2011年4月25日月曜日

いろいろあるね

冬が過ぎ、春が来て、華を愛でている間に仕方なく来る暑い季節への心の準備をしている頃に夏が来る。まあ これが 一般的に言われる四季の変化であるのだが。

このヒューストンには 春が来なかった。私は見なかった。感じなかった、 冬から直接夏がやって来た。もう一週間も 最高気温90度(34度)近辺をさまよっている。許せない。
身も心も準備が出来ていない。
老い先短い私には 夏の暑さは命に関わる。  もっともあまり長生きをする気持ちはないが、
しかし、「それを食べると死ぬ」、といわれればそれを食べない生命への執着は持ち合わせている。
上の方から 生きるだけ生きてみろと言われてこの世に送りこまれたのだから、死ぬまで生きるつもりはある。
しかし、未だ何故この世に送りこまれた私個人への指名が分らない。
ただ生きろと云うわけではないだろう。
暗中模索の間に「枯れ木も山のにぎわい」になりつつあるが。もしかしたら それが私の仕事だったりして?

猫のダンテが死んだ。 まだ方法はあるか? とはかない希望を持って医者へ連れて行ったが、
医者から、「もう楽にして上げましょう」の一言で彼の小さな命は途絶えた。 英語では眠らせると云うが、本当に スーと眠りに入って終わりになった。

あれから一週間、まだ私の心の中から消えていない。夫婦でダンテの話しが出来ない。
アチラさんは泣き虫である。
猫のダンテの指名は終わった。彼の指名は 精一杯私たちから愛されることであった。 

娘の直美が来週ヒューストンへ帰って来る。  金曜日の仕事の後7時の飛行機にのり、
夜中の2時に着く。
帰路は火曜日の朝4時には飛行場へ行く。 休みは月曜日しか取れなかったらしい。
火曜日の朝はサンジェゴの飛行場からそのまま出勤だそうだ。 忙しい事である。
「お父さん、 私はレンタカーを借りますから夜中に飛行場への迎えは要りません。」

大学時代の友人キャレン(  http://kawabukuro2007.blogspot.com/2011/01/blog-post_15.html)
の命の灯がもうじき消える。 「私に何が出来ますか」と訪ねた返事が、「傍に来て私の手を握って」という事だそうだ。如何にもアメリカ的表現である。 

娘のメールには、
「自分は、病気とか人の死に対して過去に余り直面していなかったと思う。それによる後悔があります。
今度は少し自分の気持ちへ素直になって、彼女の重い病とこれから来る死へ私なりに受け止めて見ようと思います。
次の週末は彼女の傍に出来るだけ居てあげるつもりでヒュートンへ帰ります」 そして
「勿論こんな理由の帰宅ですけど、 お父さんお母さんに逢えるのが嬉しいです」と付け足してあった。
そう、私たちはオマケです。

ここで問題が生じた、 そのお父さんは金曜日から日曜日までバイク旅行へ出かける予定がある。 30人の集団で出かける。
モーテルの予約、攣るって走る人も決まり、もう後へは引けない。  そこでお父さんは今イライラしている。 せめてもの自分の役目と 夜中でもかまわず飛行場への往復をするつもりで居るのにそれも却下されてしまった。 自分にすることがないと嘆く。
「どうして来週なの、何故今週ではないの」まるで 餓鬼ジャ。

それに加えて、娘がこれから買うらしいバイクが 「カワサキ 忍者 500」になるらしい。
しかし、父親は クルーザーを進めているのだが。  お尻を持ち上げての走行は自分の体を両腕で支えているので
疲れる、長距離走行には合わないと力説するが、 そこは女の子「見た目」で買い物をすることが理解できないらしい。
気の毒な事である。  勿論私は機会あるごとに 三輪を進めているのだが 笑われる。

さて母親の私は、わずかな時間になるらしいが、娘と一緒に過ごせるのを楽しみに今週は生きよう。
待つ為に生きる。それもいいではないか。 

2011年4月14日木曜日

東日本の余震

ニュースが千葉近辺の余震が6.5度と伝えていた。しかし人の感覚が麻痺するのがこんなに早いとは知らなかった。ほんの少し前は、 震度5度と聞いただけでも恐怖を感じたのに、 震度9度の現実の凄さを見せられた今は、6.5度がさほどと思わない感覚になっている。受ける被害に違いはないはずだが。

その昔、 国会議事堂前地下鉄駅近くの霞ヶ関ビルがまだ建設間もない頃、(もうそんなビルはないのかもしれない)私はあのビルの31階で働いていた。そしてある日震度5度の地震があった。  勿論エレベーターは使用不可。階段へたどりつくのに壁伝いでやっと歩き、 ハイヒールを脱いで階段を31階から降りた経験がある。 

「みんな一緒は怖くない」とお互いが励まし合いながら 長い階段を降りた。やっとロビーへ降りてみたら、 そのビルを建てた建設会社の名前入りの上着を来た社員がなんと一番乗りでロビーへ駆け降りたと聞き、 ロビー中の人たちが 「ウソー」とその一群に白い目を向けた記憶がある。

「今回の東日本での被害は東電の起こした問題である。 地震津波はその引き金を引いただけのこと」と書き込んでいるコラムを読んだ。怒りの持って行きどころがないほどの苦しみは良く分るが、 天災へ怒りは向けられないから 誰かを血祭りにするつもりのように見受けられる。

原子力発電は社会の敵。 「騙された」という書き込みをたくさん見る。 本当に皆は騙されたのかしら。 毎日利用している電気に関して少しも興味がなかったのかしら。

実を言うと、我が家の同居人も40年前にあの福島一号、二号の組み立てに参加している。その後に同じ日本国内の違う現場では仕事中に被爆している。 両肺がすっかり放射能汚染されていたそうである。検査した医者は、 360年もすれば肺の中のものは消えるでしょうと云ったそうだ。

人間の作り出す物に完全は無い。最大の努力はするが、完全はない。 同居人に言わせればこのような仕事をしていれば、 いつかは 放射能が体に入る可能性があるのは仕事の現場に居ればその程度の知識はある。 嫌なら止めれば良い事。 しかし、彼の場合いは5年後の検査で、肺の中の放射能汚染はすっかり跡形なく消えている。

原子力発電に関しては、殆どの人は、騙されたのではない、 最初から興味も無かった問題であったはずだし、 毎日電気を使用してその恩恵だけは十二分に受けていたはずなのに、 「騙された」「今回実情を知って驚いた」政府が悪い、東電が悪いと書き込みはつづく。 それでは、 これからの日本といわず世界の発電はどのような形式を「騙された」と思う人たちは提案するのか知りたい。

人が、社会が、前進する時に、その前方を阻止するならば、 それでは どの方向へ進めば得策か道を示す義務がある。 「何でも反対、違うやり方があるでしょう?」という無責任な論法はこの際止めたほうが良い。ただイヤイヤだけなら、うちの猫も出来る。 鮭がいやだから 他の魚を出せと、ではヒラメを出せとは猫は言わない。 皆がこれから、原発ナシの電気の供給を真剣に考えなければならない時が来ているのだから。

水力発電にして、狭い日本の土地を買占め、 畑や牧場、人家を水の底へ沈める方法が良いのか、
火力発電にするとしても、石炭や重油問題をどうするのか教えてもらいたい。 世界がどれほど重油問題で騒いでいるか、重油争奪戦では 若い兵士も民間人も殺し合っているのだ。
アメリカの現政府は国内の石油は掘らないというスローガンのもとに誰かさんは大統領になっているはずだ。 

まだある。 風力発電がある。 
アメリカでは、風力発電を提案する資産家がロビーイストを大量にワシントンへ送り出し、
風力発電へ政府の方針を向けさせようと努力している資産家が居る。 今この会社の株を買うと良いらしい。 少しの間は値上げをするかもしれない。
しかし、あれも土地が必要だ。 広大な土地が必要なはずだ。そして、 広大な土地に並ぶプロペラの周辺はその騒音で人家は建てられないと聴く。  また その風圧で空飛ぶ鳥が吸い寄せられてプロペラ飛び込み自殺が相次いでいるとか。  愛鳥家や自然保護団体が目を向いて反対すれかもしれない。

私の住むヒューストン南部では、 毎年ハリケーンが来るたびに停電になる。  地理的理由から、私の受けた最長停電生活は15日間だった。日本式に言えば「ありえない生活」 それも真夏の暑さの中で。 今でこそ、ジェネレータがあるが、 そうなると、それを稼動させる石油確保の苦難は必然的に電気の有り難さを教えてくれる。  

東電原発は、地震対策として、震度7.6度を想定していたそうだ。津波対策は 5メートル。しかし、 今回は震度9度、津波は10メートルを出た。 
私は、それなら、想定は、12度、 20メートルにしておけばよかったのよと云う権利はない。
そんな事、誰も予測しなかったことであるだろう。 予測していたのなら、 そう言い出せばよかったのだ。

私は対岸の火事を見物しながら、 火消し組の働きへの悪口を言いたくない。 少なくとも、遠く日本の国を離れている日本人が今災害に困難な生活を強いられている人たちへ、原発が悪い、放射能が悪い、政治が悪い、東電が悪いと書き込むことが被災者への親切にはつながらないと思う。

今回起きたことで、天災の恐ろしさ、人間の出来る事は本当はとても小さい事なのだと、そして この世には完全はないという事をもう一度自覚させられたと思っている、   

2011年4月13日水曜日

猫の余生が短いです

痩せこけて、骨と皮になり、 食欲も無く、一人しょんぼりとしている。我が家の猫ダンテは今
腎臓の薬、 食欲促進の薬、胃もたれの薬、尿管炎症の薬と毎日医者の指示に合わせて飲んでいる。
嘔吐と食欲不振でぐったりしてしまった猫が 投薬三日ほどは食欲が出てきたが、それきり、 今では 市販の猫の餌は受け付けない。 医者からの特別食だけを少し受け付けたが、 それももうイヤイヤをする。 仕方がないから、 人間様用の白身の魚を少し暖めて与える。   すずめの涙のごとくチョッピリ食べるだけ。

それでも 三日目は同じ魚を出すと顔を横へ向ける。仕方がないから別の魚を暖める。
こんなに我がままで傲慢な猫は蹴飛ばしてやろうかと頭をよぎるが、いけない いけない、猫の介護も出来なくて、いずれくるかもしれない介護をどうする気だと心を入れ替えて、
ハイどうぞ と猫様のお茶碗へ小さじ一杯入れる。

この家に住み始めてから、外出を許されないまま、猫の生涯が終わるのかと少し哀れに思い、 裏庭を囲む塀全体の穴埋めをして、 お隣さんからの犬の侵入を一切出来ないようにしてから 私はダンテを外へ出してみた。それが三週間前。 
最初はソロリ、ソロリ と へっぴり腰で歩き、 木を見上げ、 芝生の匂いを嗅ぎ、 茂みの中へもぐり込み、そっと座って、葉の隙間から飛んでくるすずめや、近所から忍んで来る近所の猫を見ていたが、 最近は一匹の猫とお友達になったようだ。

初めてのお遊びの日、 言葉を交わすでもなく、二匹でジッと見つめ合っている。無言の会話の後、その猫は身軽に塀の上に飛びあがり、姿を消していった。
それを見てたまげた我が家の猫は家の中へ走りこんできた。
あんなこと出来るんだ~ スゴーイ、そして少し興奮している。


今では、 砂箱への用事、水飲み、食事以外は外で過ごすようになった。勿論それは私が家に居るときと、 帰宅後、週末だけであるが。 
ただジッと茂みの中に座っているだけ。何をするでもない。 屋内だと、寝そべっているのに、外では寝そべることもしないのに、 あんなに一日中寝ていた猫が、昼寝もせずに庭の木陰でジッと座っている。 まるで 十数年の損失を今取り返しているように ただただ外に居たがる。

先日はついにキャンプ アウトをした。 夜の10時に、 「ダンテもう寝ましょう」と呼ぶと、仕方が無いという仕草でモソモソと茂みから出てくるが、 先日はガンとして拒否した。 私が呼んでも、 同居人が迎えに行っても、ギャーと叫んで拒否の姿勢。 
結局我が家の猫は始めての朝帰り。 まあ 男一生、一度の外泊ぐらいは許されるだろう。

体重15ポンドだったダンテが 腸の閉鎖手術後 すっかり痩せてしまったのに、あれから九ヶ月一度も体重が増えることなく、 今では三週間前病院で計ったときは 8ポンド、今は見事に皮と骨。 歩くのも難儀らしくヨタヨタしている。それでも何かに浸かれたようにヨタヨタと裏庭へ出て行く。 

一日二匙の魚と水だけで、病気の猫はどれだけ持つのだろうか。 毎週医者へ行き血液検査、アイビー治療という手もある。事実猫病院はそれを要求している。 そして薬の量を増やすか、違う薬に変えるか。俗に言う延命処置である。 私はそれを止めた。 毎週ではなく、 注射の繰り返しと、極度に怖がる自動車でのお出かけと医院での治療。 それがむしろストレスになるのが懸念されるし、 それに大きい声では言えないが、
毎回の治療費250ドルは痛い。治療費云々を言うところが 人間とペットの置かれた位置の違いであるが、 やはり痛い。 これが私の気持ちであるが、 同居人はそうではないようだ。
医者のところへ連れて行けば、ダンテの腎臓が治り、 食欲が増え、またもとのように肥満系の猫に生まれ変わってくれるのではないか?と願っているようだが。

今まで二度治療を受けたが、そのつど二日三日は上向き状態になっても、又もとの状態、今朝も同居人はダンテを医者へ連れて行こうとしていたが、私は一日考えさせて欲しいと頼んだ。

二日ほど前から 嘔吐、下痢が始まった。猫好きの友人が、 ダンテがそんなに外に居ることを好むなら、 いっそ砂箱と水を外へ置いてあげれば、 歩いて部屋へ入ってくる必要が無いから猫には楽ではないの? と提案。 日なが 一日、外の空気を吸い、 木漏れ日を受けてウツラ ウツラしながら余生を終わらせてあげようと決めた。 
多分私の出した結論は 超愛猫家からみれば、許せない行為だろう、しかし、 九ヶ月前にした手術以来本当は快復していなかったのだと思う。 



我が家のダンテのお話の過去帖 はこちら 

腎不全 http://kawabukuro2007.blogspot.com/2010/07/blog-post_28.html 
捨てられた猫 1 http://kawabukuro2007.blogspot.com/2010/05/blog-post.html
捨てられた猫 2 http://kawabukuro2007.blogspot.com/2010/05/blog-post_05.html

2011年4月8日金曜日

難関関所

私の読む小説本からの知識によると、お侍の時代に女性が旅をする時、関所で受ける検査は、 出女、入り女を規制する為、 手形持参でも、 女性に関しては、時には 別部屋へ入れられて、とんでもない身体検査まで受けたそうだが、現在飛行機を利用しての旅は、 
400年以上も前の日本の関所制度をいつの間にか世界中が利用している事になる。 考えると面白い。

それと同じに、 電話及びパソコンなどで、銀行の自分の口座などの情報を得ようとすることは出女(でおんな)のお咎めのごとく、この関所通過は至難の業と覚悟している。

姓名、生年月日、 自宅住所、 電話番号、社会保障番号(SSC)はたまた
母親の結婚前の名前、 飼っているペットの名前、時には、初めてのペットの名前、 結婚式の保証人の名前、好きなレストランの名前、質問は延々と続く。
これらの応えは最初に登録するときに記録として入力してあるわけだが、 
10年も保持している口座などで、 時たま、必要が生じて電話をしなければならないとか、 パソコンで自分の口座の残高を調べるときなど 実に面倒くさい。

普通はID と パスワードで 明けてくれるが、時々いろいろと聞かれるときがある。お若い方は、人生の歴史が浅いから、記憶はすぐそこにあるだろうが、高齢社会に属するこちらは困る。

普通はメモを横へ置いてパソコンに入るなり、電話をするのだか、 わが同居人はそうしない。
いつも突発的に始める、そして 「ヘールプ!」 と怒鳴る
結婚時の保証人って誰だっけ?
どのペットの名前を登録してあるの?
お袋の結婚前の名前覚えている?  トロビス~    アッそうだった  トロビスです
エッ違うの~ 
アッごめん、私の母親の名前だった。  エート ナンだっけ、ちょっと待って、
もういいって、その代わり結婚時の保障人の名まえ?    エーと エーと スガワラです
エッ、スペルリング? エート    カプーン
あっ切れちゃった。
そしてカッカと怒る。 
自分の預金であっても一度銀行へ預けたら、銀行の物。 右向いても左向いてもサービス料を口座から好きなだけ抜き取る権限を持っているお偉いさんなのだとどうしても理解できないらしい。 

四コマ漫画ではないが、私が頭に来るのは、いろいろと質問をした電話の相手へ、 失礼ですが、 貴女のお名前は? と聞くと、 「規則で名まえは言わないことになっています」と来ることだ。

私は日本の銀行にまだ口座を持っている。 残金は~真に零に近い金額であるが~私の口座には違いない。 もうだいぶ前に明けた口座であるが、 その頃はまだ母が存命中、住所や電話番号はそこを利用したはずである。 何故なら住所がそこであったのだから。   しかし、もう母の家はない。 兄弟姉妹皆自分の住居がある。  

口座は一応、海外からの使用頻度を考えて、こちらからも利用できる制度にしてある。
利用するときは、 契約番号、暗礁番号、確認番号、口座番号、こちらの口座番号といろいろとボタンを押さなければ利用できない。  
そして最近、それを押した。しかし、押す番号が多すぎる、 間違っては直し、又打ち間違っては打つを繰り返すうちに、機械の声ではなく、人間が電話口に出てきた。失礼、行員が電話口に出た。そして訊かれた。
「ご契約時に登録した電話番号をお願いします」。  さあ 困った。 どこの番号を登録したのか覚えていない。 慌てた私は自分の自宅の番号を言った。 「違います」次に、母の生存中の実家の電話番号。「違います」  それではと 姉の住いの番号 「違います」
「真に申し訳ありませんが、お客様はこの口座を利用できません」
契約番号も、暗礁番号も、口座番号も、確認番号も、こちらの口座の番号もすべて間違ってはいないが、
「登録時の電話番号に間違いがございます、申し訳ありません、 御利用は出来ません」
勿論、電話は「カプーン」と冷たい音を立てた。ソンナ~ 
正直未だにどの番号を登録したか覚えていない。もしかしたら 携帯の番号かもしれない。
しかし、 銀行口座を明けて、そのときの申し込み用紙をいつまでも保存して置く人はいったいどれほど居るのだろうか。

真に零に近い残高の口座である、 そのままにしてもどうでも良いことだが、 
やはり関所は「出女」への通過は厳しかった。

90歳だった母が、現金が必要になると、一人でフラフラと歩きながら、銀行へ出かけることがあったそうだ。  老人が実印を手にしての一人歩きは危ないから、 銀行の用紙に先に金額を書き、印を押し、印は自宅に置くようにと姉に注意されているので持参せずであった。

やっとたどりついた銀行、 カウンターへ用紙を提出。 しかし、母はお小遣いを手に出来なかった。  書いた数字のインクが薄いと言われた。 それでは、上をなぞろうとしたら、それは困ります。 別の用紙に新しく書き込んで下さい。しかし実印は持参していない。
仕方なく、母は退散、 自宅へ戻り又やり直し、今度こそはとしっかりと力強く数字も名まえも書き込み、印を押して、もう一度銀行へ。 母はその日は 自分の口座から預金は下ろせなかった。 今度は 実印の朱が薄かったそうである。