がいつの日か母親になって最初に赤ん坊のオシメを取り替えるとき私は側に居てしっかりとその瞬間を見たい。その為には長生きをしなければ。

血を見ないで、手術もない、解剖もない医者家業があった。 精神科だ。夜勤も少ないだろうし、夜中の救急病院の仕事でもあるまい。それに、大学の講師の道もある。これならば子供の夏休み冬休みには一緒に居られる。
私の提案に直美ちゃんは考え込んでしまった。そうであろう、レストランでメニューの中から一品を選ぶのに二十分は必要な娘だ。十分に考えたらいい。まだ時間はある。

「それで、わたし結婚は何時するの?」やはり乙女心は結婚にあこがれるらしい。相手も居ないでどうして心配するのだろう。 
結婚はいつでもするが良い。相手が現れ、この人と思ったらいつでもするが良い。 ただ結婚が人生の究極としてもらっては困る。結婚で女の人生は止めてはいけない。家庭を持ってそれが幸せならそこに留まるがいい。家庭の中で時間が出来たら又自分の専門職にもどればいい。いろいろな事情で戻れなかったらそれも人生。兎に角娘には自分の将来に真剣に向きあって貰いたい。
まあこんなところが母親の望みであるが、さて選択権を持たない私は自分の出来る考えを提供はするだけ。 あとは娘がどの道を選ぶかは本人次第。 母親の私が進むのではない。考えてあげる以外に何も他にしてあげられない。 ただ自分の悔いのない道を歩んでもらいたい。

 

2007年7月14日土曜日

直美17歳

娘の直美から大学進学の相談を受けた。息子が大学へ進んだとき授業料の問題が出るまでは部外者であった私にはうれしいことである。さあこれは忙しくなる。

さて娘の得意性はなんだろうと考える。 運動神経は抜群に良い。水泳は6歳から始めて高校は水泳部に所属していた。 155センチの超小型の女の子にしてみれば、180センチにとどく大型の女子高校生も混じる部員の中で今迄良く頑張った。全て練習量のなせる業であったが、肩を痛め鎮静剤を飲みながらのレースには本人が限界を知って三年生で辞めた。ちなみにアメリカの高校は四年間。



まずお転婆である。5歳の時、家の前で秋夫君が数人と取っ組み合いの喧嘩をしているのを見てお兄ちゃん 危うしと家の中へ駆け込み、東京のオジイチャンがくれた木刀を持ち出して振り回し男の子達を蹴散らかしたのも直美ちゃん。自分の身長より長い木刀を振り回す姿は中々傑作だった。


6歳でバレーとピアノを始める。 7歳のバレーのリサイタルの時丁度東京のお婆ちゃんが来ていた。 「白鳥の踊り」むろん直美ちゃんたちは湖畔で羽根をバタバタする白鳥の群れのはずだったが、お婆ちゃんは「ダチョウの踊りだね」と批評した。
ピアノの才能はない。まず音感がない。音楽の才能はお兄ちゃんに持っていかれたようだ。秋夫君はいつもピアノの先生から、「秋夫ちゃん大好き」と言われていた。今でもギターは楽しんでいる。  彼のアパートへ行くとベットの横、食卓の横とテレビの前のソフャーと三本のギターが立てかけてある。 毎日の生活の中でその三箇所に必ず座る、その時ギターを抱え込んでのテレビ観戦や食事に入るのだそうだ。
「お兄ちゃんは芸術センスは私の分もママから貰ったけれど、脳みそは忘れていったから私が二つ持て出てきた」と嬉しげである。
だから成績は良い。まあアメリカの学校は高校まではあまり勉強しなくても「A」が取れるようになっている。

それにつけても想いだすのは私が高校三年生のあの日だ。
結婚した姉が実家へ遊びに来ていた土曜の午後だった。 二階から降りて来る途中で自分の名前が聞えたので足を止めた。姉が母に、高校を卒業してからの妹の進路を聞いている。 
「どうって、大学へやるよりしょうがないでしょう。 だってあの子雑巾一つ縫えないのよ。どうするの、どっかの大学へ入れて、卒業したら適当なところ見つけて嫁にくれるよりしょうがないでしょう」
母の言葉、ショック、「嫁にくれる」とは何だ。結婚ではない、嫁にくれるという言葉の表現に驚いた。 女性が女性蔑視の先方を荷っている。世間の母親達が女性の向上心を阻止している。 自分の意志で人生を選ばず、自分の力で生活することを由とせず「女は三界に家なし」自分達で造った言葉に自分達で合点している。

その昔から、女医、産婆、教員、看護婦、賄い婦 女性でしか出来ない仕事はいくらでもあった、皆働いてきた。農家の主婦、商家の主婦、家業を手伝いながら子育てもする女性はいたが、世にサラリーマンの言葉が出来たときから彼等の妻が家庭に残り、婆抜き、とか昼寝つきなどという言葉が生まれた。そして主婦とはこう在るべきという気風を広めた。 母の実家は土建屋だったそうだが、兄弟姉妹全て商売人の道を進んでいる。 料理屋、八百屋、米屋(精米所、)工務店、何でも在りだが、どの伯母達も独楽鼠のように働いている。しかし給料取りと結婚した母は、自分の結婚が一番幸せだと言う。何故なら働かなくて良いから。

月曜の朝になると母が出勤する父の財布の中をのぞき
「お父さん、お小遣いお財布に入れておきましたよ。  先週はだいぶ遣いましたね、何を買いました?」
「俺は何も買ってないゾ、昼飯食っただけだ」
「そうですか?」
だが父は昼間呉服屋が大風呂敷を担いでこの家に現れ、その都度母の箪笥の中の着物の数が増えているのを知らない。
時折母の外出姿を見て父が
「オイ、その着物きれいだな、新しいのか?」そんな単純な言葉へ
「お父さんはそんなこと知らなくていいのですよ。うるさいですね」
「ソーカ、わるかったな」でおしまい。
 
私の知人が食料品店で店員のアルバイトをしている奥さんが居る。 彼女の夫は昼間はサラリーマンだが、夜間の短大で週三日講師のアルバイトをしている。 その夫が自分の余録の収入で魚釣りの道具を買った。彼女は猛烈に怒った。自分に相談しないで無駄遣いをしたという。彼女はその余録で二人で旅行を考えていたのだ。
夫は、これは自分のアルバイトの給料であって、昼間の仕事の給料は全部君の手元に行くではないか、それに君のアルバイト代を遣ったのではないと弁明したが、エスカレートした彼女は、男が妻のアルバイト代に気を回すとは情けないと烈火した。
「私が働いたお金は私の物です」
その彼女の息子が結婚して共働きをしている。若い二人は給料を全額出し合って一つの口座へ入れて生活しているのを見て、彼女は愚痴る。 「息子が可哀想よ。あの子の給料の方がずっと高額なのよ。不公平だと思わない?」
彼女には娘が居る。現在婚約中。知人はその娘に知恵を授けている。 
アノネ、結婚したら決して給料は彼のと一緒にしちゃダメよ。貴女のは別口座にしなさいよ。 生活費の中へ加えてはダメよ。自分の給料は自分の物としっかりともっていなさい。  女性とは摩訶不思議な生き物なり。

 

2007年7月10日火曜日

お向かいのテイラーさん

お向かいに住むテイラーさんと我が家の主人は同じ場所に猟場のリースを持っている。これは双方の連れ合いが考えたことで、猟場へ間違っても同行者が居ないからと一人で出かけないようにとの愛情深い配慮からの結果。年齢に関係なく一人で人気のない森の中や林でキャンプをして心臓麻痺だ怪我だと騒いでもどうしようもない。いつも二人仲良く出かけて行ってもらわなければと、猟場の下見には私たち女性軍も同行しての調査の結果現在の場所になっている。
片道四時間、300マイルほどの距離。日帰りは少し無理な場所だが、あまり街から近いとメンバーの数も増え、これはいろいろな面で危険になる。

夏場は猟をしないが、その代わりする事はいろいろある。自分が立てたブラインドの近くに鹿がたむろするように仕掛けなければ「イザ鎌倉」と云っても何にもならない。まず射程距離内に大きな塩の塊を埋め込む。動物が習慣的に塩を舐めにくるように仕向ける為だ。そしてトウモロコシも近辺にばら撒く。人によっては高いポールを立て、巨大なバケツを上に取り付け、その中に乾燥トウモロコシを入れる。 鹿が塩を舐め、側にある棒に頭を寄せ角をこすり始めると上のバケツがゆらゆらと揺れて、開けておいた穴から餌がパラパラと落ちてくるのだそうだ。中にはロープを下げて、そのロープを鹿が引っ張ると餌が落ちる仕掛けを考えている御仁も居る。鹿がそこに立つと足元のレバーがクリックして上に仕掛けてあるバケツの底が開きトウモロコシがばら撒かれるのなど、いろいろ考えているようだ。
鹿の家族がいつも同じ場所に塩を舐めに来て、側に立っているポールで角を磨き、ついでに落ちてくる餌を食べ、それから数歩歩いて紐を引っ張り又餌を食べてから自分の場所へご帰還になるのだ。そんな仕組みを知って餌を我が物にする頭脳明晰な鹿が冬になるとどうして人間様に撃たれるのかと理解に苦しむが。 多分鹿の人口?が増え過ぎて、口減らしが必要になり、「楢山節考」の如く哀れにも年寄りの鹿がライフルの前に身を投げ出すのだろうか?

一年間のリース代。 幾度も出かける大型トラックのガソリン代、夏は暑いし、シャワーを浴びる必要があるからと泊まる近場のモーテル代、大袋で幾つも買うトウモロコシ代、毎年更新される猟のライセンス代、冬場になってのお出かけ代、獲れたときの肉を解体してからの肉屋の加工賃、もう一頭の鹿肉の値段は牛の霜降りステーキ肉に値する。それが男のロマンなのだそうだ。

ブラインドの補正や修正。ペンキの塗り替え、時には新しく作り変えたりも夏場の仕事。
お向かいのテイラーさんもその年は新しいブラインドを作り猟場へ持っていくと決めた。週日の夜と週末を利用して毎日ガレージで大工仕事に忙しい。
まずブラインドの仕上げ。見張りの穴、出入りのドアと工夫に余年がない。小さな箱に自分の体を押し込めて、座ってみたり、寝転んでみたり、ライフルを構える格好をしたりと本当に忙しい。それが終わって次は櫓造り。 二メートルの高さにすると決めた。毎晩夜になるとお向かいから楽しげな大工仕事の音が聞えてくる。ご近所の旦那軍も暇さえあれば集まって、あーでもない、こうーでもないと男性軍も中々かしましい。

或る日の土曜の朝、まだ朝食の最中にテイラーさんがドアをノックした。
「チョット来てくれないか? 櫓が昨晩でき上がったよ」
喜んでいいはずのテイラーさんがあまり嬉しげでない。
どうせなら思い切り高くしようとガレージの天井に付くまでの大型を造った。そう、櫓がガレージから出なくなったのだ。あまりの高さで横へ傾ける方法がない。傾けられなければ出せない。櫓はどちらにも倒れず四つの足を広げて中でフンバッテ居るそうだ。
「じゃ解体しなけりゃナ」
「しかし、あれを組み立てるのに一ヶ月掛かったんだ。 嫌だよ」
家の中で船を組み立てた男の話を彼等は知っているのかナー
     
     

2007年7月7日土曜日

初めての鹿狩り

毎年十一月第一週は鹿狩りの解禁日。可愛いバンビが孤児になる季節。哀悼の意を表します。
我が家の主人は自称ハンター。猟シーズンが過ぎると冷凍庫に哀れにも解体された鹿肉がソーセージ、ひき肉、ステーキとなって眠る。
娘の直美ちゃんは一徹して小鹿が可哀想と食さない。食卓に出されたものは必ず食べるのを躾と子供を育てているが、鹿肉に関しては私も大目にみる。「反対勢力」も意味のあるものなら、そこはそれ政府も考慮しなければいけない。

獲物を持ち帰った男達には鹿肉は牛のヒレ肉より美味らしい。大鹿を二頭も持ち込まれるとこちらは一年中何かと言えばそれを食卓に出すように強制される。 本当は懇願するのだが、鹿肉の嫌な私には強制と感じる。
カレー、シチューなど長時間煮込むが何故かあまりやわらかくならない。どだい脂のない肉は美味しくない。トンカツのように衣をつけて揚げたほうがいくらか食べられるが。一般に皆ソーセージをつくる。
 
我が家でも一度試したことがある。肉屋から腸詰めの袋を買い、豚肉と混ぜてひき肉にし、香辛料を加え、腸の中へ詰め込む。挽き肉器から搾り出す肉を破かないように詰めるのにはやはり練習がいる。ゆっくりと押し出して、ヤレヤレ一本、二本と出来たがそこまでで主人は台所から消えた。
「君もやってみたいだろう?」とエプロンを手渡してそれきり、この先がない。仕事だ、時間がない。疲れたと逃げるだけ。そして又週末が来るとイソイソと猟銃を持ってお泊りに行く。しかし、鹿肉一頭分の肉と大量の豚肉は冷蔵庫の中で出番を待ている。結局妻の仕事となり、生肉と血の臭いと戦いならがのにわか肉屋は頭が痛くなる。 最初からする気もないのが強制労働の果てのソーセージは日曜日の朝食に姿を表すとあの臭いが戻り食が細くなるのは致し方ない。

今年の解禁日には息子を同行することに決まった。ある大きな農場主からの招待で数人のハンターが集まり、冬に備えて農場近辺の鹿の数を減らす。冬場に食べる物が見つからない鹿が民家や農場を荒らすのは致し方ないが、やはり荒らされる側には彼等の理屈があるのだろう。死活問題だそう。しかしそこにもルールがある。 その季節によって雄が多いとき雌が多いときで規則は変わり、 普通一人のハンターは一シーズンで二頭までが決まり。月ぎめで牡鹿と雌鹿の獲る時期も違う。又獲れる牡鹿は角が付いている必要がある。 子供の牡鹿にも小さな角がある。そこで、角は普通の男性の結婚指輪のサイズほどの太さを角と呼ぶ。昔から猟は食べるだけ獲れというのが規律だから、友人が肉が欲しいと言うからとか、獲るのが面白いからとその季節で決められた規律以上をハントすることは禁じられている。

秋夫君の初めての猟。銃の扱いの再訓練、射撃場でのライフル射撃の練習、夜はガレージで弾造りの仕事。毎夜遅くまで薬きょうを並べ、鉛を溶かし、火薬を詰めてと父と息子の楽しい時は流れる。世の父親達が息子へ順繰りに伝えていく男の世界の習慣は見ていて微笑ましい。

解禁日が近ずくと男達は髭を剃るのを止める。 山男を装う為だ。 動物は臭いに敏感だからと猟場でアフターシェーブなどご法度。石鹸の臭いも彼等に悟られるそうだから無論シャワーも浴びない。
朝食には彼等はキャンプ場でコーヒーも沸かす、ベーコンも焼く、中には葉巻を吸う男も居る。その臭いはどうなるのだろうと聞いたが返事は来なかった。

髭だらけのハンターに混ざったヒョロヒョロの16歳の少年が一人前にお父さんのライフルを腰の脇に下げ、各々決められたブラインドへ消える。 二メートル近いやぐらの上に備えられた木箱。半畳ほどの広さの木箱に座ると目の高さの個所に二十センチほどの開きがある。そこから見張り、ライフルの突端を突き出す。人によっては木の上に登り待つ。 一時間、二時間、三時間と待つ間聞えてくるのは鳥のさえずりや子動物の走る音。秋夫君の父親がこよなく愛する静寂の時間。 

二日目、息を静めて待つこと二時間。牡鹿がヒョイと首を出した。 三十メートルほど離れたブラインドに居る父親にも見えた、彼は心の中で囁いた「息子よ今だ」秋夫君の一発 ズドーン見事に仕留めた。

最近では一般のハンターは獲物をそのままトラックに積み肉屋に持って行けば処理してくれる。一週間もして受け取りに行けば、ソーセージ、ステーキ肉と書き込んだ包みを手渡してくれる。しかしこのグループはそれを認めない。自分の獲物は最後まで自分で面倒をみる。秋夫君も荒縄で牡鹿を縛り、その端を肩にかけズルッ ズルッとキャンプ場まで引っ張る。大木の枝に鹿を吊るす。男達はその場に輪になり、父親がバックナイフを息子に手渡し皮剥ぎの作業に取り掛かる。
ビールの呑みながら男達は秋夫君に頑張れと声援をおくり最後に一人の男が鹿の後ろ足二本の真中にある突起物をしっかりと掴み下へ引っ張れと言った。素直にそれに従った秋夫君は牡鹿から最後の仕返しを受け飛び跳ねる。
農場主から、秋夫おめでとうとビールを一本手渡され、始めてのビールを瓶ごともらいラッパ呑みを許された。

2007年7月5日木曜日

わたし27歳

この時期に父親が東京で小さな運送会社を運営していた。 印刷会社の傍系で印刷物全般の運搬を受け持つ。 トラックの運転手は殆ど地方からの若者が多く、運転免許証を持たずに入社。最初は助手席で(これをアメリカ語で言うとショットガン シートというのをご存知かな? その昔ステージ コーチの時代に、馬車を走らせる人とその横に座ってショットガンを構えてインデアンの来襲に備えていた人。 そこで車の助手席をショットガン シートと表現することがある)荷物運びの補助をしながら会社が教習所へ通わせて一人前の運転手になる。

私営の教習所が一括して何人かの未来のトラック ドライバーを格安で引き受けるのだが、ある月父が、一人分の人数が足りないが、費用自己負担であるならグループの中へ組み込んでもよいと誠に良い話をする。
毎週土曜日の早朝東京のお隣の県へ直行。駅前にはミニバスが待っている。
若き未来のドライバー達は平均25回の練習で仮免を済ましハイ サヨーナラと鮫洲行きの電車に乗り変える。「これに将来のメシが掛かっているから」みんな真面目な男達。
一括前払いのお客さまにはそれがノルマだそう。それ以上居残られると業者の儲けが薄くなるわけだ。

回数を重ねること29回。 仮免テスト一回落ち。こっちも必死である。 もう一緒に居たお友達が誰も居ない。みんな「オイ、頑張れよ」とワタシの肩を叩いて置き去りにして行った。一人残されたのだって辛いのに無情にも営業のお兄さんがワタシを事務所へ呼びつけた。
「アノネー、アンタいつ此処を出て行ってくれるの? こんなに長くいられると商売にならないんだよね、仮免落ちたんだって、困るんだよ」もう少し違う言い方があるだろうに、傷ついた。
―すみませんーと言えば少しは可愛げなのだろう。
窮鼠猫をかむという言葉があるのをコイツは知らないらしい。
「仮免は私が落ちるんではありません、この教習所が私を落とすんです。出て行ってもらいたかったら出して下さい」口からポロッと出てしまった。
「そういう言い方ないだろう、アンタが落ちるんだよ」
「私は真面目に練習しているんです。試験官はここの人でしょう?」
男の顔が真っ赤になった。
「それって試験に手加減しろってことかよ」
「私そんなこと言いましたかしら?」
「アンタって可愛い顔しているけど、口から出てくる言葉キツイネー」
―ザマーミロー 
もちろんこれは声には出さなかった。
先週の教官が私の運転を見て呟いた
「君が運転しているんじゃないんだよ、 車が君を乗せて進んでいるんだよ。此処の車はネーもう行く順序知ってんだよね」犬じゃあるまいし。でも可能性はあるかも。今でこそコンプユーターのメモリ-チップというのが在るんだから。
次の土曜日に仮免は取れた。
次は打倒「鮫洲」。 免許証が手に入っても運転する車がない。 母は運転免許は取ってもいいと許可してくれたが、車を買うなとおかしな理屈を押して来る。 「娘が自動車を運転している間自分が心配だから」と理屈に合わないことを言う。27歳にもなり仕事をして自分のサラリーをもらっている子供の生活設計や買い物へ口をさしはさむのは日本の母の典型である。
結婚して数年経つ姉の家で子供達が増えたからとマイーカー購入の話が出た。 姉も免許をと言い出したら、「止めて頂戴、そんなことをしたらお母さん心配で眠れないから、絶対に車なんて買っちゃダメよ」と阻止をした。 眠れないのなら目を覚ましていたらいい。しかし、姉夫婦は断念した。理解に苦しむ日本の母親像。今もつづく、「あのね、ママの為にアノ学校へ入学して頂戴」これである。


ペーパードライバーを心配する父から会社の乗用車を一日貸してくれる話が出た。 待ってました、運送会社だ一台ぐらい週末に使わせてくれてもバチはあたるまい。私はトラックでも少しも構わない。タイヤが四つ付いていれば何でもいい。日本の国が私個人を信用して一般自動車運転の資格の許可を与えてくれたのですぞ。

春うららかな日曜日、会社の運転手主任が自宅まで車で来てくれた。 私が乗り込むと主任も助手席に乗りこんでくる。オカシイ。なんでだろう?
「アノー」
「お嬢さん、道不案内でしょう? 僕休みですからご一緒しますよ」予定どうりに郊外を目指すが、横に座る主任が注意をして来るがそれが中々真っ当を得ている。
「サー お嬢さん、肩の力を抜いて、左側確認、右側確認、  ア~ 追い越されても自分のペースにしてください。誘いに乗ってはいけませんよ。  やはりスピードの波にのってくださいね。 渋滞を誘発しますから」
「なんですか教習所を思い出すんですけどね」
「そうですか? まだその雰囲気残ってましたか ワハハハ」
彼は運送会社へ勤める前は教習所の教官だったそうだ。  ナルホドあのニックキ営業マンはいらぬ告げ口をしたらしい。わたしの持つ自動車免許証を誰も信用していない。ワカルナー。         

2007年7月4日水曜日

秋夫16歳

秋夫君16歳 ついに来た親泣かせの自動車免許取得年齢。
15歳半から学校内に出向してくる自動車教習クラスで練習を始め、仮免まで取り16歳の誕生日が過ぎて規定の役所へ実技の試験を受けるのがこの当時の決まり。四年後の直美ちゃんの時は全てを学校内で済まし、誕生日に免許証が郵便で送られてくる組みに変わる。  暴走族一人上がりーお有難うさんでーす。秋夫君から電話が入る「ママー 予約は3時だよ。忘れないでね、 学校の前で待っているから必ず来てよ。」勇躍して試験場に向かう息子は前方をカッと睨み、鼻息まで荒く聞える。相当な興奮である。
免許証が手に入れば自由行動範囲は天井知らず、明日からは「ママ抜き」さしずめ母親に連れられて出かけるのは人生で今日が最後ぐらいに考えていることであろう。解るナー。親の方は来月からの男子25歳未満の自動車保険費をどうやりくりしようか頭が痛い。
ちなみに、女の子の場合、16―7歳であっても、妊娠をすれば、未婚でも保険料が大人並に値下げされるのをご存知だろうか。彼女は「母親」になる、すなわち大人になるからだ。 そこで妊娠をさせた男子も「父親」になるから値下げと思うがそうではない。男子にはこの規定が与えられない。
申し込み手続きに続く車の点検。 もし受験する車の保険証、車検の証明、登録番号の支払済み査証など一つを欠いても受けさせてくれない。米国では車の免許の実技に使用する車は個人負担である。

私がアメリカに着いて三ヶ月目で試験を試みた時はまったく無知であったため随分とバカをした。 夫が出張している合間に済まそうと、電話帳で見つけた試験場へタクシーで出かけた。 万が一にも落ちたときに知られるのが嫌だったからだ。
 筆記が終わり実技の予約を翌日に取り付け、翌朝再度タクシーで試験場へ出かけた。順番待ち30分、自分の番号が呼ばれた。 制服の中へ入りきれないほどの大きなお尻と胸。出ッチリ、鳩ムネの女性が車を裏の駐車場の横へ持ってこいと私に指示をする。
「車って?」
「試験用の車ですよ」
「チョット待ってよ。車の免許証の試験に来たのよ」
「だったら車持ってこなきゃ出来ないでしょう」
「免許証が無くてどうして車持ってこられの?無免許運転になってしまうでしょうが」
「誰かに運転してもらてくればいいでしょう」
「その誰かが居ないから一人で来たのよ。 ここまで運転してこられるなら試験なんていらないわ、試験用の車があるでしょう?」
制服のオネーチャンとの言い合いは延々と続くが、負けは私である。ガードマンが聞きつけて中へ割って入った。受験用の車は本人持参なんてまったく知らなかった。

秋夫君は母親と一緒に続けた路上運転半年。これは絶対と自信満々。ヨーイ スタートそして結果はバッサリと落とされた。  理由は「前方注意怠慢」前を向いて運転していてどうして前方の注意を怠ったのだろう。兎に角落ちたことは落ちた。明日の予約を取り付けて明日は敗者復活頑張ろうねと励ます。翌朝私は仕事場で従業員の一人ににその話をした。
 そこで彼女が話しによると、たまたま私たちが行った試験場は受験に来た16歳の男子には殆ど全員に最初の試験を落とす暗黙の決まりがあるのだそうだ。 少年達が路上運転ですっかり一人前の運転者の気になっている傲慢な気持ちを殺ぎ落とす目的なのだと話してくれた。何か分かるような気持ちだ。 彼女は、自分もあそこへ受けに行って落ちたし、彼女の夫も落ちたという。弟も落ちたし、義理の弟もダメ、そこで試験場の秘密を知った友人が他所の試験場へいったらパッチリ一回目で受かったそうだ。「今日再度挑戦でしょう?大丈夫、試験受けなくてもライセンスもらえるかもよ」と笑っていた。

免許証の取れた後の息子達は、アンレ我が息子はこんなに優しかったかしらと戸惑う。
「ママ、明日のミルクが足りないの知ってる、僕買ってこようか? ママ車の鍵どこ?」
「妹の水泳の練習へ僕が連れて行くから、ママ車の鍵どこ?」
「今度買い物いつ行くの?車運転してあげようか」
「今日のボーイスカウトの集会は自分で行くから、あっそうだ、友達も乗せて行くから、ママ車の鍵貸して?」 少年期の中で一番親にやさしい一ヶ月。  

2007年7月2日月曜日

直美ちゃん小学校5年生

或る日教室でクラスの黒人の女の子から「中国人」と娘の直美ちゃんは呼ばれた。これは東洋系の顔をしている私達にはよくあることで、訂正したところで本当は東洋の国々の違いなどわかってはいない。多分ヨーロッパ人の違いも理解できていないだろう。だが、ドイツ人にオマエはフランス人かと聞けばやはり「NO」と応えるのは当然のこと。ニャニヤ笑ってやりずごるヨーロッパ人にはいまだに合ったことはない。
仕事などで初めての相手と電話で会話をすると、最後に「アノー 外国人ですか?」と聞かれる、「どこの国の発音ですか?」などと聞かれることもあるが、少しでも日本を知る人とか、仕事で日本へ出張した人はあちらから「日本の人ですか?」と聞いてくる。そしてその後にどれだけ日本で楽しかったかと話は長引くのだが。

直美ちゃんも速やかに訂正した。私は中国系ではない、日本系だと。女の子は、それがどうした、中国人も日本人も同じだと返した。「日本と中国の違いもわからないのなら人にそんな事を聞くな」と、そして一言付け加えたのだ。
「私は日本人の血が入っているのよ、だから私はあなた方よりも頭が良いのよ、わかった」
婉曲に「バカ」呼ばわりをされた子は虫が治まらない。下校時に自転車通学をしている直美ちゃんを待ち伏せ、彼女が10スピードの自転車で走り始めた瞬間に後ろから長いボニーテールをワシつかみにして引っ張った。地面に叩きつけられた娘は毛がガバッと抜け、タンコブの大きいのを頭の後ろにつけてのご帰還となる。一晩中痛いコブを氷で冷やし、毛の抜けた箇所を手でさすっていた彼女は翌日かの女の子を洗面所で見つけ飛び掛ったそうだ。しかし目的達成の前に教師に現場を見つかった。暴力生徒の現場を見つかった我が娘は、父兄同伴で相手の生徒と親に謝罪するようにと日時を指定した手紙持参で帰宅。
もう中学生になっている息子は手紙持参の常習犯だ。電話の苦情、手紙での苦情本当に世の先生方はお暇でいらっしゃると感心するほど子供の逐一を親に告げる。
それらの一切の処理をしてきた私は娘までは嫌だ。「ブルータスお前もか」と云いたい。

渋る父親に、これがエスカレートしていつか娘の愛らしいの顔にナイフの傷でも付けられたら後悔するのはこちらだからと説得して学校へ追い出した。
帰宅した主人は、やはり今日の会合は母親が出席すべきだった言う。札付きの悪がきを殴りつけようとした女の子の親の顔が見たかったと教師が漏らしたのだそうだ。それなら母親の私が顔を見せるべきだという、どうみてもあの挑戦的な性格は自分から出たものではない。あれは君からだよ。失礼な話である。

主人のその意見は間違っている。以前実家の隣に住んでいたというご婦人にあったことがある。「ヘーッあのガキ大将と結婚したの?それはそれは。」と妙な目で見られた。あなたの旦那さんには昔てこずったわね、何回警察に電話をしたかしれないワ、でも何時もパトカーが来る前に逃げちゃうの。逃げ足の速いかったのは近所で一番だったわ」と話してくれた。 もっとも主人に言わせるとあの程度のことで警察を呼ぶのは税金の無駄使いだと言い訳するが。
二つ下の弟とインデアンごっこをして、弟は空気銃を持ち出し、兄は手製の弓矢をもちだしての追いかけっこになった。屋根の上に逃げた弟を兄は弓を引き狙いを定めて引いた。矢は真っ直ぐに弟の胸に突き刺さった、屋根からころげ落ちてその戦いは弟の負けとなった。  今六十代の弟はお酒が入るとシャツをたくし上げてその傷口を見せるから本当の話なのだろう。しかしこの話には続編がある。数日後、兄貴よ隙ありと見た彼は空気銃をぶっ放したが、逃げる兄のお尻に命中した。いくら酔ってシャツはたくし上げれても、さすがにパンツを下げての武勇伝は無理なようで可哀相に名誉の負傷は誰も知るところではない。