2010年1月27日水曜日

日本語

月曜日に行くタイチーのクラスは普通15名から20名のクラスだが、 その中に東洋系の女性が私を加えて3人居る。 その一人が最初の日から私に話しかけてきた。 まず、「どこの国の人?」と来る。 これは東洋系の人との初対面はこの質問から始まる。理由は簡単、それによってもしかしたら、母国語での会話が可能かもしれないから。長い間住んでいれば東洋人でも結構アメリカナイズなれているから、実際にわからない事が多い。中国人かと思ったら日本人だったり、 その逆も時にはある。 

もう何年も前だが、 池袋の駅で、JR線の切符を買おうとして、ポカーンと上を見ながら値段表を見つめていたら、 「Can I help you」と話しかけてくれた 若い男性が居た。 度肝を抜かれたとはこの事である。 エッどうして? 前から見ても、後ろから見ても全く日本人の私になぜ英語? まあ、今では スイカとか云うのを持っているから値段表の心配はいらない訳だが。あの時は少し落ち込んだ。 私は群れから外れてしまったらしい。 

話はそれたが、 その女性は私が日本人と知るとすぐに日本語に切り替えて、私は台湾から来ました。 台湾には二人の姉が住んでいます。 彼女たちには 日本の名前がありますヨ。そして 姉たちはとても上手に日本語を話します。 私は台湾の名前ですが、 小学校の二年生までは日本語で勉強をしました。 そして、 私の目を覗き込むように見つめて、 どうしてか分かるでしょう? アナタの国が私たちを占領していた時は日本語を使用することを義務ずけられていたのですヨ。 そしてニッコリと微笑む。ちなみに彼女は 76歳だそうだ。 


実はこれと同じ経験が以前にもあった。 彼らは韓国人の夫婦であった。 私が日本から来たと知ると、すぐに、 私の主人は日本の名前を持っていますヨ。だから名前は二つ。韓国の名前と日本の名前。 私は日本語が出来ないけれど、 主人はまだ少し出来ます。出来たら主人と日本語で話してあげて下さい。アナタ、私の主人がなぜ日本の名前を持っているかわかりますよね。 ずっと昔、戦争前の話よね。 そして彼女も私の顔をじっとみて反応を確かめていた。 

私には、どのような反応をしたら良いのかまったく分からない。 ただ 単純に 「あーそうですか」というだけだ。喜ぶべきか、申し訳ないという態度をとるべきなのか。 しかし、 その台湾の女性も、毎週私がクラスへ出るたびに、 「おはよう、 お元気ですか? ~」と日本語でニコニコと話しかけてくる。決し嫌味な態度ではない。むしろ懐かしむ感じだ。 また以前会った韓国人のご夫婦も不愉快な態度はとらなかった。友達として歓迎といった雰囲気であった。

終戦後に教育を受け始めた私たちの年齢では、 あの頃の日本の軍隊の海外での活躍?を知る事はまずなかったが、その後、本を読む事で知識は多少ある。 しかし、あの頃の諸外国の人たちの心の中までは やはり理解する事はできない。 

終戦後にアメリカ軍が日本を占領していた頃はまだ小学生であったが、私なりにいろいろな事を見聞きしてきた。 その経験は良いとか悪いとかではなく、気がついてみたら 兵隊さんが町の中を必ず二人ずつで歩いているのを不思議と思わなかったという事である。また、 かつて駐屯経験のある過去の米兵やその家族と逢うこともあるが、 一応に彼らは日本での経験を良い想いでとして胸の中にしまっているらしいが、 日本の軍隊の方々の、あの頃の外地での生活の想い出はどうなっているのだろうか。  

2010年1月20日水曜日

世の中いろいろ~  ハイチの災害

ハイチの災害は自然の女神の怒りとばかり言っていられない程悲惨な模様のようだ。 毎日の報道がその悲劇の一つ一つを拾って伝えられる。 この国でも、各家庭10ドルから 25ドルの寄付金を募っている。 政府が国の資金を使うだけ使った後で、このような不慮の事件や災害の為のことを考えないから、結局国民の一人一人から寄付金を募ることになる。 寄付をすることにはなんの支障もない。 こちらは喜んでするつもりだけれど、 やはり税金は大切に使ってもらいたいものだ。

クリントン元大統領とブッシュ元大統領がチームを組んで、 クリントンは現地での仕事、ブッシュは全米へ寄付金募りの旅に出たそうだ。 これから声を枯らして、「募金をお願いしまーす」とやるわけだ。 昔私が池袋の駅に立って 「赤い羽根の募金お願いしまーす」と声を枯らしていたのを想いだす。 

昨晩のニュースでは、災害後の孤児の行方の話題であった。 現時点では、アメリカでは50,000人の孤児を引き受け、状況の悪い土地に何時までも置くよりもと、早めに連れ出す準備中だが、 なんでも 何処かの国のお役所が難癖をつけて日延べをしている間に、イギリスからもチャーター機が着いて、 出来うる限りの孤児を乗せることと支援の手が出ているそうだ。

この国でも、 養子縁組団体がテンヤワンヤで仕事をしているらしい。又、養子縁組を希望する家族が連絡してきているとか。 真に頭の下がる気持ちだ。 私も結構人の世話は喜んでするほうだが、 人様の子供を育てるまでの気持ちには未だなったことがない。 まだ自分の子供が中学生の頃、 我が家の亭主の友人に、離婚後に子供がグレてどうしようもないと相談された我が亭主は、 私にその子を引き受けてくれないか? 自分達の子供と一緒に育ててくれないかと頼まれたことがある。私にとっては青天の霹靂、とんでもない、自分の子供でも、時には 寝首を掻いてやろうかと母親失格の気持ちが頭をよぎるのに、お他人様の子なんぞ、まずは家庭内殺人が起きると思った。 しかし、 今、このアメリカに四十年近く住んでみて、あれはまったくの日本人的な思考であったと自分で理解してきた。


先日も友人宅で開かれたクリスマスのパーティの客達の中に、 白人女性が自分の男の子二人と可愛い東洋の女の子を引き連れて参加していた。年末の買い物中に、人種の違う子供を乳母車に乗せて悪戦苦闘しながら買い物をしている女性が居た 知人も自分達に子供が居ないからと、韓国から二人も女の子を養子縁組している。 そんな人達が増えているこの世の中。 麻薬と銃と人種差別に搾取の国と言われているこの国も、中の一人一人はそんなに悪い人たちばかりではないのだと嬉しい。

2010年1月18日月曜日

じゅんたろうさん の  投稿

日本でのお正月はいまだもって、元日は家族で過ごす様です。
古い習慣のあるところでは「門開け(かどあけ)」と云って元日であろうと二日目であろうと最初の訪問客は男性で無ければなりません。理由は良くわかりません。所により女系の風習のあるところではその逆であるかも知れません。しかしこのところ日本ではハロウイーン、クリスマスと商業ベースに乗せられて正月には家計が疲弊しているようです。豪華な門松は殆ど見られません。印刷した紙切れが多いのも、やれやれと思います。
日本でも外食産業は盛んですが、極端に繁盛しているところと正月を前にばたばたと閉鎖している店舗も数多いのです。外食より同じ費用で家で豪華にと云ったところでしょうか。私は元来関西ですので”外食”という習慣がありません。「不始末な!」と云う観念があるのです。大阪の"食い倒れ”があるでは無いかと思われるでしょうが、。あれは元来大店(おおだな)の丁稚どん(でっち)が薮入り(休暇)で小銭で丼やうどんをすすりに道頓堀(どうとんぼり)へ出かけたのが由来です。私の家は父が
「武士は喰わねど高楊枝」と家族で外食した経験は一度もありません。
アメリカのように珍しく美味しい料理が家で作るより安価で楽しく食べられると云うのは今の日本でもありません。ちょっとうらやましいですね。
たかがラーメン一杯が700円からそれ以上もするのが解せません。しかも行列までしているのです。小難しい店主の顔色を伺いながら「あのートロを・・・」と寿司を頼むのはご免です。正月の初せりの築地で本マグロが一頭1,5百万円で落札したと。店で”いっかん"(つまり二つにぎり)二千円以上だそうです。
なにやらみみっちい話になりました、歳初めの御免なさい。”


2010年1月14日木曜日

娘の帰宅  つづき


母子では買い物の楽しみ、一緒に料理する楽しみ、食べる楽しみ、彼女の友達の近況報告を聞くと、することは山とあるが、父親のすることがない。 そこで 父親も考えたのだろう、 「射撃の練習へ行こう」と嫁入り前の娘に誘った。 しかし、お転婆娘はすぐにその話に乗ってきた。 自分の車のオイルチェンジも自分でする女の子、 最近練習してないから腕が鈍っているかもネ、良いじゃない行きましょう、である。
ママも来るよね、との誘いでしばらくぶりに私も同行。 信じられないだろうけど、 最初のど真ん中命中は母親の私が最初でした。 これぞ奇跡、 何発か撃ちだしたら、隣で「ママ天井を狙うのじゃないよ、 あの目の前にある的を狙うのだよ、とうるさい。そこで、「 あんた ウルサイヨ」とドカーン。それが 的のど真ん中。 皆も驚いたが、当人も驚いた。
早速娘は後ろでテックス メッセージをシャカシャカ と ママのブルズアイを友達に報告している。それも写真付きで。 次はお父さん。 こちらは撃ちだしたすごい。 

次に父親が娘と過ごすとこで提案をしたのが、映画を観に行くこと。 「アバター」である。ハリウッドのアメリカ人が作った「アンチ アメリカ」映画。 タイタニックに次ぐ史上最高の興行成績になるだろうという評判である。 
3D映画、最も近代的な技術とアニメーシオンの映画、そして、内容が、近代技術を否定するお話。 その映画が現在のアメリカでは 爆発的に人気があるのが皮肉でなくて面白いと思う。
先ほど、私がよく聴くラジオトークショウで、ある元海兵隊が電話で話していた。先日息子をこの「アバター」へ連れていったのだが、帰り道で息子が聞くんですよ、 「お父さんは海兵隊だよね、 どうして海兵隊はあの映画みたいに 悪い事をするの?」ご当人笑いながら話していたが、 結構本人は傷ついていたのかナ?   

2010年1月13日水曜日

娘の帰宅

お正月から10日間、中の8日間娘との至福の時が過ぎた、そして、 フッ~ くたびれた。
「来て嬉し、帰って嬉や孫かいな」こんな言葉があるそうだが、 成長した子供達の帰宅も同じらしい。 離別の寂しさはやりきれないが、 お互いに翌日は自分の生活に戻るとき、 あーこれが人生なのだナと感じる。長いアメリカ生活の中で、日本への帰国と、アメリカへの帰国を繰り返してきた私には、その時折の老いた父や母のいろいろな所作が、今自分がそこに置かれてみて初めて理解できたのが正直な気持ちである。

我が娘は良く食べ、良く遊んだ。 楽しい買い物も沢山した。 食べ歩きも良くした。
日本食、メキシカン料理、イタリアン料理、ルイジアナ料理、メデイタレニアン料理、ハンバーグまで喜んで友人達と出かけては食べていたようだ。どれもサンヂエゴ のより美味しいそうだ。多分この土地の味で育ったからだろう。

ご存知かな、一般的には ヒューストンは田舎という感じだが、本当は私もそうだと思うが、アメリカ全州の街々の中で、レストランの量の一番多い街なのだそうだ。 ニューヨーク、シカゴ、ロスアンジェルスもこの街には匹敵できないのだそうだ。良く食べ、良く肥っている人種であることは確か。 気候的に暑いから、土地が広く自動車社会であるからも手伝ってであろうが、 また ファースト フードの店は害になるほど数が立ち並び、自宅でおかしな料理を作るよりは安く満腹感が味わえるのもたしか。  全州でルイジアナに次ぐ肥満体の多い街でもある。 食っては寝ているのかもしれない。