2011年6月22日水曜日

皆様 お世話になりました。 

2007年6月20日私の誕生日より始めましたブログも、2011年6月20日現在で
四年の歳月が経ちました。長いようで短い歳月でございました。 

最初は大人になった私の二人の子供の成長過程をアルバムのように、想い出しながら、アメリカの子供の成長期間のいろいろな出来事を書いていくのも面白いのではないだろうか、そんな気持ちから書き始めました。

書くことで、私自身が日本語に接していくことの楽しみ、 もう忘れてしまいそうになるいろいろな言葉、書いて、読んで 可笑しな日本語に呆れて、 こんな事言わないけどな~ と嘆いての四年間でした。 

とても楽しい四年間でございましたが これで このブログを閉じさせて頂きます。

私のブログを読んで下さった方、 コメントを下さった方、 真にありがとうございました。
お読みになっていらっしゃる方々の中には、 まったく どんな気持ちでこんな下らないことを書くのだろうと驚いていらっしゃったこともおありでしょう。ですが、 この四年間のいろいろなことが私でございました。 

皆様のご健康をお祈りしております。


革袋の一滴

2011年6月17日金曜日

干物の独り言

昨日今日とまだまだ気温はうなぎ登り。  同じうなぎというなら、うなぎの蒲焼でも食べないと体力が持たないかもしれない。  ハイ、こちらは勿論冷凍です。 情けないですね。
でも凍解してからもう一度焼けば食べられるのです。  むしろ、有名店の冷凍うなぎより、カリフォルニアかアトランタあたりローカルで焼いた代物のほうが、
うなぎ其の物が肥えていて美味しいです。


先日我が家に来た客人が「これは地球温暖化の結果だ」と言う。 正直私は頭に来た。

確かにこの州は暑い、しかし、人間が地球を温暖化させたとは違うと思う。太陽から暑さは来る、地球から暑さを吹き上げるのではない。

人間がどれだけのことが出来るというのだろう。出来ることは戦争を起こすこと、シャトルを他所の星へ送ること、車の中で携帯へ外国からの電話を受けることも出来る、各自が手に持つ携帯でメールも送れる、買い物も出来る、  生活を楽にすることのもろもろのテクノロジーの開発、医療機関の開発、命の延命も治癒も大方出来る。

私達が生まれた頃には考えもしなかったことが今は可能になってきた。 しかし、どれ一つみても、これから来るハリケーンを縮小させるとか、方向を変えるとか、 地震の予知は出来ても、それを海のど真ん中へ移動させることも、 竜巻を予防することも、干ばつも大量の雨もどれにしても、私達の生活や命を助ける為の改良が出来ない。

氷山の一角が溶けるというけど、聳え立つ山々ではないのだから、いつかは溶けてまた氷山が出来てと新陳代謝があるのではないだろうか。 出来た氷が一万年も同じ氷山であるわけがない。 日本の地震も津波もアメリカの地球温暖化が起こした結果でもないし、歴史は繰り返すで、今や地球は氷河時代へと歩んでいるとも訊く。 それがわかっているなら、地球温暖化が出来たのだから、氷河時代も避けられるようにしてもらいたい。

アメリカの竜巻や川が溢れるのも日本の温暖化が起こした賜物でもない。東南アジアやヨーロッパの地震も人間が変えることは出来なかった。出来るのは予知することと災難の後始末だけ。

考えてみたら、宇宙とか地球とかを考え御託をのべても、天からの災難の前にはなんと人間の力は小さいことだろう。
本当に人間は地球を温暖化させるほどの威力を持っているのかしら。 

暑い中で観葉植物のように室内にいると、 頭がオカシクなります。 今日は瞬間的に40度を越えるかもしれません。 本当に冷房病にかかるかもしれない。 

2011年6月15日水曜日

渇いています

テキサス州の今日の気温は39度。 もう数週間この気温がつづいているけど、 雨は二月以来降っていない。芝生は枯れるし、花は咲かない。 緑鮮やかに伸びているのは雑草だけ。 いったいどこからあの水分を得られるのか、こちらが教えてもらいたい。

どの家でもスプリンクラーを酷使して芝生への水撒きに余念がないけれど、 二時間や三時間の水撒きでは到底間に合う筈もなく、 建物の土台が亀裂してしまう。この地方の土はクレーと言われる粘土体質ゆえ、 水分を含んでいるけど、乾燥すると家屋と土とが離れて、家が沈み、 平らに沈んでくれればありがたいが、 レベルが平均でなくなると、土台のコンクリートが割れる。
家全体を持ち上げて平らにしてもらう工事の費用は考えたくもない。 それだけに水撒きは必死である。


我が家でも、ドライブウェーのコンクリートの亀裂がはじまり、 レンガ作りの家と土との間隔に隙間が見える。家の周りにシャワーの蛇口のように穴の開いたホースを巻き、 少量の水をジワジワと何時間も土台にしみこますなんとも原始的なことをしている。 
水道代は何時もの三倍、それでも、 最悪は工事?と考えると近所中が水道代150ドル200ドルと支払うした道はない。
芝生への水撒きの時間規制とか曜日規制が出ませんようにと胸に手を当てて願っている。
他州では川が溢れて浸水、竜巻が家屋を破壊、母親が抱いていた子供を竜巻が引きちぎっていったとか、
車の中の父と子が、屋根の上の窓を竜巻が破壊して、 父親がしっかりと足を抱えていたのに、高校生の息子を吸い上げて言った。 
もう考えられないような事件が起きている。

そして、又他所の州では山火事が始まった。どうして哀しいことばかり起きるのだろう。少しは楽しいニュースも聞きたい。 

2011年6月14日火曜日

シシーのその後  2

シシー自身も最近はいろいろと考えるらしい。 てんかんもちで、一人では暮らすこともできず、人生の終わりを告げる年齢の60代になり、仕事も辞めた自分に、 若い男性の臓器をもらい、 ゆっくりとだが元気になってくる自分が少し怖い。 神様は私に何を要求しているのか今は本当に知りたいという。 他の若い人がもらえば良い若い臓器を60代の私がもらってしまった。これから何かをして世の中へ感謝しなければ、この肺が無駄になってしまう、とあせるという。

何かをしなければ、 家に居るだけの自分に何が出来るかと、 編み物をしてみた、裁縫をしてみた、ビーズ編みをしてみた、どれも今までの人生で縁の無いものばかり、  そうかもしれない。 彼女の気持ちになれば 重荷かなーと少し理解出来る。

私に何が出来る?と訊かれたが、 私の答えは、 裁縫や編み物では無い事は確だねと答えるしかない。そこで 二人で考えてみようという事になった。

体力的には やはり普通の健康体ではない。
車の運転が出来ない、 
いまでも、癲癇の発作はおこると言う。
ジョンは否定しているが。 癲癇の発作は、本人にはあまり自覚がないらしい。
何時も発作が起きた時は、本人は気が付いたら寝かされていたとうのだから、 どの程度の発作か本人は知らないはず。  
以前も止めればいいのに、車の運転を何度か試みて、運転手中の緊張からか発作が出て事故を起こしている。    ありがたい事に、本人が大木へぶつけたり、誰も居ないお店へ車ごとぶち込んだりであったが、 両方とも本人はすべてが終わってから知らされる。しかし彼女は 先週は三回も発作が起きたと主張する。
シシーは詩を書く。相当に宗教色が強い詩を書く。
文体も良い。そうであろう 教育者なのだ。

書いた詩をブログ作成して発表する。しかし、それは毎日の生活ではない。
イラクなど前線にいる兵士へ手紙を送る。慰問的な手紙では限りがあり、 相手を見つけるのが難しい。

自分の臓器移植の体験を書いてみたらどうだろう。 これから移植手術を受ける患者、 
臓器提供者を待っている病人、 手術前後の不安を抱えているひと。 いろいろな人たちがシシーの経験談を知りたいはずだ。

現在のところは 私たち二人の頭は此処までで止まっている。 しかし、シシーには交友関係が広い。 教育者仲間、 ジョンの顧客、メソジスト教会の信者仲間と沢山いる。 その人たちが別なことを提案してくれるかもしれない。

2011年6月11日土曜日

シシーのその後

シシーもすっかり回復して、二週間ほど前は、 ジョンの高校時代のクラス会が豪華船クルーズ一週間というのに、 彼女も同行してきた。 介護側のジョンにしてみれば、これは絶対にダメだと諦めていたが、彼女が提案して一緒したというわけ。 大衆の中へは行かれない。作り置きの食品は食べられないはずだったが、 本人が行くと決めたのだから大丈夫なのだろう。

結果的には それが良かった。帰ってきたシシーはすっかりと病人から抜け切れていた。 もう普通の人の仲間入りが出来る。 

臓器移植を受けた患者はその後の性格が変わるのだろうか? 先日私がシシーにそれを訊いて見た。自覚は余り感じられないが、 ジョンから 少し変化があると指摘されたそうである。会う機会の少ない私でさえ、 彼女の変化を感じる。

臓器の提供者は35歳の男性だったと知らされている。 無論それ以外のことは極秘に入るのだろうが、 シシーはいつかその人の家族を見つけたいと話している。 まあ、それは 今現在のセンチメンタルな気持ちからともと考えるが。 果たしてそれが良いのかどうか。 あまりバンドラの箱は開けないほうが良い気がするが、それは部外者の考えになる。

元来シシーは人の集まりの中で話しをするタイプではない。しかし、会話はしっかりと聞いている、それも人が座っている外側に何時も位置する。 キッチンでお茶を入れながら、 隣の部屋で仕事をしながら、 聞こえていないのか?とおもうと どうしてどうしてしっかりと訊いている。
そして、 皆の後ろから、会話へ加わるタイプであった。 それが今は最初から皆と同じところに座り良く話す。

夫のジョンから文句が出ている、彼女は自分をコントロールすると。多分後ろから話すのではなく、顔を見て会話をする妻さんからプレッシャーを感じるのかもしれない。
後方からの遠隔操作のコントロールを受けていたジョンは、 突然、リモートなしでの意思表示に驚いているのかもしれない。 

夫のジョンは税法の弁護士であり、公認会計士(CPA)でもある。目から鼻に抜けるように頭が良い。 そして、饒舌である。 彼が話し始めると誰もが黙る。 もっとも口を挟む余地がないほどに会話が面白く巧みである。 決して人を退屈にさせない淀みのない会話、わたしはジョンの話しを訊くのがすきだ、 しかし、 そこをシシーに絶えず中断されてジョンはイライラしているのかもしれない。

肺全体をしめる大きな臓器である。それも両肺とは、胸の殆どの部分が入れ替わったことになる。 提供者が若い男性ならもうじき胸毛が生えるかしらね? と二人は大笑いをしたが、 やはり女とは面白い動物で、 気になる。

2011年6月9日木曜日

天ぷら 

巨人、大鵬、卵焼きという言葉があった。 大鵬はどうでもよかった。彼は強すぎた。 それよりも、男らしい柏戸関が好みだった。 巨人もどうでもよかった。何故なら野球は好みではないから。野球場でホットドッグばかり食べるタイプである。
さしずめ私だったら、 寿司に天ぷら、秋刀魚の塩焼きと云ったところかな。天ぷらは精進揚げ。 安上がりの人間かもしれない。 食べて美味しければ良い。
ケーキは此処の店。 などという趣味はない。  ピーマン、茄子、人参と牛蒡のかき揚げ、茗荷、レンコン、そして海老の天ぷらがあったらもう私は幸せ。ビールは冷蔵庫から出せ、お酒はアツカンが良いとなる。


先日テレビの料理番組で、中国系のシェフが出ていた。
彼はアメリカでは成功者の内に入り、 料理番組を持ち、 料理本も出版、それも何冊も、ついでにレストンも幾つか持っているらしい。 彼の料理は殆どアメリカ風和食となる。日本料理でもない、中国料理とも違う。 ごっちゃ混ぜのシェフのオリジナルとなるのだろう。しかし、日本食への知識は大きい。 
そのシェフが先日、料理の中の一品として「天ぷら」を作った。実に手早く、ジャンボ海老にニラを巻いての天ぷらであった。 昨今のテレビ料理人はあまりオーソドックスな料理は作らない。 何処かで何か変化をつけた料理をする。 歌手が有名な曲に変なイントネーシオンをつけて唄うのと同じかもしれない。
彼らにしてみれば、 私の編曲ですと主張するのだろうが、良いと思ったことはない。 これで全く困るのが、こちらの黒人歌手である。ウ~ ウ~ア~ア~ と上げたり下げたりといつまでも唸っている。 先へ行け!と云いたい。 
兎に角 天ぷらにもどろう。 あれだけ大きな海老を油で揚げたいのなら、素直に天ぷらにするか、 パン粉を使ってフライにすれば良い。ニラの味がする海老天なんて有難くもない。 私だったら、 軽く荒塩を振って串に刺し網焼きで食べる。美味しいよ。

そのシェフは 市販の天ぷら粉を使い、それをソーダー水で溶いた。粉へソーダー水を加えたとたんジュワーとあぶくだらけになる。 それに具を絡めて揚げると、あぶくがカラカラの衣になるという仕組みなのだろう。  画面で見る限り、カリカリの天ぷらが出来あがった。 
ナルホド、 これだ。  これがカリカリにするコツかいなと納得した。そして影響されやすい私は早速クラブソーダーを買い込み、 試みた。  何事も試してみなければ分りません。
良いか悪いかは私が試して結論を出します!

結果は惨敗であった。 べちゃべちゃの天ぷらが出来あがった。 あぶくの中全体に油が入り込み、 それが出てこない。 少しもカラッとしない。 次に揚げたモノを紙の上にのせると、 今まで見たこともないほどに下敷きの紙が油だらけ。どれだけ油吸っているの?と訊きたい。

もしかしたら、油の温度が低すぎたのか。 でも 高温にしたけどね。 油の量が少なすぎたのか、 そんな事はないと思う。 鍋の中へ沢山具を入れ過ぎたのか? これがそうではないと余り自身を持って言えない、なにせあの晩は急いでいたから。 プロのシェフがするとカラッと揚がるのに、何故私がするとベチャとなる。

私も同居人も余り若くない。実は年寄りであるから、脂っこいものは胃にもたれる。その晩は二人共二つ三つの天ぷらで食事を終わり、胃の薬を飲んだ。

結論は、 もう二度とソーダー水は使わない。 それとも もう年なんだから天ぷらなど食べるなと暗示が出ているのだろうか。

2011年6月7日火曜日

石狩平野

船山馨の 「石狩平野」]を読み終わった。
若い時は読書にスピードがあった。アレッという間に一冊の本を読んでしまって、あーもったいないと残念だったものだが。今は悪戦苦闘である。

友人が届けてくれた角川文庫本、もう古くて茶色に変色してしまった、字の細かい本。
これは辛いと紀伊国屋ホームページを開けて、改正版の少し字のサイズの大きいのはないかと探してみたが、見つけはしたが、改正版とは書いてない。確かに改正版とわからなければ買えない。
最新印刷の年でも知ることが出来ればよいのだが。 兎に角改正版は諦めた。

明かりの真下で、老眼鏡をかけて、上中下の三冊の本、 時は明治の14年北海道(札幌)開拓からはじまり、 大正、関東大震災 そして昭和とつづき、世界大戦へと突入、終戦で物語は終わる。 その間にこれでもか、これでもか と沢山の人たちが死んでいく。

前こごみになって、 読んでいたら、 背骨から肩甲骨へかけて凝ってしまい、
カイロプラクテスへ二度も出かけて、 骨をポキン ポキン としてもらうという愚かなことになっている。 

私は人間が甘いから、本を読むと、 よほどでない限り、その作者の書いていることを信じる。 それも私の余り知識のない範囲の事だと 結構素直に信じる。

この作家は軍国主義と軍事統制政治、独裁、疑獄そして、一握りの人間による他国への侵略の恐ろしさを見せてくれる。現代のように、PCだ、報道だ、オン ラインだと情報網のなかった国民の、何もしらされていない恐ろしさ。 知っていた処で 民主主義ではなかった日本の国民に何が出来ただろう。

昔、私の父が話していた。 兵隊に国を任せてはいけない。 彼らは戦争意外出来る事がないのだから。 鍬ももてない、物も作れない。出来る事は戦争だけだ。この本を読む限り納得出来る。
日本の戦争物を読むと必ずでてくる、制裁という名の暴力。そして不思議なのは、温厚と親切が一杯詰まっている日本人の精神が、同じ日本人である戦中の軍人があれほどに冷血で野蛮な人間になりえるのだろう。
嘗てアメリカの世界大戦のドキュメンタリテレビ番組の中に、捕虜の日本兵のコラムがあった。戦地でその捕虜の見はりをしたという元兵士が語っている。
「とても不思議だったのは、 我々アメリカ兵はもしも捕虜になったときの訓練を受けている。その一 どんな屈強でも脱走をする努力を怠らない。
その二 捕虜同士の助け合い。 

しかし、日本兵の捕虜は、その中でも上下があるのは理解するが、 助け合って、体力を消耗しないようにするはずが、 上が下を暇さえあれば殴っている。 ただただ殴っている。捕虜になった以上、兵士を殴っても何の得策もないのに。 あれを毎晩みせられて、日本人への恐ろしさを感じた。」
そんなことを語っていた。
最もこのアメリカでも、 「弾は後ろからも来る」という言葉があるから、やはり戦争は人を変えるという事かもしれない。

しかし、 首も肩もこったけれど、 久々にのめり込んだ本だった。 良い本に巡り合うということは嬉しい事だ。 そして、これを書いている時に、ドアベルが鳴り、 郵便配達のお兄さんが 山本一力、佐伯泰英などなどの本を11冊入っている小包みを届けてくれた。   東京のお兄さんありがとう。
今日は私は幸せです。

2011年6月5日日曜日

すき焼き 2

それはまだ鍋物が美味しい季節の頃だった、夫ジョンから電話があった。 シシーがすき焼き食べられるようになりました。 今度の金曜日はどうですか?

すき焼き肉、白たき、豆腐、春菊、葱、醤油にお砂糖。小皿に梅干とラッキョと漬物。きゅうりの酢の物。ガスコンロをテーブルに置き、準備は終わり。
そしてシシーとジョンが訪ねてきた。  

鼻には酸素管を差し込み、大型マスクで顔を覆い、酸素ボンベを片手にぶら下げてドアの前に立っているのを見たときは少々度肝を抜かれた。

四人でテーブルにすわり、彼女がマスクをはずした。右の頬全体に大きな傷跡がまだ真っ赤に炎症を起こしている。入院中体内へ通す管の一つを、
頬に穴を開けて通したのだ。喉を切って管を通すのは見たことがあるが、 顔にまで穴を開けるとは知らなかった。 
テーブルの前に座ったシシーはこれぞすき焼きへの執念に燃えている姿である。

其の晩は病人を配慮して、呑兵衛君の同居人もアルコール抜き、それに伴う前菜もなし。彼女はまだ食が細いという事から直ぐにすき焼きを始めたが、 
そのときにまずガスコンロへ点火することに問題が出た。 酸素ボンベの横にガスコンロはまずい、 それではどうする。 彼女が席をあちらへこちらへと移ったが、
結局四人がテーブルの前に座り、コンロを囲むとすれば、 ボンベも一緒に並ばなければならない。 大騒ぎの末、 ボンベ君はテーブルの下へ押し込まれた。

そして、 お鍋が熱くなったところで、お肉、砂糖、醤油と加え、同居人が日本酒をドバッと鍋へ加えた。 「其れ何?」 同居人「お酒」
シシー「嫌だ、アルコールでしょう?」同居人「すき焼きにお酒は避けられません」

二人の間でひと悶着の後、 今回はしっかりとアルコール分を蒸発させてから彼女は食べる、追加の味付けへのお酒は入れないと決定。
そして、サー 食べましょう、 各々が生卵を小丼に割っているときに、 「私生ものはまったく禁止されているの」アッソ~ それなら、卵なしでどうぞ。 
亭主のジョン君が名残惜しそうに生卵の器をそーっと横へ押した。 夫唱婦随万歳、間違えました 婦唱夫髄万歳。
ジョン君先は長いよ、がんばれや。

四人が満腹感で至福の時を味わった後。 残りの肉、野菜をすべてぶち込み、つくり直し、容器へ入れ、炊飯器に残ったご飯も別容器へ、 
そのお持ち帰りのすき焼きは、その後三回に分けて、シシーの夕食となった。

2011年6月4日土曜日

すき焼き 1

25年来の友人の奥さんシシーが昨年末に両肺の移植手術を受けた。彼女は学生の頃に自動車事故を起こしそれ以来のてんかんもちでもある。
その彼女が両肺移植によって其れにも増した薬漬けの生活となった。 一時期はバブル人間のような無菌状態の生活を強いられていたが。今現在も生活上の禁止事項は多い。  

一人で居ることも事も禁じられている。 必ず誰かが傍に居ないと、 てんかんの発作か肺の機能低下による極度の衰弱の恐れがある。
ひとことで内臓移植というが、 移植後の生活があれほど大変なものとは知らなかった。 まさに生きる為の努力だけが毎日の生活である。

彼女の一人息子はもう独立している。ゆえに旦那(ジョン)とペアで離れることはない。
同じ介護でも、彼女がジョンの仕事場へも同行できるだけ幸運なのかもしれない。

彼女は以前から車の運転が禁止されている。てんかんの発作が何時出るか分からないからである。 もちろん薬をしっかりと飲んでいれば、その心配はないのだか、
その大切な薬の量をもてあそぶ悪癖が彼女にはある。 薬の量を違えることで彼女の気分や体力に変化が起きることによる回りの人たちの扱いの変化を楽しむ傾向がある。
かまって頂戴症候群とでも言うのだろう。

そんな事を言うのは多分私だけかもしれないが、 その被害を受けている側にしてみれば、
「アンタのしている事こちらは知っているヨ」
と言ってやりたいことがなんどもあった。しかし、 病気の人への理解をしてあげなければいけない。分かっている。
シシーと居るとこちらの忍耐と精神の訓練になると気持ちの整理をしている。
しかし、シシーは大学院の修士課程、特殊児童の教育者でもある。今までの人生はその難題を抱えた子供たちへの教育に人生の大半を過ごしてきた人であるだけに、ここら辺が理解に苦しむところなのだが。

そのシシーは学童年齢の前に日本に住んでいたことがある。 父親は軍隊の将校。第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争と戦歴の多い人であったが、
御多分にもれず、この家族も戦後すぐ進駐軍として家族ぐるみ日本に駐屯していた組である。  

そのシシーの願いは「すき焼きが食べたい」ということだ。 日本に居たときに食べたあのすき焼きの味が忘れられないと、50年も前の話をよくする。 
私達夫婦との付き合いは永いのに、 食事をする時は何時もレストランであったし、一緒に日本食レストランへ行ったこともない。
何故だったのだろうと今考えても分からない。 すき焼きなどいとも簡単な料理なのに、何故私が彼女夫婦のためにそれをしなかったのか未だに分からない。