2008年3月24日月曜日

麻薬

手負い虎さんいつもコメントありがとうございます。

人の心の中は難しいですね。 過去の歴史に向かって進むと、そしてそれを自分の身に置き換えると誰の気持ちも揺れるのではないですか。

『同国人が麻薬汚染されて』

一般的社会で生活している私たちには「麻薬」という言葉は身近な事柄ではないですが、取り締まりが厳しくて、 栽培を始めても捕まるケースが多いようです。

ただ言わせて頂ければ、麻薬の大半は中南米からの密輸です。

在るTV番組で、中南米の国の1つ、麻薬栽培の盛んな土地のある主人がインタヴュで答えていました。  

「自分は親の代から麻薬の栽培をしている、収穫の全部がアメリカへ行くのだが、最近取り締まりが厳しくなって困る。 この仕事で家族を養っているのだから、アメリカが買わないのなら、自分たちの生活をアメリカが保障しろ。」面白い理屈だと思いました。 自分の子供が転んでもアメリカが悪いの典型ですね。ただ驚いたのは、 TVのインタビュアーが、この農場主には、子供が五人、農場で働く人数が何人、その家族と。

栽培を止めれば、食べるに困る人が大勢出てくる、いったいアメリカは、この哀れな子供たちを路頭に迷わす政策をとってどうするつもりだって息巻いていました。

しかし需要と供給の社会です。 

我が家の息子や娘が中学校の頃から、学校のキャフェテリアでランチの時間に、自分の飲んでいるミルクとかジュースを飲みかけで席を立つなと注意されます。 ほんの少し席を外した隙に飲み物の中へ麻薬を落とされるからです。

馬鹿みたいな話ですが、事実です。子供に言わせるとこれは「ママ、これは常識です」と云われます。

子供たち向けのステッカー、ペロリと舐めて貼り付けるアレです。 一時期はあの糊に麻薬が含まれていると云われました。

夏の暑い盛りに、ベルを鳴らしながらワゴン車がアイスクリームやキャンデーを売り歩きますが、あの商品に麻薬が含まれていると云われ、あのワゴンがベルを鳴らしながら通ると、私は子供の耳を塞いだものです。

お酒やタバコは年齢に達しないと買えないけれど、 マリワナを手にいれるのには年齢制限がないと世間は笑っています。

街角に車を停車して窓を開けると、人が麻薬は要りませんか?と聞いてくれるそうです。 残念ながら未だ私のようなおばさんには聞いてくれません。

そんな中で子供たちが正常に育つのは、本当に大変なことなのです。 ですからご主人の同国人の人たちがアメリカに来たが為に汚染されるのは本当にお気の毒とは思いますが、やはりこれは本人の生き方です。もうアメリカという国がそうなのだと認識して、どんな誘惑にも、どんな強制にも負けない意思と知識をもたないと確かに麻薬常習者になるのは時間の問題のようです。

現在この国での成長段階で誰もが一度は試す機会があり、試し、その後にまた手を出すか、止めるかは本人の意思1つ。 選択権はおのおのが持っています。

もう何年も前の話ですが、エイドの末期になった息子を抱えた母親(74歳)が毎晩夜の街をさまよって売人を探し歩いていたそうです。  エイドの末期には大変な痛みが伴うのだそうで。 それを柔らあげるのはもうマリワナしかないそうで。しかし保険が無い為入院ができない。 時が経つにつれ、母親は経済的に困りました。 決して安いものではないから。そこで自分で麻薬の家庭栽培はじめました。これなら夜の街へ買い物に行く必要がないからです。

勿論それは警察の知るところとなりました。哀れにも、その74歳の母親は刑務所行きです。 

2008年3月21日金曜日

手負い虎さんのコメント

手負い虎 さんが投稿 "人種論’" に新しいコメントを書き込みました。

お!うまくいった。入れた入れた^^。
私はラテンアメリカ人と結婚していて、差別なら、いやというほど受
けています。しかもそれは仲間のはずの日本人から。高級な日本人にとっては、国際結婚でも等級があって、相手が白いか黒いか、中間色か、あるいは、相手の母国が国際社会でどういう位置にあるかによって、決まるようです。

私の場合、相手が日本のJICAが協力隊を送っている低開発国の人間なので、当然低級で、未知の日本人から、いきなり初対面で離婚を勧められたこともありますよ^^。案外、凄いのです。

多分、だから、「差別」に敏感なのです。「難民」となって、流れ流れて、日本企業に勤めた主人は、一番初めに「ぼく土人です。」という自己紹介を、意味もわからずさせられてきたようで、以後私は自称「日本土人」と名乗ってきました。

で、彼は、実は「アメリカ人」という「種族名」にものすごく頭にくるのです。「アメリカ人」という種族は、アメリカ大陸をのっとった「白い連中」ではなくて、原住民の自分達だ、と申しましてね。

で、そのグリーンガード目当てに、国境を越えた同国人が麻薬汚染されて帰ってくると、彼の心は揺れるようです。どのようにゆれるか、もうそこまで来ると、私の手に負えません。

姉は国際結婚ではありませんが、アメリカに永住して、子供達は「アメリカ人」です。一人は兵役を担って、イラクまでいって来たようです。その情報に対する、私の心は、かなり複雑です。

なお、こっそりいうと、「人種差別」の理由には、一理あると感じています。日本における関西人、関東人、東北人の区別のように、まさかそれによって、就職ができないほどではないとしても、別々のDNAを背負っていることは確実です。

私は今別居状態ですが、新婚のころの情熱が去った今、夫の国で老後を過ごすことを考えるには、かなりの抵抗を感じています。

2008年3月20日木曜日

人種論’

コメントをいつもありがとうございます。  コメントを頂くと、あーこんなブログでも誰かが読んでいてくれるのだとうれしくなります。 

人種論を口にするとか、書くのは確かに危険かもしれませんね。 人種の坩堝のアメリカに住んでいると人種問題は隣り合わせに生きているので日常茶飯事ですが、時には一触即発のケースもあります。

 

最近ではBigotという言葉をよく使います。辞書によると、「宗教、政治、人種に関して頑迷な人、偏狭な人」と出ています。差別ではなく、心が開けない人なのでしょう。 そういう意味では私はBigotかもしれない。

零細企業ですが、私も小さい商いをしていますが、時には外国からの取引があります、その相手国によっては取引をお断りすることもあります。 これも、 そのお国柄を考えてからの結論です。国によってその国のお国柄というものがあります。

従業員を雇うときも、 今では、年齢、国籍、男女、体の障害を理由に求人を断ることは規定に反するのですが、 どうしても、 その職種によってはその人の元のお国柄から来る習性が合わないのではと考慮して雇えない場合があります。

やはり私はBigotですね。  

『肌が黒いとこういう性格だと断定するのは、やはり危険だな』

ご指摘のように、うっかりするとこれは差別になりますね。  

私の主人は三代目のアメリカ人です。 違います、ドイツ系アメリカ人です。友人たちが集まっての会話中、何度「このドイツの頑固頭」と呼ばれるのを聞いたでしょう。 

「自分はイタリアンではない、言葉のサービスはしない」

「このイギリス人、偉ぶって提案ばかりせず、自分でやれよ」

「こら、そこのスペイン男、 もういい加減でカッカと興奮するな、頭を冷やせ」

みな国籍から来る国民気質を揶揄しています。ですが、笑ってやり過ごす人種と、ジメッと胸深く入れて陰気に怒る人も居ます。 それは仕方が無いことです。

日本企業の社員の奥様が、店頭で困っているのを見て話しかけた私に

「アノ、主人が申しますの、アメリカ人と結婚しているような日本女性とは口を利いてはいけないと、ですから失礼いたします」 これは「差別」です。最初は「軽蔑」なのかと考えましたが、私は軽蔑される云われはないので、これは差別なのだと自分で納得しました。 

通称グリーンカード、永住権をもっている私がもし国籍を取得しても「アメリカ人」とは呼ばれません。「ジャパニーズ アメリカン」と呼ばれます。

「メキシカン アメリカン」、「チャイニーズ アメリカン」、と母国の名前が頭につきます。

これを差別と感じたこともありました。他民族が最も帰化する国。他民族が多数商業として、勉学として来る国。

毎年試験を受けてアメリカ国籍を取得する人が多数います。 その中で何パーセントの人たちが、最低の国民の義務である「選挙への投票」「陪審員の義務」に従うでしょう? 多くの新しいアメリカ国籍の人たちが、面倒くさいから、自分には関係ないからと最初から投票権の登録もせず、それゆえに配達されることのない「陪審員への呼び出し」を良いことにする、自分の都合だけでの国籍取得。

ときとして受ける質問で、「あなたは何人ですか」に母国の名前を挙げる人がほとんどです。そして、「アメリカ国籍は持っています」と答えます。

徴兵制度で軍隊に入隊して人生の何年間を国民としての義務を遂行した人たち、徴兵制度が終わっても、志願兵として軍隊に所属する人たちやその家族の国に対する愛着とは少し違うようです。

それゆえ、

『市民権を持っていれば「アメリカ人」のはずだ。』

 というご指摘ですが、何がアメリカ人かに対してすこし違ってくるようです。

私が伝えないのは、 人はその国に生まれ、其の国で育ち、ある程度の教育も受けると、その人の命がある限り 母国の血は体の中で脈をうっているのだということです。そして、二代目、三代目の時代から土着民になるのかもしれません。

2008年3月18日火曜日

手負い虎さんからのコメント

「マニュアル」にコメント。

人種論は、危険だなあと思う。アメリカは多民族国家で、市民権を持っていれば「アメリカ人」のはずだ。
日本側はそういう「アメリカ人」でも日本人のDNAが入っていれば、わざわざ「日系・・世」と呼び、相手の
迷惑にもかかわらず、勝手に区別をする。

アフロアメリカンはアフリカ本土のアフリカ人と違って、歴史的に被害妄想が先行するのは、仕方が無い
として、多分、アフリカ本土のアフリカ人のほうが、アフロアメリカンより頭数が多いだろうから、肌が黒い
と、こういう性格だと断定するのは、やっぱり危険だなあと思う。

私はキリスト教も仏教も、本気で研究した結果思うのだが、この世界に「キリスト教国」はかつて存在した
ことが無く、「仏教国」も存在したことが無いこと。歴史的に支配者が、支配の都合によって、そのように
「宣言」したことがあるかもしれないが、両方とも、誰かが「宣言」すれば、達成できるような単純な代物で
はない。

私にいわせれば、西洋は、まだ「ギリシャ神話」の国で、日本は「天皇教」の国だ。オデッセイのような「だ
ますための知恵」がものをいうのは、キリスト教だからでなくて、「ギリシャ」教だからだ。法律がどうあろ
うと、人が死のうと殺されようと、「謝れば」精神が安定するのは、仏教だからでなくて、主体のあいまいな、
言霊の国だからだ。日本のカトリック信者だって、言霊が信仰の主体で、「それらしきもの」を信仰してい
ることにしている「天皇教徒カトリック派」に過ぎない。私もそうかもしれない。^^



R.M. de Escobar

2008年2月27日水曜日

マニュアル

物事はなんでもマニュアルとおりにすれば無難であるのは当然だが、しかし、マニュアルでは駄目でそこには融通を利かす、常識を働かせるという塩味も必要だ。

一般的にアメリカ人は大衆の中にいるときはあまり苦情を言わない。レストランで長く待たされても、席を蹴って出て行く客を見ることはまれだ。言葉荒く「早く、まだか?」と催促することもあまりしない。普通公では大人しい。これはあくまでもアメリカ生まれでアメリカ育ちのアメリカ人のことをさしているつもりだ。同じアメリカ人でも、産地が違うアメリカ人の話はしていない。長い待ち時間の後やっとの思いで自分の順番が来ても後の人が待っているからと自分の用事を手早くしようともしない。自分が待たされたのだから敏速に事を運んで後ろの人を待たさないようにしようともしない。そういう意味では待つことにストレスは感じない人種に見える。案外辛抱強い人種かもしれない。 もしかしたら、他人がどう想うかなどと気にしない人種かもしれない。  彼らが文句を言いたいときはまっすぐ弁護士の事務所へ向かう。そして「精神的負担云々」という大儀名文の元に裁判所で決着をつける。苦痛を金銭に換える 。 「まあ嫌だお金なんてネー?」などと格好の良いことは云わない。 「あやまれ」なんて言葉のゲームもしない。 これが面白いと思う、 キリスト教国でありながら、誤るとか、許すとかはあまり問題ではないのだ。又日本の仏教国が、「悟り」の国のはずなのに、「あやまれ、あやまらない」が絶えず問題になるのと対照的である。

キリストの教えの「右の頬を打たれたら左の頬を」の代わりに「目には目を」のユダヤ教の教えをキリスト教と入れ替えて、絶えず戦争に加わるく国なのだから、実際には宗教と政治などは関係ないのかもしれない。聖書は皆読むが、都合の良い箇所だけを利用するのかもしれない。

しかしこの表面的には物事を穏便にする行為も人種によって多少違ってくる。肌の黒い方々は一応に被害者意識が強いし短気である。二台の車が軽く接触したとしよう、相手側の人が大丈夫ですか?と聞いたとたん車から飛び出て、道路にひっくりかえって痛いよー痛いよーと泣きだす。
公共の建物などでガス漏れがしたと発表されたり、非難要請が出ると、素早く気分が悪くなって担架に乗って救急病院へ担ぎ込まれるのは大半が黒い肌の方々だ。多分体内の組織の反応が普通より早いのだろう。実に敏速に病気になる。

平岩弓枝作家の本を読むと、ホテルのロビー、或いは買い物の場などの光景が小説の中に出てくると、「マナーを無視して声高にしゃべる騒がしい一団が入ってきたので目を向けるとそれはアメリカ人の観光団だった」と書いてあるのを何度か読んだ。多分そうだろう。多分他の国の人たちの団体旅行は静かなのだろう。私はあまり旅に出ないからそのような群れにぶつかったことはない。たとえ騒がしい一団にぶつかっても、それがアメリカ人とは見分けが付かない。英語圏の国は世界地図の上で結構大きな範囲をしめるから。

先日生地屋(洋服生地屋というのかも?日本語が分からなくなった)へ買い物に出かけた。わたしは時間があるとキルトでいろいろなものを作るのが好きだ。 ついでに洋裁もする。自分のスラックス程度はたいした時間が要らないので週末に作り、月曜日にはそれを身に着けて出勤する。ゆえに生地屋へは少なくとも毎月一度は出かける。出かける店は月に一枚、一品限り40%割引クーポンが郵便で配達される。 これはなかなか無駄にはできない。 それに何ヶ月かクーポン券を使わないと名簿から消されるそうだ。やはり毎月顔を出さなければ。

その日もキルトに使える一つの生地を選び5ヤード買った。40%引かれるのだから其の一品はいつもまとめ買いをする。
会計のテーブルでその生地の束を良く見たら最初の二ヤード当たりまで汚れていた。急ぎカッターのテーブルへ戻り汚れている二ヤード分を切り取ってもらい、新しく二ヤードを切ってもらった。するとその若い店員は「 そのクーポン券は一品限り有効ですから、 あとから付け加えた二ヤードは二品目になりますので40%割引は出来ません」とシラーとわたしに言った。
結果はもちろんこの若い店員の負けである。年の功、亀の甲の私がそんな理屈を飲み込むはずがない。私が感心するのは、そんな通らない理屈を恥ずかしげも無く言う頭の固さなのだ。彼女は規則でそうなっていると主張していた。マニュアル通りにしているのだ。それではその規則には汚れて返品の例はどうなっているか?と正したら、そんなことは書いてないという。

開店早々のドレスショップ、直美と私は「当日に限り25%割引」のクーポン券を持ってはせ参じた。帰宅して娘が一枚のブラウスがどうもサイズが合わないと言う。そこで翌日、同じ店に戻り、同じ品でサイズ違いとの取替えを頼んだ。雇われたばかりらしくまだレジのコンプユーターの使いかたもおぼつかない若い店員は、「昨日はこの商品は割引でしたが、今日は違いますからこのブラウスの25%差額料を支払ってください」という。コンプユーターに打ち込むとこの商品は割引と出てこないからだという。あわてて財布に手を出す直美を抑えて私は説明した。買い物は昨日で済んでいる、今日はその商品のサイズの取替えだけだから、今日の売り上げの品にはならないと説明しても彼女は聞く耳持たず一人自己主張をする。そこでわたしはこの売り場のマネージャーが同意したら支払うと提案し、彼女は急ぎ電話をしてお伺いを立てた。   
(ちなみにマネージャーの返答は、コンピューターには触るなと怒鳴っていたのがテーブル越しにも聞こえていた)

わたしの子供たちがアルバイトを始めたとき、彼らの職種が小売店すなわち接客業が多いことから私は口をすっぱくして言い含めたことがいくつか在る。
たとえどんな仕事でも、その時間の給金がたとえ5ドルでも、その給金を受け取る限りはその勤務時間中はプロだと思え、お客の身になって物事を処理しろと。
又、不確かなときは自分だけで処理をするなと何度も教えた。分からないことがあったら人に聞きなさいと。絶えず世の中には自分よりも知識のある者はいくらでも居るのだと頭に叩き込めと。

アメリカの子供の育て方の一つに、 「自分が正しいと思ったら、主張を曲げるな」と親達は教える。 「Go for it」と激励する。
5歳、6歳の子供に「自分は正しいと思ったらそのまま主張しろ」冗談ではない。何を基本に自分が正しいと決める?そんな年齢でどうして善悪が分かるのだといつもハラハラする。
モーゼの十戒も、福音の教えもまだ知らず、その国の法律も知らず、常識も、教育も身についていない子供がどうして自分の主張が正しいと判断出来る。出来るはずがない。そんな子供たちが自分は正しいと自己主張をし、親がそれを全面的に信じるから世の中が面倒くさくなる。だからわたしは子供たちに言い聞かせてきた。解らなかったら人に聞けと。自分で判断して自分で処理したことが全て正しいとはかぎらないと。
人はいつも、「もしかしたら自分は間違っているのかもしれない?」と立ち止まることが世の中をスムーズに生きられると考えるから。

還暦を過ぎているこの私自身でもいまだに、本当の善悪など解らない。その善が自分の利益に損失を伴うときは決断に多少のずれが出てくる。その善と思う行動が自分の家族に痛みを与えるようでは、それは善ではないと判断するときもある。そんな時は小さな悪魔の囁きが聞こえる。
神に近づこうなどとはサラサラ思わないが、少なくとも天使のすることを真似たいと思うが、時には天使だて、天国の雨水の入っているバケツを蹴飛ばしても、蹴飛ばしたのは自分ではないと言うことだってあるだろう。あって欲しい。


 

2008年2月23日土曜日

手負い虎さんからのコメントです

お母様の大往生のご様子、拝読しました。静かに冥福をお祈りいたします。(これ以外の儀礼的言葉は故人に失礼と思い、慎みます) ☆地球温暖化は、長年、継続的にすんでいなければ、自覚できないんでしょうね。特に、常夏に近いヒューストン生活の後では。私は東京でなくて千葉県松戸市にいますが、以下のことを感じています。 1)昔東京に雪が降りましたが、現在降ると大騒ぎになるほどまれです。たかが3センチの雪に交通機関がマヒします。 2)庭に植えた「アボカド」は、数年前までは冬は藁をまいて、保護しないと、持ちこたえられませんでした。それでも幹は保護できても、葉っぱは全部枯れました。近年のアボカドは、まったく世話もしないのに、冬でも青々と葉っぱが出て、新芽も出ています。冬に桜が各地で咲いています。 3)いるはずのない虫が、たとえば、蚊などが潜んで、生き残っていて、ちょっと太陽の日差しが穏やかになると「ぷ~~~~ん」と羽音を立てて、刺しに来ます。にくたらしいですよ。 4)いつもなら、3月も20日を過ぎないと芽が出ない庭の花が、すでにつぼみをつけ、庭中に顔を出しています。 5)なお、最近の猫はコタツで丸くならないで、外で人間の出したごみをあさっています。我が家の鶏も、狙われています。猫はコタツで丸くなっているのが常識です。最近の猫は温暖化の所為で、常識を知りません。困ったものです。 ☆ところで、私は寒い家に住んでいますが、肩と腰に「ホカロン(使い捨てカイロ)」を貼り付けて、冬を乗り切っています。もちろん、枇杷茶を飲みながら。^^  以上











虎さんコメントありがとうございます。


地球温暖化、腐った政治家、崩れたモラル、年金先細り、繰り返される人災と天災、子供や孫たちへ手渡していくはずの地球が崩壊してきました。  六十年前に私たちの手に渡された東京は空襲による焼け野原、食べるものも無く、人は他所の庭にある野菜を盗んで食べ、お米の担ぎやをして上野の検閲を恐れて通り、戦争孤児と傷痍軍人を沢山見ました。


その土地をわたしたちは見事に復興しました。そして壊しているのですね。 そう考えると、次の世代の子供たちもきっと、わたしたちの世代が作った地球よりももっと住み良い場所に作り変えてくれるかもしれません。

2008年2月21日木曜日

母の死

2007の終末、クリスマスの数日前から一月、二月と三年ぶりに日本へ帰った。 帰ってビックリ、想像外の寒い季節の日本に驚いた。地球温暖化を強く唱える日本のこと、もう少し天候は暖かくなっているのかナ? そんな愚かな考えは捨てましょう。 地球温暖化と気候の変化は関係ないのだろうか。  あれは暑い夏に始まる人工的都市の加熱状態のことだけなのかナ。

私の実家は終戦の後の焼け野原に建てた六十余年もたつ二階建ての木造家屋である。その間に増築やら、修理は何度もしたが、ついに建て直しの機会は逸した状態だった。だから古くてガタピシしている。

九十五歳の母が昨年の春に転び腰の骨を骨折し、お定まりの車椅子生活を強いられていた、それゆえ母が住む階下はバリア フリーにつくり変えられてある。 それは畳を取り除き木造の床に変わり、すべてのドアを取り除き、ドアがあった箇所は布地のカーテンと変わった。 トイレのドアも取りのぞき、やはり薄い布地のカーテンである。 これには少し驚いたがいたしかたない。私がそのトイレに用事がある間に、誰かが間違えてカーテンを開けないように望むしかない。
結果として母の住んでいた階下は隙間風の天下であった。 建て付けの悪い建物なんてものじゃない、頭の上に取り付けてある暖房器具がフル回転していてもその暖かい温風は薄いカーテンの両脇と布地を通してスーッと出て行く。

雪が降ると、昔の高貴な武士は火鉢1つの部屋の障子を開け放して雪見を楽しみながらの酒席を楽しんだとあるが、あの寒さを実感するとあのような話しは少し眉唾ものだ。私は信じたくない。
雪の降る東京の朝、私は温風暖房の部屋に電気ヒーターを持ち込み、着膨れのために少し腕が短く感じる体をガタガタと震わせ、今日は何があっても絶対に外出はしないゾと自分に誓っていたのだ。

母は今年の冬から始まった、カーテンによる隙間風天下の寒い冬を過ごすことなく昨年の十二月のはじめに心不全で入院し、大晦日の日に亡くなった。 暖かな病院で、若い元気な看護婦さん達から一ヶ月の間やさしく看護されて静かに亡くなった。九十五年間稼動していた体の機能が1つ又1つと止まっていくのを私は見つめることが出来た。  横に設置してある心臓のモニターがピーピーと発信音とともに上下に波を描いていた、そして、それがスーットフラットラインに変化し発信音がピーッと音を変えとき若い医師が腕時計を見て、声をだして時を読み、「ご臨終です」と横たえる母に深く頭を下げた。 頭が横にガクンと傾くわけでもなく、小さく息をしていた母の呼吸が止まったのも私の目には見えなかった。しかし器械は確実に人の死を伝えている。ピーッとストレート ラインを示している。

老いての死は苦しみも痛みもあまり伴わないと聞いていたが、母も有難いことに、痛みも感じず、呼吸困難もなく、静かに終わった。
母の人生に幕が下り、平成の時代から、明治大正の時代の一人がまた消えた。

翌日は正月一日、日本中が新年を祝う日に人の死を通知するのはあまりに申し訳ないゆえ通夜も葬式も密葬とした。それは寒い夜の通夜と葬式であったが、永い間母が所属していた教会の婦人たちが正月の三が日であるのもいとわず集まって下さっての祈りと聖歌に、母の人生は静かに心温まるミサと共に終った。