2007年11月30日金曜日

母の日 2

小春日和の真っ青な空の日曜日。 秋夫君は六時起床、一週間分の洗濯物を持ってコインランドリーへ向かう。 土曜日に友達と遊びに行き時間がなかった、 今朝洗濯を済ませなければ、明日から仕事へ来て着ていくシャツもパンツもない。
三台の洗濯機により分けて洗濯物を押し込み、 コインを入れてオン。アパートへ戻りコーヒーを入れて三十分待つ。 ランドリーへ戻り、大型乾燥機の一つ扉が開いているのを見つけ三台分の洗濯物全部を押し込んだ。コインを入れてオンのボタンを押して彼はランドリーを飛び出た。花屋へ向う仕事が残っている。そこにやはり母親のために花を買いに来ていた友人とバッタリ、話し込んで気がついたら九時半。あわててランドリーへ戻り乾燥機を開けた。 エッ、マサカ 冗談でしょう。

約束の十時に秋夫君は我が家のドアをノックした。 手には紫陽花の花の植木鉢を持ち、 「母の日おめでとう、車は昨日一応掃除しましたから皆様が座れます」とニコニコしている。
玄関前の陽のあたるところに立つ息子、後五分かかるから中へ入るように進めても此処で待ちますと動かない。準備の出来た主人が外へ一歩、息子をハグして慌てた、ナンダお前、ビッショリだぞ。シャツ、スラックス、靴下すべてずぶ濡れの衣類を着ている。ランドリーへ一時間後に戻ったが乾燥機が最初から壊れていたのだ。 扉を開けたら、洗濯物が全部下にうずくまっていたと笑っている。時間がもうない、T-シャツやブルージーンは山ほどあるが、まさかそれを着て教会へはまずい、仕方なくアパートへ持ち帰った衣類を見てしばし考えたが、エイヤーとその濡れたシャツを着て我が家へ来たというわけだ。 
せめてシャツだけでも父親のシャツに替えたらと進める母親に、上が乾いてもスラックスが濡れていれば同じだ、このまま行こうと冷たい父親。新聞紙を座席に敷いて運転する息子が少し哀れであった。

ステンドグラスが綺麗な古い教会の中の冷房完備は抜群。 一歩御堂へ入ってヒヤーと冷たい風が天井から来る。祭日のミサは長い、今日は母の日ゆえ司祭も念入りの長い説教と聖歌隊の歌、次はお御堂びっしりと埋まった母親たち一人一人に司祭からカーネーションの花が手渡される。その時間の長いこと。 隣の息子の上に容赦なく吹き付ける冷房の風で彼は小刻みに震えている。時折立ち上がると、木の椅子の彼の座っている箇所が濡れて輪になっているのを見て直美が可笑しさをこらえて彼女の体も小刻みに震えている。

やっと終わったミサ、娘の提案で野外テラスのあるギリシャ料理の店と決めた。 陽のサンサンと降り注ぐ席で暑がりの主人は汗を流しながらの食事に店内に空席がありますけど移りますかと聞いてくるウエイトレスに主人は恨めしげに断っている。

食事が終わり、デザートは何が良いかとテーブルに来たウエイトレスが秋夫をジット見ている。少し間を置いて、彼女が息子に声をかけた、先ほどから気になっていたのですけど、 気分が悪いのですか?
「気分は悪くありませんと」と答える彼に、「あなたの体から湯気がたっているのですけど。」
それを聞いて私と娘の我慢が一度に爆発し大笑いとなった。 サンサンと降り注ぐ太陽の下に座る息子の衣類が一気に乾きだし、肩、背中といわず全身から陽炎にようにフワフワと湯気が立ちこめている。      

2007年11月27日火曜日

母の日  1

母親の居ない人間はこの世にありえないが、必ずしも誰もが「母の日」を祝うわけではないだろう。 私は子供の頃には頻繁に自分の小遣で買える範囲の小さな品を母に送っていた記憶はあるが、兄も姉もあまりそのようなことには関心がなかったようだ。最後にわたしが母に贈ったのが、和服用の草履だったのを覚えている。 もうその頃はサラリーをもらっていたので、結構高価なものが買えたのだ。しかし結婚後に遠くアメリカに住むようになり、自身が子育てと近場に居る姑への結構派手な母の日の祝い事に追われて、実家の母へは電話で話をするだけになっている。一二度花を贈ったが、 やはり遠い外国からの注文ゆえどんな花が届けられているのか皆目わからず、受け取った母から、 「もらった私が言うのは悪いけどね、もうあんなの止めなさいよ、あなたからの花腐っていたわヨ」と指摘されてから、あーもう止めたときめた。 しかしその頃から兄や姉の家庭では、子育ても終わり、老い始めた母への孝行が盛んになり始め、母の日や誕生日ともなると、兄姉が一緒に母を素敵なレストランなどへ招待をしている様子に、なんともはや置いてきぼりをされたような気分になる。
 
 まだ学校へ戻るつもりの娘直美はアルバイト料をすべて貯めこむ。 決して無駄使いはせず、食料品の買出しもクーポン券を探して少しでも安値で買い物をする徹底派だ。 しかし、クリスマス、誕生日、母の日、父の日となるとこちらが気兼ねするほどの高価なプレゼントをくれる。 こんな散財は申し訳ないと言うが、本人はその為の貯金なのだと可愛いことを言う。

しかし息子は違う。 サラリーの全てが穴の開いた財布から出ていくようだ。この子はもしかしたら「金銭感覚脳障害症候群」かな?と心配したことがある。欲しい物があるとブレーキが利かない。 必ず手に入れる。 目的を決めると、一日缶詰めのスープ一杯の生活に入る。 一ヶ月でも二ヶ月でも、その間に酒もタバコも娯楽も一切ご法度。 本当に飲まず食わずの生活を自分に強いて目的額に向かう。達成後はその苦労の結晶がカメラ、ギター、コンプユーター、新開発のゲームにソフト、ゴルフ道具に釣り道具へと消える。

毎年「母の日」が来れば、息子も何かしようという気持ちはある。まだ幼い頃は父親が二人の子供を連れてデパートへ行き、彼らが品物を選び、支払いは父親に廻し、買ったプレゼントの包装に各部屋で悪戦苦闘していたものだが、家を出て、一人前に酒も呑む男にはそれは過去の話。

二年前は名も知らない大輪の花をプレゼントしてくれた。それも新聞紙に包んであった。 息子の住むアパートの隣の庭に咲いていたのだそうだ。 隣の奥さんが、好きなだけ切っていきなさい、きっとお母さん喜ぶわよと言ってくれたそうだ。 うれしかった、胸のうちでお隣の奥さんにわたしも感謝をした。

去年は一日中我が家で奉仕活動をしてくれた。 家中を掃除機で走り回り、お茶を入れてくれて、夕食の料理を妹と二人で準備して、終わりには皿洗いもしてくれた。
娘から香水を一瓶もらい、息子に料理をしてもらい、こんなに幸せな母親がほかに居るだろうか?

今年は息子から電話が入った。「ママ、母の日のプレゼントは何が欲しい?」どうやら今年は少し余裕があるらしい。 そうです、彼も今年は二十六歳。だがなけなしの財布をはたかせるつもりは母親には毛頭ない。
リッチモンド通りにある教会がラテン語のミサがあると知った私はその教会へ行きたいと話した。 家族みんなでミサへ出て、昼食はお父さんの支払いで一緒しよう。それを母の日のプレゼントにして欲しい。 
「OK、ママとミサに与かればいいんだね? 簡単です。 何時に迎えに行けば良い?」

2007年11月19日月曜日

アクセント 2に対する投稿です

手負い虎さんからコメントの投稿です。ありがとうございます
ネットを通じ、ブログを通じ私の小さな世界が少しずつ広がっていくのがとてもうれしく思います。 

「聞き覚えがありますなあ。その「英語には敬語がない」というの。日本の中学の英語の先生も生徒に言ってます。だから日本人の大半は、そうだと思っています。 実は私は、長いこと英語塾を開いて小中学生に英語を教えていましたが、学校の先生の言葉に反することなど教えると、日本の中学の先生、怒って、生徒を殴るんです。 紫のことをpurpleと教えたら、学校の教科書ではvioletだから、そんな似非英語使うなといって殴られて、私はとんでもないうそを教えるという評判が立って、どっと生徒が辞めました。 wouldとかcouldで始まる敬語なんか教えようもんなら、殺されますよ。だいたい日本語だって、敬語教えられる先生、いないんだから。」
手負い虎

夫の転勤で始めて海外へ

友人のフラホーキさんが「アクセント」への読後感想をコメントして下さいましたので皆様と分かち合いたいと思います。

夫の転勤で始めて海外(グアム島)へ住んだ時のこと。さっそく英語学校に通う。英語圏に住むからには、聞き苦しくない英語を使えるようになりたいと思ったからだ。“語彙の多さは教養の高さ”と先生に言われた。それからうん十年、我々はテキサスに暮らし、子供を育てあげ、老後を迎えた。英語では、どれだけ冷や汗をかき、顔を赤や青にしたかわからない。しかし日本人夫婦の間の会話は日本語だけなので、英語はちっとも上達しない。
長年私の髪の手入れをしてくれている美容師はタイ人だ。彼女はアメリカへやってきて結婚し娘一人をもうけた。その彼女は、年金がもらえる年齢に達したら故郷のタイに帰って暮らすと言っている。アメリカで受ける年金は、タイで老後を送るに充分な資金だ。アメリカ生まれの娘はタイには帰らないので、夫婦二人で帰るのだそうだ。
我々はどうしよう?
沢山の引き出しにしまっておいたはずの語彙は、齢を重ねるごとに消滅して行き、必要なときに見つからなければ、開き直って頭に浮かぶ限りの単語を並べまくる以外手はない。聞き苦しかろうがかまってはいられなくなったのだ。それなら最初から無理せず自国語でまかり通しておけば良かったというような気がする。カラースさんとアリキさんのように。しかし一方、その国の言葉を使えれば、生活をより一層楽しむことができるとも言われる。
我々夫婦が年金だけを頼りに日本で暮らすのは、絶対にできないことだ。それに、日本の教育を一度もうける機会が無かった二人の子供達は、日本の社会で生きて行くことはできないとはっきり言う。彼らにとってはアメリカが自分の国なのだ。カラースさんとアリキさんの二人の娘さんのように。そして、こうなったのも親の都合の結果だ。
我々は過去英語で苦心惨憺しながらも、そしてこれからますます苦労なことであろうが、二人の子供達がいるこの国で、明るく暮らして行くつもりなのである。他国に住むという
のは、誰にとってもそれぞれに本当に大変なことなのだ。目的を持って他国に住み始めたものの、長い年月の間にはその目的の変更を余儀なくさせられることが起こるし、そしてそれは起こってみなければ誰にもわからないのだ。
フラホーキ

2007年11月15日木曜日

アクセント 2

お向かいにギリシャ人家族が最近まで住んでいた。 この奥さんの名前はアリキ。彼女に嫌味は決してないのだが、意思の疎通が実に原始的である。 彼女の二人の子供の医者への送り迎え、買い物などへの交通機関は私の手にあるのに、あまり頼むという感覚がないらしい。 私より以前にアリキへの奉仕活動をしていたお隣の奥さんフランソワさんはアリキから電話がかかってくるのに恐怖を感じるようになっていた。そして私にバトンタッチとなったのだが、イヤハヤすごい、
つたない英語はお互いさまなのだが、彼女の言葉に優しさがない。本当は情緒がないと言いたいがまあそれは外国人の会話には無理だろう。 しかし彼女の単刀直入、意味合いだけで文章が編成されている会話はいつもこちらが命令されているのではと勘ぐりたくなる。余計なものが全部省かれた単刀直入な会話はまだなれない外国人が共通して持つ欠点だが、それなら、プリーズとかサンキュウーを冒頭かお尻に取り付けてくれるといくらか情緒がでる。。ギリシャ語には敬語がないのかと聞いてみた、あるけれど友人には使わないと言われた。 彼女は一応私を友人と考慮してくれているのだと納得することにした。

最近ご主人の転勤でこちらに滞在している日本のご婦人が、「アノー英語には敬語がないんですよね?」と同席の日本女性に確認(?)していた。「ソーネ 英語って敬語ないわね」別の女性が返答していた。
「そうですよね、アメリカの英語ってイギリスの英語と違いますものね」??
同じ英語であっちには敬語があって、こっちには敬語がないってわたしは知らなかった。、日本語のように「ザーマス言葉」はないかもしれない。しかし語彙を増やすことにて、幼稚な英語から大人の英語には変化するはずだ。大学教授の会話と小学生の会話がおのずから違うように、むき出しの会話ではなく、言語表現が豊かになり、その人の知性が溢れた言葉が敬語ではないかしら。そんな意味だと英語にも敬語があるのではと考えるが、まあ私は黙ることにした。

アリキのご亭主カラースさんは小さいレストランの経営者。十四歳でギリシャを出て、カナダで皿洗いから始め、転々と移動して四十代の後半でこの街で店を開いた立身出世の有志。 見るからに精力みなぎる横から見ても前から見てもギリシャ人。ついでに中身もギリシャ人。彼は奥さんのアリキと同じに無償で隣近所の亭主族を使うのがとても上手だ。斜向かいのロンさんも、お隣のテイラーさんも我が家の亭主君もカラースさんと会話をすると結果いつも、カラースさんの家の電気器具、エアコン、自動車の修理をさせられている。ロンさんは芝刈りまでさせられていた。 どうしてそうなるのか彼等にも理解出来ないらしい。壊れた物を目の前に出されて、肩をすぼめて、ホワーイ? ホワーイ?と言われると何故か責任を感じるのだそうだ。そして結果は、「彼はグリーク(ギリシャ人)だから仕方がない」で終わる。
これはよその国の国民性を揶揄することの一つなのだ。 この地に居ると、ジョークと言う名のもとに、あらゆる国民性の特徴を笑の種にする。  
例えば、我が家の亭主が少しでも頑固な性格を現すと「ドイツだからね~」と言われるように。
 
或る日そのアリキが自分の夫の経営するキャフェテリアへ昼食に連れていけと言う。 私もどんな場所か興味があり二つ返事でOK。
町工場が立ち並ぶ中央高速から少し離れた土地柄、個人企業の店の並ぶ一群に小さな看板が「City Café」と書いてある。ドアを入って左側は四人がけのテーブルが六つほど一列に並ぶ、右側は食品の列。 トレーを持って一番奥に並び、順繰りに皿の上にドバッと盛り上げてくれる。 汁の中に浮いているステーキ、 マッシュポテト、茹でたインゲン豆、魚のフライ、ロールキャベツ、とんかつ風ステーキ、超大盛りのアメリカンランチ スタイル。町工場の職人さんたちがドアまで立ち並ぶほど大勢店に入り、人いきれでムンムンする感じ。なんか子供連れで来る食堂ではないなと感じた。わたしが息子の秋夫ちゃんと食べている姿を店中の客がジロジローのジロっていう感じのキャフェテリア。

食事が終わり支払いをしようと出口の前に設置されたレジスターの前に立った。すると奧で仕事をしていたカラースさんが大声で私の名前を呼び、ハローと怒鳴っている。 私も手を振り答えてから会計に向かい支払いを済まそうとしたその瞬間カラースさんは奥のキッチンから大声で怒鳴った。
「No 、I don’t need your money, I give you my food」
 さして大きくないキャフェテリアの隅から隅までズイーイと聞こえた。店の客も一斉に私を振り返った気がした。もちろん彼の気持ちは、「支払いは結構ですよ。 わたしの奢りです」の意味だと気持ちはわかる。しかし他の客はそんなことは知らないのだ。その時私は学んだ。アクセントなんてどうでもいい、心の通った言葉を使え。もうちょっと言い方があるだろう、敬語を使えとはイワン、だがもう少し考えろ。これは私の心の中の独り言。しかしご亭主はこの英語で人生の大半をアメリカに住み、食堂を経営している。付け加えれば従業員は大半がギリシャ人。彼に英語など必要ない。これは、「アメリカでは馬鹿でも英語を話す」に入らない。このご亭主は馬鹿ではない。しかし英語は話せない。耳障り? そうかもしれない。私は腰が抜けた。

このカラース家は夫婦共々大きな夢がある。 アメリカで働き財を築いて.、故郷ギリシャの彼らの出身地へ戻って余生を暮らす。二人はセッセとその夢に向かって歩んでいる。だからこそあらゆる家庭の修理、修繕には、ご近所の底抜けに陽気なアメリカ人たちを使うのかもしれないと私は勘ぐる。それによる人件費の損得は経営者である彼が一番良く知っているはずだ。

子供の夏休みが始まると毎年店の経営を友人のギリシャ人に頼み、二人の娘を連れて彼らは必ず故郷の町へ帰る。数年後にはヴィレッジの中に家を買った。 いつもいつもギリシャの話をして、ギリシャの食事を食べ、 パーテーを開くとギリシャのダンスを踊る。子供たちの学業が終わるときはギリシャへ家族全員が帰るのだと念じていた。 二人の生活はギリシャを向いて暮らしている。
   
 年月が経ち二人の娘も成長して高校、大学へと進む頃から子供たちのギリシャへの気持ちが少しずつ変化してきた。夏休みが来ても、自分たちはここに居るから両親だけで出かけて欲しい。 わたしたち学校へ行き始めてから一度も夏休みをアメリカで過ごしたことがないと不満を言い始めた。これは彼らの計算違いだった。親への会話も、ギリシャ語から英語へ変わり、 キャリアー女性を目指しだした。  彼らにとっての故郷はもうアメリカなのだ。
  そして二人が大学生になったとき上の娘のマリアが宣言した。  両親が故郷へ帰ることは自由だが自分と妹はここに残る。自分は大学の後、医者のコースをたどりたい、でもあのヴィレッジには病院なんてないでしよ。無医村の町では自分の就職口はない。それは言い訳の一つに過ぎない、本当は彼女には同じ研修生の婚約者が居る。
 それでは話が違うと烈火のごとく怒る父親と、がっかりする母親を慰める言葉などない。 
自分たちが十代で出た古里を三十年の年月毎日偲んできた、が、もしここで二人の子供を連れて帰れば、この子供たちが同じように、遠いアメリカを偲んで生きることになると気がついた。
無理に二人だけで帰ればそれは親子の別れ。 片道24時間が必要なギリシャへの旅、自分たちだってこの先何年この旅がつづけられるか心もとない。

昨年の寒い冬の夜、カラースさんは夜道をジョギングしている途中に心臓麻痺で病院へ担ぎ込まれた。数年前から糖尿病を患い食事制限と体重のコントロールに苦労していた彼は、毎日のジョギングを唯一の運動としていた。
救急車で担ぎこまれその父親を診たのが、医者になっている長女のマリア。 娘の看病の下に数日後に亡くなった彼は結局故郷のギリシャで余生は持てなかった。 

このカラースさんの人生を悲劇とは決して思わない。 彼なりに一生懸命に生きたと思う。決してアメリカ式に生きようとせず、同国人の中にだけ憩いを求め、一生涯ギリシャ語を通し、故郷に家を買い、しっかりと先の目的を持って生きた。その道のりで倒れた彼をアッパレと言ったら不謹慎だろうか。

2007年11月7日水曜日

アクセント 1

アメリカ南部テキサス州に来て30余年。月日は矢のごとく過ぎていく。時々自分は本当にこのアメリカで生涯を終わるのだろうかと考える。 嫌とか良いとかではなく、感無量なのだ。いまだに日本の国籍を保ちそれを唯一の自我としているが、 気持ちは川辺の葦の如く国境を揺らぐ。この国で少しでも、本当に少しでも日本を否定するニュースが流れると烈火の如く怒る。 少なくとも誰も私の居る前で日本人を笑いものにするジョークは言わないほうがいいし、皆がそれを承知している。 もちろん日本人の前で日本人をけなすことを言うほど私の回りの人は非常識ではない。 しかし、 人種の坩堝のこの国では国籍とか国民性を揶揄するジョークは朝飯前である。 そして恥ずかしげも無く私も日本に関してでは無い限り アハハと笑う。失礼な話しだ。 しかし時々日本に帰国したとき、日本のメデイアがアメリカ批判をすると、「何も分かっちゃいないくせに、何を言うか」とムクムクと反対感情が沸く。 根っこの無い浮き草である。わたしは日本人であるが、わたしの子供はアメリカ人だからかな?と結論を出している。この先何十年とこの地に生きる我が子のことを思いやるとやはり世界が批判するような悪国アメリカでは困る。

何年居てもその国の言葉を習うのは難しい。ある程度すると変化がなくなる。 日常生活で使う言葉が決まってしまるから。単語を沢山覚えても、年齢を増すごとに増えるはずの語彙が、反対に下降して行く。一つ覚えて、一つ忘れる。頭の中の知識の引き出しがもう一杯に溢れてこぼれてしまう。それと同時に下に押し込められている知識が引っ張りだせない。
言葉としては、現代の日本の言葉の使い方は私自身すっかり置いていかれた。
三十年前の若い人は「全学連口調」で 「我々ワー」節で一直線な会話をしていたと覚えているが、 今の人は自分で意見を述べて、数秒後に「ウーン」と自分で納得しているのをTVで観る。
 
さて、「自分の使う英語」は横に置いての話にしてもらいたいが、 耳だけは一人前。 理解力は? 自分では解っているつもりとしておこう。
アメリカの英語には標準語がないということになっている。皆が自分の言葉遣いやアクセントを主張する。「ここの標準語は」?と聞くと自分の使っている言葉がそうだという。 私が最初にアメリカに到着した土地はカリフォルニア。別にカリフォルニアアクセントが身につくほどに長期滞在ではなかった。帰国して、イギリスの会社の東京支社に就職して人生の海原に船出した。
給料をくれるその会社は常時 四-五名の「イギリスアクセント」の社員がイギリスから家族共々転勤して来ていた。日本人が好む英国アクセントの御仁たち。その彼らが、私の西部アクセントが強いと批評した。縦に口を開けての会話と横に口を開けてのアメリカアクセントではそれは違う。 カメラをコーメラ。スケジュールをシェジュールと発音する彼らは勿論文章の言い回しも多少違う。
一時期TVのコマーシャルにインドアクセントの英語を使うのが流行った。舌の長い彼らの英語は口の中でクルクルと丸まったようで、普通の人の二倍の時間をかけて会話をするように聞こえる。また彼らは言葉を決してはしょることをしないから結構ダラダラと喋る。しかしインドアクセントが注目されたのはもう過去のこと、今はヨーロッパアクセントのコマーシャルが良く出る。 
自動車保険のコマーシャルにトカゲの小型ゲッコーがヨーロッパアクセントで
「オーイ ユー コ~ン パア~ ゼア~」そこは駐車できないゾ~と言っているのだが一度きいただけではまず理解できない。
このゲッコー君のシリーズが何本もテレビに出てくるが、結局彼のアクセント、多分オーストラリアだと思う、どこかが開いていて空気が漏れているような、それとも口が開きっぱなしなのかナ?というアクセンが売り物なのだ。本当は三回聞かなければ彼が何を言っているのか理解できない。それゆえゲッコー君が出ると部屋の会話が止まる。凄いコマーシャルだと思う。 

昔、父方の叔父が商用でロンドンへ出かけたおり、ある晩超一流の劇場へ観劇に出かけた。  休憩の間に、黒いスーツにステッキ、葉巻をくゆらしながらお茶を飲んでいるいかにもイギリス紳士のグループの近くへ行き、あのような上品な連中はキングス イングリシュでいったい何を話しているのだろうと聞き耳を立てたそうだ。  「イヤ驚いたね、話の内容は僕らが縄暖簾で話す内容とまったく同じなんだよね~。こっちは酒が入らないと話せない内容を、お茶一杯で始めるんだから、あれスコッチとやらを飲み始めたらどんな会話になるのかネ」と笑っていた。

そんなことはさて置き少なくとも言葉とは、自分の意志を伝える道具なのだから、自分が云わんとしている意味をはっきりと相手に伝えねばならない、然し聞いた相手がその言い回しで不愉快な気分になっては意味が無い。

先日ウエブの或るレポートで、「アメリカでは馬鹿でも英語を話す」それに付け加えて「アメリカ人の英語は耳障りだ」と投稿していた。なるほど、誰をアメリカ人と言うかが問題なのだ。人種の坩堝、どこから来ても市民権を取ればアメリカ人。最近の統計で一般にメイフラワーで来た白人系といわれる、ヨーロッパからの移民のアメリカ人はマイノリテイになった。 もうアメリカのマジョリテイはメキシコ系(ラテン系)と入れ替わった。彼等が人口の52%を占める。 少数派としての恩恵、福祉、奨学金、等々は受けられなくなるかもしれない。彼らはそれを知っているのかしら? 今度は白人が社会福祉の窓口に立って福祉を申請したら少しは受け付けてもらえるかもしれない世の中になったのだから、そうなるとアメリカ英語の姿ももう一度変わることだろう。実を言うと、政府はメキシコから来た移民が英語を習わなくても生活が出来るように少しずつ国のほうで変化してきている。 
学校もラテン系は英語の授業に出なくて良い。 スペイン語ですべて勉強できる。 買い物も英語は要らない。ウオールマート、ターゲット、など大型安売りデパートへ行くと英語など聞こえない。 
昨日は私の大好きなラジオトークショウでトーカーが息巻いていた。薬局で処方箋の薬を手渡すときに、 相手がラテン系の客のときは、彼らがしっかりと処方の仕方が理解されるように、英語で説明をしてはいけない。 必ずスペイン語の通訳を常勤として置くようにとなるのだそうだ。それが浸透したら、いつか私も英語がわかりません、日本語の通訳をお願いします、もし居なければ、それは人種差別ですと言ってみたい。

スペイン人の夫とフランス人の妻がいる。 二人はオランダで知り合ったそうで二人ともダッチを話す。 ついでに夫は四分の一がフィリッピン人だそうだ。故に彼はフィリピンの言葉も少し話す。これは私が証明する。英語、フランス語、スペイン語、ダッチと少しのフィリッピン語を話すこのご亭主は実に鼻息が荒い。
しかし、彼のフランス語は奥さんに言わせると、フランスでは通じないそうだ。スペイン語は先日スペインから遊びに来ていた彼の甥っ子が、おっさんの言葉は古いとけなした。 オランダに留学していた息子が帰宅して、父親のダッチを聞いてニヤーと笑って首を振っていた。それでは最後に残るのは英語だ。 彼はスペインで小学校からアメリカンスクールへ通学していたそうだ。 話しだしたら止まらない、立て板に水がごとくおしゃべりをする。 しかし、彼のアクセントはもうこの国に来て三十五年というのに強烈なスペインアクセント。我が家の亭主でも半分しかわからない。奥さんのフランスアクセントも強烈だ。しかし彼女もスペイン語もダッチも話す。その夫がフランス人の妻の英語のアクセントを絶えず揶揄する。いくら注意しても止めないので聞いている私もいい加減頭に来た。そこで優しく説明する必要があると思い、そういうのは 「目糞が鼻糞を笑う」っていうんだよ。と説明した。分かってくれたかナ。