2010年6月29日火曜日

スピード違反

通勤は普通有料高速道路を利用する。 この街の一般高速道路は無料、「Freeway」 だが、
一か所だけ有料がある。ヒューストンの外側を一隅しているのが 十数年前に出来た。
巷の噂では、もうこの道も採算が取れているはず、そろそろ 無料になるのではという期待があるが。
この次の知事選で 一人の立候補者が この道路も無料にすると呼び掛けるそうだが、さてどうなるか。 

しかし昨今の不景気から 往復この道を使うと我が家の経済にひびく。私は毎日の通勤は今年からやめたが、同居人は毎日であるし。

そこで 姑息な景気対策として時々、有料道路と並行しているフィーダー(そう皆が呼ぶから私もそう呼ぶ)を使用する。 高速は 制限速度60マイル。そこで皆は80マイル近くまで出す。
私はそんなことはしないヨ、 せいぜい 70で止めて置く。イザと云う時に反応が遅いのが怖い。私がもしも事故死したら、 新聞では カッコ 老女 カッコ閉じる と書かれる年齢なのだから。

フィーダーは制限50マイル。 そこで 一般的に60までは出せることになる。ご丁寧な方は時々50マイルでトポトポと行く車もあるが。 

木曜日、今日は倹約の日と決め、フィーダーを行った。そして 一斉取り締まりにぶつかった。私が63マイル出していたとポリスは云う。 「そんな~ 私はしていません」これはどの違反者も云う言葉だそうだ。だから私も言う。 「そんなはず有りませんけど?」

朝はラジオのトーク番組を聴きながら運転する、その日もBP社石油垂れ流し問題で議論続出。 オバマ大統領の後始末の不手際は、 問題を大きく広げて、 その間に税金値上げ案を可決しようとしているのだ、とか、 一括BP社からの補償金を政府が受け取り、 突端の被害者への補償金は小出しにするのではないか! とか いろいろ意見が続出、聴いていた私は  「ソーダ そーだ」と勢いを付けていたら チョコッと右足に力が入ったらしい、 3マイル オーバーしてしまった。 私が悪いんではないよ、オバマが悪いのだ。

数台の車が止められていたので、 迂回しようとしたら 私の車の前にポリスが出て来た。止めろと指示したポリスもいい加減で、 免許証提出と言ったが、保険証提出とは云わなかった。 私の前に3台、私が書類にサインをしている時に すでに2台が後ろで止められていた。違反者大量生産である。 よほど 警察署も不景気と見える。 ほんの二週間前に 「殉職警察官遺族の為」という寄付をしたばかりなのに、なんと不義理な警察官である。
もうしないヨ。 警察に寄付なんて金輪際しないからね。

罰金110ドル。 記録に残らないようにしてもらうには 弁護士を頼むと170ドル追加。 
弁護士を依頼をしないと、記録に残り自動車保険が年間に500ドル上がるそうだ。これはもう保険会社へ電話をして確かめた。

もうひとつは 8時間の安全運転教室?(Driving safety course)へ出席。 これを首尾よく終わらせると、保険も年間10%値下げ、そして記録に載らない。 まあ これが最上の手段かもしれない。
その許可をもらいに 結局裁判所へ行かなければならない。 

車を運転する時は、 私が正しい、 規則はこうですと運転するのではなく、 流れに乗るように。 一台だけ 私は制限速度で参ります は 事故の元と言われてきたけれど、 この日の流れは少し早すぎたのかもしれない。 分かっています。 みんな私が悪いのです。

2010年6月27日日曜日

歯医者

就寝前に何時もの習慣でデンタルフロスト(糸楊枝というとか)を使用中「ポロリ」と奥歯が一本落ちた。
この歯は十年ほど前に虫歯の治療後にクラウンを被せた。800ドルの支払い。

一昨年同じ歯が痛くなり、別の歯医者で神経を抜いてまた新しいクラウンを被せた。当たり前の話であるが。
それで600ドル+250ドル(これは神経を抜く治療代)その歯がぽっきりと根元から折れて、バスルームのシンクの中でコロリン コロリンと右に左にと遊んでいる。 冗談ではないですヨ。

翌朝歯医者へ電話、出ない、出ない 一日中電話に出ない。クリニックへ出かけてみたら 「Close」と札がかかっている。 翌日も 応答なし。
留守電もない。このベトナム人の先生は予約の無い時は看護婦共々 フット消えてしまう。
まさか また休暇でベトナムへ里帰りではないことを願う。 

やっと女性が電話に出たのが金曜日。 本当に電話から腕を出して首を絞めてやりたい。電話口で、 アラ オカシイですね。
水曜日が休みですが、その他の日は 開業してましたけど~ 嘘つけ、しかし やっととれた予約が翌週の月曜日。
それまでは笑う時は ニッとするだけ。 大口は開けられない。

不思議な歯医者で、 対面とかまったく気にしないらしく、別に貧民街の中の医者といったわけではないが、
ガラスドアは汚く、 椅子は破け、 待合室の観葉植物は全部枯れている。外からみると、そこだけが 「倒産夜逃げ中」といった印象を受ける。
時々受付に座っている医者の奥さんは金ぴか。 一流のスーツを着て、金色のネックレスや イヤリング、 次いでにスーツのボタンまで 金色。
ニコニコと実に人当たりは良い。
看護師もベトナム人だが 彼女まったく英語ダメ。コンニチワも云わない。マスクの外に出ている目も笑っていない。
治療中は医者は英語とベトナム語を交互に使っての奮闘である。

しかし この看護師さん結構気が強くて、医者と口論をする。私が口を開けて待っている顔の上で ベトナム語で議論している。
そして彼女が負けると、当たり前だが、器具をガチャンと投げやり、医者が耳元で「女は怖いね」と囁く。

何故このクリニックへ行くか? 自分でも分らない。手が器用であることが良いからかな。
なんでも 大学は薬学だったそうだが、就職活動中に金ぴかの奥さんから、アナタは歯医者に向いてます。
今から歯医者になりなさいと言われ、家族を離れて月謝の安い遠くケンタッキー州立の学校へ一人寂しく行ったそうだ。

私は彼の治療技術を信用していたのだが、 今回歯がポロリと落ちた状態からみて、腕が良いというのも少し難しくなってきた。
また次の歯医者を探すのも面倒なのだが。 

2010年6月15日火曜日

日本語 英語 いろいろ  その3

日本語だの英語だのといろいろ御託(ごたく)をこねているが、さて 私自身の家族はいかに。 
これが哀しいことに 息子、娘そして亭主殿はまったく日本語を話さない。そうではなかった 話せない のである。
一言で云えば私が怠け者であったのが最大の理由。


長男が産まれた頃は 小学生まで家庭内を日本語で通した。 これは 子供の父親が 殆ど留守だったから出来たことかもしれない。 月曜に出かけて金曜日に飛行機で帰宅という 出張亭主であった故、 母子二人で日本語を楽しませてもらった。もう 35年前になる。

まだまだこの州も英語が主体であったから息子が 保育園へ行く頃になると、保育園の保母さんから、お母さん家庭で英語を話して下さい。この子は言葉が理解出来ていないようです と言われるようになった。
そうではない、 息子は理解していたのだが、おしゃべりをしないのである。三歳まで全く無口な子だった。もしかしたら言語障害かしらと心配した事もあったし、
無知な人は、二カ国の言葉で頭の中が混乱しているのだと助言してくる。そんな事は決してないのに。
しかし、三歳の誕生の頃から 堰を切ったようにおしゃべりをするようになり、 英語も日本語もしっかりと使い分けてくれた。 とはいえ、三歳の子供の語彙などはまったく無にひとしいが。

その頃お向かいに住んでいたギリシャ人の家族は夫婦がギリシャからの移住者だから 内はギリシャ語、外は英語とはっきり区別していた。左隣は フランス人の奥さんとアメリカ人の旦那さん。 どうしても家庭内は英語になる。彼女に言わせると、もうフランス語なんて忘れたと嘆いていた。  

お向かいのギリシャ人の奥さんは 買い物にも電話での交渉事でも娘の助けが必要であることと、またこの国の人たちは 祖国が同じ人たちとの結束が強く、外部との接触が極端に少ない。故に、奥さんが英語を学ぶ時がない。 それも考えさせられた事がらである。 

ひとつの望みであった日本語補習校への子供の入学を願ったが、 「日本で税金を支払っていないアメリカの子は入学拒否」にあった。数年後には 違う返事が返ってきた、「日本のご家庭のお子様の為の学校、現地の子供はまず付いていけないでしょう?」という拒否にもあった。

しかし、これは甘えであって、 日本人の女性でも、子供との接触は一切日本語。 子供が英語で話しかけても母親は返事をしない。父親同席の食卓でも、父親には英語、母親には日本語と使い分け、母子の会話中は父親を含む第三者は理解できないという状態を貫いている人も居る。

その徹底した精神はアッパレだと思う。

しかし、我が家の子供たちが日本語を習わなかったのは私の怠慢からである。
学校へ行かなくても学ぶことは出来る。私に教える気力があれば。でも 子供の成長と共に親も成長しなければ、すぐに追い越されるのが怖かったのが最大理由かもしれない。

「お母さん一体何年この国に居るの」と言われるのが怖かった。 子供も一歳、私も一歳、一緒に勉強したっていずれは追い越されるけれど、何処まで付いていけるか やってみたかった。
子供の人生より、私の人生を選んだとも云える。 そんな結論に達してから 私は子供への会話を英語に切り替えた 情けない母親なのかもしれない。


娘は大学の第二外国語に日本語を選んだ。 カタカナ ひらがな程度は読める。 ゆえに日本食品店に買い物へ行くと ほんの少し便利だそうだ。しかし言葉などは 使わなければ消えるもの。娘がひらがなを読めるのもあと何年かであろう。

息子は 挨拶程度なら出来るだろう。しかし、これも月日が彼の語彙を消しさると思う。少なくとも彼らの今の生活の中では母親の祖国の言葉は必要ない社会に生きている。

日本に親戚や従弟たちは存在しても、 彼らがアメリカへ遊びに来たのも学生の頃。 その後の接触はまったくなしの親戚付き合い。息子、娘の日本への思い入れは浅いものかもしれない。 

忘れていた、 子供たちの父親!  これはもう論外である。一年に一語単語を覚えられるかと交渉したら、「努力してみる」、しかし、一語覚えても、 二語忘れるのだ。まるで笊の目のように底に留まらない。 もうどうしようもない。

「今度東京へ行った時、秋葉原で捨ててくるからね」と云ってある。   

2010年6月13日日曜日

日本語 英語 いろいろ  その2

ヒューストン市は過半数の人口がヒスパニックで占められている現在、ローカルテレビのニュース キャスター はヒスパニック系と入れ替わったように見える。

そこで 面白い現象は、文章の中のヒスパニックの固有名詞の箇所は 完全なる原語のアクセントに変わる。ロドリゲス、ゴンザレス、その瞬間キャスターが巻き舌になって名称を読む。

例え殺人鬼や窃盗犯の名前でも、 彼らがメキシコ系なら 名前だけは正確に発音させてもらいます。 そんなテライが見える。しかし、だからと そこに日本語の固有名詞が出て来た時は~期待しないほうが良い。今何言った?となる。 

何処の国の人でも、外国語の発音には相当にいい加減な処があるが、 勿論 アメリカ人はその最たるところ。 カメラのニコンをナイコンと呼ぶのはもう固定した商標らしい。 我が家族も各自カメラ の ナイコンを持っているが、わたしの前では少し呼吸を整えて ニコンと発音する。私の目が怖いらしい。 そうでしょう、そうでしょう。

日本が発祥の地であり、原語なら やはり 何処の地の果てへ云っても 日本語の発音を通してもらいたいものだ。 しかし、これは 国を出ている私たち日本人にも言えることで、 結構な数の日本人が英語で会話する時に、アメリカ人の発音と同じ呼び方で日本の単語を云う人が居る。
そう云わなければ相手が分らないだろうと思ってという感想を聴いた事があるが。
そんな心配はいらない。相手が分らなければ教えてあげれば良い。 英語の途中で母音の強い日本語の単語を挿入するのはなかなか難しいと云われたこともある。
けれど、その人が英語を大切に想い、正確に使おうとするなら、やはり日本語にも同じ姿勢をとってもらいたいと要求するのは行きすぎだろうか。

何人かの国際結婚をした女性が、 彼女達の夫が日本語の勉強を始めたが、 日本語は理論的でない、 理屈にあっていない、 一定していない と批判して 投げるそうだ。 中には 自分が納得するように説明をしてくれるまで 勉強はしない という 不埒な夫もいるそうだが、 所詮言葉なんて 理屈ではない。 暗記だと私は理解している。

英語にしても 全く理屈にそっていない。初めて私が姑の家の台所に入ったとき、 「そこにある マージョリン(Margarine)をとって頂戴」と言われた。少し困った。マージョリンが何か知らなかったから。

彼女はマーガリンの容器を手にして、これが マージョリンよと言う。 ゲッ 、それマーガリンですけど。 
Margaret をマーガレットと云い Margarita  をマルガリータと呼ぶ。しかし、Margarine を何故 マージョリンと読む。


サプルメントの一つを電話注文した時に、 日頃名高い意地悪バーさんが応対にでた。サプルメントの名前を伝えた時、この意地悪バーさんは その発音では 何の商品か分からないという。 私は続けて、 在庫はあるの?彼女は在庫はあると云う。明日には届ける。 それでは 私が何を言おうとしているか理解しているではないか。しかし バーさんは後に引かない。 もう一度 商品の名前を云えと私に要求する。語源はラテン語である。 正確に云えば双方の発音が間違っているケースもある。しかしこのバーさんは頑固に自分流に発音して欲しいらしい。 二度繰り返してやっと彼女流の発音をして彼女は満足した。 

しかし 相手が悪い、 私は心根の曲がった人である。そこで、 私の名前を伝えた。  彼女は何度も聞き返しながら やっと名前を書き取ったあと こちらが いっちゃもんを付けた。
どうせなら 私の名前を発音してみてよ。 その時彼女は アッとおもったらしい、  出来るはずがない。 彼女は 「 私の行きすぎでしたね。」の言葉でその電話の会話を終わらせた。   

2010年6月11日金曜日

日本語 英語 言葉いろいろ

まだ 私が日本に居た頃、某イギリス石油会社東京支社に勤務していた。
常時4-5名の駐在員がイギリスから来ていたが、 数年間の勤務期間中に日本語を勉強することが義務づけられていたらしい。 
駐在員、老いも若きもお昼休みになると その頃は渋谷にあった日本語教室に通っていた。

私の上司もご多分にもれず セッセ?と通っていた。 或る日私に 品物の数が数えられるとうれしげに話す。 数が数えられると言ったのではない、 品物が数えられうと言ったのだからね。
、 いーち、にー さーん ネ? 
誠に宜しい、そこで心根の曲がった私は 一本の鉛筆を手にとり、 これは?
いーち。 
違う、 一本、
次は 紙? いーち、 違う 一枚。
鉛筆、一本、紙一枚、 お酒は一杯、 犬は一匹、馬は1頭、猫はハタマタ一匹と数える、 飛行機は一機、自動車は一台 私は二十代、アナタは五十代 まだまだあるよ~ 
うらめしげに私を見る上司は少し可愛かった。

これで 上司の語学に対する上昇気流は一気に落ち込んだことは確か。 そうです私は悪い秘書だった。これは仕方がない事なのだ。彼らの日頃の日本人の英語に対する姿勢に接していれば、「今ヤ、復讐の時来たり」 私が悪いんのではない、彼らが悪いのだ。これぞ 日頃の行いに気をつけましょうとなる良いケースです。


25年来の親友のエリザベスはフランス人。 私と彼女が会話すると 双方の子供たちがニヤニヤする。 フランス語訛りと日本語訛りのオンパレードになるからだ。傍から見ると結構面白いらしい。
一度だったが、エリザベスの馬鹿な娘が ホざいた「ママは何時になったら その訛りが消えるの?」そこで飛んだ言葉は 「ママの英語程度の会話を貴女がフランス語で出来た時に批判しなさい」 誠にしかり。

私の名前は「HI」ではじまる。日本語だと「ひ」と発音するが、フランス語の「H」は無音だから、エリザベスが私の名前を呼ぶ時に頭文字が抜ける。ひ 抜けでよばれる。非常に閉まりが悪い。 何度も抗議をするが、彼女は 「ひ」という音が出来ない。 丁度アメリカ人が 「つ」が言えないように。「つまらない物ですが」とは言えるが、「つっかかる」とは言えない。 故に日本人が L と R、TH の発音が難しいと嘆くが、そんなことは嘆く事はない、 お互いに出せない音とうのがある。国民的肉体構造?の違いでどうしても有るのだから。
あちらさんは目が青いのに、こちらさんは黒い。これをお互いに批判しあっても行きどころがないと同じではないかしら。

昨晩観ていたテレビで、 イギリス人が場所の名前の読み方の違いで 土地の人に訊いてもどうしても目的地に着かない面白い場面があった。場所の名前は 「Merry ville」メリー ヴィル と当地の人は発音するが、
そのイギリス人は マリー ヴァイル と呼ぶ。さてどちらが正しいか? 応えはない。 メリー ヴィルに住む人が メリー ヴィルだと発音すれが、 マリー ヴァイルは間違いになる。

2010年6月5日土曜日

スペリング B

昨晩テレビを付けたら、2010年のナシオナル 「スペリング B」を中継していた。
「スペリング B」 とは 質問者の出す単語を  口頭で正確な スペルを応える大会である。出場者は 小学校高学年から 高校生まで の広範囲で 年齢ごとのランクはあのだろう。 毎年 出場者は全州から 2,000人を超える数の子供たちが 挑戦する。 もう最終予選近くなると、訊いたこともない、見たこともない 単語が飛び交 う。

観ていると私自身の語彙の少なさに嫌気がさす大会である。相手が読めればよい、 意味が通じればよいという種族 には関係ないトーナメントとなる。私の息子などは PCでスペルチェックをしても どのスペルが正確なスペルか分からない時があるとぼやく、わかるナ~  母親の私だって同じである。

私の知る限り、毎年優勝者は 母国語が英語ではないか、英語以外の言葉を使える子供が多 いのが不思議である。 何故か インド系の子供が多い。 緻密な 重箱の隅を突っつくような 書類とか 単語とかに異常に正確さを要求する(これは 私の 経験からの 感想である。かつて インドの国と小さな取引を何度かした経験があるが、 まあ 驚いた、 書類の一字一角まで 舐めるように 検査をして、 スペル一つ間違えても 再度の提出を要求する。 勿論 間違える こちらが悪いのだが。 しかし 一度、彼らの書類の間違いを正したら、 アナタ そこに ペンを持っていますか、ペンで そこを訂正しておいて下さい。それで 十分でしょう と来た。 そのような国の人であるから 人種的に会っているのかもし れない。

丁度私が見始めた時は 女子の出場者、質問は 「日本の代表的グリーン ティー」と説明して 質問の単語は  玉露 Gyokuro。

しかし 質問者は ギヲクロ と発音していた。 出場者の女の子が、 その発音を繰り返し て ギヲクロ これで 発音は間違いありませんね?と確認。  そして彼女は 声に出して ギヲクロ 
ギヲクロ とつぶやいている。再度 私の発音は間違 い有りませんね? の質問に
「そうです ギヲクロ です」と質問者のドクター ナニガシは返答  

ギヲクロのスペルを云います 「Giokuro」と答えた。
間違いの解答として 彼女は 選出からもれた。
もうアホ臭くて観て いられなかった。 どこの世界に ギョクロを ギヲクロ と言うか?また ギヲクロが正しい単語なら出場者の解答は正解である。

こ れは カラオケ 「Karaoke」  を キャリオキ と発音。Honda をハンダー、 と同じ系列なのだろう。
その後に続く 出場者 も ギリシャ語の言葉、フランス語の言葉と 質問がつづき 私はテレビを消した。 勿論 その後に私が言ったこの番組に対する感想はここに書かないほうが良い。

2010年6月3日木曜日

胡麻 味噌 のたれ ソーメン

サンジェゴに住む娘からメールが入った。 

週末に日本食品店に出かけ, すり鉢とすりこぎを買ったのだそうだ。
合わせて、ソーメンの束に味噌と胡麻を見つけたという。 そこまでくれば 何を食べたいか分かる。
「我が家特性 胡麻味噌ソーメン」である。早速に、タレの作り方を訊いてきた。 可愛い娘ではないか。

六月に入り、全ての学校が夏休みに入り、私たちの食生活も脂っこい食品から夏らしい涼しげな ソーメンや 冷やしラーメンが多くなる季節到来。 それに少しでも体を動かせば汗も出る、夏の終わりは多少体重に変化が出るはずだが、それは横へ置いておいて。

最近のアメリカのダイエット料理に少しの変化が出始めている。一時期は 豆腐を食べろ、蕎麦を食え、寿司は美味しい、味噌汁美味しいであった。 それこそ多少自分の食生活に気を使っている人種は日本料理大歓迎であった。  しかし、 一部の研究家??これがつわものであるが、から 大豆は体に良くないと言い始めた。 大豆は体内で糖分に変わるとか、 体脂肪が出てくるとか。
推薦する食品は 木の実である。栗鼠ではあるまいし、 朝から クルミだアーモンドなど食べられるものかと思うが、 朝食用シリオ(あの箱から小丼に入れ、ミルクを掛けて食べるアレである)には混ざっている。また エネジーバー シリオの塊であるが、それにも大量に木の実が混ざっている。 
おやつ(スナック)は 木の実や干しブドウ又は人参の生をポリポリとかじれと言う。馬のスナックではない。
朝食にシリオ、昼食にシリオの棒状か、ヨーグルト、夕食は鳥のささ身を茹でた物か海老を茹でてのせた 大型サラダ。 これで生きろと言う。 私にはこのような食事は 台風の後に冷蔵庫使用不可が何日もつづいた時の代用食品でしかあり得ない代物だ。

どだい サラダは胃に良くない。生野菜は消化しないから 次の日に シャックリが出る。時には我が家でもサラダだけの夕食をするが、我が家の同居人の望むサラダは、 ハムのぶつ切り、茹で卵、アボカドのスライスが加わり、 ブルーチーズのサラダドレッシングががっぽりと野菜が見えないほどにかぶさる。 なんの為のサラダかと思うが、 それでも当人は健康食を食べたからきっと体重に変化があると淡い期待を持つらしい。可愛いものである。

その代りに、胡麻スリ味噌仕立てのソーメンは真に宜しい。 娘に負けじと我が家の老夫婦も今夜はソーメンの夕食にしよう。 海老もあるし、キュウリもある。青紫蘇は庭から採ってきて、 しかし、まだ ミョウガが間に合わないが致し方ない。今晩はミョウガは諦めよう。  

いくら専門家が大豆は良くないと唱えても私の食生活から大豆を無くすことは出来ない。 もちろんする気もないが、 大豆で育ち大豆で生きて、大豆で死ぬのが本望です。