2008年8月25日月曜日

じゅんたろう さんが投稿 "囲炉裏(いろり)" に新しいコメントを書き込みました。

おせっかい野郎より提案。
日本だと植木鉢の底の部分に水はけを好くするためにいろんな大きさの軽石を売っています。それって灰の代わりになりませんか?
本来田舎では稲藁を燃やして作ります。まさかそちらではないでしょうが、麦藁など手に入らないでしょうか?


じゅんたろうさん こんにちは

稲穂とか麦穂は見つければあるでしょうね。 しかし一応見渡す限り畑がありませんので。。。牧場が多いですから、本当に方角を変えて五分も運転するともう放牧されている牛にお目にかかりますか。 先日は柵を越えてしまった牛が、すぐ隣を通る高速道路の脇に出てしまい、目を見開いて固まっていました。 それをハイウェーパトロールのお兄さんが牛のお尻を押して柵の向こう側に戻していました。
牛などに食べさせる枯草はいけませんかしらね? なんとか稲穂を探してみます。 ありがとうございました。
毎週刈り取る庭の芝生を乾燥させたのではダメでしょうね? たぶんダメですね。

2008年8月23日土曜日

囲炉裏(いろり)

日本風囲炉裏が欲しいと考え始めてからもう何年にもなる。

日本家屋でも最近囲炉裏が再認識されはじめ、新しく家を建てる家主たちが家の一部分を日本古来の飾り付けをとりいれるとか雑誌で読んだ。なかでも囲炉裏が再認識されているとか、庭に面した廊下に囲炉裏を掘って、その前にお客人をしている写真も何度か見た。まあその場合はいつも男性が座っているのも又面白い。 そうなると私の好みは多少男性的になるかもしれない。 まあこの年齢になれば男も女もない、好みに男女の差別なし。

けれど、この近代文化の中で生きると、少し昔に戻りたいと理想を感じるのは誰でも同じかな~と嬉しくなる。 確かに茶室などを造っても良いが、そこで寛ぐのは茶道の心得がなければ足の裏がむずがゆくなってくる。 ついでに床の間や掛け軸などと言い出したら費用も大変だろう。しかし、囲炉裏傍に「どうぞ」と勧められたら温かさと親しみを感じのではないだろうか。 少なくともマナーはなし、時間制限もなしに座っていられる。私自身は囲炉裏の前に座って、自在かぎに下がっている大鍋から味噌汁(けんちん汁?)を御馳走になった経験は皆無ではあるが、無いだけにあこがれを感じるのかもしれない。ついでに其処に座って熱燗で一杯となれば益々よろしいようで。

ちなみに、私の欲しいと思う囲炉裏は、囲炉裏テーブルである。 この際現実にある家の床下を掘ることはできないゆえコーヒー テーブルの変わりのような、火鉢と囲炉裏の合いの子のような物である。

この亜熱帯のヒューストンの家屋の中に囲炉裏などいれても火をいれることは少ないだろう。しかしここにも短期間だが冬は来る、その期間は各家庭で暖炉を燃やすことが多い。我が家も室内暖房のスウィッチを入れる前の一か月間ほどは暖炉の火を燃やして過ごす。 そのほうが、温もりのある部屋になるからだ。頭の上から温風が来るより数倍も気分が良い。 それゆえ囲炉裏に炭をいれて温かくしても楽しいのではないだろうか。私は暖炉の前でホット チョコレートを飲む変わりに、鉄ビンでチンチンと湧いたお湯の中へ徳利を入れて熱燗を呑みたいのだ。

先日大型鉄製火鉢を工具店で見つけた。 高さ32Cm、外枠直径90Cm,内枠直径62Cm と円形の火鉢。 中国製で屋外用であろう。パティオに置くのだと思う。結構大きい。  囲炉裏は四角いがこれは円形、大分違うが、私自身が、「これは火鉢ではない、囲炉裏なのだ」と思い込めば良いのだと考えを改め買い込んだ。野趣豊かな円形囲炉裏と思うことにした。 

早速五徳を入れ、鉄瓶を乗せ気分を出したが、灰がない。故に炭が入らない。 庭に出て主人の特大バーベキューピットのふたを開けてみたがここにもあるべき灰がない。先週掃除をして捨ててしまったそうだ。 余計なことをしてくれるものじゃ。

そこで今はせっせと灰作り。 100 (38) の炎天下で炭を燃やし灰を作る作業は大変に熱い。最初は紙を燃やしてみたが、あれはいけません。 束ねた紙の中まで燃えないので、白くならず真っ黒な燃えカスとなる。 BBQ用のチャーコールを燃やすと薄茶色の灰と化す。それではとガレージに置いてある材木を小さく切って燃やしてみたが、木を燃やしてもあまり灰にならないことを知った。結局炭しかない。 炭を燃やして灰を作って、その中へ炭をくべると何ともややこしいことであるが、今の私にはそんなことは言っていられない。 

このド暑い中で食べたくもない肉を買ってきてバーベーキューを何度もして、一生懸命に灰作りに励んでいる。しかし、直径62Cm,深さ14Cmの個所入れる量は生半可ではない。 たぶんクリスマスの頃には囲炉裏火鉢は我が家の部屋に収まるであろう。楽しみである。

2008年8月19日火曜日

三つの十字架へのコメント

じゅんたろう さんが投稿 "三つの十字架" に新しいコメントを書き込みました。

大変重要な問題に触れられました。
 198126日の教皇の講話の中で、ヨハネパウロ二世教皇聖下も言っています。「今日のキリスト信者は、その大部分が途方にくれ、悩み、混乱し(perplexes)、さらには騙されているかのように感じている」と。教皇様は、この問題の根本的な原因を次のように要約されました。「私たちは、天主様が啓示され、教会が常に教えてきた真理に反する思想が、一般に多く広がっているのを今見ています。教義と倫理神学において、本当の異端が出現し、疑いと混乱と反逆をあおいでいます。典礼さえも損なわれています。キリスト信者たちは、知的で倫理的な「相対主義」にのめり込んで、明確な教義も客観的な倫理もないままに、曖昧に倫理について語るイルミネーション主義や、社会学的キリスト教に誘われています。」
以上のような文を見つけました。 今回のブログについて頭が痛くなるのを覚えました。 今いえることはもう一度私たちは素直に「使徒信条、あるいは使徒信教(文語)」を考察すべきだと考えました。 カトリックの信仰はそれ以上でもそれ以下でもないと言うことです。 エキュメニカルムーブメントという言葉に迷わされ迎合すべきではないのです。 
これについてはまだ多くの方々の御意見が出ると思います。 楽しみでもあり怖さをも感じます。
じゅんたろう

じゅんたろうさん コメントありがとうございます

イエス キリストが再臨をお約束になられてからもうじき2000年の歳月が経ちます。 その間に人々はキリストの再臨を待ち望み、恐れ、 そして世の終わりが何時か来ることへの準備をしていたはずですが、 そのときがまだ来ないままに2008年になってしまいました。 そして、キリスト教の人々の中からはもうほとんど神の子の再臨も、この世の終わりも胸の内からなくなり、口に上ることもなくなり、丁度、モーゼがシナイ山から降りてくるのを待てなかったイスラエルの民となってきているようですね。勿論私もその一人です。 

最近知人がこんなことを言いました。

「今の世界は「黙示録」を思わせる。黙示録の中の七つ印をもう一度読み返してみたほうがいいかナ。」





手負い虎 さんが投稿 "三つの十字架" に新しいコメントを書き込みました。

きわめて個人的な物語ですが、私はエルサルバドルでロメロ大司教という方の暗殺を体験し、日本に帰ってから、内乱の語り部になろうと考えて、絵の修業をしました。

で、何とか、大司教の暗殺の絵を描き始めようと思ったとき、祭壇の後ろにあったはずの等身大のキリストのついた十字架を描くには、きちんと見なければだめだと判断し、東京じゅうの教会や修道院を探し歩いて、やっとある修道院の蔵の中に眠っていた、伝統的な十字架像を見つけ、デッサンをさせてもらうことをお願いし、許可を得ました。

ところが、私は生まれた時から、この手の十字架像を見てきたにもかかわらず、細部にわたって、まじまじと見たことがなかったのですが、デッサンですから細部にわたってみなければなりません。

それをしているうちに私は、涙が流れて流れて、どうにもしようがなくなりました。どうでもいいことで、信じてくださらなくても結構ですが、感情が乗り移ってきて、体が痛くなるのです。聖人ではありませんから、まさか聖痕が刻まれたわけではありません。でも、見上げれば、涙と震えでどうにもならなくなり、デッサンなどということは及びもつかず、私はあの姿を描くことを断念しました。

そういうわけで、「大司教暗殺」の絵は裸の十字架になりました。

だから、あの十字架が「象徴」として裸のまま飾られているほうが、あくまで個人的に私には精神安定の上から、受け入れやすいのです。

なお、革袋さんの結論ですが、私はいろいろな理由から、「そうなるだろう」と確信しています。子供の時から教え込まれてきた教義に矛盾することを見れば、私だって、抵抗は感じます。でも同時に、教会はやっと「本当のこと」を言い始めたと思っています。

手負いの虎さん コメントありがとうございます


手負いさんが十字架をデッサンしようとして涙が出てきたとおっしゃいますが、私はそれを信じます。

十字架上のお像をジッと眺めて何も感じない人はごくまれだと思います。

私は絵を描きませんが、教会の祭壇に掲げてある十字架をジッと眺めますと私も涙が出ます。そして必ず、キリストの愛を感じます。最後にお御堂を出るときの気持ちの清清しさは素晴らしいです。  

手負いさんの、「教会はやっと「本当のこと」を言い始めた…」

教会はどんな本当のことを言い始めたのでしようかしら? 私には何も「本音」が聞こえて来ません。 

2008年8月18日月曜日

三つの十字架

昨年の冬に或るキリスト教の教会の前を通ったら、その教会の前庭にわずかに土が盛られて小さな丘が作られ、その上に三つの裸の十字架が立っていた。一つはそびえ立つように高く、あとの二つはそれよりもやや低め。「十字架上のキリスト」と私たちが云うイエス.キリストの体は無い。 その十字架はまさに磔になる前にゴルゴタへ向かうイエス キリストがご自分で担いで運んだ十字架を連想する。わたしの目には実に生々しく映る裸の十字架という実感がした。 

その三つの十字架はどの角度から見ても、なにか恐ろしく、これからイエス キリストがあの十字架の上に磔になるのを待っているような無気味な気分になる。 夕方に又用事が出来てその教会の前を通ったのでもう一度眺めてみた。 それは夕方の薄暗闇の中で全てを威嚇するようにそびえ立っているように見えた。私にはそこから荘厳さも、親しみも、悲しみも感じない、むしろ恐ろしさと寂しさを感じるのはなぜなのだろう。

そして先日又別の教会の前に同じような三つの裸の十字架がそびえるように立っている教会を見つけた。偶然だが、その教会に所属している主人の友人が先日我が家でビールを呑んでいた。たしかその宗派は禁酒であったが、 まあそういうお堅い事は言うまい。

早速の私の質問に、ゴルゴタの丘に立った三つの十字架を表現しているのだと説明してくれる。その意味はわかるが、しかしキリストの両側で磔になった二人の罪人の一人は救いを求め、「今日あなたはわたしと楽園に居る」と許されているが、もう一人は救いも求めず、罪の悔悛もせず、イエス キリストを最後まで罵っていた罪人の磔になった十字架をなぜ教会の前にたてるのだろうか。 十字架は三つなければキリストの磔を表現できないと考えているのだろうか。

なんと今週はカトリックの教会の前にも裸の十字架が三本立っているのを見つけた。 こうなると教会間の流行りの飾りものとでも解釈したい。 いつの日から、十字架の上からイエス キリストの像が消えてなくなったのだろう。 私の目には十字架上のイエスの姿を仰いでこそ、「私たちは救われた」と想うが、裸の十字架は、またこれからイエスの磔の苦しみが繰り返されるような不吉な気分になるのは私の想い過ごしなのだろうかしら。

二千年の古い宗教である、時代と共に変化が現れるのは当然のことであるが、自然に出てくる変化では無く、 最近は、「違うことをする」「現存のいにしえをすべて取り払う」そのような行為に見える。外見をまず取り替えて、 教会の行き方を変え、式次第を変え、次に教理を変え、いつの間にか聖書の解釈も変わっていくのだろうか

2008年8月16日土曜日

めぐり逢い

ある自称アマチュア音楽家が、プロのクラシックのオーケストラの指揮をするチャンスにめぐまれた。彼は演奏会での指揮を許された瞬間、この長い人生本当に生きていて良かったと神に感謝したそうだ。毎日の生活の中でも絶えず音楽に接し、二人の息子にも何でも良いから一つの楽器を習わせようと彼らが子供の頃から叱咤激励の必死の毎日を過ごしてきた。今は辛いだろう、しかし、これを通り越して大人になったとき、練習しておいてよかったと思うからとためつすがめつ説得している ピアノ、トランペット、バイオリンもう何でも良い。 そして彼らに毎日の楽器の練習を義務ずけていた。 最近は多感な高校生に成長した二人の息子と親との、練習をしたシナイの戦いはもう泥沼合戦である。

彼の晴れの演奏会の後、その25名のプロのオーケストラ団員と談笑中に質問をした。

「この中で、子供の頃、楽器の練習が嫌で、親から毎日『練習しなさい』の最速をされて現在まで来た人は手をあげて下さいと頼んだ。 彼は自分の過去と二人の息子の現在を顧みて、はたして何人の人たちが手をあげるだろうと楽しみにしていた。  しかし、母親から毎日強制されて練習したおかげでここまで辿りついた人は25人中一人だった。

他の人たちは、その楽器と対面したときから好きで、毎日の練習が楽しみだったと云う。まさに「好きこそものの上手なり」である。もちろんこの25名が全てを表現しているわけではない。 世の中には、いろいろな面での成功者が、「親の協力があったからこそ此処まで来た」と唱える。それも真実である。

彼はそこでハタと困った。 それでは、毎日何かと言えば練習をさぼる二人の息子の事はどうしたら良いのだろう。 このまま自分は黙った方が良いのか頭を抱えてしまった。 

私の二人の子供も6歳のときからピアノの練習を始めた。 息子の秋夫は、どのピアノの教師からも、将来が楽しみですね、と言われたが、本人は、ピアノの前に座っていることも苦痛のようだった。 ピアノのある部屋に入れてドアを閉めると、窓から抜けでて遊びに行ってしまう。数年後、そんなに嫌なら辞めてしまえという母親に「ママありがとう」と感謝された。しかし数年後にギターを始めたら、これは母親の後押しがまったく必要なく、自分から練習に励み、33歳の今でも暇があると一人でブルースを弾いて楽しんでいるそうだ。 

人生にはいろいろなめぐり逢いがあるのだろう。 私の人生には楽器とのめぐり逢いはなかった、今、自分には何とのめぐり逢いが合ったのだろうと考えているのだが、残念だが思いつかない。それは私自身が気ずかないだけなのだろうか? 私にも何所かに隠れた才能があるのにその才能は生涯隠れたままで終わるのだろうかしら。

2008年8月10日日曜日

じゅんたろう さんが投稿 "男には記憶がない" に新しいコメントを書き込みました。

私は別の読み方をしていました。 この春。自分では難聴だと思い耳鼻科へ通いました。 たいした技術だと思いますが、耳の内部や咽喉辺りを細い管状のカメラでとるのです。 結果なんら異状が無いとのことでした。 しかし、数人の会話中の人々の中で内容が聞き取れないのです。 意見を求められても適当なジェスチャーで誤魔化さねばならないのです。 歳がいき興味ある事柄を限定してしまっているのかも知れません。 他に気付いた事は近頃の人々の語彙の貧しさです。 やたらに短絡してしまうのです。 そして自分の考えを言葉で表現し伝えるのが著しく低下しています。 NETや携帯、TV漫画がそれに拍車をかけているのではないでしょうか? 
しかし、己の視野が狭くなっていることは確かです。

じゅんたろうさんコメントありがとうございます

じゅんたろうさんも耳鼻科へいらっしゃいましたか?  もう私たちの年齢になると自分たちに何も興味のない事柄は素通りしたいです。  我が家の亭主殿はますます聴こえなくなっています。 私は良く聴こえます。 本当に必要のないことのほうが良く聴こえます。ですから余分な言葉を聴いていつも怒っています。 聴こえなければ腹も立たないのに。 

でも人様の中には聴きとりずらい人が増えてきました。 たぶんその人の会話の流れと使う語彙によってなのでしょう。最も日本語に関しては、私の場合は相当に「浦島太郎」の化がありますけどね。

手負い虎 さんが投稿 "男には記憶がない" に新しいコメントを書き込みました。

そうかねえ。そのデータ、はなはだ疑わしい。

私には昭和2年から12年までに生まれた4人の兄と、昭和14年生まれの姉がいる。ちなみに私は昭和16年生まれだ。

ところで、兄、上からABCDのうち、A以外は3人とも、「昭和16年4月7日にA兄さんが何をした」などという記憶を、鮮明に覚えている。

件のA兄さんは、満州引き上げの時にたぶん記憶中枢にショックを受けたらしく、楽しい平和なことはまったく記憶を喪失している。ところが、少なくとも昭和23年以後の記憶はなまなましい。

かくいう私も2歳からの記憶を保持している。

何か革袋さんの記事を読んでいると、アメリカという国は、やたらに人間をモルモット代わりに研究対象として使っているようで、ひどく科学的な国だなあと考える。

私は、性別とか血液型別に人間を分類し、納得する「科学」には、きわめて懐疑的である。身の回りに、そのデータに当てはまらない事例が多すぎる。

私は鶏を飼っていて、雌雄、種別に、この鳥はめんどりだからどうだ、白いからどうだ、茶色だからどうだ、雑種だからどうだ、と言う前に、愛憎による関係が優先されて、物事が決まるように感じている。

しかして、人間という生き物も、愛憎によって、物事を把握している。種類、性別、血液型には、あまり信仰をもっていない。

手負い虎さんコメントありがとうございます

データとか統計とかが最も信用が置けない数値であることは常識です。しかし統計を集めるということは、その傾向の人間が少なくないとうことくらいは認めます。 

私が云う、「男性の記憶がない」とは、女性ほど「どうでも良いこと」に憶えておくという努力をしないことです。 もちろん男性には素晴らしい記憶力があります。それでこそこの21世紀まで男性主体の世界が築かれてきたのですから。それゆえ、彼らはくだらない雑談や喧嘩の内容に関してはエネルギーを使わないのだと云うつもりだったのですがね。 

そうですね、確かにアメリカは科学的な国かもしれません。 「建前と本音」というお国柄とはほど遠お国柄です。 

世界中の科学者、研究者が研究費や補助金の申請をし、いろいろと結果を出しています。 これは数年前の話ですが、 ある博士号の教授が、男性は睡眠中に何度「勃起するか」年齢別に統計を取ると申請をしてなんと数十万ドルの研究費を受け取りました。 

調査内容は勿論申請書に概要が明記されていますが、それによると、男性が睡眠をとる時に男性の性器に特殊な糸のようなワイヤーを巻きつけ、そのワイヤーの動きをモニターで調査するのだそうです。 そんなことは誰でも出来ることでしょうが、それを研究しようとする行動力と博士号という肩書で大変な研究費が認可されるのです。 これがアメリカです。お笑いください。 私は笑いました。

 

2008年8月8日金曜日

男には記憶がない

ある大学でお互いに知らない者同士の男子生徒二人一組、女子生徒二人一組と分けて、各々空いた部屋へ一時間ずつ入れ二人がどのような会話をするかモニターに取るという調査をしたそうだ。

知らない者同士の会話は男子生徒には苦手のようでなかなか始めないが、一度会話がはじまってしまうとお互いにリラックスして楽しげに話しをする。ところで男子生徒の会話の内容は一様にセックスかスポーツだったそうだ。

一時間後に各々会話の内容を質問する。 男子生徒の回答は殆ど皆な同じだったそうだ。「サー何を話したかナ。 憶えていません!」

彼らが回答を避けているのではない、本当に一時間後には自分たちがしていた雑談の内容などはもう記憶にない。

あまり逢うこともない弟に主人が電話で話しをしている。自分たち家族の近況から仕事の話まで楽しそうな会話である。 30分ほどして電話を切る夫に妻が訊いた。ずいぶん楽しそうだったわね、何を話していたの? しかし夫の答えは「 サー何だったかな? とにかく弟は元気だった。」それでおしまいである。 

何故自分には電話の内容をおしえてくれないのだろうと妻は不思議に思うが、夫はどんなことを電話で話したか、妻に説明が出来るほど憶えていないのだそうだ。

女性たちは7年前に夫がどんな悪さをしたか、 5年前にどんなきっかけで二人は大ゲンカをしたか、その際、夫は何と云ったかまで克明に記憶があるのに、彼らにはない。それゆえ、なにかが起きて、その昔に似たような事が起きたことを記憶の中から出してきて夫にそれを正しても全く相手にならない。 「そんなこと言ったことない」「知らん」「君は誰かと間違えている」「絶対に自分ではない」としらを切る。火に油を注がれたがごとく烈火のごとく妻は怒って、「この卑怯者」と恨んでも仕方がない。夫は本当に何も記憶にないのだから。「そんなこといちいち憶えているほどこっちは暇ではない」と心の中で毒づいているのである。

十年ほど前から私の夫は家族とのコミュニケーシオンが難しくなった。本人はそのようなことはないと主張するが、妻である私の話があまりよく聴こえなくなったらしい。  何を話しても人の顔を見ているだけで、反応がない。 私の話を訊いているの?と尋ねると、訊いていると答えるが、結果が出ていない。時には私の話に合わせて「ウン、ウン」とうなずいたりするが、あとで話しが何であったか問いただしても返事が出来ない。 「アナタ聴いているの?」返事は勿論「聴いているよ」それだけである。 もしや難聴になったのではと心配して、娘が父親を耳鼻咽喉科の検査に同行した。医者から事前に、いつも一緒に住んでいる家族の方が検査に同席して下さいと言われたから。

検査の結果は、難聴の疑いナシと出た。 全く普通の人と同じように聴こえているのだそうだ。医者の話によると、夫は夜の睡眠中以外は頭の中は仕事の事を考えている人間であるため、良くそのような患者に起きる症状だそうだが。耳の中にフィルターがあり、それが音声を聴き分ける。今自分が考えていることに大切な情報をもたらす音声のときはフィルターが全開してよく働くが、聞こえてくる音声が自分には何の利益を伴わないと判断するとフィルターが閉じてしまう。 

「娘さん、結局あなたのお父さんは良く聴こえているのです。ただ、あなたのお母さんの声やあなた自身の声には時々フィルターが閉じてしまうのです。 もう頭の方が別の事を考えているのですよ。  実は私も最近は自分の妻の声はもう聴こえません、申し訳ないと思うのですがね」妻の声に体が拒否反応を示す。 恐れいりました。私も夫の為に食事、洗濯を作る時は体が拒否反応を示して手が動かなくなったらどんなに気持ちが良いであろう。

2008年8月3日日曜日

じゅんたろう さんが投稿 "じゅんたろう さんが投稿 "天国と地獄" に新しいコメントを書き込みました。" に新しいコメントを書き込みました。


いやいや、なるべく避けて通りたい課題です。 あわてて梅原猛著「地獄の思想」という恐ろしい本を引っ張り出しました。 地獄極楽という考えは必ずしも仏教に限っていないようです。閻魔様は道教と仏教が混交したものですし、生に関して釈迦の思想そのもも「死老病苦」と現世を説き否定的です。 日本で浄土教が出てきてやっと西の極楽浄土から阿弥陀如来が人を迎えに来ると言う考えが民衆にいきわたります。 下克上の世にあって出てきた為政者にとって都合の良い思想です。 この世では「おしん」のような日々を過ごし死んで閻魔様に舌を引き抜かれなんて考えたくもありません。 日本にある仏教といっても必ず元を正せば同じというのではなく、まるで違った宗教のようです。 乱暴な言い方ですが、禅宗は無神論、真言宗は一神教でその他は多神教です。 経典の中にも明確に載せてはいないようです。 ややっこしいので詳しくはまたの機会にしますが、空海の説いたものに「密厳国土」という言葉があります。 それは大日如来(一神)の世界であると同時に我々が今存在している世そのものでもあるというのです。 「秘密曼荼羅十住心論」に説かれていますが、これには人の生き方として十の段階があるといいます。 
一の段階はまるで羊の如くがむしゃらに喰らい交わり怠惰な生活と喩えたものから終局がこの「密厳国土」の状態、すなはち「即身成
仏」なのです。 間違って生きながら仏?にとミイラになった人がいますが、とんでもない勝手な解釈と誤解です。 大日如来の世界においては聖と俗は無化されて区別が無いのです。 従って地獄も極楽も考えとしてはありません。  
長くなりましたが、他の仏教諸派でも地獄極楽と本気で説いているものがあるとしたら考え物です。
さてわがキリスト教? 困りました、判りません。
じゅんたろう



じゅんたろうさんコメントありがとうございます 

仏教は奥が深いですね。というよりもわたしには、迷路に入るようです。 はたしてどれだけの人たちが自分の祖先が守ってきた宗派がスラリと言える人は少ないでしょう。それでも誰もが、地獄、極楽の話を知らない人はいないです。人間が生きていく上で、モラル、法律、宗教の教えに基ずいて悪いことはしないようにと心がけて生活するわけですね。その最終地があるかもしれない地獄、極楽が待っていると伝えられてきたのは実に人間社会に置いて賢いことです。

2008年8月1日金曜日

天国って本当にあるの?

天国と地獄は本当にあるのか?

 そんな議論を聴いた。 天国の存在は望むが、地獄は無くても良いと皆が望んでいる。しかしそれは自分に振り返っての問題であってであろう。誰しもが死後に天国へ行きたい。 それは死後の世界があると信じる、或いは感じる人たちの問題ではあるが。

自分の犯した罪は神に許してもらいたい。宗教によっては全てイエス・キリストを信じる限り、何事も許されると云う人もいるが。 一般社会では、人の犯した罪を許すか許さないかは被害を受けた側の問題である。 それと法律が被害者になり替わって罰してくれる事もある。 それでは、殺人者が刑務所の服役の終了後に死が訪れた時、その霊は天国へいくのだろうか。これは各宗教の教えによって答えに変化が出てくるのであろう。 殺人鬼が死刑になり、死後に天国で幸せになるのでは、多数の被害者は浮かばれないという人も居た。 そうなると、地獄は必要になってくると妙な意見に納得する。

そこで次は「神は罪を犯した人に処罰をあたえるのだろうか」

地獄があることが処罰である。しかし地獄は永遠の苦しみであるから、それは「神の許し」からは遠くなる。 そこである人が、 神は処罰(Punishment)を与えると云うのだ。 最初の人間であるアダムとエバにPunishmentを与えたという。 それは、神との約束を守らなかった二人をエデンから追い出した。 すなわち神はアダムとエバに「死」のPunishmentを与えたと云う。

何故アダムとエバは全てが満たされていたのに、果実に手を出した? それは人間とは弱い者だから選択を間違えたのだと意見が出た。弱い人間はどのように満たされても、その上の欲望にかられ罪を犯しつづける、そして必ず死が私たちを迎えに来る。 その死後が又問題なのだ。ある人は、その死後に天国へ行けばPunishmentにはならない。 しかし、現世との別れがある。愛する人たちとの別れがある。と話す。

しかし、死は普通当人と取っては一瞬の悲しみであるが、残された人たちの悲しみは永く続くが、そうなると処罰を受けているのは現世に残る人たちとなってしまう。

カトリックでは、現世では決着がつかないという教えになり、それゆえ、理想がこの世に実現するなどという夢は見ない。

プロテスタントでは、現世でも願えばジョイフルを与えられるとある。

さて仏教では現世の事をどう説いているのだろうか。

この疑問を云いだした人はユダヤ教なので、結論を避けていた。 私の浅はかな知識では、ユダヤ教の信者はイエス・キリストを救い主と認めず、殺してしまったのだから、まだ「救い主」を待っているはずだったけど。そうすると、キリストの開けてくれた「天国の門」も彼らには価値がないとすると、彼らは死後何所へいくのだろう?

一度ユダヤ教の人に尋ねたことがある、 「貴方がたは一体どこへ行くの」彼に言わせると、自分は両親がユダヤ教だから、その宗派のはずだけど、クリスマスも祝ういい加減な人間だから、実際には何所へ行くのか知らない。まあ、それは死んだらなんとかなるでしょう。行くところが無かったら又戻ってこられるネ」 なるほど。

何か疑問がもっと広がったように感じる。