2009年3月2日月曜日

手負い虎 さんが投稿「じゅんたろう さんが投稿「マンモス 十字架」にコメントを書き込みました。」にコメントを書き込みました。

自分の気持ちを、自分のブログ以外に書き込むのって、空恐ろしいのだけど、このエピソードだけご紹介します。

ある仏教関係のチャット部屋で、ある真言宗の方に出会いました。その方が私に「アーメン」とはどういう意味か、と聞かれました。私はカタカナ語が敵性言語の時代から信者なので、その当時覚えた「しか有らしめたまえ」という意味ですと答えました。

そうしたら彼が「ではどうしてそのように唱えずにアーメンと唱えるのか」と聞かれました。私は、ただ、それが伝統だからと、軽く答えたところ、彼は毅然として言いました。

そうではない、それが「真言」だからだ。真言は神の直接の言葉であって、民族語だの現代語だのに訳すことができないのだ。だから般若心経の最後の言葉は、何語にも訳せないからそのまま、ぎゃてい、ぎゃてい、と唱えるのだ。

そういって、彼は消えていきました。彼にはどのチャットの部屋でも二度と会うことがありませんでしたが、凄い言葉を残して言ったな、と、今でも心に深く記憶しています。

私は幼児体験で記憶に刻んだラテン語の祈りがいまだに口をついて出てきます。もし主祷文を現代的に訳すなら、「天の父ちゃん、今日のおまんま、おらにくれい」なんていうので良いのでしょうね。


手負いの虎さん こんにちは   少しも 「空恐ろしい」ことありません。  決して取って食うなんてしません。 

なるほど、 真言ですか。そうかもしれませんね。 私が子供の頃はミサそのものがラテン語でしたね。でも、「祈祷文」という祈りの本は日本語でしたけれど。 もうその段階で各地方の言葉は取り入れてあったのです。 でも 日本の言葉の変化に合わせて 祈りの言葉も止まるところなしで変化しています。  でも、英語の祈りには 言葉の変化はわたしの知る限り無いです。 勿論式次第には変化はあります。 

  日本人の社会のバプティストの人たちのお祈り訊いていますと。  決められた祈りを唱えるのは、人が書いた祈りで、意味が無いと、「天国のお父様~」などで始まり、各々の気持ちを唱えていらっしゃいます。 でもそこには たくさんのお願いと少しの感謝が込められていますが、神への賛美は余り聞こえませんでした。 賛美をする前にお願い事が多すぎるのでしょう。

 しかし、仏教の世界では、お経の言葉も分かりやすいように現代語に改正されているわけではないでしょう? そこが分からないのです。 般若心境や何妙法蓮華教 の改正タメ口版、自分の言葉で唱えなければ意味が無いなんて 誰も云わないのでしょうかしらね。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

二言だけ、これは文字を間違えると、意味がまるで変わるから。

「般若心経」は「はんにゃしんぎょう」と読み、「心境」ではありません。

「南無妙法蓮華経」の「南無」は「なむ」と発音し、「帰依する」という意味です。法華経の経典に書かれているすべての真理に対して帰依するという意味です。

母語は人間との交流の言葉であり、真言は神秘なる存在との交流の言葉だそうです。だから真言密教では、真言を師から弟子に直接伝え、決して訳語を伝えないのだそうです。真言をそのまま伝えることによって、真理なる存在との交流が世代を超えて可能になり、時代の歴史、時代の指導者の気まぐれ、時代の指導者の趣味によって、真理を書き換えられるということがないということのようです。

日本はもともと言葉に心を感じる「言霊」の国だったのに、言葉をいたずらに弄繰り回す異常な国になりました。

匿名 さんのコメント...

えーと、もう一言。信徒の段階では、プロテスタントの方々が言う「自分の言葉で祈らなければ意味がない」と言う言葉は正しいかもしれません。

しかし、どの国のどの宗教の指導者も、その役目は真理なる存在と信徒との仲介者としての役割を担っており、その役割で、ギリシャ語なり、ヘブライ語なり、ラテン語なりを聖職者が受け継いできたのです。

その聖職者が「真言」を捨てていいものか、「自分の言葉」というのは、自分への執着を断ち切れない言葉でもあります。

現代の日本の神父さんはラテン語のラの字も知りません。ただひたすら、時代の指導者の趣味に仕え、わけのわからない説教をし、ミサの1時間に耐えるという修行を信徒に強要しております。