2011年3月24日木曜日

広島とデトロイト

東日本の災害地の無残な姿を見て、 これからの日本はどうしたら良いのだろう。もう二度と昔の姿は戻らないのではないだろうか? と友人が日本に居る彼女のお姉さまへ電話で話した折に、帰って来た彼女のお姉さまの返事が嬉しかった。
「大丈夫、 64年前に、日本は全くこれと同じ状態になったのよ。 それも、もっと広い範囲に広がって。 でも 経済大国に蘇ったでしょう。 日本人は強いのよ。 もっとも、私はもう年をとっていてたいしたことは出来ないけれど、 大丈夫、日本は又復活しますからね。」

素晴らしいではないですか。私はそのお姉さま万歳と叫びたかったです。 私も終戦後の復興の中で育ちました。小学校低学年には焼け野原がまだありました。 でも中学校へ入学する頃には、復興などと云う言葉は消え、 追いつけ、追い越せの社会。 それから、日本人は エコノミック アニマル などと羨望と妬みの言葉を世界から浴びせられた時代が来ました。
最近、「広島とデトロイト」という言葉を言う人が居ます。政治家ではない、政治社会の人たちの使う言葉です。 
原子力爆弾投下された後の広島の街の写真。 それにつづく、焼け野原の風景。
それから64年後の広島の街の復興の写真。 それと対照的に見せる ミシガン州デトロイトの街の風景写真。 戦中、戦後の不況、デフレにあえぎ、 世界第一の自動車産業の街が、貧困と離散、80%の市民の子供へ無料の朝食、昼食を食べさせなければ飢える学校給食。 これが現在のデトロイトです。 
「戦争の勝敗はどちらへ」というものです。  もしも リンクを開けられる方はご覧下さい。
最も悲惨な状態の仙台、福島の方々に、私は何も申し上げる言葉はありません。 私が何もして差し上げられないからです。お祈りしか出来ません。 


http://www.fourwinds10.com/siterun_data/spiritual/pictures/news.php?q=1254861706

2011年3月18日金曜日

手元に届いた 「回覧メール」 

昨晩わたしのメール箱に入った「回覧メール」を読んでください。

この一週間TVにかじりついてゾッとするような日本の惨状を観ているが、 それは今まで自分の知らなかった驚異の世界が展開しているのを実感しました。

災難とそれに伴う大混乱は人間の長所とひそんでいる悪を表に引き出し、必ず来る
暴動、窃盗、強姦、略奪が日本からの報道からは一つも出てこない。

ハリケーン「カタリーナ」の時も ルイジアナでは 略奪による被害者と店舗の破壊、
看護婦への強姦、武器を保持していない市民への警察官の射殺などなどもう慣らされてしまった。

今回のエジプト政権の動きにしてもそうだ。 女性CBSの女性レポーターへの200人を越す男性の暴力。
私達は貪欲、ねたみ、勝敗の為ならすべてを破壊する凶暴な動物であることを思い出させてくれる情景である。

そのようなことに慣れている私の目に、仙台の惨事の報道は非常に対照的な画面が写しだされている。

高齢者の男性が自分達家族の集団から離れ、 通りを越して、自分のプラスチックの袋の中から 食べ物をだして、米国のABCの女性レポーター ダイアン ソーヤーへ分けている。
彼の食べ物はそれだけしかないのに。

食堂の主人が、自分自身の家も破壊され、避難所に居を構えているのに、周りの人たちへ自分の店舗のうどんを無料で提供している。

食料店の主人は、次の出荷がいつか約束されていないのにも関わらず、わずかな在庫を売り出し、 列に並ぶ災害者も、今現在必要なだけの量を購入、その後ろに並ぶ人たちも押し合いをする事なく順番を待っている。

このような情景は、一人一人の地域社会の強い責任感と人間の持つ知的で思いやりが
まだ存在している現われである。

日本の皆様、私たちへ 生きる道を示してくださってありがとうございます。

2011年3月17日木曜日

あらま さんは書きました...



小生は、先日 震度 6の地震があった富士山がある静岡県に住んでいます。
お陰さまで、拙宅では一連の震災の被害から免れてはいますが、被災地は壊滅的で、いまだ救助を受け入れる態勢すら整えることができない状況です。
そんななか、世界各国ら、たくさんの救援物資が送られてきているようです。
しかし、船から陸に物資を揚げようとも、それを受け入れる態勢が出来ていなく、物資はそこで滞っているようです。
また、道路も空港も津波に流されて使えない状況でした。
そうした困った状況に、アメリカ軍が来てくれました。
アメリカ軍の空母は、大型ヘリコプターの基地となり、そこから救援物資が届けられています。
さらに、アメリカ軍は、空港や道路を暫定的に回復してくれて、それが使えるようになりました。
お陰で、一気に物流が回復している様子が伝えられています。
さらに、事故があった原子力発電所では深刻な状況が続いているようですが、アメリカ軍は積極的な支援をしてくれています。
訓練されアメリカ軍の活動のお陰で、たくさんの日本人が助かっています。
さらに、日本の自衛隊が救助活動に集中し、国防に穴が開かないように、アメリカ軍は日本を守ってくれていると伝えられています。
そうしたアメリカの友情には、言葉が見つからないほど感謝しています。
今も深刻な状況が続き、今後もアメリカからの支援を頼らなければならない状況です。
2011年3月17日10:34
削除

じゅんたろう さんは書きました...



二伸:先ほどニュースでニューヨークをはじめ多くのアメリカに方々が、「売り上げの一部とチップを全部寄付します」と云った事や、若い人たちの寄付活動、国際カリタスが教皇様の呼びかけに寄付活動をしている場面が流れました。人々の善意を感じます。皆様有り難う。
それに比べ日本では東京都の石原知事が「これは天罰だ、津波で罪を洗い流せ!」と言ったことに対する轟々たる非難と抗議が渦巻いています。恥ずかしい限りです。

じゅんたろう さんは書きました...



お見舞い有り難うございます。今日16日にいたるまでも小さな揺れが何度も襲ってきます。一日中からだがゆれているようです。震源地はおよ そ太平洋側500キロ十数ヶ所と山梨、静岡の内陸部、そして昨夜中には富士山の頂上近くで震度6と云う地震がありました。今回の最初の地震に触発されて直 接つながっていないプレートをも刺激しているのです。関東地方はほぼ大丈夫ですが、原発事故がどこまで広がるのか注意せねばなりません。千葉あたりまで値 は低いのですが風に乗って放射能が着ているようです。今後この地震がフィリピン・プレート、南海プレートに影響がないように祈ります。あたりのスーパーに はほとんど品物がありません。人々はパニック状態で手当たり次第に品物を買いあさっているのです。知り合いのドラッグ・ストアーの女性は「見ていて其の浅 ましさに気分が悪くなる」と言っていました。災害にあった方たちのことを考えると少しは考えなさいと口をついで出そうになったとのことです。
今日夕方から停電です。このブログへもなかなか発信することが出来ませんでした。
2011年3月16日15:58
削除

2011年3月13日日曜日

お見舞い申し上げます。

朝一番の目ざましラジオが日本の地震の報道を流していた。 飛び起きたのはゆうまでもない。 TVを付け、場所は何処だと目をさらのようにしてテレビを観る。

東京及びその近郊に住む私の親族は無事だろうか? 震源地が仙台と聞いて少し安心する自分が人間として情けなかった。 自分の身内が住む地域が無事なら良いと云う問題ではない。 

日本との電話連絡に忙しくしたが、中々通じない。しかし、結局他所の州に住む姪っ子からの電話で 日本の親族は全員無事との通知は受け取れた。

殆ど疎遠に近いこの国の義弟から電話があった。 日本の私の親族は大丈夫かと気ずかっての電話であった。
とても嬉しかった。 そして、私の身内が大丈夫ですよと云える自分に感謝している。

文明の利器も、研究も、ロケットを何機飛ばしても、国会の予算が何兆億でも、災害から人が守れないのでは 一体なんの為の研究だと云ったら怒られるだろうか。

やっと通じた電話で私が家族の安否を聞いている間にも、  同居人の携帯が鳴っている。この国の知人達がニュースを聴いて、私の日本の身内の安否を聴いてくる。

幾つも来る電話は、彼の交友関係だから 私の知らない人達になる。 共通の友人もいるが、彼個人の知人もいる。
共通している事は私が日本人だと知っているだけだ。

それでも彼らは掛けてくる。奥さんの身内は大丈夫かと?  ありがいと感謝している。

彼がパソコンを開けると バイク仲間の集団が 日本の地震の災害者へのお見舞いを書いていると教えてくれた。

彼らの、そのようなお見舞いは勿論仙台や近郊の災害を受けた人たちへは伝わらないけれど、
やはり世界はまだまだ捨てた物ではないと実感する。 

被災者の皆様には悪夢の出来ごと、私などが想像も出来ないほどに 哀しんでいらっしゃることです。
心からお悔やみ申し上げます。  

2011年3月10日木曜日

今晩のおかず

今晩は夕食を作らなくて良さそうだ。 私は今日自宅に居るので 昼食に美味しいものを食べて、
夕食はサラダかサンドイッチ。 そうです アメリカ人である同居人が一番嫌いな食べ物 「サンドイッチ」にしよう。

彼は 何故かサンドイッチが嫌いで真に迷惑している。 それゆえ子供たちもまずサンドイッチを食べない。
勿論ハンバーガーは彼らの大好物であるが。 あれは サンドイッチに入らないそうだ。分らない。

こちらの言葉でいう[Meal]が良いそうだ。 お皿に何品かが乗っている食事の事。 
肉か魚、野菜とスターチ(パスタ、ポテト、ライス)その三品が最低はそろって「Meal」 となる。

我が家では食事の時は殆どパンを食べない。 パンとは朝の食事のトーストの事になる。それ以外に需要はない。
私に言わせれば、 肉も野菜も二枚のパンの間に挟めばサンドイッチ、同じではないかと思うが、
彼らに言わせると、そうではないらしい。  どんぶりご飯か、おかずとご飯を別々に食べることの違いなのだろう。
そういえば、日本の実家では「なになに丼」のたぐいはまず食べたことがない。あれは外食の時に食べるものと理解していた。
父親が「どんぶり飯」と言って嫌ったから。明治の末の産まれであったからかもしれない。

トンカツ を作っても、私は時々それを、かつ丼にして食べるが、彼は丁寧にお皿にトンカツを置き、
ご飯は横へ置き、なにがしかの野菜と加えてサラダを欲しがり、フォークとナイフで食べる。
手抜きの嫌いな亭主と思って頂きたい。


今朝、私は二つの哀しいメールを受け取った。 哀しいとは、哀しい悲劇が起きたのではない、
私にとっては哀しく感じるという事である。 涙がポロリと出て来たので、自宅でむしゃくしゃしていると、余計な事を考えてますます不愉快になるからと、思いきって家を出て、行きつけの美容院へ出かけた。

そこへ私の携帯が鳴った。 事務所に居る同居人からである。 2-3分の会話の後に、
別にどうでもよいけれど、今自分が美容院に居る事を話した。気持ちが不愉快だから、
美容院で髪の手入れをしてもらって、少し美人になるつもり。と冗談を話したつもりだった。

そして彼がする必要もない返事をした 「Thank you」。

今日の夕食は昨日の残りのトンカツでサンドイッチを作る。 絶対に二枚のパンに挟んだサンドイッチである。
パンを開けてお皿には乗せさせない。 嘗て彼はしたのだ。私が作ったサンドイッチを開けて、お皿の上に並べて食べた。
今日は許さない。二枚のパンをホチキスで止めようか。

私は鮭の塩焼きに味噌汁、漬物としよう。もう一品私の分の残りのトンカツはお皿にのせて、ブルドッグソースをかけて食べよう。

2011年3月2日水曜日

30年分の知識と経験     

年齢を増すことは それだけ人は知識が豊富になること、 と
二人の子供を育てているときに私が何度も説いた言葉だ。 生意気な言葉を発する度に
去年の自分と今の自分を比較してごらん、あの頃の自分はまだ幼かったナ~と感じない?
この一年でどれほど自分が学んだか、成長したか 自分が誇らしく感じるでしょう?
それと同じよ、ママは貴女たちよりも 少なくとも30年は 長く生きているのよ。
その30年間の知識を考えてみてごらん、どんなにママが凄いかって 分かるでしょう?
そんなママに生意気な口は止めなさい!

これで 子供達はたいてい黙った。 黙らせた。しかし、その子供達が今は30代。
最近までは 目上を敬う気持ちからか、それとも 又あのママの説教は聞きたく
ないからか、 私への口答えはしなかった。日本語式のタメ口も両親へは使わなかった。
むしろ敬語での会話が主体だった。(英語に敬語なんてあるのと考えないで欲しい。どこの国
にも、人へ尊敬の念を持っての言葉は存在する)私自身が子供達へ出来うる限りの
丁寧な文章での会話をしていた事も理由の一つかもしれない。 

息子などは 高校生の頃は 耳を覆いたくなるような言葉を家の外では使っていたようだが、
一歩家へ入ると言葉が変わっていた。 これは アメリカ一般家庭どこも
同じだと思う。 親に暴言を吐いたら、明日からの生活に支障がきたすからだ。
目に見えない暗黙の規律。 18歳で自活が出来るまでは 親に生意気な言葉は
使わないほうが良い。 当然なことである。誰に食わせてもらっている?これである。

しかし、昨今は「権利」と「義務」が一人歩きしているから、 親は子を育てる義務がある。
子供は家庭の愛情を受ける「権利」があるらしいが。

私の子供達の言葉使いに変化が出てきた。両親に向かって、得に私に向かって
敬老向けの言葉になった。今までなかった「気ずかい」が表にチラチラと現れている。

娘は私に向かって「ママ大丈夫?」 「歩くときはもっと足を上げないと転ぶから気をつけて」
「週末には外へ出て遊んでいる?」真に大きなお世話である。

息子などは ほとんどコンピューターに関してだが、 もうこの辺の知識は彼の父親も太刀打ちできない。 私が何か質問すると、子供に説明するような言葉使いをする。
「こう言ったら分かるかな~」と例え話を使う。彼らがまだ子供の頃私がしたように。

何時の日からこうなってしまったのだろうか? 喜んで良いのか、己の老いを哀しむのが
良いのか? しかし、 分かっているのだ、 子供達が正しいのが。 

昨日、足の持ち上げ方が少なくて、見事に転んでしまった。 半歩持ち上げて歩道に上がるのに、右足が持ち上がりきれず見事にペチャンコ。左膝を擦りむき、右のつま先は突き指状態。
痛い、真に痛い。 踝から下が晴れ上がっている。ゆえに、車の運転が出来ない。
アクセルが踏めない。

先ほど娘から 「ハーイ、ママ元気?」のコールが入ったが、 こちらは痛い足をさすりながら「元気、元気、はつらつとしています」と応えるしかない。 正直に話した後の説教が怖い。

そして、老体となってくるのは私だけではないと哀しく理解したのは、転んだときだ。
本当に暫くぶりに一緒に通勤した私たちは、事務所の前で車を止め、両側から出てきた私と同居人は、一緒に半歩上がって事務所のドアを開けるはずだが、上がれなかった私が、隣でドシャーと転んでも彼は気が付かなかった。 一歩前へ出て、 後ろを向いて「アレッ」と驚いている。

昔の彼は、絶え間なく横を歩く私を支え、 もしも、もしも 転ぶようなことがあっても、敏速に支えてくれたであろうが、 今は アレッである。全身から若さもスピードも消えてしまった。 「アッ転んだの、 これは大変だ」こちらとしては、ゴチャゴチャ言ってないで助けろ、手を貸せ!と怒鳴りたいが、こちらも痛みで声も出ない。やっとブリーフケースを下に置き、
「ドッコイショ」としゃべれもしない日本語の掛け声をかけて私を助け起こした。 

30年間分も余分に持つ知識と経験の私はやはり子供達にこのブザマな話は出来ない。
昔子供達が悪さを私の目から一生懸命に隠そうとしたように、 これからは私が愚かなことをした時に彼らに知られないように知恵を使わなければ。まあ、その為の余分な30年分の知識をやっと利用出来る時が来たと喜ぶことにする。