2007年10月30日火曜日

アパート

娘はまだ一人でアパート暮らしは心もとなくルームメイトを見つけた。専攻科目は違うが一緒に卒業したヘザー。同じ街に母親が居るが大学の一年生からアパート暮らし。それも一人ではない。同棲である。五歳年上の社会人。やっと未成年を出たばかりの女の子と同棲するとは不埒な男と云いたい。しかし逢ってみるとなんとも弱気な感じの優男だった。彼女たちの卒業式にニコニコと夫気取りで出席して来た。しかし間違っては困る。別にその男が彼女の学生生活を援助していたわけではない。同棲すなわちすべてが折半の四年間だった。その男にせめてもの私の嫌がらせ、「あなた四年もまえからこんな若い子と同棲なんて趣味悪いね」と言うだけだ。同じテーブルに居た娘は顔を真っ赤にして私を睨んでいたが、なに彼女の顔を見ないようにすればそれもわからんというものだ。

ヘザーは大学も卒業、就職口も決まり、数年は社会人として働き多少の貯蓄をしてから大学院へ行く計画を立てている。そこで心機一転身の回りの整理をしたい。彼女の下心は、社会人になれば又別の社会の男性との出会があるかもしれない。その期待を胸に抱いてこの際四年間一緒に暮らした男とはサヨナラをしようというのだ。そこで直美ちゃんがアパートを探していると知りルームメイトになることを提案した。「彼はどうするの?」 
「もう終わりにしようと思う」
「そんなこと出来るの?」
「出来るわよ、私がもうさよならしようって云えばどうしようもないでしょう?」
甘い、甘い。 世の中解ってないね。

初夏の土曜日、直美から呼び出しを受けた男性4名が集合した。父親、秋夫君、お邪魔虫、そして彼女の現在進行中のボーイフレンド、アダム。各自車を持ち寄り、 父親はピック アップトラックを持っているから家具は任せられる。筋肉の方はあまり頼りにならないが、労働の面では若くてピチピチしたのが三人居るから大丈夫、娘の号令一過すべての荷物を満載、5台の車は連隊を組んでアパートへ向かった。
見送った私は少しスカスカになった我が家で一抹の寂しさと、私の自由な時がやっと来たという嬉しさでニンマリ。彼女の門出であり、私の自由の身にもどる門出でもある。今晩はお祝いをしよう。 

夕方空トラックを運転して帰宅した主人はニヤニヤしている。 こちらが引越しをしているときヘザーも荷物運びに忙しかったが、彼女の「過去の人」のはずのアンドレも一生懸命自分のスーツなどを運び込んでいた。あの小さなアパートへ三人で暮らすらしいよ。

ヘザーとアンドレの話し合いはうまくいかなかった。彼女の別離の宣言に、僕は嫌です。
そろそろ自分は君との結婚を考えていたのに別れましようはないでしょう。何処までも君の行く所僕も行きます。かくして女の子二人のアパートへ一緒に入居して来た。

三人が二人用のアパートへ入ったんだ、まったくあれはアパートではないね、倉庫だよ。と笑う主人
「うそ、冗談でしょ?」
しかしこれがアメリカ人なのだ、主人も息子もなんと直美のボーイフレンドもアンドレが一緒に住むことに問題を感じない。
彼らはもう大人なんだ、自分たちでどうしたらうまく生活が成り立つか相談するだろうと動じない。

夕方娘から電話で報告があったとき、 自分のボーイフレンドが一緒に住むのは私には問題があるけど、ヘザーが同じアパートで彼と一緒に住むことを私が文句を言う意味がないという。 それに家賃が三等分になるし、みんな忙しい生活をしているから、三人が一緒になることは現在のスケジュールを見てもあまり機会はないと思う。あっても自分は少しもかまわない。 「それにママ、彼はゴミを出してくれるから便利だわ。」 彼女たちはゴミだし男がいつか粗大ゴミになることを知らない。

「世間体」という「天下の宝刀」を振り回す日本の母が知ったらどんな反応を出すことだろう。

2007年10月24日水曜日

真実?

真実は人を傷つける。肥満の人に、貴女はデブね。ブスに、貴女は不美人ね。言ってはいけないことだ。この場合真実は言ってはいけない。それでは美人にあなたは綺麗ね。やせている人に貴女はスマートね。相手を喜ばせることならいいのかな。そうなると真実を言うとは、相手を喜ばす事柄なら宜しい。それではお世辞ではないか。

本当の事だから話すのよ、と前置きして、家族だから、 夫婦だから、親子だから、友達だから、貴女が知りたいと思うからよ、などと云いながら結構耳の痛いことを話して相手の気持ちを傷つける。真実は怖い。

だいぶ昔になるが、主人と彼の友人が別の部屋で酒を呑みながら話をしていた。友人の八年も連れ添った妻が四年間も浮気をしていたのが解った。実際にはその浮気は哀れにも相手の不実から終りが来てしまった。悲しく討ちのめされた妻は立ち上がることが出来ず、八年の歳月を暮らした最愛の夫に打ち明けた。

話を聞きながら、ヨヨと泣き崩れる妻の話を聞いて友人は腰が抜けた。冗談じゃない。いったい何年その男と浮気をしていたのだと問い詰める夫に妻は、エッ浮気?違うわよ、彼は仕事場の上司なの。私たちは純粋な恋愛をしていたの。それでは自分は何なのだ?と聞く夫に、もちろん貴方も好きよ。愛しているわ。でも彼は別なのよ。私はいつでも貴方には良い妻でいたはずよ。貴方は私に満足をしていたでしょう?教えて欲しいの、私はどうすれば良いの、何故そんなに怒るの?正直に話しているのよ。

正直に話された友人は、ふざけるな~ と怒鳴りそのまま家を出た。もちろん離婚である。二股をかけられた友人はすっかり女性不信になりもう二度と女は信用せんと息巻いている。いや少し違う、彼はもう一杯スコッチを注いで涙ぐんでいるようだ。

何が一番驚いたと思う?彼女はね~ 私は真実を言っているのにどうして私から逃げるの? 自分の妻が悲しい思いをしているのにどうして慰めてくれないの?私たち夫婦は何でも真実を話し合いましょうって約束したでしょう?
そう言って自分は責められた。僕って不誠実な男か?自分は彼女の浮気なんて知りたくなかった。

妻に浮気をされた経験のない我が主人に助言が出来るわけがないのだ。経験不足である。しかし好奇心とは恐ろしいもので、隣の部屋で本を読んでいるふりをしている私の耳がダンボの耳のように大きくなった。自分の夫がどんな意見を吐くかこの際しっかりと聞いておこうと思った。

真実は言ってはいけない。「本当の事」からこの世の中は混乱がくる。もしもだよ、もしも自分が浮気したとしよう、 自分は決して女房には言わないね。何故なら彼女の心を傷つけたくないから。
例えばだよ、自分が浮気相手とベッドに居たとしよう、そこに女房が入って来たとしよう、それでも決して、決して、横に寝ている女性が浮気相手だと言ってはいけないのだ。これは何かの間違いです。どうしてこのようになったのか自分でも解りません。わたしはこの人を知りません。誤解です。錯覚です。貴女は夢を見ているのです。どんなに問い詰められても、これで離婚しますと言われても決して自分は真実を言わないね。言ったら全てがおしまいになる。それは自分が妻の気持ちを尊重するからなのだ。君の奥さんは君への配慮に欠けたらしい。
ヘエ~そうかいナ、それでは何を信じて生きたらいいの?
その後もこの二人はモソモソと話し込んでいたが、私は聞くべき事は聞いた。

ウオルトデズニーの映画「バンビ」の中でサンパーという名前のウサギが出て来る。いつも余計なことを言っては問題を起こす嫌らわれ者のウサギ。ついに業をにやしたママウサギが「If you can not say nice thing, best not say anything」とサンパーに諭す。 この台詞は案外一般化されていろいろな箇所で使われている。 私自身も何度も息子の秋夫が腕白坊主の頃にこの台詞を言って聞かせた。本当に妹を泣かせることしか言わないからだ。しかしよく考えてみると、サンパーは決して嘘を言っているのではない。人が言わないでおこうとすることを口に出すだけなのだ。すなわち彼は「真実」を表現しているだけ。しかしこの台詞は、嫌がることは言わないでおこう。相手が喜ぶことだけを言う。それが言えないのなら、いっそのこと黙っていようと示唆している。なかなか難しい。

2007年10月19日金曜日

エチオピア 2

一年間私たちと一緒に仕事をしてから彼女は飛行操縦シュミレーシオンの会社で整備員の仕事が取れた。 一年間訓練したのだ、もうはんだ付けも、ある程度のプリント基板の図式も理解できる。
 
追いかけるようにエチオピアから婚約者も亡命してきた。どのような経過を経て彼はこの国へ入国したか彼女はあまり話したがらない。アデイースが独り立ちしてすればドリスは次の人の保証人になれるわけだから順送りというわけか。   婚約者が来ても、まだ古い習慣を保っているエチオピアの社会では二人が一緒に暮らすことは許されない。新天地を目指してきても、習慣やモラルはそのままお国からもってきている。誠に宜しい。二人は早々と結婚式を計画している。しかし、国を捨てても、中身はエチオピア。やはり国でするのと同じ結婚式をするのだと張り切る。それには花嫁の父が必要だ。花嫁の父が花婿へ娘を手渡すのは大切な儀式。その花嫁の父にアデイースは私の主人にその役をやってくれと頼んだ。

かの国の習慣がどんなか知識もなく、アメリカでする結婚式、もちろんアメリカ式に近いものと勝手に決め込んだ主人は二つ返事でOK。しかし始まってみて驚いた、なんと結婚式の儀式は三日間続く。
第一日目は「結婚式」これは直々の親族だけで執り行なうのだそう。儀式はメソジスト教会でエチオピアの牧師によりつつがなく「娘」を花婿へ渡したとうれしそうに主人は帰宅。そして翌日は披露宴。
 
あのアフリカ独特の雄叫び、喉の奥から絞りだすような高い声でヒラヒラヒラー、ヒラヒラヒラー (私にはそう聞こえた)とおおぜいの女性達が叫びながら花嫁を囲んでの行進に秋夫君も直美ちゃんも口をポカン。白いウエヂングドレスを着た花嫁とスーツやドレスで装った一群がアフリカの土人そを想わせる行進は教会前を行きかう車も珍しそうに徐行していく。

エチオピアの女性たちが三日前から準備したという料理はすべて超辛、激辛のスパイスのきいたインドカレー風の料理。ずらりと並ぶ数々の料理は食欲をそそる。

私はどこで何を食しても、それが気に入るとサッサと我が家の台所で真似た物を料理するのを常としているが、今回もこの披露宴から一つ持ち帰った。  大鍋で煮たカレーの中にゆで卵を大量に落とす。 二日も煮込んだソースはもう材料が何かわからないほどにトロリとソース状になっている。それをナンの上にかけて食べるのだが、その大きな入れ物の中にポカリ、ポカリと白い物が浮いていた。それはゆで卵。食卓に出す前に浮かせるのだそうだ。子供たちが喜んだことはい言うに及ばす、大人の私もすっかり気に入った。それ以来我が家のカレーにはゆで卵が浮いている。 

宴席では花嫁も花婿も食卓に列を連ねない。皆の前に座り、自分たちでは食事をとることは許されない。 出席者が雄叫びをしながら、自分達の皿の上の食べ物を手でつまみ、新しいカップルの口に入れる。 入れるとはやさしい言葉である。あれは押し込んでいた。新婚さん二人が顔を見合わせてにっこりしているところへやおら誰とも知れない人が手の中で丸めた食べ物をグワッと突っ込む。一人でも多くの人から口へ入れてもらうことでその結婚への祝福が多くなるのだそうだ。




宴たけなわ、皆が皿を手に持ったまま、あちらの人と、こちらの人と会話をしながらも、右の手だけは忙しく食べ物をくるくるとかき回して手の中で丸めるとヒョイと自分の口へ入れ、又丸めて花婿の前へ行き彼の口にねじ込むと戻ってきてまた会話が続く。そのうちに別の一人がまた自分の皿の中の食べ物を花婿の口へ詰め込んでいる。
その間にも、どこかで、誰かがヒラヒラヒラーと雄叫びをしている。
もう彼らは誰の皿の食べ物か、誰の手が口にねじ込まれるか区別がつかない。
人様に食べ物を渡すときは、箸を変えるとか、箸の反対側を使うとかなんてまどろっこしいことはナシである。簡素化もここまできたら潔いとしなければ。


息子はそんな新婚さんをジット眺めていたが、宴が終わりに成る頃にはすっかり彼らに同情的になり、ママあれは花嫁、花婿への拷問だね。可哀想だよ。  

三日目はまた主人一人の儀式。今度は花嫁を花婿の家へ連れていく日。彼はもう二日も前に式の済んでいる花嫁をやっと花婿の家へ届けた。
突然振って沸いた「花嫁の父」に我が亭主は三日間楽しませもらった。

あれから15年。「15回目の結婚記念日の夕食会」の招待状が届いた。
教会の会館は溢れるばかりのエチオピア人。 並ぶ食事はもう私たちにはなじみの品ばかり。あれ以来新婚の二人のアパートへは何回か訪ねたし、アデイースの母親が癌の治療にアメリカに来ていたときも会っている。

彼女の下の弟がアメリカに着いたときも私たちはしばらくの間彼を預かった。 しかし夕食会には彼女の六人の妹が一列に並んで挨拶をしている。
15年の歳月、アデイースと夫は、二人の子供を育て、家を買い、永住権と次の市民権を取得して、今は自分たちが保証人になって親族一同を呼び寄せている。 妹たちの中にはもちろん結婚しているのも居た、そうなると家族ひっくるめての移住だ。 大変な勢力である。
「アデイース、あなたはエチオピア全部をアメリカに呼ぶつもり?」と聞く私に彼女は出来たらそうしたいと笑う。

十五年前に亡命した一人の若い女の子がもう彼女自身の社会を造りあげていた。

痩せていつも恥ずかしそうにしていた娘が今は、すっかり体重もふえ、ニコニコと微笑みも顔から消えることなく妹たちを紹介するアデイースは、少し民族衣装のスタイルを取り入れたとても素敵なドレスを着て、これも妹の一人が縫いました、綺麗でしょう?どこかにお針子の仕事があったら妹をお願いしますと宣伝もわすれない。
もう家では何もする必要ないです、妹達が私の子供の面倒から料理、掃除までします。私身内の中では女王様なんです、今とても幸せですとうれしそう。


故郷には彼らの父親は他界しているが、癌の治療が成功して元気になった年老いた母親が居る。数年前に刑務所から釈放された弟がただ一人母親の世話をしながら家を守っているという。

11歳になるアデイースの娘がフォークを使って食べていた。 やはりお母さんの国のお料理は美味しいねという私に、でもハンバーグのほうが好きとニコニコしていた。そうなのだ、この子達はアメリカ生まれ。もうお母さんが戦火の中を走り回って逃げ延びたエチオピアは知らない。 同じように私の二人の子供たちが本当の日本を知らないように。彼らは皆なアメリカ人なのだ。
 



 

 

2007年10月15日月曜日

エチオピア 1

エチオピア連邦民主共和国これがアヂイースの母国の名前。 1987年代共和国が樹立する前の内乱の折彼女は独裁政府を嫌って戦う反乱軍に名前を連ねていた。 わずか22歳の若さだった。 在る夜反乱軍の集会が行われていた場所へ兵士の襲撃を受けた。誰ひとり武器を持っていない集会へなだれ込んだ兵士達の乱射に 皆が夜の町へチリジリに逃げる中で彼女は、「アメリカへ逃げろ」「アメリカへ政治亡命しろ」という言葉を聞いた。 逃げ延びた若者はアメリカ大使館の方角へ走って行ったが、アデイースは何を思ったか国際飛行場へ走った。 大使館へ行くよりも直接アメリカへ逃げよう。
 年老いた両親と妹が6人、弟が2人、その一人は先月政府軍に逮捕され刑務所に居る。そして彼女の婚約者もこの町に居る。でも彼女は亡命することに決めた。皆とはしばらくの間会えないけれどアメリカにさえ行けばきっと何とかなる。  きっと家族を呼ぶ心に決めた。弟のように刑務所に行くのは絶対に嫌だ。

まだ半文明国の飛行場は周りが柵で覆われているだけ。彼女は難なく柵を越えて滑走路にたどり着いた。あとはアメリカの飛行機を探すだけ。ドラム缶の積み上げてある箇所を見つけジットすわり込めば暗い中警備員や軍隊の兵士から姿が隠せる。 やっと一機見つけた。ジット息をひそめて待つった。バスに乗ってタラップの下まで来た大勢の乗客が乗り始めた。最後の一人がドアの向こうへ消え、添乗員がドアを閉めようとする瞬間アデイースはタラップを駆け上がり扉の内側に滑り込んだ。 添乗員が彼女を見つけ押し出そうともみ合ったが彼女は魔法の言葉を大声で出した「アメリカ合衆国への政治亡命を希望します」

難民収容、亡命者収容、違法移住者収容とこの国は外国からのお客様には大きく門が開いている。実に面白い国だ。 世界中の人たちから嫌われ、傲慢だ、不遜だ、政治は世界への恐喝だとあらゆる言葉をぶつけられる国だが、それでも次々と人たちはこの国に逃れて来る。

一人の若い女性が、家族へ連絡もせず、荷物もパスポートも現金も持たず、本当に身一つでアメリカという国に自分を任せる。彼女は果たしてそれが安全な道だと本当に考えたのだろうか。自国の政府を信用しない若者がどれだけ未知の国アメリカを信頼していたのだろうか。

どこの国でクーデターが起きても、内乱が始まっても必ずどこかでアメリカが関与していると社会は非難する。 武器を売ったアメリカ、武器を買う資金を何らかの形で援助したアメリカ。武器を生産する第三国への資金援助をしているアメリカ、 アメリカは悪い。いつもそんなコラムを読む。
中にはアメリカで修士課程、博士号、研修などを済ました人たちがこの地を出るとアメリカ大批判をコラムに書き込む。 それでは自分の受けた教育も否定しているのかと思うとそうではないようだ。肩書きだけはしっかりと前に出している。 

一人の男が街娼を買った。 運悪く取り締まりに会って警察に捕縛された。 さて、一時の春を売った街娼は留置所行く。買った男は一晩お泊まりして釈放。さて彼が支払った街娼への資金はどこから来たのだろう。それはもちろんその男が働いている企業のサラリーである。そうなると資金を調達した企業も悪者として留置所へいくのだろうか? その街娼が生まれ育った国も悪者なのだろうか。

アデイースの乗った飛行機が最初にどこの街に着いたか知らない。政治亡命として認めらるまでの手続きがどれほど困難なことかも知らない。しかしアデイースは数ヶ月の間に私たちの住むこの街へたどり着いた。
この街にもエチオピアからの政治亡命グループの小さいながらも組織だった社会がある。 助け合いの集まりだ。この社会もしっかりと三角形の形態が成り立ち、 独裁を嫌って亡命したはずなのに、私の素人目から見ても結構上下の仕組みは強いようだ。だがそれだからこそ受け入れ態勢は強いのかもしれない。  

先に着いた彼らはもう永住権を持ち、仕事を持ち、家族を持ち、あとから続く同国の人の受け入れ準備のネットワークはしっかりしている。

そのグループが一人のアメリカ女性をアデイースに紹介した。
名前はドリス。10年前に夫を亡くした未亡人。夫の残した文具店を経営していが贅沢をしなければ平穏な生活が出来る毎日、子供が居ないことも手伝って何か奉仕活動をしたいと考えていた。
キリスト教教会を通して知り合ったエチオピア人のグループが亡命してくる同士の保証人を探していると知り参加することにした。

アデイースはドリスの手にゆだねられた。 保証人はその人の一切の生活、素行、を保障する。警察沙汰になれば保証人の責任だ。病気をしても医療費は保証人。 5万ドルの貯蓄を移民局に示す、この金額は投資などに使用できない、利息の良い定期預金などに入れておくことも出来ない。 突発事項が起きたとき直ぐに引き出せるようにしておくため。

しばらくの間はドリスの自宅に住むが、まず仕事を探すのが先決。 大企業では過去の履歴がないので数年は受け付けてもらえない。 職歴、経験、スキルがものを言う国。まだ無理だ。しかし個人企業なら経営者の胸一つで引き受けてくれる可能性が高い。また事情を含んで将来一人歩きが出来るように育ててくれ可能性もある。これは組織立った会社に働く人には出来ない。
エチオピアで機械の組み立て会社でプリント基板のはんだ付けの仕事をしていたというアデイースにはやはり精密器械を扱う個人企業が良いと考えドリスは知人の一人である私の夫に連絡してきた。精密器械のデザインやプロトタイプを作る個人企業を営んでいる彼なら企業同士のつながりがある、適当な場所を紹介して欲しい。

翌日訪ねて来たアヂイースは結局一年の歳月を私たちと一緒に過ごした。 まず英語の勉強からはじめ,エチオピアでの彼女の経験がこの国の十年前のテクニックであることを見て夫は電子器械の初歩を教えることにした。
毎朝八時から四時まで彼女の見よう見真似の仕事が始まった。そして夕方から近くの短期大学へ入学。
彼女がこの新しい土地に馴染み、アパートを借り、車を買い、質素ではあるが独り立ちするのに時間はいらない。
  

2007年10月10日水曜日

直美卒業

いろいろありました。そして四年と六ヶ月で末娘もやっと大学卒業です。 専攻科目心理学と哲学ではNational Honor Roleに席をもらい、卒業式はCumLaudeで卒業したのだからこれは褒めてあげなければならない。しかし彼女は四年と六ヶ月が必要だった。 五月の卒業間じかに事務所で卒業手続きを始めたが、単位が足りないから卒業は出来ないと知らされた。 大変だ~。  又大学生のやり直し。 夏季コースと九月からの新学期に再度四年生を繰り返す。十二月まで授業に出てやれやれ。 翌年の五月の卒業式の手続きを再度する為に事務所へ行く。 今度は違う事務員が座っている。 彼女は卒業手続きをしながら聞いてきた。 何で十二月まで留年したのですか?貴女はこの五月で卒業出来たのに。知っていますか?
単位が足りなかったはずという説明に、「あーアレね、あの事務員はもう辞めました。 彼女あの頃何名かの生徒の単位をPCに入力する作業を怠ったのですよ」
そんな馬鹿な。 冗談ではない。 一人の事務員の怠慢が起こした被害は甚大である。 五月に卒業できなかったために大学院進学も一年見送り、半年分余計の授業料の支払い、この大学は私立である、おまけにカトリックの神父で占められた教授陣、 各クラスの生徒数は十五名以下。州立の大学より月謝高いんだぞ。
まだあるのだ、夏期講習になんと直美ちゃんはイギリスの大学を選んだ。例え二ヶ月とはいえ自分の取りたい課目の教授がイギリスの大学の夏期講習へ向かうからと、そのクラスを取りたい生徒がグループを作って教授の「追っかけ」をするというのだ。ついでに皆でヨーロッパまで足を伸ばしてバックサック旅行をしてくると実に嬉しげであった。
どうしてその教授がこの大学へ戻ってくるまで待てないの?と言い出したいのを必死で耐えた母親の身にもなって欲しい。いったいどのくらいの生徒がこの間違いの被害にあったのだろうか? 本当にもう授業料返してもらいたいワ。
怒り心頭の母親を尻目に直美ちゃんはあまり気にしていない。 おかげでイギリスへも行けたし、フランスにもイタリーにもオランダにも。

夏期講習の後このグループは一日の終わりの宿泊所を決め後は皆が別行動をとることにしたのだそうだ。両親の財政の豊かな子は何枚ものクレヂットカードを持って買物に忙しい。別の子は観光を望み、又美術館めぐりをしたい子と其々が違う好みが一緒の行動をすることはない。その間の連絡はサイト喫茶に入ってE-mailをチェックする。そんなやり方だったらしい。 そのアイデアには賛成だ。 なにも皆が吊るって同じ行動をとることはない。生徒の中にはヨーロッパに居る親戚や知人へ訪問する子も居る。毎晩決めた宿泊所へ一同が集まりまた翌日の計画を立てる。そんなことをしているうちに一人の男の子との連絡が途絶えた。 ウエブ喫茶店をみつけては誰もが自分の行動を書き込み各々のメールへ送信していたが最終地の国で彼はついに姿を見せなかった。

たぶん汽車を乗り間違えてサイト喫茶もないような片田舎へ行ってしまったのだろう。 そんなの待っていたって時間の無駄になるし、彼は英語もスペイン語も堪能なのだから大丈夫とかってに結論をだした 
。そこで彼女たちはまた彼のメールアドレスに各自の予定を書き込み、グループを解散、各々の親戚友人の居る土地へと出発してしまった。
直美ちゃんも幼友達がオランダにサッカー留学をしているからと彼のアパートへ向かった。

世の若い男の子に伝えたい、 女の子を甘く見ないこと。モタモタしていると置いてきぼりを食いますよ。

十二月で授業が終わっても卒業式は翌年の五月。大学院進学は九月から、それには大学院進学統一テストを受ける。その為の勉強、内申書、教授陣への推薦状の依頼、エッセイ書きとすることは山ほどある。 遊んでなどいられない。空白の五ヶ月は彼女の為にはよかったのだと考えを切り替えることにした。

大学の事務員が一つ良い話をした。 数ヶ月以内に他所の州から大きな心療クリニックがこの街に移転してくる。もう建物も決まり、医者と患者は殆ど全員この街に移動するが、必ずしも病院の全従業員が移動はできない。看護婦、研修生などかなりに人数が来られない。そこで当大学の心理学部にも研修生の推薦者の依頼が来ているが、貴女の名前もリストに載せましょうか?

2007年10月3日水曜日

娘の一人たち

我が家では子供の独立宣言は親の貧困経済と睨み合わせて各々個人の経済のもとで執り行われることに暗黙の約束がある。  息子も娘も間違っても「お母さんアパート代少し援助してくれる?」などと聞かない。 聞いても出さない。出せない。家はここにある。この家に居ればよい。けれど外へ出ると言い出しても止めない。 本人が出来ると思うからするので、親の口を出すことではない。  もうひとつかつて在る本に、年齢を重ね、伴侶が先立った折に、子供に頼らず一人で頑張れるのは、若い時代に一人住まいをした経験の持ち主とあった。 長い人生一度とて一人暮らしをしたことのない年寄りは寂しさに打ち勝てないのだそうだ。 真実かどうか知らない。しかし、一人暮らしをしで、どんなに待っても誰も帰ってこない家に毎日一人で帰宅し、一人で食事をし、一人で居るのはやって見なければ判らない寂しさ。それゆえ、若いうちに試すのであれば大いに結構。
子供たちは皿洗い、洗濯、掃除?一応見よう見まねで出来る。娘にもスカートの裾上げぐらいは教えてある。 
直美ちゃんが大学を出てからの独立宣言はむしろ遅いほうかもしれない。

昔、私が二十五歳、まだ日本に居るとき、アパートへ移りたいと言い出した。「世間体が悪いからいけません」と母に一括された。やはり習慣の違いだろう。

日本からの留学生がアメリカの家庭へホームステーをする場合この個人の自由という問題がある。子供は中学生ともなれば、男女を問わずチョアーと呼ぶ日課がある。ゴミだし、食卓上の皿の片付け、洗濯物のたたみ。小さいころ母親が遊んだ後のおもちゃの片付けにうるさかったように、少し大きくなってもやはりするべきことはしなければ家族の一員ではない。 
日本からの留学生が下校して自室に篭り勉強をする。夕食の時間が来ても、食後でも大手を振って自室にこもるのが理解されない。 留学生に言わせると、自分は勉強しているのだから何もする必要がない、家の掃除は自分の仕事ではない。 学生は勉強をしていればいいのだ。」日本でまかり通る理屈だが、国が違うとそれは奇異に映る。 共同体の観念が違うのかもしれない。一時期或る地域の団体では、日本からの留学生のホームステーお断りが出たことがある。家族として受け入れる側としては自分たちの家族への影響を恐れるという理由から。

個人の自由の確立と言葉は綺麗だがやはりそこには共同体の一員である、家族の一員であることは否めない。それを学ぶ場はもしかしたら家族で出かける日曜日の教会ではないだろうか? 毎日バラバラに生活していても、日曜日になれば皆が一緒に教会へ向かう。 一緒に説教を聞き、聖歌、賛美歌を歌い、ときには会館や前庭で紙の皿とプラスチックのフォークでケーキを食べ、一緒に帰路に着く。これは日本にはない習慣。 私の昔を振り返っても、一度として家族一緒のミサへ出た記憶はない。いつも一人だった。

自分の子供が生まれ、幼児になって暴れまわる息子や娘を押さえ込みながらのミサが辛く、二人が交代で行けば、お互いに一人静かに祈れると提案したが主人は妥協してくれなかった。 教会へは子供を連れていく、子供が暴れるなら暴れないように親が努力するまでと言われた。 だが、今二人の子供たちは思い出話として、妹がチョロチョロと歩き回り、それをママが追っかけたとか、お兄ちゃんが鉛筆をわざと床に落としてはそれを拾う振りして床を這いずり回ってパパに足を引っ張られたとか話す。
親の努力が子供たちの想い出になっているなら、あの頃の親の憤怒も消えるというものか。