2011年6月22日水曜日

皆様 お世話になりました。 

2007年6月20日私の誕生日より始めましたブログも、2011年6月20日現在で
四年の歳月が経ちました。長いようで短い歳月でございました。 

最初は大人になった私の二人の子供の成長過程をアルバムのように、想い出しながら、アメリカの子供の成長期間のいろいろな出来事を書いていくのも面白いのではないだろうか、そんな気持ちから書き始めました。

書くことで、私自身が日本語に接していくことの楽しみ、 もう忘れてしまいそうになるいろいろな言葉、書いて、読んで 可笑しな日本語に呆れて、 こんな事言わないけどな~ と嘆いての四年間でした。 

とても楽しい四年間でございましたが これで このブログを閉じさせて頂きます。

私のブログを読んで下さった方、 コメントを下さった方、 真にありがとうございました。
お読みになっていらっしゃる方々の中には、 まったく どんな気持ちでこんな下らないことを書くのだろうと驚いていらっしゃったこともおありでしょう。ですが、 この四年間のいろいろなことが私でございました。 

皆様のご健康をお祈りしております。


革袋の一滴

2011年6月17日金曜日

干物の独り言

昨日今日とまだまだ気温はうなぎ登り。  同じうなぎというなら、うなぎの蒲焼でも食べないと体力が持たないかもしれない。  ハイ、こちらは勿論冷凍です。 情けないですね。
でも凍解してからもう一度焼けば食べられるのです。  むしろ、有名店の冷凍うなぎより、カリフォルニアかアトランタあたりローカルで焼いた代物のほうが、
うなぎ其の物が肥えていて美味しいです。


先日我が家に来た客人が「これは地球温暖化の結果だ」と言う。 正直私は頭に来た。

確かにこの州は暑い、しかし、人間が地球を温暖化させたとは違うと思う。太陽から暑さは来る、地球から暑さを吹き上げるのではない。

人間がどれだけのことが出来るというのだろう。出来ることは戦争を起こすこと、シャトルを他所の星へ送ること、車の中で携帯へ外国からの電話を受けることも出来る、各自が手に持つ携帯でメールも送れる、買い物も出来る、  生活を楽にすることのもろもろのテクノロジーの開発、医療機関の開発、命の延命も治癒も大方出来る。

私達が生まれた頃には考えもしなかったことが今は可能になってきた。 しかし、どれ一つみても、これから来るハリケーンを縮小させるとか、方向を変えるとか、 地震の予知は出来ても、それを海のど真ん中へ移動させることも、 竜巻を予防することも、干ばつも大量の雨もどれにしても、私達の生活や命を助ける為の改良が出来ない。

氷山の一角が溶けるというけど、聳え立つ山々ではないのだから、いつかは溶けてまた氷山が出来てと新陳代謝があるのではないだろうか。 出来た氷が一万年も同じ氷山であるわけがない。 日本の地震も津波もアメリカの地球温暖化が起こした結果でもないし、歴史は繰り返すで、今や地球は氷河時代へと歩んでいるとも訊く。 それがわかっているなら、地球温暖化が出来たのだから、氷河時代も避けられるようにしてもらいたい。

アメリカの竜巻や川が溢れるのも日本の温暖化が起こした賜物でもない。東南アジアやヨーロッパの地震も人間が変えることは出来なかった。出来るのは予知することと災難の後始末だけ。

考えてみたら、宇宙とか地球とかを考え御託をのべても、天からの災難の前にはなんと人間の力は小さいことだろう。
本当に人間は地球を温暖化させるほどの威力を持っているのかしら。 

暑い中で観葉植物のように室内にいると、 頭がオカシクなります。 今日は瞬間的に40度を越えるかもしれません。 本当に冷房病にかかるかもしれない。 

2011年6月15日水曜日

渇いています

テキサス州の今日の気温は39度。 もう数週間この気温がつづいているけど、 雨は二月以来降っていない。芝生は枯れるし、花は咲かない。 緑鮮やかに伸びているのは雑草だけ。 いったいどこからあの水分を得られるのか、こちらが教えてもらいたい。

どの家でもスプリンクラーを酷使して芝生への水撒きに余念がないけれど、 二時間や三時間の水撒きでは到底間に合う筈もなく、 建物の土台が亀裂してしまう。この地方の土はクレーと言われる粘土体質ゆえ、 水分を含んでいるけど、乾燥すると家屋と土とが離れて、家が沈み、 平らに沈んでくれればありがたいが、 レベルが平均でなくなると、土台のコンクリートが割れる。
家全体を持ち上げて平らにしてもらう工事の費用は考えたくもない。 それだけに水撒きは必死である。


我が家でも、ドライブウェーのコンクリートの亀裂がはじまり、 レンガ作りの家と土との間隔に隙間が見える。家の周りにシャワーの蛇口のように穴の開いたホースを巻き、 少量の水をジワジワと何時間も土台にしみこますなんとも原始的なことをしている。 
水道代は何時もの三倍、それでも、 最悪は工事?と考えると近所中が水道代150ドル200ドルと支払うした道はない。
芝生への水撒きの時間規制とか曜日規制が出ませんようにと胸に手を当てて願っている。
他州では川が溢れて浸水、竜巻が家屋を破壊、母親が抱いていた子供を竜巻が引きちぎっていったとか、
車の中の父と子が、屋根の上の窓を竜巻が破壊して、 父親がしっかりと足を抱えていたのに、高校生の息子を吸い上げて言った。 
もう考えられないような事件が起きている。

そして、又他所の州では山火事が始まった。どうして哀しいことばかり起きるのだろう。少しは楽しいニュースも聞きたい。 

2011年6月14日火曜日

シシーのその後  2

シシー自身も最近はいろいろと考えるらしい。 てんかんもちで、一人では暮らすこともできず、人生の終わりを告げる年齢の60代になり、仕事も辞めた自分に、 若い男性の臓器をもらい、 ゆっくりとだが元気になってくる自分が少し怖い。 神様は私に何を要求しているのか今は本当に知りたいという。 他の若い人がもらえば良い若い臓器を60代の私がもらってしまった。これから何かをして世の中へ感謝しなければ、この肺が無駄になってしまう、とあせるという。

何かをしなければ、 家に居るだけの自分に何が出来るかと、 編み物をしてみた、裁縫をしてみた、ビーズ編みをしてみた、どれも今までの人生で縁の無いものばかり、  そうかもしれない。 彼女の気持ちになれば 重荷かなーと少し理解出来る。

私に何が出来る?と訊かれたが、 私の答えは、 裁縫や編み物では無い事は確だねと答えるしかない。そこで 二人で考えてみようという事になった。

体力的には やはり普通の健康体ではない。
車の運転が出来ない、 
いまでも、癲癇の発作はおこると言う。
ジョンは否定しているが。 癲癇の発作は、本人にはあまり自覚がないらしい。
何時も発作が起きた時は、本人は気が付いたら寝かされていたとうのだから、 どの程度の発作か本人は知らないはず。  
以前も止めればいいのに、車の運転を何度か試みて、運転手中の緊張からか発作が出て事故を起こしている。    ありがたい事に、本人が大木へぶつけたり、誰も居ないお店へ車ごとぶち込んだりであったが、 両方とも本人はすべてが終わってから知らされる。しかし彼女は 先週は三回も発作が起きたと主張する。
シシーは詩を書く。相当に宗教色が強い詩を書く。
文体も良い。そうであろう 教育者なのだ。

書いた詩をブログ作成して発表する。しかし、それは毎日の生活ではない。
イラクなど前線にいる兵士へ手紙を送る。慰問的な手紙では限りがあり、 相手を見つけるのが難しい。

自分の臓器移植の体験を書いてみたらどうだろう。 これから移植手術を受ける患者、 
臓器提供者を待っている病人、 手術前後の不安を抱えているひと。 いろいろな人たちがシシーの経験談を知りたいはずだ。

現在のところは 私たち二人の頭は此処までで止まっている。 しかし、シシーには交友関係が広い。 教育者仲間、 ジョンの顧客、メソジスト教会の信者仲間と沢山いる。 その人たちが別なことを提案してくれるかもしれない。

2011年6月11日土曜日

シシーのその後

シシーもすっかり回復して、二週間ほど前は、 ジョンの高校時代のクラス会が豪華船クルーズ一週間というのに、 彼女も同行してきた。 介護側のジョンにしてみれば、これは絶対にダメだと諦めていたが、彼女が提案して一緒したというわけ。 大衆の中へは行かれない。作り置きの食品は食べられないはずだったが、 本人が行くと決めたのだから大丈夫なのだろう。

結果的には それが良かった。帰ってきたシシーはすっかりと病人から抜け切れていた。 もう普通の人の仲間入りが出来る。 

臓器移植を受けた患者はその後の性格が変わるのだろうか? 先日私がシシーにそれを訊いて見た。自覚は余り感じられないが、 ジョンから 少し変化があると指摘されたそうである。会う機会の少ない私でさえ、 彼女の変化を感じる。

臓器の提供者は35歳の男性だったと知らされている。 無論それ以外のことは極秘に入るのだろうが、 シシーはいつかその人の家族を見つけたいと話している。 まあ、それは 今現在のセンチメンタルな気持ちからともと考えるが。 果たしてそれが良いのかどうか。 あまりバンドラの箱は開けないほうが良い気がするが、それは部外者の考えになる。

元来シシーは人の集まりの中で話しをするタイプではない。しかし、会話はしっかりと聞いている、それも人が座っている外側に何時も位置する。 キッチンでお茶を入れながら、 隣の部屋で仕事をしながら、 聞こえていないのか?とおもうと どうしてどうしてしっかりと訊いている。
そして、 皆の後ろから、会話へ加わるタイプであった。 それが今は最初から皆と同じところに座り良く話す。

夫のジョンから文句が出ている、彼女は自分をコントロールすると。多分後ろから話すのではなく、顔を見て会話をする妻さんからプレッシャーを感じるのかもしれない。
後方からの遠隔操作のコントロールを受けていたジョンは、 突然、リモートなしでの意思表示に驚いているのかもしれない。 

夫のジョンは税法の弁護士であり、公認会計士(CPA)でもある。目から鼻に抜けるように頭が良い。 そして、饒舌である。 彼が話し始めると誰もが黙る。 もっとも口を挟む余地がないほどに会話が面白く巧みである。 決して人を退屈にさせない淀みのない会話、わたしはジョンの話しを訊くのがすきだ、 しかし、 そこをシシーに絶えず中断されてジョンはイライラしているのかもしれない。

肺全体をしめる大きな臓器である。それも両肺とは、胸の殆どの部分が入れ替わったことになる。 提供者が若い男性ならもうじき胸毛が生えるかしらね? と二人は大笑いをしたが、 やはり女とは面白い動物で、 気になる。

2011年6月9日木曜日

天ぷら 

巨人、大鵬、卵焼きという言葉があった。 大鵬はどうでもよかった。彼は強すぎた。 それよりも、男らしい柏戸関が好みだった。 巨人もどうでもよかった。何故なら野球は好みではないから。野球場でホットドッグばかり食べるタイプである。
さしずめ私だったら、 寿司に天ぷら、秋刀魚の塩焼きと云ったところかな。天ぷらは精進揚げ。 安上がりの人間かもしれない。 食べて美味しければ良い。
ケーキは此処の店。 などという趣味はない。  ピーマン、茄子、人参と牛蒡のかき揚げ、茗荷、レンコン、そして海老の天ぷらがあったらもう私は幸せ。ビールは冷蔵庫から出せ、お酒はアツカンが良いとなる。


先日テレビの料理番組で、中国系のシェフが出ていた。
彼はアメリカでは成功者の内に入り、 料理番組を持ち、 料理本も出版、それも何冊も、ついでにレストンも幾つか持っているらしい。 彼の料理は殆どアメリカ風和食となる。日本料理でもない、中国料理とも違う。 ごっちゃ混ぜのシェフのオリジナルとなるのだろう。しかし、日本食への知識は大きい。 
そのシェフが先日、料理の中の一品として「天ぷら」を作った。実に手早く、ジャンボ海老にニラを巻いての天ぷらであった。 昨今のテレビ料理人はあまりオーソドックスな料理は作らない。 何処かで何か変化をつけた料理をする。 歌手が有名な曲に変なイントネーシオンをつけて唄うのと同じかもしれない。
彼らにしてみれば、 私の編曲ですと主張するのだろうが、良いと思ったことはない。 これで全く困るのが、こちらの黒人歌手である。ウ~ ウ~ア~ア~ と上げたり下げたりといつまでも唸っている。 先へ行け!と云いたい。 
兎に角 天ぷらにもどろう。 あれだけ大きな海老を油で揚げたいのなら、素直に天ぷらにするか、 パン粉を使ってフライにすれば良い。ニラの味がする海老天なんて有難くもない。 私だったら、 軽く荒塩を振って串に刺し網焼きで食べる。美味しいよ。

そのシェフは 市販の天ぷら粉を使い、それをソーダー水で溶いた。粉へソーダー水を加えたとたんジュワーとあぶくだらけになる。 それに具を絡めて揚げると、あぶくがカラカラの衣になるという仕組みなのだろう。  画面で見る限り、カリカリの天ぷらが出来あがった。 
ナルホド、 これだ。  これがカリカリにするコツかいなと納得した。そして影響されやすい私は早速クラブソーダーを買い込み、 試みた。  何事も試してみなければ分りません。
良いか悪いかは私が試して結論を出します!

結果は惨敗であった。 べちゃべちゃの天ぷらが出来あがった。 あぶくの中全体に油が入り込み、 それが出てこない。 少しもカラッとしない。 次に揚げたモノを紙の上にのせると、 今まで見たこともないほどに下敷きの紙が油だらけ。どれだけ油吸っているの?と訊きたい。

もしかしたら、油の温度が低すぎたのか。 でも 高温にしたけどね。 油の量が少なすぎたのか、 そんな事はないと思う。 鍋の中へ沢山具を入れ過ぎたのか? これがそうではないと余り自身を持って言えない、なにせあの晩は急いでいたから。 プロのシェフがするとカラッと揚がるのに、何故私がするとベチャとなる。

私も同居人も余り若くない。実は年寄りであるから、脂っこいものは胃にもたれる。その晩は二人共二つ三つの天ぷらで食事を終わり、胃の薬を飲んだ。

結論は、 もう二度とソーダー水は使わない。 それとも もう年なんだから天ぷらなど食べるなと暗示が出ているのだろうか。

2011年6月7日火曜日

石狩平野

船山馨の 「石狩平野」]を読み終わった。
若い時は読書にスピードがあった。アレッという間に一冊の本を読んでしまって、あーもったいないと残念だったものだが。今は悪戦苦闘である。

友人が届けてくれた角川文庫本、もう古くて茶色に変色してしまった、字の細かい本。
これは辛いと紀伊国屋ホームページを開けて、改正版の少し字のサイズの大きいのはないかと探してみたが、見つけはしたが、改正版とは書いてない。確かに改正版とわからなければ買えない。
最新印刷の年でも知ることが出来ればよいのだが。 兎に角改正版は諦めた。

明かりの真下で、老眼鏡をかけて、上中下の三冊の本、 時は明治の14年北海道(札幌)開拓からはじまり、 大正、関東大震災 そして昭和とつづき、世界大戦へと突入、終戦で物語は終わる。 その間にこれでもか、これでもか と沢山の人たちが死んでいく。

前こごみになって、 読んでいたら、 背骨から肩甲骨へかけて凝ってしまい、
カイロプラクテスへ二度も出かけて、 骨をポキン ポキン としてもらうという愚かなことになっている。 

私は人間が甘いから、本を読むと、 よほどでない限り、その作者の書いていることを信じる。 それも私の余り知識のない範囲の事だと 結構素直に信じる。

この作家は軍国主義と軍事統制政治、独裁、疑獄そして、一握りの人間による他国への侵略の恐ろしさを見せてくれる。現代のように、PCだ、報道だ、オン ラインだと情報網のなかった国民の、何もしらされていない恐ろしさ。 知っていた処で 民主主義ではなかった日本の国民に何が出来ただろう。

昔、私の父が話していた。 兵隊に国を任せてはいけない。 彼らは戦争意外出来る事がないのだから。 鍬ももてない、物も作れない。出来る事は戦争だけだ。この本を読む限り納得出来る。
日本の戦争物を読むと必ずでてくる、制裁という名の暴力。そして不思議なのは、温厚と親切が一杯詰まっている日本人の精神が、同じ日本人である戦中の軍人があれほどに冷血で野蛮な人間になりえるのだろう。
嘗てアメリカの世界大戦のドキュメンタリテレビ番組の中に、捕虜の日本兵のコラムがあった。戦地でその捕虜の見はりをしたという元兵士が語っている。
「とても不思議だったのは、 我々アメリカ兵はもしも捕虜になったときの訓練を受けている。その一 どんな屈強でも脱走をする努力を怠らない。
その二 捕虜同士の助け合い。 

しかし、日本兵の捕虜は、その中でも上下があるのは理解するが、 助け合って、体力を消耗しないようにするはずが、 上が下を暇さえあれば殴っている。 ただただ殴っている。捕虜になった以上、兵士を殴っても何の得策もないのに。 あれを毎晩みせられて、日本人への恐ろしさを感じた。」
そんなことを語っていた。
最もこのアメリカでも、 「弾は後ろからも来る」という言葉があるから、やはり戦争は人を変えるという事かもしれない。

しかし、 首も肩もこったけれど、 久々にのめり込んだ本だった。 良い本に巡り合うということは嬉しい事だ。 そして、これを書いている時に、ドアベルが鳴り、 郵便配達のお兄さんが 山本一力、佐伯泰英などなどの本を11冊入っている小包みを届けてくれた。   東京のお兄さんありがとう。
今日は私は幸せです。

2011年6月5日日曜日

すき焼き 2

それはまだ鍋物が美味しい季節の頃だった、夫ジョンから電話があった。 シシーがすき焼き食べられるようになりました。 今度の金曜日はどうですか?

すき焼き肉、白たき、豆腐、春菊、葱、醤油にお砂糖。小皿に梅干とラッキョと漬物。きゅうりの酢の物。ガスコンロをテーブルに置き、準備は終わり。
そしてシシーとジョンが訪ねてきた。  

鼻には酸素管を差し込み、大型マスクで顔を覆い、酸素ボンベを片手にぶら下げてドアの前に立っているのを見たときは少々度肝を抜かれた。

四人でテーブルにすわり、彼女がマスクをはずした。右の頬全体に大きな傷跡がまだ真っ赤に炎症を起こしている。入院中体内へ通す管の一つを、
頬に穴を開けて通したのだ。喉を切って管を通すのは見たことがあるが、 顔にまで穴を開けるとは知らなかった。 
テーブルの前に座ったシシーはこれぞすき焼きへの執念に燃えている姿である。

其の晩は病人を配慮して、呑兵衛君の同居人もアルコール抜き、それに伴う前菜もなし。彼女はまだ食が細いという事から直ぐにすき焼きを始めたが、 
そのときにまずガスコンロへ点火することに問題が出た。 酸素ボンベの横にガスコンロはまずい、 それではどうする。 彼女が席をあちらへこちらへと移ったが、
結局四人がテーブルの前に座り、コンロを囲むとすれば、 ボンベも一緒に並ばなければならない。 大騒ぎの末、 ボンベ君はテーブルの下へ押し込まれた。

そして、 お鍋が熱くなったところで、お肉、砂糖、醤油と加え、同居人が日本酒をドバッと鍋へ加えた。 「其れ何?」 同居人「お酒」
シシー「嫌だ、アルコールでしょう?」同居人「すき焼きにお酒は避けられません」

二人の間でひと悶着の後、 今回はしっかりとアルコール分を蒸発させてから彼女は食べる、追加の味付けへのお酒は入れないと決定。
そして、サー 食べましょう、 各々が生卵を小丼に割っているときに、 「私生ものはまったく禁止されているの」アッソ~ それなら、卵なしでどうぞ。 
亭主のジョン君が名残惜しそうに生卵の器をそーっと横へ押した。 夫唱婦随万歳、間違えました 婦唱夫髄万歳。
ジョン君先は長いよ、がんばれや。

四人が満腹感で至福の時を味わった後。 残りの肉、野菜をすべてぶち込み、つくり直し、容器へ入れ、炊飯器に残ったご飯も別容器へ、 
そのお持ち帰りのすき焼きは、その後三回に分けて、シシーの夕食となった。

2011年6月4日土曜日

すき焼き 1

25年来の友人の奥さんシシーが昨年末に両肺の移植手術を受けた。彼女は学生の頃に自動車事故を起こしそれ以来のてんかんもちでもある。
その彼女が両肺移植によって其れにも増した薬漬けの生活となった。 一時期はバブル人間のような無菌状態の生活を強いられていたが。今現在も生活上の禁止事項は多い。  

一人で居ることも事も禁じられている。 必ず誰かが傍に居ないと、 てんかんの発作か肺の機能低下による極度の衰弱の恐れがある。
ひとことで内臓移植というが、 移植後の生活があれほど大変なものとは知らなかった。 まさに生きる為の努力だけが毎日の生活である。

彼女の一人息子はもう独立している。ゆえに旦那(ジョン)とペアで離れることはない。
同じ介護でも、彼女がジョンの仕事場へも同行できるだけ幸運なのかもしれない。

彼女は以前から車の運転が禁止されている。てんかんの発作が何時出るか分からないからである。 もちろん薬をしっかりと飲んでいれば、その心配はないのだか、
その大切な薬の量をもてあそぶ悪癖が彼女にはある。 薬の量を違えることで彼女の気分や体力に変化が起きることによる回りの人たちの扱いの変化を楽しむ傾向がある。
かまって頂戴症候群とでも言うのだろう。

そんな事を言うのは多分私だけかもしれないが、 その被害を受けている側にしてみれば、
「アンタのしている事こちらは知っているヨ」
と言ってやりたいことがなんどもあった。しかし、 病気の人への理解をしてあげなければいけない。分かっている。
シシーと居るとこちらの忍耐と精神の訓練になると気持ちの整理をしている。
しかし、シシーは大学院の修士課程、特殊児童の教育者でもある。今までの人生はその難題を抱えた子供たちへの教育に人生の大半を過ごしてきた人であるだけに、ここら辺が理解に苦しむところなのだが。

そのシシーは学童年齢の前に日本に住んでいたことがある。 父親は軍隊の将校。第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争と戦歴の多い人であったが、
御多分にもれず、この家族も戦後すぐ進駐軍として家族ぐるみ日本に駐屯していた組である。  

そのシシーの願いは「すき焼きが食べたい」ということだ。 日本に居たときに食べたあのすき焼きの味が忘れられないと、50年も前の話をよくする。 
私達夫婦との付き合いは永いのに、 食事をする時は何時もレストランであったし、一緒に日本食レストランへ行ったこともない。
何故だったのだろうと今考えても分からない。 すき焼きなどいとも簡単な料理なのに、何故私が彼女夫婦のためにそれをしなかったのか未だに分からない。

2011年5月31日火曜日

わたしと腰痛の生活   2

あれから週三日、私はフィジカル セラピーへ通っている。

MRIの結果を手にしながらの院長の言葉は 実に聴くも涙の物語りである。
背骨は、椎骨と椎間版が連続的に積み重なる構造と暖やかにS字カーブをすることで、外部からの衝撃や体重の負担を和らげている。 となるのだが、 その背骨の腰椎部分のジョイントの間にある椎間版(接続の為のジェリー状のもの)が飛び出て神経を刺激していると言われた。

世間で言うぎっくり腰の状態である。 それも四か所、2mm、3mm と 最高は4mmの椎間版がはみ出て神経を刺激していると言う。 これが 5mmになると即手術だと院長先生に脅かされた。 わずか1mmの差で私は手術台に乗らないで済んだと感謝をしている。

院長曰く、 手術をすると後が痛いよー と脅かす、 先生私は今でも十分痛いですよ。
そうだったね、 だからサー 切らないで治そうよ。

まず腹筋を鍛え、 痛みを支える為にコリコリになっている腰部分の背中の筋肉を和らげ、 前後両方の筋肉で背骨をサポートする。 それによって、少しづつ椎間版が元へ戻る訓練をする。 
永く続く筋トレの為に私はフィジカル セラピーの手に委ねられたわけである。

これは考えてもみなかった痛く、過酷な毎日である。  毎回、「私は行きたくない」 と自分に言いながら通っている。 あれは拷問部屋である。筋トレと一言で言うが、もうすでに存在している筋肉を再トレーニングするのは楽であろうが、 無いものを作る辛さよ。 とにかく腹筋を作るのが医者からの注文であるが、
ご要望にお応えしましてと初めてはみたものの~ 楽ではない。 
自転車こぎ、ウェイト リフトから始まる訓練。 60分の訓練が終わると正直私はマットから立ち上がれない。 腰の痛みが悲鳴を上げている。 これはひとえにお腹に力を入れていないからだそうだ。 何事をするにも、 お腹にグッと力を入れてからというが、 プヨン プヨンのお腹に力は入らない、 無い筋肉に力を入れろと言われても、ただただ体中を踏ん張るしか仕方がない。 真っ赤な顔をして踏ん張っていると、 「アノー 呼吸はして下さいね」と上から物を言う。
院長先生が、 「長期戦で行きましょう、永い間できずいたこの状態、やはり永い期間をかけて元にもどしましょう」という言葉が頭をよぎる。 

しかし、 世の中には 足の悪い人、膝の悪い人、腰の悪い人が実に多い。気の毒を絵に描いたような人たちが一歩一歩と歩行器や杖に捕まりながら歩いてくる。 まあお気の毒でございますね、と同情したいが、私もその一人である。 お互いに顔を見合わせてニッコリ、「今日も頑張りましょう」の合言葉。
このヒューストンだけで 23箇所もフィジカル セラピーのクリニックはある。 現代医学の医者達が、 手術や投薬をしなくても、 専門家の元での体の再訓練によりいろいろな病気が治る事が証明されている現在、 フィジカル セラピークリニックは上昇気流の商売だそうだ。これはセラピストのお兄さんが話してくれた。

2011年5月30日月曜日

わたしと腰痛の生活   1

15年来私の体の中に生息している「腰痛」も、年齢と共に痛みを跳ね返す体力が弱くなり結構辛い。 昨年末からステアロイドの注射をしてもらっているが、 これは治療ではない、 一時しのぎである。 それでも私の担当の医者は、お望みなら毎月でも注射してあげますよ、と言ってくれた。

それではとお言葉に甘えて、毎月と言わなくても 頻繁に注射をしてもらい、 体の中から全ての痛みが無くなり、 あー幸せだな~ と楽しんではいたけれど、 強い薬には それに伴う副作用もある。 それが悩みの種であった。 

三週間ほど前に又クリニックへお邪魔をした。 しかし、いつもの女医さんは今休暇でカナダへ帰国中と言われ、 補助の女医さんが現れた。 なんとマ~ テレビ映画の女医さんの如く、 金髪のロングヘヤーをなびかせて、白衣も素晴らしい美人さんである。 

彼女私の顔をジーと診て、 「どうですか? どうして腰痛がするのか徹底的に調べてみるつもりありません?」と来た。 

ソラキタ、ついに来るものが来たと思った。これは我が家の娘がいつも言っている言葉と同じではないか。  結局若い者はすぐに、何故?なぜ? が始まる。

心の中で私はつぶやく、 知ったら何か良い事あるの?ってね。 曲がった背骨が真っすぐになるわけでも有るまいし。時々行くカイロプラクテスの先生がそう言いていた。 
しかし、正直な話し、この先何年私が生きるか分からないが、一時しのぎの注射を つづけるわけには行かない事は承知である。  やはり此処らが年貢の納め時かいナ~ とも思う。

そこで初めて MRIというあのトンネルの中へ入って私の腰骨を調べてもらった。
MRIのテーブルに乗る前に質問を受けた? 
あなたは閉所恐怖症ですか? 「いいえ、私は高所恐怖症です」

内側は騒音でうるさいと聴いていたが、 両耳にイヤホーンを付けてくれて、 さわやかな音楽が流れてくる。 又、 透視している箇所の温度が多少上がるらしく、 腰のあたりがホンワカと温かい、 これは睡魔を起こすかもと心配した通り、 30分後にトンネルから出されるまでに少しウツラウツラしてしまった。 

つづく

2011年5月6日金曜日

癌治療 

直美と名の付いた小さな竜巻は真夜中に我が家へ飛び込んで来た、
家の中を数回旋回してまた明け方早く吹き荒れながら飛んでいった。
そんな表現がぴったりの娘の帰宅であった。 子供とはあれほどに存在感の大きいなものだとは知らなかった。 

キャレンもまだ生きている。おかしな言い方だが まさにそれが相応しい言葉だ。
抗癌剤と放射線治療、それに加えてステアロイドの薬。 体を薬漬けにしても、彼女は病と闘っている。
髪の毛にブラッシをかけるのが怖いの、 大量の髪が抜けるからと笑う。
ステアロイドの副作用で下膨れの顔になり、 本当に人前に出るのは嫌なのだけれど、と口では言いながら、
訪ねて来た直美に一日二時間と許されている外出を使って、三日間はアチラのレストラン、
こちらのレストランと出かけて大食を披露していた。

14年間の友情を保っているキャレンと娘、それでは保護者である、彼女のかつてのジゴロ君、
現在は年下の夫君と私たち保護者も一緒に逢いましょうと食事をすることになった。

一か月前は、新たに脳腫瘍が見つかり、 後二週間と宣言を受けていたキャレンが、
私の目の前でレストランのメニューを眺め、前菜はロブスターのクリーム煮、メインはお魚ねと
ニコニコと注文している姿は想像だにしていなかった。 ふっくらとした顔はステアロイドの副作用だから
少し差し引いてねと、初対面の私と主人に嬉しげに笑う。
時折娘から、自己主張の激しい年上の友達と聴いていたが、 結局その自己主張と闘争心が
病気と闘わせているのだろう。 自分でも、私はファイターよと自称する。

抗がん剤治療を受け始めてから、癌の進行が早くなりあっけなく死を迎えるなどという話しを聴くたびに、
もしも、自分が癌の宣告をうけたら、「お願いだから抗がん剤治療だけは受けさせないで」、
と私は家族へ伝えてある。 それが私の遺言である。 
しかし、彼女を見ていると私の遺言は少し早まったかナ?と気になる。 

2011年4月25日月曜日

いろいろあるね

冬が過ぎ、春が来て、華を愛でている間に仕方なく来る暑い季節への心の準備をしている頃に夏が来る。まあ これが 一般的に言われる四季の変化であるのだが。

このヒューストンには 春が来なかった。私は見なかった。感じなかった、 冬から直接夏がやって来た。もう一週間も 最高気温90度(34度)近辺をさまよっている。許せない。
身も心も準備が出来ていない。
老い先短い私には 夏の暑さは命に関わる。  もっともあまり長生きをする気持ちはないが、
しかし、「それを食べると死ぬ」、といわれればそれを食べない生命への執着は持ち合わせている。
上の方から 生きるだけ生きてみろと言われてこの世に送りこまれたのだから、死ぬまで生きるつもりはある。
しかし、未だ何故この世に送りこまれた私個人への指名が分らない。
ただ生きろと云うわけではないだろう。
暗中模索の間に「枯れ木も山のにぎわい」になりつつあるが。もしかしたら それが私の仕事だったりして?

猫のダンテが死んだ。 まだ方法はあるか? とはかない希望を持って医者へ連れて行ったが、
医者から、「もう楽にして上げましょう」の一言で彼の小さな命は途絶えた。 英語では眠らせると云うが、本当に スーと眠りに入って終わりになった。

あれから一週間、まだ私の心の中から消えていない。夫婦でダンテの話しが出来ない。
アチラさんは泣き虫である。
猫のダンテの指名は終わった。彼の指名は 精一杯私たちから愛されることであった。 

娘の直美が来週ヒューストンへ帰って来る。  金曜日の仕事の後7時の飛行機にのり、
夜中の2時に着く。
帰路は火曜日の朝4時には飛行場へ行く。 休みは月曜日しか取れなかったらしい。
火曜日の朝はサンジェゴの飛行場からそのまま出勤だそうだ。 忙しい事である。
「お父さん、 私はレンタカーを借りますから夜中に飛行場への迎えは要りません。」

大学時代の友人キャレン(  http://kawabukuro2007.blogspot.com/2011/01/blog-post_15.html)
の命の灯がもうじき消える。 「私に何が出来ますか」と訪ねた返事が、「傍に来て私の手を握って」という事だそうだ。如何にもアメリカ的表現である。 

娘のメールには、
「自分は、病気とか人の死に対して過去に余り直面していなかったと思う。それによる後悔があります。
今度は少し自分の気持ちへ素直になって、彼女の重い病とこれから来る死へ私なりに受け止めて見ようと思います。
次の週末は彼女の傍に出来るだけ居てあげるつもりでヒュートンへ帰ります」 そして
「勿論こんな理由の帰宅ですけど、 お父さんお母さんに逢えるのが嬉しいです」と付け足してあった。
そう、私たちはオマケです。

ここで問題が生じた、 そのお父さんは金曜日から日曜日までバイク旅行へ出かける予定がある。 30人の集団で出かける。
モーテルの予約、攣るって走る人も決まり、もう後へは引けない。  そこでお父さんは今イライラしている。 せめてもの自分の役目と 夜中でもかまわず飛行場への往復をするつもりで居るのにそれも却下されてしまった。 自分にすることがないと嘆く。
「どうして来週なの、何故今週ではないの」まるで 餓鬼ジャ。

それに加えて、娘がこれから買うらしいバイクが 「カワサキ 忍者 500」になるらしい。
しかし、父親は クルーザーを進めているのだが。  お尻を持ち上げての走行は自分の体を両腕で支えているので
疲れる、長距離走行には合わないと力説するが、 そこは女の子「見た目」で買い物をすることが理解できないらしい。
気の毒な事である。  勿論私は機会あるごとに 三輪を進めているのだが 笑われる。

さて母親の私は、わずかな時間になるらしいが、娘と一緒に過ごせるのを楽しみに今週は生きよう。
待つ為に生きる。それもいいではないか。 

2011年4月14日木曜日

東日本の余震

ニュースが千葉近辺の余震が6.5度と伝えていた。しかし人の感覚が麻痺するのがこんなに早いとは知らなかった。ほんの少し前は、 震度5度と聞いただけでも恐怖を感じたのに、 震度9度の現実の凄さを見せられた今は、6.5度がさほどと思わない感覚になっている。受ける被害に違いはないはずだが。

その昔、 国会議事堂前地下鉄駅近くの霞ヶ関ビルがまだ建設間もない頃、(もうそんなビルはないのかもしれない)私はあのビルの31階で働いていた。そしてある日震度5度の地震があった。  勿論エレベーターは使用不可。階段へたどりつくのに壁伝いでやっと歩き、 ハイヒールを脱いで階段を31階から降りた経験がある。 

「みんな一緒は怖くない」とお互いが励まし合いながら 長い階段を降りた。やっとロビーへ降りてみたら、 そのビルを建てた建設会社の名前入りの上着を来た社員がなんと一番乗りでロビーへ駆け降りたと聞き、 ロビー中の人たちが 「ウソー」とその一群に白い目を向けた記憶がある。

「今回の東日本での被害は東電の起こした問題である。 地震津波はその引き金を引いただけのこと」と書き込んでいるコラムを読んだ。怒りの持って行きどころがないほどの苦しみは良く分るが、 天災へ怒りは向けられないから 誰かを血祭りにするつもりのように見受けられる。

原子力発電は社会の敵。 「騙された」という書き込みをたくさん見る。 本当に皆は騙されたのかしら。 毎日利用している電気に関して少しも興味がなかったのかしら。

実を言うと、我が家の同居人も40年前にあの福島一号、二号の組み立てに参加している。その後に同じ日本国内の違う現場では仕事中に被爆している。 両肺がすっかり放射能汚染されていたそうである。検査した医者は、 360年もすれば肺の中のものは消えるでしょうと云ったそうだ。

人間の作り出す物に完全は無い。最大の努力はするが、完全はない。 同居人に言わせればこのような仕事をしていれば、 いつかは 放射能が体に入る可能性があるのは仕事の現場に居ればその程度の知識はある。 嫌なら止めれば良い事。 しかし、彼の場合いは5年後の検査で、肺の中の放射能汚染はすっかり跡形なく消えている。

原子力発電に関しては、殆どの人は、騙されたのではない、 最初から興味も無かった問題であったはずだし、 毎日電気を使用してその恩恵だけは十二分に受けていたはずなのに、 「騙された」「今回実情を知って驚いた」政府が悪い、東電が悪いと書き込みはつづく。 それでは、 これからの日本といわず世界の発電はどのような形式を「騙された」と思う人たちは提案するのか知りたい。

人が、社会が、前進する時に、その前方を阻止するならば、 それでは どの方向へ進めば得策か道を示す義務がある。 「何でも反対、違うやり方があるでしょう?」という無責任な論法はこの際止めたほうが良い。ただイヤイヤだけなら、うちの猫も出来る。 鮭がいやだから 他の魚を出せと、ではヒラメを出せとは猫は言わない。 皆がこれから、原発ナシの電気の供給を真剣に考えなければならない時が来ているのだから。

水力発電にして、狭い日本の土地を買占め、 畑や牧場、人家を水の底へ沈める方法が良いのか、
火力発電にするとしても、石炭や重油問題をどうするのか教えてもらいたい。 世界がどれほど重油問題で騒いでいるか、重油争奪戦では 若い兵士も民間人も殺し合っているのだ。
アメリカの現政府は国内の石油は掘らないというスローガンのもとに誰かさんは大統領になっているはずだ。 

まだある。 風力発電がある。 
アメリカでは、風力発電を提案する資産家がロビーイストを大量にワシントンへ送り出し、
風力発電へ政府の方針を向けさせようと努力している資産家が居る。 今この会社の株を買うと良いらしい。 少しの間は値上げをするかもしれない。
しかし、あれも土地が必要だ。 広大な土地が必要なはずだ。そして、 広大な土地に並ぶプロペラの周辺はその騒音で人家は建てられないと聴く。  また その風圧で空飛ぶ鳥が吸い寄せられてプロペラ飛び込み自殺が相次いでいるとか。  愛鳥家や自然保護団体が目を向いて反対すれかもしれない。

私の住むヒューストン南部では、 毎年ハリケーンが来るたびに停電になる。  地理的理由から、私の受けた最長停電生活は15日間だった。日本式に言えば「ありえない生活」 それも真夏の暑さの中で。 今でこそ、ジェネレータがあるが、 そうなると、それを稼動させる石油確保の苦難は必然的に電気の有り難さを教えてくれる。  

東電原発は、地震対策として、震度7.6度を想定していたそうだ。津波対策は 5メートル。しかし、 今回は震度9度、津波は10メートルを出た。 
私は、それなら、想定は、12度、 20メートルにしておけばよかったのよと云う権利はない。
そんな事、誰も予測しなかったことであるだろう。 予測していたのなら、 そう言い出せばよかったのだ。

私は対岸の火事を見物しながら、 火消し組の働きへの悪口を言いたくない。 少なくとも、遠く日本の国を離れている日本人が今災害に困難な生活を強いられている人たちへ、原発が悪い、放射能が悪い、政治が悪い、東電が悪いと書き込むことが被災者への親切にはつながらないと思う。

今回起きたことで、天災の恐ろしさ、人間の出来る事は本当はとても小さい事なのだと、そして この世には完全はないという事をもう一度自覚させられたと思っている、   

2011年4月13日水曜日

猫の余生が短いです

痩せこけて、骨と皮になり、 食欲も無く、一人しょんぼりとしている。我が家の猫ダンテは今
腎臓の薬、 食欲促進の薬、胃もたれの薬、尿管炎症の薬と毎日医者の指示に合わせて飲んでいる。
嘔吐と食欲不振でぐったりしてしまった猫が 投薬三日ほどは食欲が出てきたが、それきり、 今では 市販の猫の餌は受け付けない。 医者からの特別食だけを少し受け付けたが、 それももうイヤイヤをする。 仕方がないから、 人間様用の白身の魚を少し暖めて与える。   すずめの涙のごとくチョッピリ食べるだけ。

それでも 三日目は同じ魚を出すと顔を横へ向ける。仕方がないから別の魚を暖める。
こんなに我がままで傲慢な猫は蹴飛ばしてやろうかと頭をよぎるが、いけない いけない、猫の介護も出来なくて、いずれくるかもしれない介護をどうする気だと心を入れ替えて、
ハイどうぞ と猫様のお茶碗へ小さじ一杯入れる。

この家に住み始めてから、外出を許されないまま、猫の生涯が終わるのかと少し哀れに思い、 裏庭を囲む塀全体の穴埋めをして、 お隣さんからの犬の侵入を一切出来ないようにしてから 私はダンテを外へ出してみた。それが三週間前。 
最初はソロリ、ソロリ と へっぴり腰で歩き、 木を見上げ、 芝生の匂いを嗅ぎ、 茂みの中へもぐり込み、そっと座って、葉の隙間から飛んでくるすずめや、近所から忍んで来る近所の猫を見ていたが、 最近は一匹の猫とお友達になったようだ。

初めてのお遊びの日、 言葉を交わすでもなく、二匹でジッと見つめ合っている。無言の会話の後、その猫は身軽に塀の上に飛びあがり、姿を消していった。
それを見てたまげた我が家の猫は家の中へ走りこんできた。
あんなこと出来るんだ~ スゴーイ、そして少し興奮している。


今では、 砂箱への用事、水飲み、食事以外は外で過ごすようになった。勿論それは私が家に居るときと、 帰宅後、週末だけであるが。 
ただジッと茂みの中に座っているだけ。何をするでもない。 屋内だと、寝そべっているのに、外では寝そべることもしないのに、 あんなに一日中寝ていた猫が、昼寝もせずに庭の木陰でジッと座っている。 まるで 十数年の損失を今取り返しているように ただただ外に居たがる。

先日はついにキャンプ アウトをした。 夜の10時に、 「ダンテもう寝ましょう」と呼ぶと、仕方が無いという仕草でモソモソと茂みから出てくるが、 先日はガンとして拒否した。 私が呼んでも、 同居人が迎えに行っても、ギャーと叫んで拒否の姿勢。 
結局我が家の猫は始めての朝帰り。 まあ 男一生、一度の外泊ぐらいは許されるだろう。

体重15ポンドだったダンテが 腸の閉鎖手術後 すっかり痩せてしまったのに、あれから九ヶ月一度も体重が増えることなく、 今では三週間前病院で計ったときは 8ポンド、今は見事に皮と骨。 歩くのも難儀らしくヨタヨタしている。それでも何かに浸かれたようにヨタヨタと裏庭へ出て行く。 

一日二匙の魚と水だけで、病気の猫はどれだけ持つのだろうか。 毎週医者へ行き血液検査、アイビー治療という手もある。事実猫病院はそれを要求している。 そして薬の量を増やすか、違う薬に変えるか。俗に言う延命処置である。 私はそれを止めた。 毎週ではなく、 注射の繰り返しと、極度に怖がる自動車でのお出かけと医院での治療。 それがむしろストレスになるのが懸念されるし、 それに大きい声では言えないが、
毎回の治療費250ドルは痛い。治療費云々を言うところが 人間とペットの置かれた位置の違いであるが、 やはり痛い。 これが私の気持ちであるが、 同居人はそうではないようだ。
医者のところへ連れて行けば、ダンテの腎臓が治り、 食欲が増え、またもとのように肥満系の猫に生まれ変わってくれるのではないか?と願っているようだが。

今まで二度治療を受けたが、そのつど二日三日は上向き状態になっても、又もとの状態、今朝も同居人はダンテを医者へ連れて行こうとしていたが、私は一日考えさせて欲しいと頼んだ。

二日ほど前から 嘔吐、下痢が始まった。猫好きの友人が、 ダンテがそんなに外に居ることを好むなら、 いっそ砂箱と水を外へ置いてあげれば、 歩いて部屋へ入ってくる必要が無いから猫には楽ではないの? と提案。 日なが 一日、外の空気を吸い、 木漏れ日を受けてウツラ ウツラしながら余生を終わらせてあげようと決めた。 
多分私の出した結論は 超愛猫家からみれば、許せない行為だろう、しかし、 九ヶ月前にした手術以来本当は快復していなかったのだと思う。 



我が家のダンテのお話の過去帖 はこちら 

腎不全 http://kawabukuro2007.blogspot.com/2010/07/blog-post_28.html 
捨てられた猫 1 http://kawabukuro2007.blogspot.com/2010/05/blog-post.html
捨てられた猫 2 http://kawabukuro2007.blogspot.com/2010/05/blog-post_05.html

2011年4月8日金曜日

難関関所

私の読む小説本からの知識によると、お侍の時代に女性が旅をする時、関所で受ける検査は、 出女、入り女を規制する為、 手形持参でも、 女性に関しては、時には 別部屋へ入れられて、とんでもない身体検査まで受けたそうだが、現在飛行機を利用しての旅は、 
400年以上も前の日本の関所制度をいつの間にか世界中が利用している事になる。 考えると面白い。

それと同じに、 電話及びパソコンなどで、銀行の自分の口座などの情報を得ようとすることは出女(でおんな)のお咎めのごとく、この関所通過は至難の業と覚悟している。

姓名、生年月日、 自宅住所、 電話番号、社会保障番号(SSC)はたまた
母親の結婚前の名前、 飼っているペットの名前、時には、初めてのペットの名前、 結婚式の保証人の名前、好きなレストランの名前、質問は延々と続く。
これらの応えは最初に登録するときに記録として入力してあるわけだが、 
10年も保持している口座などで、 時たま、必要が生じて電話をしなければならないとか、 パソコンで自分の口座の残高を調べるときなど 実に面倒くさい。

普通はID と パスワードで 明けてくれるが、時々いろいろと聞かれるときがある。お若い方は、人生の歴史が浅いから、記憶はすぐそこにあるだろうが、高齢社会に属するこちらは困る。

普通はメモを横へ置いてパソコンに入るなり、電話をするのだか、 わが同居人はそうしない。
いつも突発的に始める、そして 「ヘールプ!」 と怒鳴る
結婚時の保証人って誰だっけ?
どのペットの名前を登録してあるの?
お袋の結婚前の名前覚えている?  トロビス~    アッそうだった  トロビスです
エッ違うの~ 
アッごめん、私の母親の名前だった。  エート ナンだっけ、ちょっと待って、
もういいって、その代わり結婚時の保障人の名まえ?    エーと エーと スガワラです
エッ、スペルリング? エート    カプーン
あっ切れちゃった。
そしてカッカと怒る。 
自分の預金であっても一度銀行へ預けたら、銀行の物。 右向いても左向いてもサービス料を口座から好きなだけ抜き取る権限を持っているお偉いさんなのだとどうしても理解できないらしい。 

四コマ漫画ではないが、私が頭に来るのは、いろいろと質問をした電話の相手へ、 失礼ですが、 貴女のお名前は? と聞くと、 「規則で名まえは言わないことになっています」と来ることだ。

私は日本の銀行にまだ口座を持っている。 残金は~真に零に近い金額であるが~私の口座には違いない。 もうだいぶ前に明けた口座であるが、 その頃はまだ母が存命中、住所や電話番号はそこを利用したはずである。 何故なら住所がそこであったのだから。   しかし、もう母の家はない。 兄弟姉妹皆自分の住居がある。  

口座は一応、海外からの使用頻度を考えて、こちらからも利用できる制度にしてある。
利用するときは、 契約番号、暗礁番号、確認番号、口座番号、こちらの口座番号といろいろとボタンを押さなければ利用できない。  
そして最近、それを押した。しかし、押す番号が多すぎる、 間違っては直し、又打ち間違っては打つを繰り返すうちに、機械の声ではなく、人間が電話口に出てきた。失礼、行員が電話口に出た。そして訊かれた。
「ご契約時に登録した電話番号をお願いします」。  さあ 困った。 どこの番号を登録したのか覚えていない。 慌てた私は自分の自宅の番号を言った。 「違います」次に、母の生存中の実家の電話番号。「違います」  それではと 姉の住いの番号 「違います」
「真に申し訳ありませんが、お客様はこの口座を利用できません」
契約番号も、暗礁番号も、口座番号も、確認番号も、こちらの口座の番号もすべて間違ってはいないが、
「登録時の電話番号に間違いがございます、申し訳ありません、 御利用は出来ません」
勿論、電話は「カプーン」と冷たい音を立てた。ソンナ~ 
正直未だにどの番号を登録したか覚えていない。もしかしたら 携帯の番号かもしれない。
しかし、 銀行口座を明けて、そのときの申し込み用紙をいつまでも保存して置く人はいったいどれほど居るのだろうか。

真に零に近い残高の口座である、 そのままにしてもどうでも良いことだが、 
やはり関所は「出女」への通過は厳しかった。

90歳だった母が、現金が必要になると、一人でフラフラと歩きながら、銀行へ出かけることがあったそうだ。  老人が実印を手にしての一人歩きは危ないから、 銀行の用紙に先に金額を書き、印を押し、印は自宅に置くようにと姉に注意されているので持参せずであった。

やっとたどりついた銀行、 カウンターへ用紙を提出。 しかし、母はお小遣いを手に出来なかった。  書いた数字のインクが薄いと言われた。 それでは、上をなぞろうとしたら、それは困ります。 別の用紙に新しく書き込んで下さい。しかし実印は持参していない。
仕方なく、母は退散、 自宅へ戻り又やり直し、今度こそはとしっかりと力強く数字も名まえも書き込み、印を押して、もう一度銀行へ。 母はその日は 自分の口座から預金は下ろせなかった。 今度は 実印の朱が薄かったそうである。 

2011年3月24日木曜日

広島とデトロイト

東日本の災害地の無残な姿を見て、 これからの日本はどうしたら良いのだろう。もう二度と昔の姿は戻らないのではないだろうか? と友人が日本に居る彼女のお姉さまへ電話で話した折に、帰って来た彼女のお姉さまの返事が嬉しかった。
「大丈夫、 64年前に、日本は全くこれと同じ状態になったのよ。 それも、もっと広い範囲に広がって。 でも 経済大国に蘇ったでしょう。 日本人は強いのよ。 もっとも、私はもう年をとっていてたいしたことは出来ないけれど、 大丈夫、日本は又復活しますからね。」

素晴らしいではないですか。私はそのお姉さま万歳と叫びたかったです。 私も終戦後の復興の中で育ちました。小学校低学年には焼け野原がまだありました。 でも中学校へ入学する頃には、復興などと云う言葉は消え、 追いつけ、追い越せの社会。 それから、日本人は エコノミック アニマル などと羨望と妬みの言葉を世界から浴びせられた時代が来ました。
最近、「広島とデトロイト」という言葉を言う人が居ます。政治家ではない、政治社会の人たちの使う言葉です。 
原子力爆弾投下された後の広島の街の写真。 それにつづく、焼け野原の風景。
それから64年後の広島の街の復興の写真。 それと対照的に見せる ミシガン州デトロイトの街の風景写真。 戦中、戦後の不況、デフレにあえぎ、 世界第一の自動車産業の街が、貧困と離散、80%の市民の子供へ無料の朝食、昼食を食べさせなければ飢える学校給食。 これが現在のデトロイトです。 
「戦争の勝敗はどちらへ」というものです。  もしも リンクを開けられる方はご覧下さい。
最も悲惨な状態の仙台、福島の方々に、私は何も申し上げる言葉はありません。 私が何もして差し上げられないからです。お祈りしか出来ません。 


http://www.fourwinds10.com/siterun_data/spiritual/pictures/news.php?q=1254861706

2011年3月18日金曜日

手元に届いた 「回覧メール」 

昨晩わたしのメール箱に入った「回覧メール」を読んでください。

この一週間TVにかじりついてゾッとするような日本の惨状を観ているが、 それは今まで自分の知らなかった驚異の世界が展開しているのを実感しました。

災難とそれに伴う大混乱は人間の長所とひそんでいる悪を表に引き出し、必ず来る
暴動、窃盗、強姦、略奪が日本からの報道からは一つも出てこない。

ハリケーン「カタリーナ」の時も ルイジアナでは 略奪による被害者と店舗の破壊、
看護婦への強姦、武器を保持していない市民への警察官の射殺などなどもう慣らされてしまった。

今回のエジプト政権の動きにしてもそうだ。 女性CBSの女性レポーターへの200人を越す男性の暴力。
私達は貪欲、ねたみ、勝敗の為ならすべてを破壊する凶暴な動物であることを思い出させてくれる情景である。

そのようなことに慣れている私の目に、仙台の惨事の報道は非常に対照的な画面が写しだされている。

高齢者の男性が自分達家族の集団から離れ、 通りを越して、自分のプラスチックの袋の中から 食べ物をだして、米国のABCの女性レポーター ダイアン ソーヤーへ分けている。
彼の食べ物はそれだけしかないのに。

食堂の主人が、自分自身の家も破壊され、避難所に居を構えているのに、周りの人たちへ自分の店舗のうどんを無料で提供している。

食料店の主人は、次の出荷がいつか約束されていないのにも関わらず、わずかな在庫を売り出し、 列に並ぶ災害者も、今現在必要なだけの量を購入、その後ろに並ぶ人たちも押し合いをする事なく順番を待っている。

このような情景は、一人一人の地域社会の強い責任感と人間の持つ知的で思いやりが
まだ存在している現われである。

日本の皆様、私たちへ 生きる道を示してくださってありがとうございます。

2011年3月17日木曜日

あらま さんは書きました...



小生は、先日 震度 6の地震があった富士山がある静岡県に住んでいます。
お陰さまで、拙宅では一連の震災の被害から免れてはいますが、被災地は壊滅的で、いまだ救助を受け入れる態勢すら整えることができない状況です。
そんななか、世界各国ら、たくさんの救援物資が送られてきているようです。
しかし、船から陸に物資を揚げようとも、それを受け入れる態勢が出来ていなく、物資はそこで滞っているようです。
また、道路も空港も津波に流されて使えない状況でした。
そうした困った状況に、アメリカ軍が来てくれました。
アメリカ軍の空母は、大型ヘリコプターの基地となり、そこから救援物資が届けられています。
さらに、アメリカ軍は、空港や道路を暫定的に回復してくれて、それが使えるようになりました。
お陰で、一気に物流が回復している様子が伝えられています。
さらに、事故があった原子力発電所では深刻な状況が続いているようですが、アメリカ軍は積極的な支援をしてくれています。
訓練されアメリカ軍の活動のお陰で、たくさんの日本人が助かっています。
さらに、日本の自衛隊が救助活動に集中し、国防に穴が開かないように、アメリカ軍は日本を守ってくれていると伝えられています。
そうしたアメリカの友情には、言葉が見つからないほど感謝しています。
今も深刻な状況が続き、今後もアメリカからの支援を頼らなければならない状況です。
2011年3月17日10:34
削除

じゅんたろう さんは書きました...



二伸:先ほどニュースでニューヨークをはじめ多くのアメリカに方々が、「売り上げの一部とチップを全部寄付します」と云った事や、若い人たちの寄付活動、国際カリタスが教皇様の呼びかけに寄付活動をしている場面が流れました。人々の善意を感じます。皆様有り難う。
それに比べ日本では東京都の石原知事が「これは天罰だ、津波で罪を洗い流せ!」と言ったことに対する轟々たる非難と抗議が渦巻いています。恥ずかしい限りです。

じゅんたろう さんは書きました...



お見舞い有り難うございます。今日16日にいたるまでも小さな揺れが何度も襲ってきます。一日中からだがゆれているようです。震源地はおよ そ太平洋側500キロ十数ヶ所と山梨、静岡の内陸部、そして昨夜中には富士山の頂上近くで震度6と云う地震がありました。今回の最初の地震に触発されて直 接つながっていないプレートをも刺激しているのです。関東地方はほぼ大丈夫ですが、原発事故がどこまで広がるのか注意せねばなりません。千葉あたりまで値 は低いのですが風に乗って放射能が着ているようです。今後この地震がフィリピン・プレート、南海プレートに影響がないように祈ります。あたりのスーパーに はほとんど品物がありません。人々はパニック状態で手当たり次第に品物を買いあさっているのです。知り合いのドラッグ・ストアーの女性は「見ていて其の浅 ましさに気分が悪くなる」と言っていました。災害にあった方たちのことを考えると少しは考えなさいと口をついで出そうになったとのことです。
今日夕方から停電です。このブログへもなかなか発信することが出来ませんでした。
2011年3月16日15:58
削除

2011年3月13日日曜日

お見舞い申し上げます。

朝一番の目ざましラジオが日本の地震の報道を流していた。 飛び起きたのはゆうまでもない。 TVを付け、場所は何処だと目をさらのようにしてテレビを観る。

東京及びその近郊に住む私の親族は無事だろうか? 震源地が仙台と聞いて少し安心する自分が人間として情けなかった。 自分の身内が住む地域が無事なら良いと云う問題ではない。 

日本との電話連絡に忙しくしたが、中々通じない。しかし、結局他所の州に住む姪っ子からの電話で 日本の親族は全員無事との通知は受け取れた。

殆ど疎遠に近いこの国の義弟から電話があった。 日本の私の親族は大丈夫かと気ずかっての電話であった。
とても嬉しかった。 そして、私の身内が大丈夫ですよと云える自分に感謝している。

文明の利器も、研究も、ロケットを何機飛ばしても、国会の予算が何兆億でも、災害から人が守れないのでは 一体なんの為の研究だと云ったら怒られるだろうか。

やっと通じた電話で私が家族の安否を聞いている間にも、  同居人の携帯が鳴っている。この国の知人達がニュースを聴いて、私の日本の身内の安否を聴いてくる。

幾つも来る電話は、彼の交友関係だから 私の知らない人達になる。 共通の友人もいるが、彼個人の知人もいる。
共通している事は私が日本人だと知っているだけだ。

それでも彼らは掛けてくる。奥さんの身内は大丈夫かと?  ありがいと感謝している。

彼がパソコンを開けると バイク仲間の集団が 日本の地震の災害者へのお見舞いを書いていると教えてくれた。

彼らの、そのようなお見舞いは勿論仙台や近郊の災害を受けた人たちへは伝わらないけれど、
やはり世界はまだまだ捨てた物ではないと実感する。 

被災者の皆様には悪夢の出来ごと、私などが想像も出来ないほどに 哀しんでいらっしゃることです。
心からお悔やみ申し上げます。  

2011年3月10日木曜日

今晩のおかず

今晩は夕食を作らなくて良さそうだ。 私は今日自宅に居るので 昼食に美味しいものを食べて、
夕食はサラダかサンドイッチ。 そうです アメリカ人である同居人が一番嫌いな食べ物 「サンドイッチ」にしよう。

彼は 何故かサンドイッチが嫌いで真に迷惑している。 それゆえ子供たちもまずサンドイッチを食べない。
勿論ハンバーガーは彼らの大好物であるが。 あれは サンドイッチに入らないそうだ。分らない。

こちらの言葉でいう[Meal]が良いそうだ。 お皿に何品かが乗っている食事の事。 
肉か魚、野菜とスターチ(パスタ、ポテト、ライス)その三品が最低はそろって「Meal」 となる。

我が家では食事の時は殆どパンを食べない。 パンとは朝の食事のトーストの事になる。それ以外に需要はない。
私に言わせれば、 肉も野菜も二枚のパンの間に挟めばサンドイッチ、同じではないかと思うが、
彼らに言わせると、そうではないらしい。  どんぶりご飯か、おかずとご飯を別々に食べることの違いなのだろう。
そういえば、日本の実家では「なになに丼」のたぐいはまず食べたことがない。あれは外食の時に食べるものと理解していた。
父親が「どんぶり飯」と言って嫌ったから。明治の末の産まれであったからかもしれない。

トンカツ を作っても、私は時々それを、かつ丼にして食べるが、彼は丁寧にお皿にトンカツを置き、
ご飯は横へ置き、なにがしかの野菜と加えてサラダを欲しがり、フォークとナイフで食べる。
手抜きの嫌いな亭主と思って頂きたい。


今朝、私は二つの哀しいメールを受け取った。 哀しいとは、哀しい悲劇が起きたのではない、
私にとっては哀しく感じるという事である。 涙がポロリと出て来たので、自宅でむしゃくしゃしていると、余計な事を考えてますます不愉快になるからと、思いきって家を出て、行きつけの美容院へ出かけた。

そこへ私の携帯が鳴った。 事務所に居る同居人からである。 2-3分の会話の後に、
別にどうでもよいけれど、今自分が美容院に居る事を話した。気持ちが不愉快だから、
美容院で髪の手入れをしてもらって、少し美人になるつもり。と冗談を話したつもりだった。

そして彼がする必要もない返事をした 「Thank you」。

今日の夕食は昨日の残りのトンカツでサンドイッチを作る。 絶対に二枚のパンに挟んだサンドイッチである。
パンを開けてお皿には乗せさせない。 嘗て彼はしたのだ。私が作ったサンドイッチを開けて、お皿の上に並べて食べた。
今日は許さない。二枚のパンをホチキスで止めようか。

私は鮭の塩焼きに味噌汁、漬物としよう。もう一品私の分の残りのトンカツはお皿にのせて、ブルドッグソースをかけて食べよう。

2011年3月2日水曜日

30年分の知識と経験     

年齢を増すことは それだけ人は知識が豊富になること、 と
二人の子供を育てているときに私が何度も説いた言葉だ。 生意気な言葉を発する度に
去年の自分と今の自分を比較してごらん、あの頃の自分はまだ幼かったナ~と感じない?
この一年でどれほど自分が学んだか、成長したか 自分が誇らしく感じるでしょう?
それと同じよ、ママは貴女たちよりも 少なくとも30年は 長く生きているのよ。
その30年間の知識を考えてみてごらん、どんなにママが凄いかって 分かるでしょう?
そんなママに生意気な口は止めなさい!

これで 子供達はたいてい黙った。 黙らせた。しかし、その子供達が今は30代。
最近までは 目上を敬う気持ちからか、それとも 又あのママの説教は聞きたく
ないからか、 私への口答えはしなかった。日本語式のタメ口も両親へは使わなかった。
むしろ敬語での会話が主体だった。(英語に敬語なんてあるのと考えないで欲しい。どこの国
にも、人へ尊敬の念を持っての言葉は存在する)私自身が子供達へ出来うる限りの
丁寧な文章での会話をしていた事も理由の一つかもしれない。 

息子などは 高校生の頃は 耳を覆いたくなるような言葉を家の外では使っていたようだが、
一歩家へ入ると言葉が変わっていた。 これは アメリカ一般家庭どこも
同じだと思う。 親に暴言を吐いたら、明日からの生活に支障がきたすからだ。
目に見えない暗黙の規律。 18歳で自活が出来るまでは 親に生意気な言葉は
使わないほうが良い。 当然なことである。誰に食わせてもらっている?これである。

しかし、昨今は「権利」と「義務」が一人歩きしているから、 親は子を育てる義務がある。
子供は家庭の愛情を受ける「権利」があるらしいが。

私の子供達の言葉使いに変化が出てきた。両親に向かって、得に私に向かって
敬老向けの言葉になった。今までなかった「気ずかい」が表にチラチラと現れている。

娘は私に向かって「ママ大丈夫?」 「歩くときはもっと足を上げないと転ぶから気をつけて」
「週末には外へ出て遊んでいる?」真に大きなお世話である。

息子などは ほとんどコンピューターに関してだが、 もうこの辺の知識は彼の父親も太刀打ちできない。 私が何か質問すると、子供に説明するような言葉使いをする。
「こう言ったら分かるかな~」と例え話を使う。彼らがまだ子供の頃私がしたように。

何時の日からこうなってしまったのだろうか? 喜んで良いのか、己の老いを哀しむのが
良いのか? しかし、 分かっているのだ、 子供達が正しいのが。 

昨日、足の持ち上げ方が少なくて、見事に転んでしまった。 半歩持ち上げて歩道に上がるのに、右足が持ち上がりきれず見事にペチャンコ。左膝を擦りむき、右のつま先は突き指状態。
痛い、真に痛い。 踝から下が晴れ上がっている。ゆえに、車の運転が出来ない。
アクセルが踏めない。

先ほど娘から 「ハーイ、ママ元気?」のコールが入ったが、 こちらは痛い足をさすりながら「元気、元気、はつらつとしています」と応えるしかない。 正直に話した後の説教が怖い。

そして、老体となってくるのは私だけではないと哀しく理解したのは、転んだときだ。
本当に暫くぶりに一緒に通勤した私たちは、事務所の前で車を止め、両側から出てきた私と同居人は、一緒に半歩上がって事務所のドアを開けるはずだが、上がれなかった私が、隣でドシャーと転んでも彼は気が付かなかった。 一歩前へ出て、 後ろを向いて「アレッ」と驚いている。

昔の彼は、絶え間なく横を歩く私を支え、 もしも、もしも 転ぶようなことがあっても、敏速に支えてくれたであろうが、 今は アレッである。全身から若さもスピードも消えてしまった。 「アッ転んだの、 これは大変だ」こちらとしては、ゴチャゴチャ言ってないで助けろ、手を貸せ!と怒鳴りたいが、こちらも痛みで声も出ない。やっとブリーフケースを下に置き、
「ドッコイショ」としゃべれもしない日本語の掛け声をかけて私を助け起こした。 

30年間分も余分に持つ知識と経験の私はやはり子供達にこのブザマな話は出来ない。
昔子供達が悪さを私の目から一生懸命に隠そうとしたように、 これからは私が愚かなことをした時に彼らに知られないように知恵を使わなければ。まあ、その為の余分な30年分の知識をやっと利用出来る時が来たと喜ぶことにする。

2011年2月23日水曜日

まだ 狂ってはいません

楽しい旅へ行きましょう。 真っ黒いレムジーンカー、隣に座っているのは独身時代からのベストフレンドさん。 黒い車を運転するのは独身の頃に日本で勤務していた会社の運転手さん。 もう一人車の中に女性が居る。 彼女は小学校から高校生の頃までの親友さん。大した会話はしないが、 車の中はとにかく楽しい笑いが篭っていた。 

お腹が空いたねという誰かの提案で、レストランを見つけて食事をする事にした。  
昼間のはずなのに、辺りはもう真っ暗、そう言えば旅の出始めから空は真っ暗だった。 
レストランの表のドア近くの駐車場に入って気が付いた、そこには一台の車が止まっている。
その車も大型ピカピカ黒塗りの車。 

その車の横へ止めようとする運転手さんに、 アレッ少し接近しすぎていない? と声をかけたが もう其の時は 駐車中の黒い車のバンパーの左側へゴツン。ずいぶんと凹んでしまったように見える。 この運転手さんは極端に小柄なおっさんで 一緒に勤務していた頃から 良く接触事故を起こしていたけど、 今日も又やってしまった。

おっさんは 、大丈夫、私が謝ってきます、皆さんは先に中へ入ってお食事を始めていてください。と言いながら、凹んでしまった真っ黒な車のほうへ歩いていった。
私がレストランのドアの中へ入るときにチラと見たら、車の中には 黒いスーツを着た男性が四人でおっさんを見ていた。

レストランの中のカウンターへ席を取り、 さて何を食べようか~  メニューを見ているうちにおっさんも中へ入ってきて、 相手の車から受け取った請求書を見せてくれた。 その請求書の金額が良く分からない。  数字の桁がぼやけている。  3、600ドルなのか、
36、000ドルなのか。これは 大切なことですよ。 しっかりと数字の桁を確かめないと困りますけどね、という私に、 カウンターの向こう側に居るオカミサンが、 そんなのどうでもいいのですよ。 
エッどうして?   そこで 朝6時半の目覚ましラジオが鳴り出した。

朝食の時に同居人に私は今朝視た夢の話をしていて、急に背筋が少し寒くなってきた。何故なら運転手のおっさんも、二人の友人ももうずいぶん前に亡くなっている人たちだと気が付いたから。 そうすると、駐車場に止まっていた黒い車の中の黒いスーツの男性たちも死者?

この二人の親友は現世ではまったく接触がなかった二人だけど、それに亡くなった年代も25年間も離れている。でもこの二人は時々私を訪ねてくれる。 今日は二人一緒に訪ねてくれた。 彼女達は何時も綺麗で若い。 一人の親友は60代で亡くなったのに、私を訪ねて来る時は、丁度知り合った頃のように 若さではちきれている。

人があの世へ行ったときは、 その人の生涯の中で一番素晴らしかったときの姿に戻ると訊いたことがあるけど、 そうなのかもしれない。私自身の時は、何時の時代の時の私の姿に戻ろうかしら、その場で即決なんてことになったら判断が鈍るから、今から考えておいたほうが良いかもしれない。

しかし、 今日の夢のように、すべてが真っ黒、真っ暗、この暗さに何か暗示があるのかしら?  最近私自身の気持ちが滅入っていたり~ それは或る。最近頭の中が空っぽになることがない、何時も何かを考えている。それも決して楽しいことではない。解決策の無い、暗中模索の中に居ることはたしかだ。 しかし、もしそれが 私の夢の中に現れるのだとしたら、ずいぶんと弱い面があるものだと 自分自身の再発見かもしれない。 

青春時代から持ち続けている自殺願望が又頭を持ち上げ始めているのかもしれない。でも、自殺願望と自殺とは違うことをこの年齢まで生き延びた私には良く分かっている。 誰にでも来る死を待つのが嫌で、自分で時期を決めると思えばどうという事でもない。

2011年2月16日水曜日

姉のコンピューター

70代の後半を突っ走っている私の姉が、 コンピューターを自分の住まいに設置した。
彼女の人生の中で 一度たりとも事務仕事をしたことがない高齢者がこれからキーボードを二本の指で雨だれ演奏大丈夫かしら? というのが最初に頭をよぎった。

何故そうなったのか未だに実際のことは分からない。情報がいろいろ出回っている。その情報が少しずつ違うから、 情報源である姉自身が本当の話をしていないのかもしれない。  彼女の住む建物全体があるインターネット通信会社に加入しているからとか、お兄さん達の勧誘が頻繁にドアをノックするとか、 又、PC初歩学習クラスが入学を勧誘してくるとか、 定かではない。  しかし、 彼女は 中古のコンピューター一台無料付きで インターネットへ加入した。  毎月の支払い額5,000円。

一人暮らしの高齢者婦人、まったくPCの必要度がない女性へインターネット加入をさせ、 向こう二年間の契約を取り付け、 違約金は一万円の罰則と来た。 そして四月からのPC初歩クラスへの加入も取り付けた。亡くなった母もそうであったが、若いお兄さんに弱い姉は、きっとイケメンのお兄さん達の哀願勧誘に負けたのだろう。想像はつくが。詐欺スレスレという言葉が頭をよぎる。 まあ 私が口を出すことではない。 少なくとも四月のPCクラスが開始するまでは 毎月5,000円は未払いにしたいが、 それも返事によっては 頭に来るから聞かないでおく。

それでも、彼女の娘の一人が夫婦で訪れ、 PC接続、無料メール欄(Hotmail)を設置して、メールの出し方を教えたそうであるが~。 定かではない。
始めてコンピューターを触る人が、一回の説明でメールが出せるなどとは聞いたことがないが~ 

メールを出してあげてください、という 姪からの進めで私も早速姉へ「 はい こんにちは 」とメールを送った。
数日後に返信が来た、それは電話で来た。
「娘がね、 メールの読み方は教えてくれたけれど、 送信方法は教えてくれないのよ、それに返信なんてとても無理、だから 四月のPCクラスが始まるまでは返信は電話にしま~す」なるほど。

先日姉のHotmail へ又 メールを送った。 そして姉から電話が来た。
返信でーす というわけ。それで? その後少しは進歩あるの?との質問に、

この間どうしても 孫の一人へ 連絡事項があったのだけど、孫の母親である娘へ電話をして、もう一度送信方法を聴いたら、「もう~何度も教えたでしょう! 送信ボタンを押せばいいの!」と ガチャンと電話を切られたとか。つれない娘である。  しかし、姉はめげない、 アノネ 良い方法があったのよ、 教会へ行って、コンピューターが使える人を探して、家へ来てもらったの、 彼女チャン チャンと送信してくれたワヨ」でもこれ内緒ネ。  

其の手があったか。 しかし、自分から苦しみやストレスを探し求める人もいるらしい。
何時の日か、私も姉と四方山話をPCの交信で出来るかもしれない。
この世界の進みの速さには 私達も追いつけなくてすでに諦めムードであるのに、これから初歩から始めようとする姉は立派である。 先は長いよ、頑張ってね。 

2011年2月15日火曜日

ヴァレンタイン 

日曜日は 一年ぶりで チーズケーキを焼いた。これは 心優しい妻の私から伴侶へのヴァレンタインプレゼントでございます。   クリスマスにチーズケーキを焼くつもりで 材料を買って置いたのだが、 他にチェリー パイと アップル パイがニコニコしていたので 、高齢者肥満を心配する昨今、毒に等しい甘いケーキは自殺行為と考え、 これも 心優しい妻の判断の元から焼くのを中止とした。   しかし、 同居人は 冷蔵庫に眠るチーズケーキの材料が気になって仕方がないらしい。 何かというと 「アレ どうすの?」 と尋ねる。

そこで、 アレはヴァレンタインのプレゼントとして焼いてあげましょう と一時しのぎをしていたのだが、 その二月がもう来てしまった。 まったく 時の経つのは速いものである。

この週末は何処へ出かけても 花屋で一杯である。 毎年恒例の大型テントが駐車場の中に張られて、中はバラの花で一杯。 誰も彼もが 花束を愛する人にささげる。

日本と違ってこの国では義理チョコというのが無いから、其のてんは楽である。  普通は一箱のチョコレートと花束。 或は、 可愛らしい縫いぐるみの熊さんが常連である。TVのコマーシャルでは 宝石店の広告がこのときとばかりに、 毎夜出ているが、果たしてこの不景気の昨今どれだけの人たちが 宝石に手をだすのだろう。

ちなみに 私は大型のチョコレートの箱入りを貰った。 私もかつては 花束を伴侶が持参したが、 あれは この時期になると 値が上がるので もったいないから 買わないようにと念を押してあるので まず無駄な出費はしないようになった。一歩前進である。

息子からもメールが来て、 彼らも 週末キャンプへ出かけたそうだ。 三年前は バラの花を風呂場に撒き散らすほどに送ったそうだが、 彼女も一緒に暮らすようになると、 相手に散財させないように 多少は気を配り始めたらしい。 ありがたい事である。


最近寒さを理由に 家の中に篭り、 モリモリと口だけは動かしていた結果、 二ポンドは増えたらしい体重をもてあましていたが、それに加わる、チーズケーキとチョコレートの箱。 加えて一ポンドは確実に増えるであろう。  これも 世の定め、私に科せられた人生として受け入れるより仕方がない。

2011年2月7日月曜日

PC の広告欄

私のブログは Google BlogSpot という無料のページを使用している。 他のブログページと同じように広告欄がある。 これはそのブログを閲覧した人が広告に興味をもって クリックするとその回数によっていずれはそのブロガーへなにがしかのボーナスが入るように仕組まれている。
私のブログは余り読者が居ない。 統計などを見ると本当にお恥ずかしくなるほどの数字が記されている。 「よせば良いのに、まだ続けるの?」 と統計が私に話しかけているようだ。 これは 私の書く内容によるものと納得している。 すなわち面白くない。 ゆえに、わたしのブログページに記載している広告主も気の毒な事である。

しかし、最近手元にGoogle AdWordsから郵便が届いた。  私のページへのトラフィックをもっと頻繁にする為に手助けをいたします。その方法として私個人が出したい広告を引き受けると書いてある。
ナルホド、 今までは Online へ広告を出すなどは考えても見なかった事であるが、言われて見れば、 出したい広告商品は手元にある。

期間限定で提供された私への金額に達成するまでは無料と書いてある。その意味が分からず、 息子に説明をしてもらった。

One Lineに掲載されている広告は、 読者が興味を持った段階で その広告をクリックする形式だが、 一般広告と違うのは クリックの数でその広告料金が上がっていくのだそうだ。
ワン クリック 幾らとなる。 そこで面白い事を教えてくれた。 人の目を引く、興味をそそる見出しにすると、その商品への購買心の無い人でも、なんだろう?とクリックする。クリックすると 自動的にその会社のWebsite(homepage)へ誘導される仕組みになる。 そこで 広告主の支払う広告料は増額される。

息子自身も、会社の広告を最初に出したとき、様子を見る為に、一般の人にも興味を感じる言葉を選んで広告を出してみた結果、一週間の間にそのクリックの数が一か月の予算を上回る広告料金になったが、販売量には反映されなかったらしい。

そこで、次は、 その業界の人だけが興味を持つ言葉を選び記載して初めて販売へつながったと教えてくれた。 中々面白い。  

広告は出すけれど、 購買心の無い人には「あまり」クリックしてもらいたくないコピーライトとはどんなものだろう。 

マテヨ、これは、 クリックを繰り返すことで競争会社の広告料を使い果たすことも出来るではないだろうか??。 嫌々、そんなことを考えるのはやはり性格のねじ曲がった私しか考えない事かもしれない。 失礼しました。  

2011年1月30日日曜日

オートバイ

もう老年に差し掛かっている、ハリウッド、アカデミー賞受賞者の男性俳優がインタヴューで受けたの質問の一つ。

同じ女優さんとの結婚生活30年、その秘密はなんですか?

答。  私の妻は、私がオートバイに乗ることを許してくれます。 それだけで十分です、どんな妻の横暴もこれ一つで許せます。

私の亭主殿も今年71歳、まだバイクに乗る。それだけが今の彼の余生?の楽しみのように見える。 私は 「人の好きなものを取り上げない」 ただそれだけの理由でバイクへ乗ることを黙認しているが、 どうやら、 これは 妻の美徳のようである。 

息子はサンヂェゴでかつてバイクに乗っていた。 しかし、今は乗らない。いや、乗れない、息子の 婚約者が許さないから。彼女は自分の子供達へ話していたそうだ。、 「あのバイクは、あの人が命を落す機械よ。」
息子よ、 お前は可哀想な奴。しかし、命を落とす一つの可能性をなくしたことは確かである。
もう3年も息子のバイクは埃をかぶって錆びの一歩をたどっていることであろう。 でもそれで家族が平穏ならそれで良い。


娘から電話があった。 
今年から仕事の上で少しプロモートを受けて、 一つのクリニックだけでなく、二箇所のクリニックを走り回って管理しているそうだ。カリフォルニアの不景気が此処にも影響して、人員を増やさず、今 居る従業員をトコトン使うという事らしい。 
ゆえに 車で走り回ることが多くなった。 その一か所のクリニックへの交通路がS字型曲線道路の箇所が多く、一車線道路、追い越し厳禁の場所になる。 うっかり前方にノロノロ運転の車があると、まず仕事への時間に遅れる。 勿論少し速く家を出るという選択はあるが、朝一番でジムで汗を流してくる娘にはそれは不可能という言葉になるらしい。

そこで彼女が思いついたのが オートバイに乗ることだ。  バイクなら、ノロノロ運転の横を追い越せる。もうそれしか道はないと決めたらしい。
「私バイクのライセンスを取る、教習所への予約をもうじきするつもり」すなわち何時もそうだが、事後報告である。

お父さんが何と言うかしらね?
その心配はいらないでしょう、お父さんは賛成してくれると思う。
何故って、 お父さんがバイクを乗り出したときに賛成したのは私だもの。
私の時も賛成する義務があるでしょう? 借りは返してもらうから。
アッ ソー

今までにも何度か バイクの案は考えたそうだが、そのたびに職場の同僚や友人から、 貴女にはもう少し生きていてもらいたい、 とか 死ぬには速すぎる とかいろいろ言われていたそうだが。そのような 友人たちの助言は聞こえないらしい。 

母親の前では、しとやかに 天ぷらの揚げ方を習ったり、 浴衣の着方を習ったりと良い娘の顔をして、 父親とは射撃練習に出かけたりと 本当にどちらが本当の娘か分からない。
何処かで 騙されているような気がする。

サンヂェゴへ引っ越した第一の理由が、サーフィンが出来るから。 これも私には余り気分の良いものではなかったが、 産まれ故郷で一生暮らすよりも、 違う土地を知ることもまた人生と私自身の気持ちを整理させたつもりだ。それに、 、泳がせたら兄の秋夫よりも早いスピードで泳ぐ娘の事、サーフボードから振り落とされても泳いで海岸へ戻れるだろうと、私は自分の気持ちを静めて来た。

最近は自転車を買い、 ジムばかりではなく、 週末は自転車に乗っていると言っていたので、母親としては、 「それは結構な事でこざいます」と一安心。

だが、伏兵があった。まさかオートバイに手を出すとは。 
もうメールで父親と情報交換をしている。 出来たら自分の持っている ホンダ450を送ってあげたいけど、 アレは座席の位置が高いから足が地に着かないだろうし、 しかし本人は250ccは考えていないらしい。 やはり 450cc以上になるだろう。などと ホクホクと、自分の娘が若死への一歩をたどっているのも知らないで メールを打っている。  

光明がさした。 娘は5フィート2である。チビだ。 父親は6フィート、乗るバイクはカワサキ1200、彼女のボーイフレンドは 6フィート2 乗るバイクは BMW1200、  それを頭と目に描いているのかもしれないが、 それは少々不可能というもの。バイクは交差点などで止まるとき、 片足が地に着いてあの重たい鉄の塊を支えていられなければダメ、
友人の話であるが、多少低めの男性が、大型バイクを買い、愛妻を後ろに乗せて颯爽と~ と思ったが、交差点で停止のさいに、彼の足が短く、バイクの傾きが大きすぎて後ろの愛妻がズルズルと後ろの荷台からすべり落ちたとか。 三度もすべり落ちた愛妻から、乗車拒否を受けて 寂しく一人でクルーズに参加している。

1200と450が一緒にクルーズしたら 小さい方は付いていけないでしょう?  
スピードは同じように出せるし、 エンジンの大きさにはそれほど変化はないからその心配はいらない。とつれない返事をする同居人。 ほんとに殺してやりたい。
それでは 何か他の事を考えなければ~  

「お母さんが心配だから、それは止めて頂戴」 「お母さんを心配させないで」
この言葉を決して言わないと自分に言い聞かせている私だが、 それならば、 他の道をかんがえなけれぼ、可愛い娘はあの交通の激しいカリフォルニアの道路を生身で通勤するのだ。
思っただけで ゾッとする。   

2011年1月28日金曜日

腰紐 一本

私は昔和服を着るのが好きだった。 何年もダラダラとつづけた土曜日の茶道の教室も、和服を着られるから、その雰囲気を好んだとも言えるかもしれない。

毎週土曜の朝、母に着付けを手伝ってもらわなければ着られない着物が不便であったが、 
一人で着られなくて どうするの、 お母さんは嫁ぎ先までは付いていけないのに と少しずつ嫌味を言い始めた母への対策として、仕方なく自分で着付けを練習した。 勿論「着付け教室」への入門などは考えなかった。 ただ、母の言葉を使うと着方が多少 「ゾベゾベ」とした感じはあったようだがそれは目をつぶることにして、それでも 袋帯も後ろで結ぶことが「かつて」は出来た。今は知らない。多分腕が後ろへ回らないだろう。 

かつては 四十代になったら 着物を常時着ようなどと アホな考えをもっていた。
自分の給料の大半が着物購入で消えた。 勿論私の給料で買える着物などは高価なものではない。 俗に言う普段着である。 小紋、安物の紬など。 訪問着などを買うお金は無かった、それでもあの頃の安月給のOLとしては 数は多かったのではないだろうか。

しかし、人の人生とは面白いもので、 まったく、本当にまったく着物とは無縁の国へ来てしまった。 37年着物を着ることはなかった。 多分日本へ帰国した時に1-2度 と、父親のお葬式で喪服程度で終わっている。 箪笥に眠る着物は時々手に取り、 裏側の絹が茶色に変色したのから 一枚、一枚と 捨てられていくしか道はない。あわれな 私の着物の生涯である。 そしてもう何枚も残っていない。

だいぶ前になるが、私の姉が、 濃紺ではなく今風な淡い水色にアジサイの花が染めてある浴衣を娘にプレゼントしてくれた。  その浴衣も 着ることも無く ジッと箪笥の中で眠っていたが、 先日娘が帰宅した時に、 あの浴衣が、もし自分で着られるなら 着てみたい と言い出した。多分昨年末に京都へ出かけたときの影響であろう。そこで、私はあの長い浴衣の丈をおはしょりして縫ってしまった。
それから 母子二人で着方の練習である。 伊達帯を巻き、帯は体の前で蝶結び。 汗をかきながら娘は練習する。 しかし 女の子とは面白いもので、 自分が着たいと思うと本当に努力をするものらしい。 不器用なアメリカの娘が 何とか蝶結びが出来るようになった。 
ハイ、それで 後ろに回して~ アッ、娘は帯を左周りにまわした、勿論めちゃくちゃ。失敗から学ぶとはこのことである。 
一回、二回 三回と練習して、もう当人は汗だくになった頃に着物教室は終わった。 

そして娘が飛行機で飛び立って一週間、 ハタッと思いだした。 母親の私は腰紐を一切使わずに伊達帯だけで 教えていたのである。腰でおはしょりしてあるので なんとなく着ると型ができていたのが盲点であった。 腰紐を一本も使わずの着付け、ありえない。素人教室のなせる業か 大変である。
母の言葉の 「ゾベゾベ」なんていうものではない、時間がたてば前がはだけてしまう。

今日は郵便局へ行って、腰紐を送らなければ。 

2011年1月20日木曜日

オカン アート

PCで毎度のごとくいろいろと読んでいたら 今回は 「オカン アート」とう言葉を知った。言葉の通り、おばちゃんの趣味の作品のこと。 
まさに私の生活の四文の一がその「オカン アート」(この言葉で検索できる)で生きている。  「ちゃんねる2」と言うコラムでいろいろとその面白い書き込みを読んでいたら、
面白かったけれど背筋が少し寒くなった。

8-9年前から始めたキルトが最近の私の趣味の半分を占める。 小物、手提げバッグ、ひざ掛け、小さな人形、袋物。はてはベッドカバー。
袋物は大きな箱に二つ。ベッドカバーは何枚も重ねて出番を待っている。

母がまだ生きていた頃は、一時期すっかりのめり込んで、母の古い着物や、母の友人の古い着物などを送ってもらって、セッセと袋物を作った。
そして、母にどんな物が出来たのかと聞かれると、夜なべまでして手提げバッグを作り航空便で日本へ送った。 しかし、 自分の趣味の作品?を送れば、
受け取り側がそれらをどうしただろうと思うのは人情というもの。 母と同居の姉に、遠い日本へ旅して行った私の可愛い小物ちゃん達は日本でどうしているかと聞いてみた。

「アー アレね。もう貰い手が居なくて困ったわ、 最後の一つはやっと私の長女が「貰ってくれたワヨ」車の中のゴミ箱にするって言っていた。

勿論それ以来一切日本へは送らない。航空便が損である。 

私の小さな心は少し傷ついて、そしてすべてを悟った。 もうだーれにも 上げない!!と決めたのだ。 しかし、 今分かった。あれは 「オカンアート」だったのだ。
貰って困るオカンアートとは知らなかった。 捨てるわけにも行かず、自分の好みでもないから使いたくない。誉めればまた贈って来る。恐怖のオカン アート。

しかし、実に的を得た言葉だ。 実は昨日同居人が病院で定期的な血液検査を受けてきた。その待合室で隣に座っていた年寄りが、膝の上に箱を乗せて、両手を入れてモソモソと動かしている、 そこで同居人はそっと中を覗いた。 これは彼の悪い癖である。
箱の中でその老人はカラフルなビニール紐で何か編んでいる。そばに寄って中を覗くその不埒な男へ、その人は嬉しげに、今これに凝っていてね、
テレビを観ながらでも、こうやって病院の待合室でも、何処でも作れるし、 もういろいろ作ったよ。そして、 ホラこれ上げるヨ、もって帰りなさい。
それは よじれた親指のようなキーホルダーだった。

そのキーホルダーをホラ上げると私の手によこした同居人に、すばやく、いらない、自分が貰ってきたのだから自分で使ったら。 イヤ自分はこういうの使わないから、
じゃあどうしてもらって来たの? だってあんまり嬉しそうによこすから断れなかった。
まさにこれぞ「オヤジ アート」である。 

2011年1月15日土曜日

キャレン 

彼女の名前はキャレン。 精神科の医者。 カウンセラーとして仕事を始めて今年で3年目。
キャレンは14年前に私の娘と一緒に大学の心理学科に入学して来た。 その時彼女は45歳。

カールした長い髪の毛を腰まで伸ばし、 昔のヒッピーかと想像するような一風変わった服装をして皆の注目を集めていたという。

キャレンには 離婚した夫との間に二人の息子が居る。その二人の息子も母親と同じ頃に大学生、他所の大学で学生生活を送っている。
一人孤軍奮闘して育てた息子二人がもう大学生として家を出た後に、自分もいつか終わらせたかった大学に戻ったと云うわけ。

自分の夢は精神科の医者になること。しかし、早くに結婚、 二人の子供の教育で今まで機会がなかった彼女には 今がチャンスである。 今から始めても、 五十代の初めには 博士号がもらえる。それまで頑張るのだと。

娘と一緒に毎日勉強に励みながらも、彼女も他の大学生と一緒に恋愛にも頑張っていた。 
12歳年下の男性とめぐり合い、恋愛をして、自宅で同棲生活も始めた。
時たま帰宅する二人の息子も、母親の遅い恋愛には至極理解を示し、 33歳の小説家志望のジゴロ君と二人の息子は結構うまく行っていた。

四年が過ぎ、キャレンと娘は一緒に大学を卒業、その後すぐに彼女は大学院へ進み、 娘の直美がやっと大学院を終わった頃には
彼女は博士号の勉強をしていたのである。  一時も休むこと無く、一直線に博士号まで進み、念願の精神科の医師となったのが 
三年前。 大学生活を始めてから11年の歳月が過ぎていた。 その間にキャレンの二人の息子も大学を出て、就職、結婚と順調な生活を進む中、
彼女もジゴロ君と念願の結婚もした。


今年の正月に直美がサンジェゴから帰宅した時、 今回はキャレンをお見舞いする大きな仕事があると話す。 
キャレンは現在肝臓癌の末期だそう。発見された時はすでに手遅れ状態。 医者の死の宣告は後六カ月と言われたが、現在はそれを三カ月延長している。しかし、体力が無い為抗がん剤の治療はもう絶っているという。
それでも、気分の良い時は 病院へ出勤して自分の患者のカウンセリングを週に二日は実行している。

何処かのレストランで逢いましょうと言っていたキャレンが、自宅へ来てくれと依頼され娘は彼女の家に出向いたが、
今日はダメな日なの。ベッドから出られないの。このまま失礼するは。それでも、訪ね来る直美を歓待したいと、
お茶を入れ、お菓子を作り、お茶を飲む時はベッドに入って良いでしょうと承諾を受けてから横になっていたそうだ。 
そして、 後一週間もしたら、太腿の方へ降りて行く大動脈の一部の血行が止まり、足の機能が働かなくなってきた為来週あたりにこの左足を太腿から切断するって医者に言われているの。 もう私の命が何日残っているか分からないのに、太腿を切断するのよ。 私の最後は一本足のない死体になるのよ。信じられる?

切らないで済む方法はあるのという質問に、 腐ってくる足を付けたままで居るのも嫌だしね、 足を切断するか、癌が全身を回りきるかどちらが先になるかしらね~ 。

帰宅した娘にアホな母親は愚かな質問をした 「キャレンはどうだった?」そして娘の返事は一言 「she is dying」。

心療クリニックで毎日30人ほどの「心の病」の人たちにカウンセリングをしている娘も、
14年来の大学時代の友人の壮絶な人生と死へ向かう姿にはさすがにがっくりと来たようだ。
ママね、キャレンは少しでも気分の良い日はまだ患者を診て行かなければ自分の医療費の支払いが出来ないのよ。
癌患者にはどんな素晴らしい保健があっても、支払いがそれ以上になってしまうから、 彼女は死ぬその日まで働くって張り切っていた。
その方がいいのかもしれないね、 ジッとベッドに寝て死を待つよりも、死ぬまで働くほうがいいのかもしれない。 自分の死の心配をする変わりに、 医療費の支払いの心配の方が良いかもしれない。 

2011年1月11日火曜日

九日間の休暇

九日間の娘と一緒のお正月がやっと!(フ~ッ) 終わりました。  良く食べ、良く遊び、散財のお正月でした。 でも楽しかった。
娘の去った後は 猫のダンテも ヤレヤレーと静かになった娘の部屋のベッドで 手足を伸ばし眠っている。 彼も追っかけまわされて少し疲れたようです。

遠く住む子供達と年をとった両親。 これから何回逢うことが出来るかと思うとやはり「其の時」が大切に感じる。  きっと日本のもう亡くなった私の両親も同じ気持ちだったのだろうと考えると、やはり私は親不孝だったのかしら?と自責の念に駆られます。しかし、これは外国へ出た私だから思うことで、私の母は、 故郷桶川(埼玉県)から神戸へ嫁いだ後、祖母の葬式以外には 11年後に東京へ転勤まで一度も里帰りをしなかったそうだ。
昔風に言うと、「一度嫁に出たら~」 となる。

今日メールを読んでいたら、右下の箇所で 「Are you there ?」とピコピコしている?
娘からのチャットルームが手招いている。  思わず、[Yes I ‘m here]
それから チャットが始まった。仕事へ行く前にチャットを少しというわけらしい。私にはいともまどろっこしい時間でした。 

現代人間のこの感覚が真に私には理解に苦しむ。 先日テレビのインタヴューである老女優が、「やっと携帯電話の使い方を覚え、 孫達に連絡しているけど、誰も返事をしてくれない。メッセージを残しても電話をしてくれない。 そこでテックスメッセージを練習して、それを使い始めたら、 何時でも即、孫達はテックスの返事をしてくれる。私は声が聞きたいのに、なんでしょうね」

まさに娘の生活がそれ。  携帯電話が本当に絶え間なく チロリーン と鳴る。すると カシャカシャと指を動かす。 又 チロリーン、カシャカシャ、チロリーン、カシャカシャ。 ついに父親が、 電話へ出て会話をすれば 3分で済むのに、 何でテックスメッセージなんだ。 まどろっこしくて見ていられない、と嘆息する。
朝一番にボーイフレンドから チロリーン 「good morning sweetheart 今日の朝食のメニューは何ですか?」
そこで娘が、食卓の上の品を見ながらシャカシャカやっている。 「アホか?」と言いたいが、 それを言わないように言葉を飲み込むことも私は覚えました。

その携帯電話の会話が終わると、今度はラップトップを開いて、チャットルームでカシャカシャ、私と会話しながらでもカシャカシャ、 TVを一緒に見ながらカシャカシャ 、そして チロリーンと携帯が鳴り、それで又カシャカシャ、それが終わるとラップトップに戻ってカシャカシャ。きっと友達みんなと逢いたいけれど、 お互いに時間の調整がつかないゆえの連絡事項であろうが、 真に忙しい。 しかし、面白いことは相手の年齢が上になるほどに シャカシャカではなく電話をかけてきて、会話をしている。 何時一過何処で会いましょう。 いとも簡単である。
年齢を重ねるごとに、物事への処理が敏速になるという事かもしれない。 

その昔、唯一のコミュニケーシオンを手紙に頼っていたのと同じに、 電話、携帯、コンピューターの時代が来ても、手紙が、郵便局の配達も、切手もいらない、即配達の手紙と少し姿が変わっただけで 生活様式はなんら変わっていないのかもしれない。