2010年4月24日土曜日

魚の頭

子供四人の家庭の末っ子であった私は 幼いころ父親から「猫の尻尾」 と言われたことがある。或る日父親に訊いてみた。 猫の尻尾とはどういう意味?  

応えを訊いたとき、訊かなければよかったと悔やんだ。明治生まれの父親と大正元年(明治にとても近い)の母。 相当に封建的であった。

子供の頃我が家の食卓に出る主食は殆ど魚であった、お刺身が出るようになったのは 小学校の頃からだ。あれはなかなか宜しい。 味も良いが、小さくスライスされているのがなお宜しい。

塩焼き、切り身の煮つけなどでは魚を二つに切ることが多い。 魚の上半身、すなわちかま首に近い箇所は 父親と兄たちの皿へ、女性群は尻尾(失礼魚には尻尾はなかった)尾の方。 すなわち魚の下半身である。

母は、男の子は世に出て出世する人。 故に 魚はつねに頭の方を食する。 女は家庭に入る、母の言葉の 出世がない人生を歩むわけだから 魚の尾の方を食する。母の理屈でいくと、女は一生魚のかまの部分は食べられないことになる。

女は哀れである。

お釜の(現在の炊飯器)の底にへばりついたご飯も男の子は食べない。鍋の底のカッパキは食うなと言うわけ。釜の底にこびりついたお焦げなどもってのほかである。お焦げはいつも母の口へと直行していた。 お焦げが出来た時は 父親は 男であることを悔やんでいるような 羨ましそうな顔をしていた。お焦げの握り飯はウマインダヨナ~。

お焦げのおにぎりを食べられる女は幸せである。



ちなみに私の父は次男坊であったから、もしかしたら魚の下半身を食べていたのかもしれない。 何せ母親を通り越して、祖母様が実権を握っていた家系の中の次男坊は疎まれていたそうだから。かつては武士の出、 長男だけが息子と認められた家だったのだろう。

わたしは イワシ、秋刀魚、小鯵などは 大好物である。こればかりは 半分には切断できない。尾頭付きの魚である、鯖も大好物の魚だが、あれは 下半身組である。鯖の一匹丸ごとが皿にのることはない。  

友人の旦那様が結婚した時に、「一度鯖を丸ごと一匹食ってみたい」と奥さんに漏らしたそうだ。 この人も敗戦の後の日本で成長期を過ごした人だ。きっと兄弟が多かったのだろう。

わたしのアメリカ人の義弟は40代の頃まで、少年期にラウンドステーキ(輪切りのステーキで、中央に3センチ程の骨がある、直径30センチ程、厚みは2センチ程の丸いステーキ、銅割したステーキ)を母親と半分に分けあい、二人の兄はいつも一枚そのままペロリと平らげていたと愚痴っていた。 今は一人でラウンドステーキを食べられるだろうが、奥さんがお医者さん、しっかり見はられて食事制限を受けているとか訊く。人生うまくいかないものだ。



母からしっかりと教訓を受けたわたしは、愛情と尊敬のこもった尾頭付きの鯛の塩焼きをアメリカ人の亭主殿の皿の上にのせたら、皿の上の魚の頭をジッと見つめて、この頭は大きくて食べられないと思う、食べられない頭を付けたまま出す必要は何処にあるの? 頭はどけてくれと言われた。

勿論頭は食べなくて良いと説明した。しかし、亭主曰く、食べない、見るだけの物を皿の上に乗せる理屈が分らないそうだ。屁理屈なら専門家のつもりのわたしの返事は、 T-ボーンステーキは T型の骨があるけど、 あれを食べる奴は居ない。 それならこれからはあの骨をコソイデ焼いても良いか? 彼は黙って食事を始めた。

それ以来、 鮭でも、鯖でも、ヒラメでも かまのところは私の皿の上にのるようになった。それは、母の教訓を説明したら、 自分は魚の何処の部分を食べても少しも気にしない、それによって自分の人生が変わるとは考えないから。 

味の分らない奴だと思う。 やはり魚はかまの部分の方が美味しいのに、しかし、魚の味に眼覚める前に、わたしが独占することに決めた。 

2010年4月22日木曜日

で、と が、と、 に のお話し

女性五人が集まっての昼食会。 

―飲み物は何が宜しいですか? コーヒー、紅茶、日本茶、お水、それから スプライトもあります。

お客一人― 「私は紅茶でいいです」 そして 後の二名も 「私も紅茶でいいです」
私― 「お水を下さい」

食事はいともスムーズに運んだが、私は妙に気になりだした。
紅茶「で」いいです。とは 本当は紅茶以外の飲みものが良かったけれど、相手を煩わせる事を気にして、紅茶で手をうったのか。 しかし、 お湯とティー バッグとカップはカウンターに出ていたから、セルフ サービスだったのだ。


今読みかけの本の中に
酒場の中で 男性が若い女性にー「飲み物は何がいい?」
若い女性―「私はお水でいいです」そして彼女の心の中の描写は(わたしはここでお酒を呑みたくない)
男性― 他にもいろいろあるけど、 アルコールの入らない飲み物もいろいろあるけど?
女性― いえ、 お水でいいです。 

この「で」を使うと多少ややこしくなる。これを お水がいいです、とか お水を下さい。 「が」とか「を」に入れ替えると相手側はすぐに納得するし、雰囲気が柔らかくなってくるようなのだが。 
「で」は少し意固地さが感じられる。 それなら、私の知人たちはどうして、「紅茶でいいです」と云ったのだろう。ホストは最大限の歓迎をしようと 二日も前から料理をしていたのに、「で」はないだろう。


そういえば、昔実家の母が自分の気持ちを表すのに、「で」を使っていた。お母さんはxxxでいいよ。  私は xxxでいいから、 他にもいろいろあるけど?の押しに、 良いの、これでいいから。 「お母さんはこれで十分」と答えが戻る
それでももう一言押して、
好きなものを注文したら? 
「お母さんはこれが好きなのよ、だからこれで良いの」何処か違う。ときには 
「お母さんはxxxにしとくから」   何か母の気持ちがはっきりつかめなかった。 望んでいるのか、妥協しているのか、遠慮しているのか。  しかし、遠慮の気持ちを相手に分らせるのは 或る意味で マナーに反するのと違うのではないかしら。

本のつづき、 その若い女性が又同じ男性と同じ酒場へ行く。

男性―「何を飲む?」
女性―「ミルク ティーにします」(彼女はとても気持ちが高揚していたとつづく)

やれやれ、「で」でも「が」でも「を」 でもない、今度は「に」に変わった。 
やはりどのような返事をするか「で」意味が違ってくるらしい。
日本語って本当にむずかしい。   

2010年4月19日月曜日

宗教団体

Lakewood Church という全米一の大規模なキリスト教教会がある。教団本部はこの街ヒューストン。

日曜礼拝人口平均43,500. 100ケ国へのテレビ中継もされている。 まさにメガ教会である。席数16,800のマンモスドームを持ち、日曜日の礼拝は四回。 ここに君臨する 教祖である牧師とその妻は財力の現人神である。牧師の独特のスマイルと話術は誰もが納得がいく説得力を持つ、敢えて言うなら、 これぞ 神から与えられた恵みである。

この牧師のインタビューをTVで観たことがある。 大学で神学を勉強したわけでもない、特別の訓練を受けたわけでもなく、 先代Lakewood  Churchの牧師家庭の中に産れ育っただけ。
インタビュアーの質問に、牧師になるための神学校を卒業したのか?その答えに対しては言葉を濁していたから、多分それもないのだろう。しかし 或る日 父親に勧められて説教台に立ち、自分の心に思うことを話し始めたら 言葉が次から次へと口から出て来た、とニコニコしていた。

人を引き付ける素養を身につけているのかもしれない。 いや、神から与えられているのかもしれない。

私の所属するカトリック教会の神父の説教には ニコヤカなる笑みなどまったくない。円壇上で歩いたり、ため息をついたり、 そしてニコニコを絶やさぬ話術などまったくない。 そっけないものである。 神父たちもこの牧師のテレビ中継を観て少しは勉強したほうがよいかもしれない。

一般庶民で、何処の教会にも所属しない人たち、もう車の運転が面倒になった多くの老夫婦たちがインスタント礼拝をTVの前でするわけだ。
自分の教会の礼拝を済ませてからも、 日曜日の朝10時にはテレビの前に座り、チャンネルを合わせ、牧師の話を聴き、毎週25ドルの小切手を切り、郵送している老婦人を知っている。

さわやか系、癒し系という言葉が当てはまる語りかけ。 毎日の生活の中の事がらの中での神の存在。生活の中の全ての事がらはすでに神の働きによるものである。
わたしたちは神の支配の元に、計算されて、生きているのですと力説する。
右の道を通って帰路に就くつもりが、何かの都合で 左を通った。しかし、右の道に大きな事故があった。 それは神が 事故が起きる事を知っているから、 あなたに違う道を行かせたとこの牧師は説く。神に守られていると。 多分そうだろう。

そこが私自身のどうしても受け入れられない処なのだ。 二つの道の一つを選ぶのは わたしの意思であり、 神はいつも 私たちに選択権、自己の責任を与えてくれていたと信じているのだが、
神はこの世を創造した、そして どう生きるかを説いた、その後の選択権は人間自身のものと理解している私とは根本が違ってくるのだ。 

しかし、この牧師の理論のほうが世間には受けるのである。 自分の意思で人生を歩まず、神の計画の元に全てが執り行われていると考える人生を多くの人が受け入れ、それを良しとしている。多分そうなのだろう。しかし、どこかで、それでは 個人の意思はないのだろうか? 良い事が起きて神に感謝、それでは 意思に反する悲しいことが起きた時は、それも神の意志と受け入れるのか。 神は人に、病と事故と災難と悲しみも与えているのか、 それも神の意志なのだろうか。それを祈ることで災難から離れる事が出来るのか? それでは、悲しみを持っている人は 神に祈らないと云う事か、 どこか違うと考えたい。 

貧しさは 幸いです、 お金がなにになりましょう。 心さえ豊かであるなら、 金銭なんて問題ではないのです。 祈りましょう、神がそこに居ます。胸を張って、毎日を過ごして下さい、あなたがたは素晴らしいと説くこの牧師夫妻が、一年ほど前に、或る州からの帰路、飛行機の乗客となっていた。そして、その数日後、その飛行機会社のフライト アテンダントに暴力行為を牧師の妻から受け、精神的打撃を受けたと告訴された。牧師自身ではない、その奥様、副牧師、いつも夫の傍に寄り添う、金髪の綺麗な女性がである。フライト アテンダントと少しの言葉の食い違いからそれが諍いとなり、 牧師の妻が手で相手をドアまで押した(こずいた)というものである。 

告訴するフライト アテンダントなど 機内で見ていない。何もなかったと否定する牧師側との間で、早速裁判になった。
人間である以上、 気分の悪い時もある、 たまたまその日は双方とも気分のすぐれない日だったのかもしれない。 しかし、 告訴したアテンダントは 相手側の懐の重さを量り告訴したかもしれない。 又牧師側も世間体を考えて、小競り合いはあったが、決して自分たちは過ちを犯さない人間であると意思表示したかったのかもしれない。どちらの言葉が正しいかは それこそ 神のみぞ知ることである。

しかし、いざ裁判の蓋を開けて驚いた。 牧師側を代表する弁護士団。 この街で最も悪名高き、一般人は足元へも行くことが許されないような 最高級の弁護士であった。この弁護士が立てば連続殺人犯も明日は大手を振って街を歩けるようにしてくれる。 テレビ中継される裁判、セレブの裁判そんな時には 必ず出てくるご本尊が、私が牧師の妻の無実を証明しますと お定まりのニュース中継の中で、ニコニコと微笑む牧師と並んで記者会見。 牧師自身は、記者の質問攻めの中で、全てを神の御手にゆだねます、そしてニコニコ。

この弁護士の登場で結果は分ったも同じ。勿論結果は無罪、告訴取り下げ。
飛行機の機内では訴訟側との接触は一切なかった。 全てが告訴側の造り話であるという結果となり、敗訴したアテンダントは テレビ中継の中で、 公式に相手側に謝罪をした。


貧しさは幸せ、 金銭は人を助けず、心さえ清ければ、あなたは素晴らしい、と毎週ミリオンの世界の人たちに説いている牧師が、財力の無い人には 依頼することも出来ない弁護士を雇い、無罪を証明、相手側へ公に謝罪させる感覚が分らないのだ。
この牧師の聖書の中には 「許し」という言葉が無いらしい。そんな牧師を一言「偽善者」と呼ぶには あまりにも多くの人たちが彼の言葉に酔い、寄付をする事に喜びを感じ、絶大なる支援を受けることが不思議だ。

先日はオバマ大統領の医療保険講演会で、この牧師夫妻が最前列に並び、オバマさんに向かってニコニコしていた。医療保険支援団とはおよそ縁のなさそうな 宗教団体の教祖が大統領の入場する入り口で ニコニコと拍手をしているのを見るのは 何とも 世の中の不思議を見るようだ。神が政治にも関与し始めたという事だろうか。          

2010年4月15日木曜日

ブルー ボンネット




春うららかなるこの季節、何故か今年はあまり花粉症に苦しむ日もあまりなく、薬を毎日飲まなくても過ごせるようになった。 もしや、治ったかな? と喜ぶととたんにクシャミの連続15回、涙目に鼻紙のお世話になるという情けない状態になり、 あ~まだまだダメだったと萎れる。

しかし、花粉症に脅えて室内生息も飽きた。 そこで、 しばらくぶりのテキサス式お花見ドライブを
日曜日にして来た。

お花見だからと云っても、桜の花見ではない。 桜の花の下で、お重箱を開けて、お酒を呑んで、
アーコリャコリャ の経験のない私たちのはいとも簡素なもので、 サンドウィッチにお稲荷さん。
友人夫婦は、三角おにぎりに卵焼き。飲み物はコーヒー。 

こちらはテキサス州の花、ブルーボンネットが丁度今週が咲きごろとの情報を得てのドライブとなる。

三月の末から四月にかけては、野生の花の楽園、自動車道路の両側はこの時期には 芝を刈らず、 野草の伸び放題とする。最初に咲き始めるのは バターカップというピンクの可憐な花の群生。しかしどうしたことか 最近ではあまり見なくなった。そして、オレンジの色をした インヂィアン ペイントブラッシといういう名の花がとって代わり、それに競うように 鮮やかなブルーを誇る、過保護な州の花、
ブルー ボンネットが絨毯のように緑を埋め尽くすのだが、 どうやら私たちのドライブは一週間
早かったらしい。 まだまだ ブルーボンネットで埋め尽くされては居なかった。 

この花は自然保護の花とされ、 切り取ることを禁止されている。 別に一本切り取ったからと罪にはならないと思うが、 誰も切る人は居ない、 春になれば又咲く花、切り取って部屋に飾らなくても、ただ傍にたち、写真を撮り、香りを楽しんで、又来年に逢いましょうとなるのだ。

ドライプの途中に小さなお土産屋さんが一軒。 ラベンダーの店と書いてある。 
店内はラベンダー一色、コロン、石鹸、オイル といろいろ。 店の前はラベンダーの花の栽培をしている。 近づいてみると花が咲いていた。 実は私はラベンダーの花や木を見るのは初めて、 別に香りはしなかったが、繊細な姿の傍に行くと 蚊の群生がブーンと来た。 きっと人間には分からない香しい味がするのかもしれない。

2010年4月9日金曜日

いじめ

昨今のアメリカでも 学校内の いじめ による未成年の自殺が世の注目を受けている。数年前は一人の少年が自殺を図った。 先日は15歳の少女が 3ヶ月半に及ぶ 陰湿なグループによるいじめに耐えかねて自殺を図った。


少女の母親は高校の教師である。自分の娘の挙動を見て、いじめを受けているのではないかと感じ、学校側への対応を頼んだという。 しかし、 学校側では 見てみぬふりをしたらしい。すなわち何の対処もしなかった。そして その苛めは つづいた。


本人にとっては 自殺をすることで社会へ抗議をしたつもりはないだろう、 辛かったから、もう耐えられないから、解決の道が見えないから。 死ぬという行為は哀しいが、 死ぬまでの その子供の心の道行きがもっと哀しく心に響く。


わたしの息子も娘も 成長段階で多少の苛めにあっている。 それが 日本人の母親を持つことで起きた差別からくるものではないと理解している。 この人種の坩堝の国に生活して人種差別などと甘えていては生きて行かれない。


息子が口の中を切って、血だらけで帰宅しても、 娘が頭にタンコブをつけて帰宅しても、人並みに小さな悪さをして来た父親は、成長段階に通る普通のこととして取り合わなかったが、母親のわたしは違う。 断固として立ち上がった。 「ママはもう学校へは来てくれるな、 ママが来るといつも一言多く、後で自分が困るから」と息子から 学校お出入り禁止を食うまで私は教師とやり合った。 別に余分な要求は教師には頼まなかった、 特別待遇も依頼しなかった、 ただ自分の仕事から逃げるなと文句を言ったまでだ。何故そこまでするかには理由がある。 私自身が東京で中学校の時に一人の教師からいじめを受けていたから。 きっと私は生意気な生徒だったのだろう、 しかし、一人の教師が一人の生徒を疎ましく感じたとき、物事はそこで留まらないのが人間社会。 その教師は他の教師へ愚痴るからだ。 教師は教師間の結束がある。これは決して破れない。

大学の講師から教授になった私の父から言われたことがある。

自分が教職に立っていたから言えることだが、 教師も人間だよ。 生活のため、家族を養うために選んだ職業。 日教組という組合まで持っている労働者の一人なのだ。 聖職だの、神聖なる仕事などと期待をしすぎないように。それは彼らには気の毒というものだ。

毎朝電車に乗って通勤しているサラリーマンとまったく同じ。 教育程度も、世の中への常識も、だが一つ違うことは、 一般企業の人は 大人社会に生きているが、 教職者は 自分よりも教育程度が低く、年齢も低い集団と毎日接していることだ。


今回の15歳の少女の自殺も、報道によると学校側の怠慢が矢面に立っている。 また 容疑者 男子二名、女子四名が判明し、未成年ではあるが写真つきで報道されている。 私はそれでよいと思う。 今の世の中は 加害者が時には法の下に庇護さるらしい、加害者の家庭環境や成長期間の経験まで 加わって 帳尻を合わせようとしているが、 人に害を加えたことはたしかであり。それによって被害者が死を選ぶほどの錯乱状態に陥ったことも確かなことなのだ。それに対する罪の償いは必要だと思う。又 学校側の見てみぬふりをする集団暴力的な行為にたいしても厳しく帳尻を合わせてもらいたい。  

2010年4月7日水曜日

ナシヨナル ジオグラフィック 3






復活祭(イースター)の数日前にダブの赤ん坊もやっと卵から孵った。 しかし、 小雨の続く毎日で親鳥が体を動かしてくれない。やっと雲の晴れ間に私の仕事部屋から望遠鏡で覗くと、オヤ 赤ん坊たちの食事中だ、 カメラを持って外へ飛び出ると、ハイ 残念でしたと言わんばかりに しっかりと母鳥は尻を落ち着かせて動いてくれない。

少しでも親鳥の苦労を少なくしようと、先日は遠くへ餌を求めて飛び回らないようにと、ペットショップから 小鳥の餌を買ってきて傍に山積みしたのに~、 芝も刈らずに雑草放置状態にしているのに~ 少しはわたしの努力を認めて子供を見せてくれないものかと思うが、3メートル以内に入ると、キッと黒い目を向けてくる。

しかし今日は違う、 夕方帰宅後早速窓から覗いたら、親鳥が見えない。 嘘、まさか、イエイエ もしかしたら、子供だけお留守番をして 親鳥は何処かのレストランへ食事かしらと思いちかずかせて頂いた。  

チンマリと 二羽の可愛い小鳥がジッと仲良く座っている。もうじき孵って一週間になる。こちらとしては、何時家族の旅立ちが来てしまうかと気がきではなかったが、 やっとお姿拝見、彼らの最初のスナップ写真のできあがり。