2009年3月3日火曜日

手負い虎 さんが投稿「手負い虎 さんが投稿「じゅんたろう さんが投稿「マンモス 十字架」にコメントを書き込みました。」にコ...」にコメントを書き込みました。

二言だけ、これは文字を間違えると、意味がまるで変わるから。

「般若心経」は「はんにゃしんぎょう」と読み、「心境」ではありません。

「南無妙法蓮華経」の「南無」は「なむ」と発音し、「帰依する」という意味です。法華経の経典に書かれているすべての真理に対して帰依するという意味です。

母語は人間との交流の言葉であり、真言は神秘なる存在との交流の言葉だそうです。だから真言密教では、真言を師から弟子に直接伝え、決して訳語を伝えないのだそうです。真言をそのまま伝えることによって、真理なる存在との交流が世代を超えて可能になり、時代の歴史、時代の指導者の気まぐれ、時代の指導者の趣味によって、真理を書き換えられるということがないということのようです。

日本はもともと言葉に心を感じる「言霊」の国だったのに、言葉をいたずらに弄繰り回す異常な国になりました。

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えーと、もう一言。信徒の段階では、プロテスタントの方々が言う「自分の言葉で祈らなければ意味がない」と言う言葉は正しいかもしれません。

しかし、どの国のどの宗教の指導者も、その役目は真理なる存在と信徒との仲介者としての役割を担っており、その役割で、ギリシャ語なり、ヘブライ語なり、ラテン語なりを聖職者が受け継いできたのです。

その聖職者が「真言」を捨てていいものか、「自分の言葉」というのは、自分への執着を断ち切れない言葉でもあります。

現代の日本の神父さんはラテン語のラの字も知りません。ただひたすら、時代の指導者の趣味に仕え、わけのわからない説教をし、ミサの1時間に耐えるという修行を信徒に強要しております。





手負いの虎さん  ご指摘ありがとうございます

「般若心経」  そして 「南無妙法蓮華経」 マイクロ ソフト オフィス は何とも正直ですから私の発音通りに表示します。 それを何の不思議とも思わず投稿するのは 私の日本語の不確かなのを露見させました。  ご訂正ありがとうございます。

1 件のコメント:

じゅんたろう さんのコメント...

手負いの虎さんこんにちは。快哉!その通りです。私の義理の息子は真言宗高野山派の信者です。ともに暮らしていても信仰上のいさかいをしたことがありません。「光明真言」やそれぞれの仏の真言を日本語に直すと意味が通じないのです。「般若心経」のみ為らず「観音経」は言うに及ばず「理趣経」も徹底的に学びました。声明の美しさはグレゴリアン・チャントに引けを取りません。空海を学んでいるうちに、どうも彼の人は中国で初期キリスト教に接触したのではないかと思われます。それが八世紀の頃ですのでアリウス派か東方教会の一派かわかりませんが、真言宗を単に「仏教」と言う範疇に入れたくないものがあります。それに触れると長くなりますが、真言宗における「大日如来」の位置です。いずれまた。