2009年3月1日日曜日

じゅんたろう さんが投稿「マンモス 十字架」にコメントを書き込みました。

おかしいのはカトリックだけではないのですね。困ったものです、教会が信徒の心配をするより信徒が教会の心配をしているって、一体何が起ころうとしているのでしょうか。
私はこの一月から近くの巡回教会を発見!しまして行きだしました、しかし聖水も無い御堂で信徒は手で拝領します。新ミサでは司祭はちょぼちょぼと手を清めます。しかし隔週に来る助祭は単に御聖体を配るだけです。
日本の神社には流れでている手水がありお寺でも蹲(つくばい)があります。今話題の相撲でさえ塩による土俵の清めは大切行いです。現教皇は典礼の崩壊が信仰を崩していると枢機卿時代の論文に書かれています。四旬節に入り「スタバト・マーテル」の祈りを黙想し十字架は単にキリスト教のシンボルではなく「神の苦しみ」の印なのであると感じています。御聖体を受ける時、単に跪きでは無くラマ教徒の如く五体倒置程の謙虚さが必要なのです。しかし、新ミサに変更してから四十年です。あの壮麗でつつしみ深い御ミサを体験している人たちはもう僅かになってしまいました。近いうちに私は隠れキリシタンになろうとしています。有るトリエント・ミサをおこなって居られる司祭から新ミサに与らずとも良いと許可を得ました。それをどちらか選択するべきは私です。辛いことです。





じゅんたろうさん、 お気持ちよく理解できます。

お向かいのテイラーさんもう一つ あのマンモス十字架に関して感想を漏らしていました。
あれを少し離れて 眺めていると、 なぜか「バベルの塔」の話を想いだすね。

『さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして全地に散らされることのないように』

日本の古い神社に入っての手水、 お坊様のきらびやかな僧服、もうもうと立ち込めるお香の中で、 僧侶のお腹の中から絞りだすようなお経。 あの仏教の儀式の中にも改革とか刷新とかいうのがあるのでしょうかしら。 お寺詣りの折の日本の方々の紋を正した服装。 素晴らしいです。 日本人が、生活習慣や会話を変化させている中で、あの世界だけは そっと、そのまま大事に置いておく、 あの、そっとして置く気持ちがカトリックにも欲しいです。 

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

自分の気持ちを、自分のブログ以外に書き込むのって、空恐ろしいのだけど、このエピソードだけご紹介します。

ある仏教関係のチャット部屋で、ある真言宗の方に出会いました。その方が私に「アーメン」とはどういう意味か、と聞かれました。私はカタカナ語が敵性言語の時代から信者なので、その当時覚えた「しか有らしめたまえ」という意味ですと答えました。

そうしたら彼が「ではどうしてそのように唱えずにアーメンと唱えるのか」と聞かれました。私は、ただ、それが伝統だからと、軽く答えたところ、彼は毅然として言いました。

そうではない、それが「真言」だからだ。真言は神の直接の言葉であって、民族語だの現代語だのに訳すことができないのだ。だから般若心経の最後の言葉は、何語にも訳せないからそのまま、ぎゃてい、ぎゃてい、と唱えるのだ。

そういって、彼は消えていきました。彼にはどのチャットの部屋でも二度と会うことがありませんでしたが、凄い言葉を残して言ったな、と、今でも心に深く記憶しています。

私は幼児体験で記憶に刻んだラテン語の祈りがいまだに口をついて出てきます。もし主祷文を現代的に訳すなら、「天の父ちゃん、今日のおまんま、おらにくれい」なんていうので良いのでしょうね。