内容は言及しないことにして、この写真で殿方が着ている星条旗のシャツだけど、いつも、にたにた想像する。日章旗をシャツにしたのは見た事がないけど、してみたらどうだろう。真っ白で、お腹の真ん中に、日の丸。狸みたいで面白いかも。日の丸は鉢巻が最高で、逆に、星条旗は、鉢巻にならない。でも、国旗って、どれも服のデザインとしては、あまり上品とは言えないかなあ。いや、失礼しました。
手負いさんお久ぶりです。 これはいけません、私が久ぶりなんです。
ハイ 星条旗でシャツ これは私も最初見たときは むしろ不快感を持ちました。
ナニヨ、 国の旗でしょうってね。 中にはパンツを作った人も居たそうですがそれは直ぐに消えたそうです。 それでいて祭日にはみなさん国旗を家の前に掲げます。
以前 911の後などは長―い期間前庭にブチ立てていた家が多かったです。 お向かいのテーラーさんもそうでした。公立小学校、中学校、高校では、正門の中に必ず星条旗が飾ってあります。 各大手の会社でも 祝日には国旗掲揚をします。 彼らの星条旗への想い入れは現在の日本の方々の日章旗への気持ちとはだいぶ違うかもしれません。
日本では今や学校でも日章旗は掲揚しないとか? 日章旗を観られるのはオリンピックの時だけとか訊きますが どうですか?
私は日本人ですから、星条旗の前では宣誓をしません。 でも日章旗の前で頭を下げる機会がないのも寂しいです。
写真に載っている 彼らのシャツは お互い一枚持っていて、 特別の日に着るシャツのようです。生粋のアメリカ人? を誇示するつもりなのでしょう。なにせ 「愛国心」という言葉が死語ではないのもこの国の特徴です。二言目には 「わたしはアメリカ人であることに誇りを持つ」と云います。 結局世界の国々から嫌われていることへの反応かなと思うこともあります。 また、 この国では今もって戦争をしている国ですから、 戦死者も出るわけで、その家の中へはいりますと 軍隊から渡された型どおりに 三角形に畳んだ星条旗が置いてあるのを見ます。
2009年4月17日金曜日
ボストン ティー パーティー
4月15日は全米確定申告の最終日である。 それこそ 老いも若きもアルバイトの学生も所得のある者は申告が義務ずけられている。 これは何処の国に住もうが同じである。
毎度新しい大統領が生まれる度にする公約は「増税はしません」しかし過去に税金の値上げをしなかった大統領は未だ居ない。 ご多分にもれず、今回の新しい大統領もジワリジワリと税金の値上げが始まっている。 直接目に見える所得税を上げなくても、他の箇所でいくらでも 絞りとることが出来る。 ましてや今年は大手企業への前代未聞の資金導入がいまでも延々と行われているのだから、その資金がどこから来るか庶民は首を洗って待つわけにはいかない。 何かしなければと 浅間山の噴火をやかんの水で鎮火させるようなものだが、 何もしないよりは良いという話でで、 ボストン テイー パーティーをアメリカ全州で一斉に4月15日に催すこととなった。 そこで私も遅ればせながらGoogleで なんじゃいなと調べてみた。
1773年12月16日に、アメリカ マサチューセッツ州ボストンで、イギリス本国議会の植民地政策(増税)に憤慨した植民地人の組織が、港に停泊中のイギリス船に侵入、イギリス東インド会社の船荷紅茶箱をボストン湾に投棄した事件である。
全州全都市で時間を置いての集会、私たちは繁華街を避け、郊外の小さな公園の集まりへ向かった。 三々五々集まる人たちは 紅茶のバッグを手に持つか、 バッグについている糸でティーバッグを幾つも体にぶら下げて集まってくる。実にコミカルな風景。お隣の事務所のネドさんは一日中胸からいくつものティーバッグを胸にぶら下げて、 これが今日の自分に出来るプロテストだとニコニコしている。
公園に集まった人たちは、テーブルに置かれた連名書に名前を書き 持参の紅茶の袋にも名前を書き箱にいれてから、まずは国旗掲揚(二人の男性が両側から国旗を広げ)全員起立して胸に手を当てての宣誓、 God Bless America の唱を歌ってからの小さな政治的集会であった。
集められたティーバッグはワシントンへ郵送されるそうである。
私の後ろに並んでいた婦人は、お茶出しの終わった茶色のティーバッグに自分の名前のスティッカーをはり、 もうすっかり絞りきって何も出ないバッグ、これが私たちですねと笑っていた。
政治家だけが政治をするのでは国民の声が一切届かず、国会議員は信用ならず、 流される情報は、もっとも偏ったメディアから流され、彼らが国民的代表の存在であることへの打開策。 結局 「今始める時 」何を始めるかはこれからのみんなの行動次第、お互いにインターネットで連絡し合いましょう。 そして 「結局私たちは祈りの力を信じましょう。」と一人が先導して皆が起立、神への祈りで集会は終わった。 国家への忠誠始まり祈りで終わるいとものんびりとした集会であった。
政治的集会に出向いたのは初めての経験であるが、 この彼らの何処かのんびりとした、熱い気持ちがどの程度継続されるのであろうか? 興味深いことである。
2009年4月13日月曜日
二ドル ショップ
おらが街に日本からはるばると100円ショップが来た。 アメリカに 99セント ストアーが出来たのはもう十年数年ほど前になる。 あの頃の99セント ストアーは何故かインド系の人たちが経営していた。 店一杯のガラクタ。 もう何でもあり。 しかし その頃はアメリカも不況に入っていた折で、クリスマスの買い物を99セント ストアーで済ましたつわものも知人の中に居た。 その99セント がいつの間にか 1ドルに値上げしていて、 今は店の看板に 1ドル ストアーと書いてあり、 スケールも 個人経営から、マンモス 企業に衣替えである。もうあちらこちらに建ち、庶民の需要を満足させてくれる。
一昨年東京を訪ねた際に百円ショップへお邪魔した。建物の規模が小さいせいか、品物があふれるばかりの量が陳列されていて アメリカの 1ドルストアーより品数があるような気分で面白かった。品物もアメリカのとはだいぶ違う物が並んでいる。 こちらは 家庭内装飾、安物の敷物、飾り物、洗剤、自動車内小物が多いが、日本の百円ショップは多少趣が違って、家庭内小物、特に台所用品が多かったと記憶していた。 もちろん私も結構な数の買い物をして、スーツケースに詰め込み持ち帰り、日本からのお土産が百円ショップの品物だったと冗談にもならない話だった。
その日本の百円ショップが船に積みこまれてそっくりこの街に引っ越して来た。
中国人街のど真ん中、 駐車場は裏側と書いてあるのに従うとなんと スーと二階まで行く。百円ショップの為に二階に大型の駐車場まで出来ている、さすがアメリカ。一瞬この駐車場込の採算が取れるのかな~などと他人の懐まで心配する自分が可笑しかったが、一歩中へ入って たまげた。「いらっしゃいませ~」と若い男女の日本語が飛んできた。 中の店員一同が 新しい客の到来に全員が声を掛ける。そして店を出て行く客には 「ありがとう 御座いま~す」 まさに日本である。 ちなみに 店員の顔はみな東洋系。 エプロンを掛け、ニコニコと客への応対もそつがない。 そして、買い物のさい中はしっかりと 客の手元を見つめている。 絶対に万引きはゆるしませんぞとなかなか気迫が出ている。けれど 彼ら日本語は全くダメ。 中国人経営である。
しかし、商品はすべて 二ドルである。「二ドルショップ」となる。 そうであろう 専用の二階駐車場に、 船舶料の経費が加われば 二ドルでよくぞ落ち着きましたと褒めてあげたい。
先日も私は又出掛けた。 一人用の一時間漬物用プラスチック容器、流しのスポンジ入れ、 我が家にはタッパー容器はたくさんあるのに、おにぎり用お弁当箱。魚網焼き、二度のお参りで50種類の二ドル商品が我が家に散らばっている。この街にも一つ楽しみが出来たようです。
一昨年東京を訪ねた際に百円ショップへお邪魔した。建物の規模が小さいせいか、品物があふれるばかりの量が陳列されていて アメリカの 1ドルストアーより品数があるような気分で面白かった。品物もアメリカのとはだいぶ違う物が並んでいる。 こちらは 家庭内装飾、安物の敷物、飾り物、洗剤、自動車内小物が多いが、日本の百円ショップは多少趣が違って、家庭内小物、特に台所用品が多かったと記憶していた。 もちろん私も結構な数の買い物をして、スーツケースに詰め込み持ち帰り、日本からのお土産が百円ショップの品物だったと冗談にもならない話だった。
その日本の百円ショップが船に積みこまれてそっくりこの街に引っ越して来た。
中国人街のど真ん中、 駐車場は裏側と書いてあるのに従うとなんと スーと二階まで行く。百円ショップの為に二階に大型の駐車場まで出来ている、さすがアメリカ。一瞬この駐車場込の採算が取れるのかな~などと他人の懐まで心配する自分が可笑しかったが、一歩中へ入って たまげた。「いらっしゃいませ~」と若い男女の日本語が飛んできた。 中の店員一同が 新しい客の到来に全員が声を掛ける。そして店を出て行く客には 「ありがとう 御座いま~す」 まさに日本である。 ちなみに 店員の顔はみな東洋系。 エプロンを掛け、ニコニコと客への応対もそつがない。 そして、買い物のさい中はしっかりと 客の手元を見つめている。 絶対に万引きはゆるしませんぞとなかなか気迫が出ている。けれど 彼ら日本語は全くダメ。 中国人経営である。
しかし、商品はすべて 二ドルである。「二ドルショップ」となる。 そうであろう 専用の二階駐車場に、 船舶料の経費が加われば 二ドルでよくぞ落ち着きましたと褒めてあげたい。
先日も私は又出掛けた。 一人用の一時間漬物用プラスチック容器、流しのスポンジ入れ、 我が家にはタッパー容器はたくさんあるのに、おにぎり用お弁当箱。魚網焼き、二度のお参りで50種類の二ドル商品が我が家に散らばっている。この街にも一つ楽しみが出来たようです。
2009年3月5日木曜日
じゅんたろうさんが「手負いの虎さんの投稿」へコメントを書き込みました
手負いの虎さんこんにちは。快哉!その通りです。私の義理の息子は真言宗高野山派の信者です。
ともに暮らしていても信仰上のいさかいをしたことがありません。「光明真言」やそれぞれの仏の真言を日本語に直すと意味が通じないのです。「般若心経」のみ為らず「観音経」は言うに及ばず「理趣経」も徹底的に学びました。声明の美しさはグレゴリアン・チャントに引けを取りません。空海を学んでいるうちに、どうも彼の人は中国で初期キリスト教に接触したのではないかと思われます。それが八世紀の頃ですのでアリウス派か東方教会の一派かわかりませんが、真言宗を単に「仏教」と言う範疇に入れたくないものがあります。それに触れると長くなりますが、真言宗における「大日如来」の位置です。いずれまた。
ともに暮らしていても信仰上のいさかいをしたことがありません。「光明真言」やそれぞれの仏の真言を日本語に直すと意味が通じないのです。「般若心経」のみ為らず「観音経」は言うに及ばず「理趣経」も徹底的に学びました。声明の美しさはグレゴリアン・チャントに引けを取りません。空海を学んでいるうちに、どうも彼の人は中国で初期キリスト教に接触したのではないかと思われます。それが八世紀の頃ですのでアリウス派か東方教会の一派かわかりませんが、真言宗を単に「仏教」と言う範疇に入れたくないものがあります。それに触れると長くなりますが、真言宗における「大日如来」の位置です。いずれまた。
2009年3月3日火曜日
手負い虎 さんが投稿「手負い虎 さんが投稿「じゅんたろう さんが投稿「マンモス 十字架」にコメントを書き込みました。」にコ...」にコメントを書き込みました。
二言だけ、これは文字を間違えると、意味がまるで変わるから。
「般若心経」は「はんにゃしんぎょう」と読み、「心境」ではありません。
「南無妙法蓮華経」の「南無」は「なむ」と発音し、「帰依する」という意味です。法華経の経典に書かれているすべての真理に対して帰依するという意味です。
母語は人間との交流の言葉であり、真言は神秘なる存在との交流の言葉だそうです。だから真言密教では、真言を師から弟子に直接伝え、決して訳語を伝えないのだそうです。真言をそのまま伝えることによって、真理なる存在との交流が世代を超えて可能になり、時代の歴史、時代の指導者の気まぐれ、時代の指導者の趣味によって、真理を書き換えられるということがないということのようです。
日本はもともと言葉に心を感じる「言霊」の国だったのに、言葉をいたずらに弄繰り回す異常な国になりました。
手負い虎 さんが投稿「手負い虎 さんが投稿「じゅんたろう さんが投稿「マンモス 十字架」にコメントを書き込みました。」にコ...」にコメントを書き込みました。
えーと、もう一言。信徒の段階では、プロテスタントの方々が言う「自分の言葉で祈らなければ意味がない」と言う言葉は正しいかもしれません。
しかし、どの国のどの宗教の指導者も、その役目は真理なる存在と信徒との仲介者としての役割を担っており、その役割で、ギリシャ語なり、ヘブライ語なり、ラテン語なりを聖職者が受け継いできたのです。
その聖職者が「真言」を捨てていいものか、「自分の言葉」というのは、自分への執着を断ち切れない言葉でもあります。
現代の日本の神父さんはラテン語のラの字も知りません。ただひたすら、時代の指導者の趣味に仕え、わけのわからない説教をし、ミサの1時間に耐えるという修行を信徒に強要しております。
手負いの虎さん ご指摘ありがとうございます
「般若心経」 そして 「南無妙法蓮華経」 マイクロ ソフト オフィス は何とも正直ですから私の発音通りに表示します。 それを何の不思議とも思わず投稿するのは 私の日本語の不確かなのを露見させました。 ご訂正ありがとうございます。
「般若心経」は「はんにゃしんぎょう」と読み、「心境」ではありません。
「南無妙法蓮華経」の「南無」は「なむ」と発音し、「帰依する」という意味です。法華経の経典に書かれているすべての真理に対して帰依するという意味です。
母語は人間との交流の言葉であり、真言は神秘なる存在との交流の言葉だそうです。だから真言密教では、真言を師から弟子に直接伝え、決して訳語を伝えないのだそうです。真言をそのまま伝えることによって、真理なる存在との交流が世代を超えて可能になり、時代の歴史、時代の指導者の気まぐれ、時代の指導者の趣味によって、真理を書き換えられるということがないということのようです。
日本はもともと言葉に心を感じる「言霊」の国だったのに、言葉をいたずらに弄繰り回す異常な国になりました。
手負い虎 さんが投稿「手負い虎 さんが投稿「じゅんたろう さんが投稿「マンモス 十字架」にコメントを書き込みました。」にコ...」にコメントを書き込みました。
えーと、もう一言。信徒の段階では、プロテスタントの方々が言う「自分の言葉で祈らなければ意味がない」と言う言葉は正しいかもしれません。
しかし、どの国のどの宗教の指導者も、その役目は真理なる存在と信徒との仲介者としての役割を担っており、その役割で、ギリシャ語なり、ヘブライ語なり、ラテン語なりを聖職者が受け継いできたのです。
その聖職者が「真言」を捨てていいものか、「自分の言葉」というのは、自分への執着を断ち切れない言葉でもあります。
現代の日本の神父さんはラテン語のラの字も知りません。ただひたすら、時代の指導者の趣味に仕え、わけのわからない説教をし、ミサの1時間に耐えるという修行を信徒に強要しております。
手負いの虎さん ご指摘ありがとうございます
「般若心経」 そして 「南無妙法蓮華経」 マイクロ ソフト オフィス は何とも正直ですから私の発音通りに表示します。 それを何の不思議とも思わず投稿するのは 私の日本語の不確かなのを露見させました。 ご訂正ありがとうございます。
2009年3月2日月曜日
手負い虎 さんが投稿「じゅんたろう さんが投稿「マンモス 十字架」にコメントを書き込みました。」にコメントを書き込みました。
自分の気持ちを、自分のブログ以外に書き込むのって、空恐ろしいのだけど、このエピソードだけご紹介します。
ある仏教関係のチャット部屋で、ある真言宗の方に出会いました。その方が私に「アーメン」とはどういう意味か、と聞かれました。私はカタカナ語が敵性言語の時代から信者なので、その当時覚えた「しか有らしめたまえ」という意味ですと答えました。
そうしたら彼が「ではどうしてそのように唱えずにアーメンと唱えるのか」と聞かれました。私は、ただ、それが伝統だからと、軽く答えたところ、彼は毅然として言いました。
そうではない、それが「真言」だからだ。真言は神の直接の言葉であって、民族語だの現代語だのに訳すことができないのだ。だから般若心経の最後の言葉は、何語にも訳せないからそのまま、ぎゃてい、ぎゃてい、と唱えるのだ。
そういって、彼は消えていきました。彼にはどのチャットの部屋でも二度と会うことがありませんでしたが、凄い言葉を残して言ったな、と、今でも心に深く記憶しています。
私は幼児体験で記憶に刻んだラテン語の祈りがいまだに口をついて出てきます。もし主祷文を現代的に訳すなら、「天の父ちゃん、今日のおまんま、おらにくれい」なんていうので良いのでしょうね。
手負いの虎さん こんにちは 少しも 「空恐ろしい」ことありません。 決して取って食うなんてしません。
なるほど、 真言ですか。そうかもしれませんね。 私が子供の頃はミサそのものがラテン語でしたね。でも、「祈祷文」という祈りの本は日本語でしたけれど。 もうその段階で各地方の言葉は取り入れてあったのです。 でも 日本の言葉の変化に合わせて 祈りの言葉も止まるところなしで変化しています。 でも、英語の祈りには 言葉の変化はわたしの知る限り無いです。 勿論式次第には変化はあります。
日本人の社会のバプティストの人たちのお祈り訊いていますと。 決められた祈りを唱えるのは、人が書いた祈りで、意味が無いと、「天国のお父様~」などで始まり、各々の気持ちを唱えていらっしゃいます。 でもそこには たくさんのお願いと少しの感謝が込められていますが、神への賛美は余り聞こえませんでした。 賛美をする前にお願い事が多すぎるのでしょう。
しかし、仏教の世界では、お経の言葉も分かりやすいように現代語に改正されているわけではないでしょう? そこが分からないのです。 般若心境や何妙法蓮華教 の改正タメ口版、自分の言葉で唱えなければ意味が無いなんて 誰も云わないのでしょうかしらね。
ある仏教関係のチャット部屋で、ある真言宗の方に出会いました。その方が私に「アーメン」とはどういう意味か、と聞かれました。私はカタカナ語が敵性言語の時代から信者なので、その当時覚えた「しか有らしめたまえ」という意味ですと答えました。
そうしたら彼が「ではどうしてそのように唱えずにアーメンと唱えるのか」と聞かれました。私は、ただ、それが伝統だからと、軽く答えたところ、彼は毅然として言いました。
そうではない、それが「真言」だからだ。真言は神の直接の言葉であって、民族語だの現代語だのに訳すことができないのだ。だから般若心経の最後の言葉は、何語にも訳せないからそのまま、ぎゃてい、ぎゃてい、と唱えるのだ。
そういって、彼は消えていきました。彼にはどのチャットの部屋でも二度と会うことがありませんでしたが、凄い言葉を残して言ったな、と、今でも心に深く記憶しています。
私は幼児体験で記憶に刻んだラテン語の祈りがいまだに口をついて出てきます。もし主祷文を現代的に訳すなら、「天の父ちゃん、今日のおまんま、おらにくれい」なんていうので良いのでしょうね。
手負いの虎さん こんにちは 少しも 「空恐ろしい」ことありません。 決して取って食うなんてしません。
なるほど、 真言ですか。そうかもしれませんね。 私が子供の頃はミサそのものがラテン語でしたね。でも、「祈祷文」という祈りの本は日本語でしたけれど。 もうその段階で各地方の言葉は取り入れてあったのです。 でも 日本の言葉の変化に合わせて 祈りの言葉も止まるところなしで変化しています。 でも、英語の祈りには 言葉の変化はわたしの知る限り無いです。 勿論式次第には変化はあります。
日本人の社会のバプティストの人たちのお祈り訊いていますと。 決められた祈りを唱えるのは、人が書いた祈りで、意味が無いと、「天国のお父様~」などで始まり、各々の気持ちを唱えていらっしゃいます。 でもそこには たくさんのお願いと少しの感謝が込められていますが、神への賛美は余り聞こえませんでした。 賛美をする前にお願い事が多すぎるのでしょう。
しかし、仏教の世界では、お経の言葉も分かりやすいように現代語に改正されているわけではないでしょう? そこが分からないのです。 般若心境や何妙法蓮華教 の改正タメ口版、自分の言葉で唱えなければ意味が無いなんて 誰も云わないのでしょうかしらね。
2009年3月1日日曜日
じゅんたろう さんが投稿「マンモス 十字架」にコメントを書き込みました。
おかしいのはカトリックだけではないのですね。困ったものです、教会が信徒の心配をするより信徒が教会の心配をしているって、一体何が起ころうとしているのでしょうか。
私はこの一月から近くの巡回教会を発見!しまして行きだしました、しかし聖水も無い御堂で信徒は手で拝領します。新ミサでは司祭はちょぼちょぼと手を清めます。しかし隔週に来る助祭は単に御聖体を配るだけです。
日本の神社には流れでている手水がありお寺でも蹲(つくばい)があります。今話題の相撲でさえ塩による土俵の清めは大切行いです。現教皇は典礼の崩壊が信仰を崩していると枢機卿時代の論文に書かれています。四旬節に入り「スタバト・マーテル」の祈りを黙想し十字架は単にキリスト教のシンボルではなく「神の苦しみ」の印なのであると感じています。御聖体を受ける時、単に跪きでは無くラマ教徒の如く五体倒置程の謙虚さが必要なのです。しかし、新ミサに変更してから四十年です。あの壮麗でつつしみ深い御ミサを体験している人たちはもう僅かになってしまいました。近いうちに私は隠れキリシタンになろうとしています。有るトリエント・ミサをおこなって居られる司祭から新ミサに与らずとも良いと許可を得ました。それをどちらか選択するべきは私です。辛いことです。
じゅんたろうさん、 お気持ちよく理解できます。
お向かいのテイラーさんもう一つ あのマンモス十字架に関して感想を漏らしていました。
あれを少し離れて 眺めていると、 なぜか「バベルの塔」の話を想いだすね。
『さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして全地に散らされることのないように』
日本の古い神社に入っての手水、 お坊様のきらびやかな僧服、もうもうと立ち込めるお香の中で、 僧侶のお腹の中から絞りだすようなお経。 あの仏教の儀式の中にも改革とか刷新とかいうのがあるのでしょうかしら。 お寺詣りの折の日本の方々の紋を正した服装。 素晴らしいです。 日本人が、生活習慣や会話を変化させている中で、あの世界だけは そっと、そのまま大事に置いておく、 あの、そっとして置く気持ちがカトリックにも欲しいです。
私はこの一月から近くの巡回教会を発見!しまして行きだしました、しかし聖水も無い御堂で信徒は手で拝領します。新ミサでは司祭はちょぼちょぼと手を清めます。しかし隔週に来る助祭は単に御聖体を配るだけです。
日本の神社には流れでている手水がありお寺でも蹲(つくばい)があります。今話題の相撲でさえ塩による土俵の清めは大切行いです。現教皇は典礼の崩壊が信仰を崩していると枢機卿時代の論文に書かれています。四旬節に入り「スタバト・マーテル」の祈りを黙想し十字架は単にキリスト教のシンボルではなく「神の苦しみ」の印なのであると感じています。御聖体を受ける時、単に跪きでは無くラマ教徒の如く五体倒置程の謙虚さが必要なのです。しかし、新ミサに変更してから四十年です。あの壮麗でつつしみ深い御ミサを体験している人たちはもう僅かになってしまいました。近いうちに私は隠れキリシタンになろうとしています。有るトリエント・ミサをおこなって居られる司祭から新ミサに与らずとも良いと許可を得ました。それをどちらか選択するべきは私です。辛いことです。
じゅんたろうさん、 お気持ちよく理解できます。
お向かいのテイラーさんもう一つ あのマンモス十字架に関して感想を漏らしていました。
あれを少し離れて 眺めていると、 なぜか「バベルの塔」の話を想いだすね。
『さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして全地に散らされることのないように』
日本の古い神社に入っての手水、 お坊様のきらびやかな僧服、もうもうと立ち込めるお香の中で、 僧侶のお腹の中から絞りだすようなお経。 あの仏教の儀式の中にも改革とか刷新とかいうのがあるのでしょうかしら。 お寺詣りの折の日本の方々の紋を正した服装。 素晴らしいです。 日本人が、生活習慣や会話を変化させている中で、あの世界だけは そっと、そのまま大事に置いておく、 あの、そっとして置く気持ちがカトリックにも欲しいです。
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