2011年1月30日日曜日

オートバイ

もう老年に差し掛かっている、ハリウッド、アカデミー賞受賞者の男性俳優がインタヴューで受けたの質問の一つ。

同じ女優さんとの結婚生活30年、その秘密はなんですか?

答。  私の妻は、私がオートバイに乗ることを許してくれます。 それだけで十分です、どんな妻の横暴もこれ一つで許せます。

私の亭主殿も今年71歳、まだバイクに乗る。それだけが今の彼の余生?の楽しみのように見える。 私は 「人の好きなものを取り上げない」 ただそれだけの理由でバイクへ乗ることを黙認しているが、 どうやら、 これは 妻の美徳のようである。 

息子はサンヂェゴでかつてバイクに乗っていた。 しかし、今は乗らない。いや、乗れない、息子の 婚約者が許さないから。彼女は自分の子供達へ話していたそうだ。、 「あのバイクは、あの人が命を落す機械よ。」
息子よ、 お前は可哀想な奴。しかし、命を落とす一つの可能性をなくしたことは確かである。
もう3年も息子のバイクは埃をかぶって錆びの一歩をたどっていることであろう。 でもそれで家族が平穏ならそれで良い。


娘から電話があった。 
今年から仕事の上で少しプロモートを受けて、 一つのクリニックだけでなく、二箇所のクリニックを走り回って管理しているそうだ。カリフォルニアの不景気が此処にも影響して、人員を増やさず、今 居る従業員をトコトン使うという事らしい。 
ゆえに 車で走り回ることが多くなった。 その一か所のクリニックへの交通路がS字型曲線道路の箇所が多く、一車線道路、追い越し厳禁の場所になる。 うっかり前方にノロノロ運転の車があると、まず仕事への時間に遅れる。 勿論少し速く家を出るという選択はあるが、朝一番でジムで汗を流してくる娘にはそれは不可能という言葉になるらしい。

そこで彼女が思いついたのが オートバイに乗ることだ。  バイクなら、ノロノロ運転の横を追い越せる。もうそれしか道はないと決めたらしい。
「私バイクのライセンスを取る、教習所への予約をもうじきするつもり」すなわち何時もそうだが、事後報告である。

お父さんが何と言うかしらね?
その心配はいらないでしょう、お父さんは賛成してくれると思う。
何故って、 お父さんがバイクを乗り出したときに賛成したのは私だもの。
私の時も賛成する義務があるでしょう? 借りは返してもらうから。
アッ ソー

今までにも何度か バイクの案は考えたそうだが、そのたびに職場の同僚や友人から、 貴女にはもう少し生きていてもらいたい、 とか 死ぬには速すぎる とかいろいろ言われていたそうだが。そのような 友人たちの助言は聞こえないらしい。 

母親の前では、しとやかに 天ぷらの揚げ方を習ったり、 浴衣の着方を習ったりと良い娘の顔をして、 父親とは射撃練習に出かけたりと 本当にどちらが本当の娘か分からない。
何処かで 騙されているような気がする。

サンヂェゴへ引っ越した第一の理由が、サーフィンが出来るから。 これも私には余り気分の良いものではなかったが、 産まれ故郷で一生暮らすよりも、 違う土地を知ることもまた人生と私自身の気持ちを整理させたつもりだ。それに、 、泳がせたら兄の秋夫よりも早いスピードで泳ぐ娘の事、サーフボードから振り落とされても泳いで海岸へ戻れるだろうと、私は自分の気持ちを静めて来た。

最近は自転車を買い、 ジムばかりではなく、 週末は自転車に乗っていると言っていたので、母親としては、 「それは結構な事でこざいます」と一安心。

だが、伏兵があった。まさかオートバイに手を出すとは。 
もうメールで父親と情報交換をしている。 出来たら自分の持っている ホンダ450を送ってあげたいけど、 アレは座席の位置が高いから足が地に着かないだろうし、 しかし本人は250ccは考えていないらしい。 やはり 450cc以上になるだろう。などと ホクホクと、自分の娘が若死への一歩をたどっているのも知らないで メールを打っている。  

光明がさした。 娘は5フィート2である。チビだ。 父親は6フィート、乗るバイクはカワサキ1200、彼女のボーイフレンドは 6フィート2 乗るバイクは BMW1200、  それを頭と目に描いているのかもしれないが、 それは少々不可能というもの。バイクは交差点などで止まるとき、 片足が地に着いてあの重たい鉄の塊を支えていられなければダメ、
友人の話であるが、多少低めの男性が、大型バイクを買い、愛妻を後ろに乗せて颯爽と~ と思ったが、交差点で停止のさいに、彼の足が短く、バイクの傾きが大きすぎて後ろの愛妻がズルズルと後ろの荷台からすべり落ちたとか。 三度もすべり落ちた愛妻から、乗車拒否を受けて 寂しく一人でクルーズに参加している。

1200と450が一緒にクルーズしたら 小さい方は付いていけないでしょう?  
スピードは同じように出せるし、 エンジンの大きさにはそれほど変化はないからその心配はいらない。とつれない返事をする同居人。 ほんとに殺してやりたい。
それでは 何か他の事を考えなければ~  

「お母さんが心配だから、それは止めて頂戴」 「お母さんを心配させないで」
この言葉を決して言わないと自分に言い聞かせている私だが、 それならば、 他の道をかんがえなけれぼ、可愛い娘はあの交通の激しいカリフォルニアの道路を生身で通勤するのだ。
思っただけで ゾッとする。   

2011年1月28日金曜日

腰紐 一本

私は昔和服を着るのが好きだった。 何年もダラダラとつづけた土曜日の茶道の教室も、和服を着られるから、その雰囲気を好んだとも言えるかもしれない。

毎週土曜の朝、母に着付けを手伝ってもらわなければ着られない着物が不便であったが、 
一人で着られなくて どうするの、 お母さんは嫁ぎ先までは付いていけないのに と少しずつ嫌味を言い始めた母への対策として、仕方なく自分で着付けを練習した。 勿論「着付け教室」への入門などは考えなかった。 ただ、母の言葉を使うと着方が多少 「ゾベゾベ」とした感じはあったようだがそれは目をつぶることにして、それでも 袋帯も後ろで結ぶことが「かつて」は出来た。今は知らない。多分腕が後ろへ回らないだろう。 

かつては 四十代になったら 着物を常時着ようなどと アホな考えをもっていた。
自分の給料の大半が着物購入で消えた。 勿論私の給料で買える着物などは高価なものではない。 俗に言う普段着である。 小紋、安物の紬など。 訪問着などを買うお金は無かった、それでもあの頃の安月給のOLとしては 数は多かったのではないだろうか。

しかし、人の人生とは面白いもので、 まったく、本当にまったく着物とは無縁の国へ来てしまった。 37年着物を着ることはなかった。 多分日本へ帰国した時に1-2度 と、父親のお葬式で喪服程度で終わっている。 箪笥に眠る着物は時々手に取り、 裏側の絹が茶色に変色したのから 一枚、一枚と 捨てられていくしか道はない。あわれな 私の着物の生涯である。 そしてもう何枚も残っていない。

だいぶ前になるが、私の姉が、 濃紺ではなく今風な淡い水色にアジサイの花が染めてある浴衣を娘にプレゼントしてくれた。  その浴衣も 着ることも無く ジッと箪笥の中で眠っていたが、 先日娘が帰宅した時に、 あの浴衣が、もし自分で着られるなら 着てみたい と言い出した。多分昨年末に京都へ出かけたときの影響であろう。そこで、私はあの長い浴衣の丈をおはしょりして縫ってしまった。
それから 母子二人で着方の練習である。 伊達帯を巻き、帯は体の前で蝶結び。 汗をかきながら娘は練習する。 しかし 女の子とは面白いもので、 自分が着たいと思うと本当に努力をするものらしい。 不器用なアメリカの娘が 何とか蝶結びが出来るようになった。 
ハイ、それで 後ろに回して~ アッ、娘は帯を左周りにまわした、勿論めちゃくちゃ。失敗から学ぶとはこのことである。 
一回、二回 三回と練習して、もう当人は汗だくになった頃に着物教室は終わった。 

そして娘が飛行機で飛び立って一週間、 ハタッと思いだした。 母親の私は腰紐を一切使わずに伊達帯だけで 教えていたのである。腰でおはしょりしてあるので なんとなく着ると型ができていたのが盲点であった。 腰紐を一本も使わずの着付け、ありえない。素人教室のなせる業か 大変である。
母の言葉の 「ゾベゾベ」なんていうものではない、時間がたてば前がはだけてしまう。

今日は郵便局へ行って、腰紐を送らなければ。 

2011年1月20日木曜日

オカン アート

PCで毎度のごとくいろいろと読んでいたら 今回は 「オカン アート」とう言葉を知った。言葉の通り、おばちゃんの趣味の作品のこと。 
まさに私の生活の四文の一がその「オカン アート」(この言葉で検索できる)で生きている。  「ちゃんねる2」と言うコラムでいろいろとその面白い書き込みを読んでいたら、
面白かったけれど背筋が少し寒くなった。

8-9年前から始めたキルトが最近の私の趣味の半分を占める。 小物、手提げバッグ、ひざ掛け、小さな人形、袋物。はてはベッドカバー。
袋物は大きな箱に二つ。ベッドカバーは何枚も重ねて出番を待っている。

母がまだ生きていた頃は、一時期すっかりのめり込んで、母の古い着物や、母の友人の古い着物などを送ってもらって、セッセと袋物を作った。
そして、母にどんな物が出来たのかと聞かれると、夜なべまでして手提げバッグを作り航空便で日本へ送った。 しかし、 自分の趣味の作品?を送れば、
受け取り側がそれらをどうしただろうと思うのは人情というもの。 母と同居の姉に、遠い日本へ旅して行った私の可愛い小物ちゃん達は日本でどうしているかと聞いてみた。

「アー アレね。もう貰い手が居なくて困ったわ、 最後の一つはやっと私の長女が「貰ってくれたワヨ」車の中のゴミ箱にするって言っていた。

勿論それ以来一切日本へは送らない。航空便が損である。 

私の小さな心は少し傷ついて、そしてすべてを悟った。 もうだーれにも 上げない!!と決めたのだ。 しかし、 今分かった。あれは 「オカンアート」だったのだ。
貰って困るオカンアートとは知らなかった。 捨てるわけにも行かず、自分の好みでもないから使いたくない。誉めればまた贈って来る。恐怖のオカン アート。

しかし、実に的を得た言葉だ。 実は昨日同居人が病院で定期的な血液検査を受けてきた。その待合室で隣に座っていた年寄りが、膝の上に箱を乗せて、両手を入れてモソモソと動かしている、 そこで同居人はそっと中を覗いた。 これは彼の悪い癖である。
箱の中でその老人はカラフルなビニール紐で何か編んでいる。そばに寄って中を覗くその不埒な男へ、その人は嬉しげに、今これに凝っていてね、
テレビを観ながらでも、こうやって病院の待合室でも、何処でも作れるし、 もういろいろ作ったよ。そして、 ホラこれ上げるヨ、もって帰りなさい。
それは よじれた親指のようなキーホルダーだった。

そのキーホルダーをホラ上げると私の手によこした同居人に、すばやく、いらない、自分が貰ってきたのだから自分で使ったら。 イヤ自分はこういうの使わないから、
じゃあどうしてもらって来たの? だってあんまり嬉しそうによこすから断れなかった。
まさにこれぞ「オヤジ アート」である。 

2011年1月15日土曜日

キャレン 

彼女の名前はキャレン。 精神科の医者。 カウンセラーとして仕事を始めて今年で3年目。
キャレンは14年前に私の娘と一緒に大学の心理学科に入学して来た。 その時彼女は45歳。

カールした長い髪の毛を腰まで伸ばし、 昔のヒッピーかと想像するような一風変わった服装をして皆の注目を集めていたという。

キャレンには 離婚した夫との間に二人の息子が居る。その二人の息子も母親と同じ頃に大学生、他所の大学で学生生活を送っている。
一人孤軍奮闘して育てた息子二人がもう大学生として家を出た後に、自分もいつか終わらせたかった大学に戻ったと云うわけ。

自分の夢は精神科の医者になること。しかし、早くに結婚、 二人の子供の教育で今まで機会がなかった彼女には 今がチャンスである。 今から始めても、 五十代の初めには 博士号がもらえる。それまで頑張るのだと。

娘と一緒に毎日勉強に励みながらも、彼女も他の大学生と一緒に恋愛にも頑張っていた。 
12歳年下の男性とめぐり合い、恋愛をして、自宅で同棲生活も始めた。
時たま帰宅する二人の息子も、母親の遅い恋愛には至極理解を示し、 33歳の小説家志望のジゴロ君と二人の息子は結構うまく行っていた。

四年が過ぎ、キャレンと娘は一緒に大学を卒業、その後すぐに彼女は大学院へ進み、 娘の直美がやっと大学院を終わった頃には
彼女は博士号の勉強をしていたのである。  一時も休むこと無く、一直線に博士号まで進み、念願の精神科の医師となったのが 
三年前。 大学生活を始めてから11年の歳月が過ぎていた。 その間にキャレンの二人の息子も大学を出て、就職、結婚と順調な生活を進む中、
彼女もジゴロ君と念願の結婚もした。


今年の正月に直美がサンジェゴから帰宅した時、 今回はキャレンをお見舞いする大きな仕事があると話す。 
キャレンは現在肝臓癌の末期だそう。発見された時はすでに手遅れ状態。 医者の死の宣告は後六カ月と言われたが、現在はそれを三カ月延長している。しかし、体力が無い為抗がん剤の治療はもう絶っているという。
それでも、気分の良い時は 病院へ出勤して自分の患者のカウンセリングを週に二日は実行している。

何処かのレストランで逢いましょうと言っていたキャレンが、自宅へ来てくれと依頼され娘は彼女の家に出向いたが、
今日はダメな日なの。ベッドから出られないの。このまま失礼するは。それでも、訪ね来る直美を歓待したいと、
お茶を入れ、お菓子を作り、お茶を飲む時はベッドに入って良いでしょうと承諾を受けてから横になっていたそうだ。 
そして、 後一週間もしたら、太腿の方へ降りて行く大動脈の一部の血行が止まり、足の機能が働かなくなってきた為来週あたりにこの左足を太腿から切断するって医者に言われているの。 もう私の命が何日残っているか分からないのに、太腿を切断するのよ。 私の最後は一本足のない死体になるのよ。信じられる?

切らないで済む方法はあるのという質問に、 腐ってくる足を付けたままで居るのも嫌だしね、 足を切断するか、癌が全身を回りきるかどちらが先になるかしらね~ 。

帰宅した娘にアホな母親は愚かな質問をした 「キャレンはどうだった?」そして娘の返事は一言 「she is dying」。

心療クリニックで毎日30人ほどの「心の病」の人たちにカウンセリングをしている娘も、
14年来の大学時代の友人の壮絶な人生と死へ向かう姿にはさすがにがっくりと来たようだ。
ママね、キャレンは少しでも気分の良い日はまだ患者を診て行かなければ自分の医療費の支払いが出来ないのよ。
癌患者にはどんな素晴らしい保健があっても、支払いがそれ以上になってしまうから、 彼女は死ぬその日まで働くって張り切っていた。
その方がいいのかもしれないね、 ジッとベッドに寝て死を待つよりも、死ぬまで働くほうがいいのかもしれない。 自分の死の心配をする変わりに、 医療費の支払いの心配の方が良いかもしれない。 

2011年1月11日火曜日

九日間の休暇

九日間の娘と一緒のお正月がやっと!(フ~ッ) 終わりました。  良く食べ、良く遊び、散財のお正月でした。 でも楽しかった。
娘の去った後は 猫のダンテも ヤレヤレーと静かになった娘の部屋のベッドで 手足を伸ばし眠っている。 彼も追っかけまわされて少し疲れたようです。

遠く住む子供達と年をとった両親。 これから何回逢うことが出来るかと思うとやはり「其の時」が大切に感じる。  きっと日本のもう亡くなった私の両親も同じ気持ちだったのだろうと考えると、やはり私は親不孝だったのかしら?と自責の念に駆られます。しかし、これは外国へ出た私だから思うことで、私の母は、 故郷桶川(埼玉県)から神戸へ嫁いだ後、祖母の葬式以外には 11年後に東京へ転勤まで一度も里帰りをしなかったそうだ。
昔風に言うと、「一度嫁に出たら~」 となる。

今日メールを読んでいたら、右下の箇所で 「Are you there ?」とピコピコしている?
娘からのチャットルームが手招いている。  思わず、[Yes I ‘m here]
それから チャットが始まった。仕事へ行く前にチャットを少しというわけらしい。私にはいともまどろっこしい時間でした。 

現代人間のこの感覚が真に私には理解に苦しむ。 先日テレビのインタヴューである老女優が、「やっと携帯電話の使い方を覚え、 孫達に連絡しているけど、誰も返事をしてくれない。メッセージを残しても電話をしてくれない。 そこでテックスメッセージを練習して、それを使い始めたら、 何時でも即、孫達はテックスの返事をしてくれる。私は声が聞きたいのに、なんでしょうね」

まさに娘の生活がそれ。  携帯電話が本当に絶え間なく チロリーン と鳴る。すると カシャカシャと指を動かす。 又 チロリーン、カシャカシャ、チロリーン、カシャカシャ。 ついに父親が、 電話へ出て会話をすれば 3分で済むのに、 何でテックスメッセージなんだ。 まどろっこしくて見ていられない、と嘆息する。
朝一番にボーイフレンドから チロリーン 「good morning sweetheart 今日の朝食のメニューは何ですか?」
そこで娘が、食卓の上の品を見ながらシャカシャカやっている。 「アホか?」と言いたいが、 それを言わないように言葉を飲み込むことも私は覚えました。

その携帯電話の会話が終わると、今度はラップトップを開いて、チャットルームでカシャカシャ、私と会話しながらでもカシャカシャ、 TVを一緒に見ながらカシャカシャ 、そして チロリーンと携帯が鳴り、それで又カシャカシャ、それが終わるとラップトップに戻ってカシャカシャ。きっと友達みんなと逢いたいけれど、 お互いに時間の調整がつかないゆえの連絡事項であろうが、 真に忙しい。 しかし、面白いことは相手の年齢が上になるほどに シャカシャカではなく電話をかけてきて、会話をしている。 何時一過何処で会いましょう。 いとも簡単である。
年齢を重ねるごとに、物事への処理が敏速になるという事かもしれない。 

その昔、唯一のコミュニケーシオンを手紙に頼っていたのと同じに、 電話、携帯、コンピューターの時代が来ても、手紙が、郵便局の配達も、切手もいらない、即配達の手紙と少し姿が変わっただけで 生活様式はなんら変わっていないのかもしれない。