2009年1月31日土曜日

じゅんたろう さんが投稿「矛盾ーわからない」にコメントを書き込みました。

オバマ大統領は堕胎主義者」、それなんです。日本の新聞にはそれについて何もコメントしていません。優生保護法がいまだにまかりとおっているからでしょうか。強姦や不倫による妊娠は辛い事です。私は四十代後半数年間、聖マザー・テレサ共労者会の・・・ホーム(実在しますので正確に書くことができません}の共労者としてヴォランティアをしました。本人の周りを説得し生まれ出る命を救うのです。活動に中にはドメスティック・ヴァイオレンスで肩を抱き合って暮らさなければならない家族への救いもありました。県や市の機関や病院へ日参し費用や秘匿所の確保などが私の受け持ちでした。人助けをした満足感?いえいえ、いまだに悲しみだけが残っています。関わりたくなかった悲劇を目の当たりに見てしまいました。
オバマさん、アメリカ大統領の言がどれほど大きく世界に波及する考えてください!





じゅんたろうさんコメントありがとうございます

15歳の少女が妊娠したとしましょう。  彼女は母親に伝えるのが怖いゆえ学校の教師や友人に伝えたとしましょう。  
そしてその少女は教師に赤ちゃんを産みたくないと伝えた場合、学校側か、或いはその友人は少女を医者へ連れていき無料で堕胎が出来るのです。  そして、両親は一切それを知らされないのです。 医者も学校も友人も、その当人が親に黙っていてくれと頼んだ場合は、当人の許可なくしては両親には伝えらないのです。   その意味がおわかりですか?

未成年でも、婦人科の医者の診察を受けて、その結果を親が訊いても医者は患者自身の許可がなければ伝えてもらえないのです。   おかしな話ですが、 医者の支払を母親がしても、医師は親に検査報告を知らせません。 

現在の学校では、生徒はアスピリン一つ学校内でのむことも親の許可がいるのに、 堕胎は親が知らされないのです。 こんな矛盾がまかり通るのです。

2009年1月27日火曜日

あの頃のあの人

誰でもそうだろうが、時折自分の生きて来た道のりの中で出会った人たち、通り過ぎた人たちをフット想い出すことがある。あの折の、あの人は今何処で何をしているだろう。まだあの人は元気だろうか、そんな過去を考えることが多くなった。

私の父は昔関西のある大学の美術の教授であったそうだ。それは私が生まれる前、戦前の事であるが。 
戦後間もなくに建てた新築の二階建ての家のそれも一番隅に父のアトリエを設置した。 あの頃はまだ父も大學を辞めて、会社勤めに忙しく二階のアトリエに籠って絵を画くことはまれであったが。 私の覚えているかぎり父は寡黙な人であった。
必要以上の言葉は口から出ることがなかった。しかし無口とは違うと思う。たぶん母が人一倍おしゃべりであったからまず父が口を出す機会など与えられていなかったのだと考えるほうが妥当だろう。
夕食後のひとしきり母のおしゃべりの相手が済むと父はあの頃の言葉で「応接間」と呼ばれていた洋間で一人たばこを吸ってじっと考えごとをしていることが多かった。 典型的家庭の主婦の母は「私はお仕事の話はわかりません」と宣言していたから仕事上の問題などを家庭で話すことはまずなかった。 きっとあの部屋で一人たばこを吸っていたのはもろもろの考えを整理していたのかもしれない。
 
その父が時折二階のアトリエに入り、絵筆をもってキャンパスに向かっている時は、とても穏やかな表情であった。きっと想うに任せて自分の気持ちをそのまま表現していたのだと思う。

私も、もしも神の許しがあってもう一度この世に生まれてくることがあったら、迷うことなく絵描きになりたいと望んでいる。 たぶんそれでは生活が出来ないであろうが、夢の又夢を想うときは現実の生活は必要ない。
 自分の言葉、気持ちを筆に換えてキャンパスに表現できることが私にも出来たらどんなにか素晴らしいだろう。

私がまだ中学生の頃だったと思う。 一人の青年が曜日は覚えていないのだが、一週間に半日、父のアトリエに来て絵を描くようになった。 
どのような経過を辿って我が家に来るようになったのかは知らないが、この青年は母のとても親しい友人の長男であったと思う。 彼の父親は最も左翼的なことで有名な大手の新聞社の一流記者であったと記憶している。
彼の家庭が一流志向であったことは何となく母からの話から知っていた。むしろかれはその家庭の落ちこぼれではなかったかと、それはまだ中学生だったわたしでも感じていた。 親の希望する大学を出て、親の希望する会社へ入り、 サラリーマンとして生活しているが、彼は絵が描きたかったのだそうだ。  絵を描きたい気持ちを消しさることが出来ず、 かといって美術を目指すことも許されず、父親や母親から、絵を描きたい? ふざけるなと云う家庭環境の中で彼は必至に我慢していたのではないだろうか。

今はもう大学も出て、就職もして、そこで初めて自分の意思を少し主張したのかもしれない。 結局母親同士の話し合いで、 父のアトリエに通い、父から絵筆の指導を受け、時間の許す限り描くだけ描いてみると結論がでたのかもしれない。
しかし、私の父は、 絵を描くことは教わることではない、 兎に角自分の思うままに描きなさいと諭し、彼の我が家への通いが始まった。 

この青年は時間を見つけては背広にネクタイ、カバンをもって我が家の門の前に立ち、蚊の鳴くような声で「こんにちは~」。玄関の扉を開けるとそのままスーッと二階へあがり、一人絵を描き始める。 数時間、無言のまま彼は絵筆をもち、 夕方になると又カバンを持って「失礼しました」とか弱い声で挨拶をして帰る。

帰宅した父が時折二階へ上がって彼の絵を見ることもある。 又時には彼の絵に父が筆をなぞらしていた時もあった。そして次にその青年が来た時は私にそっと尋ねるのだ、「あの~、お父さん僕の絵を見ました」?そして嬉しそうに微笑む。

土曜日の午後など一緒の時は二人の間には一切の会話がない。 私の部屋がその隣の部屋であるゆえ、いつも壁に耳あり、二人の会話が訊きたくて耳を澄ますが何も聞こえてこない。ある日たまらなくなって私はドアを開けて部屋の中を覗いたが彼らは仲良く各々のキャンパスに違う絵を描いている。  ただ違うのは、その青年が父の描く絵をジーット見つめているだけ。 二人共同じ部屋に居て長い時間をまさに無音である。 

ある日私は父に尋ねてみた、あの人に絵の描き方を教えないの?何も云わないけれど、あれで良いの? 父の答は簡単であった。  

「絵描きというのはネー 最も芸術家と称する一般の人も同じだが、決して後から来る者の作品は褒めない。 人によっては徹底的に批判し、もう二度と立ち上がれないほどにこき下ろすものだよ。 芸術家はその酷評から立ち上がることになっているのだけど、 お父さんはそれが嫌いだ。  絵なんていうのは、自分が良ければいいのだよ。 なんでもそうだ。 規格はない。表現の世界だから」
「それであの人の絵はどうなの? もし批評するとしたらやはり酷評になるの」しかしその答えは貰えなかった。
そうかもしれない、芸術とは人が芸術家と評価するもので、私の作品は芸術ですなどというのは可笑しいのだけれど。しかし時々そんな自称芸術家は居るけれど。

あの青年は描きたいから描くのであって、絵描きになりたいわけではなかったはずだ。 趣味の域などと云う言葉を私は嫌いだが、少しでも自分の頭にあること、胸に潜むもの、 目で見る物をキャンパスに自分の気持で表現できるかということになるのだろう。 あ~うらやましい。

ある冬の夜、その日の夕食はすき焼きと決まっていた。父の帰宅を待って母はその青年に夕食を一緒するように誘った。
  
すき焼きが食べ処になり、母の一言、 「さーみんな食べてちょうだい」の言葉に家族一同は生卵を器の中に割り食べ始めた が、彼はその生卵をじっと見つめている。 卵が嫌いなのかと母の問いに、 「いえ、そうではありません。 卵をわったことないのです。」「???」そして彼は夕食後に出た林檎の皮むきも出来なかった。
一瞬私は、「みかんの皮むける?」と聞いたら母に睨まれた。

食事中にあの青年は 「アノーこの家ではいつもこうやってお父さんと一緒に夕食をするのですか」と訊く。 「勿論そうですよ、うちではお父さんが帰らないと夕食は始まりませんヨ」という母の応えに、 
「僕は父親と夕食を食べた記憶があまりないのです。父はいつも遅くて、子供の頃から僕たちが寝てからの帰宅でしたから」 家族みんなで食事をするって云いですね。 
母親と祖母に育てられていたこの青年はゆえに、卵もわれず、リンゴの皮むきも出来ない産物と化したらしい。 

その青年も一年後には我が家に来なくなった。 見合い結婚をしたと聞いた。 それと同時に彼はもう絵を描くことを辞めたそうである。
もしあの青年がまだ元気で居たら、また絵筆を持っているだろうか? 結婚を境に絵を辞めると聞いたが、あの青春のひとコマ、私の父のアトリエをあの人は覚えているだろうかしら。  

2009年1月25日日曜日

矛盾ーわからない

アメリカ国民56%の支持を得たオバマ大統領は戦争を嫌い、自然を愛し、 動物愛護の超リベラルに支えられている。 独裁と非情で世界を恐れさせたキューバのカストロがいたく新大統領を気に入っているという。 多分カリスマ的な指導者が気に入られたのだろう。そのほかとしてカストロ氏は何を感じているのだろうか興味がある。
 オバマ氏自身はリンカーン大統領を崇拝しているそうだが、彼は共和党の大統領であったのが少し違う気がするのだが。

映画の街ハリウッドの有名無名の俳優群がオバマ氏を熱情的に支援しているのも私には少し解せないのだが。 彼らはリベラルであるが、極端な動物愛護、自然保護、魚介保護(鯨、 イルカの類の事であるけれど)。 中国、韓国やインド、アフリカへ出かけては薄幸な子供たちを探して養子縁組をしてアメリカに連れ帰って育てている。  また同性愛者の法的婚姻を支持している群れである。どれを取り上げても尊敬に値する行為であることには変わりはない。  

数ある有名な俳優やTVのエンタテイナー達は自分たちの私生活は同棲をつづけ、 「私たちの愛の生活には法律的な手続きを必要としないのです。 婚姻などはただの形式です。」そう答える彼らが、同性愛者の法的婚姻を却下する州へ足を延ばし、デモに加わり、 法的に認めよと叫んでいる。 何処かが不自然である。

オバマ大統領は堕胎支持者である。 
「自分の娘に間違いが起きたとき、その間違いの為に愛する娘がその後の人生を償い(Purnishi)させるつもりない。」これは選挙演説の中の一条である。
73%の黒人社会の子供は父親不在で育つ彼らにはこよなく支持を受ける言葉ではないだろうか。

クリントン大統領が認可して、ブシュ大統領でまた閉ざされたNGO (non Government organization)の堕胎支援グループが求める政府資金援助へオバマ氏はわずか就任二日目にしてその懸案を取り上げ、時間が出来たら速やかに援助を認可すると応えている。 
この支援機関は世界に幅広く育っている。この案が又認可されれば、 アメリカ国民の税金を使って、この支援団体に駆け込んだ妊婦はアメリカ、及び他の国を問わず無料で堕胎が出来るのだ。 

ここに来て私の思考能力は止まってしまう。  動物愛護で豹を殺すな、ライオンを殺すな、象を保護しろ。 日本の捕鯨船に体当たりで阻止をする団体がどうして堕胎を大統領の力で援助するオバマ氏を支えることが出来るのだろうか。 

さしずめ、ハンバーガーを齧りながら、動物愛護のデモに参加するのは可笑しいという冗談は認められなくなる。



    

じゅんたろう さんが投稿「お豆 3」にコメントを書き込みました。

何と、まるでスキー・ブーツですね。骨折ならともかくも使わないってのは賛成ですね。
私が三十代の頃左のひらめ筋を切リ約一月ギブスをまかれました。見る見る筋肉は衰え左右別人の足のようでした。ギブスを取ってからも一月はよたよたしか歩けませんでした。
日本の外科補助器具はもっとシンプルです。「本来、人は傷ついた身体を元に戻そうという力が働くそうです。器具はそれを助けるものでなければならない筈です。」と私が通っている整形外科の療養士のアドヴァイスでした。




じゅんたろうさん100%賛成です。
これはプラスティックで出来ています。さしずめ今風の合成樹脂っていうのでしょうね。
 両足使用すればさしずめロボコンですよ。
今は病院からの請求書が楽しみです。 あの足一本の価格が知りたいです。
縫った箇所が当分痛いのは我慢できます。 でも回復を遅らせるのは反対です。  

2009年1月22日木曜日

お豆 3



お豆の刈り取りから二週間目にやっと自分の足を取り戻した喜びは大きい。腫れあがったくるぶしと痛みが伴うが、自分の足で歩くことが本当に嬉しい。 しかし使わない肉体の衰えの速さには恐怖を感じた。わずか二週間で歩きはじめた右足が萎えたようにガクッと膝が折れた。 

 一週間後の検診で取ってもらえたギブスは、診察後に再び付けられ、泣きたい思いの数日。 五日後の診察でギブスから解放されたが、今度はロボットの足を付けられた。  もう歩く練習をして良い、車の運転もして良いと云いながら何故にロボットの足を付けるのか不思議なのだが。
室内での歩行、車の運転、歩く練習の時は外して良いが、 外出には付けるようにという。ロボットの足を付けて杖をついて歩けと云う。 矛盾している。 

何処から見てもロボットの足としか見えないこの足は、前、両脇と後に管があり、 足を入れて固定した後、その管から空気を入れて内側をしっかりと足に添わせるのだが、 技師が空気を入れ過ぎて、中の足が締め付けられて悲鳴をあげていた。まだ腫れている足くびを絞めつけるのだから、悲鳴は足からだけではない。私の神経も悲鳴をあげている。 それでもわたしは病院を出るまでは素直にそれを付けて出てきたが、帰宅と同時に外してそれでお終い。まず二度と触ることはないだろう。 歩けば歩くほどに足もしっかりして、 痛みも腫れも日一日と消えていくのに予備のもので固定されては快復が遅くなるだけのように思うのは私の焦りだろうかしら。 

出来ることなら二週間後に決められた診察の予約を最後にこの医者とお別れが出来たらどんなに素晴らしいだろうかしら。  

2009年1月16日金曜日

じゅんたろう さんが投稿「お豆 2」にコメントを書き込みました。

この所忙しくてPCを開いていませんでした、そんな難儀をされているとは!
ひょとして”ガングリオン”というものではなかったのでしょうか?私も左くるぶしの外側に親指大のものがあります。両膝頭にもあります。それこそ豆のような大きさです。確かにこれがかかとなら歩けないだろうなと思います。医者は切除する必要はなじゅんたろう さんが投稿「お豆 2」にコメントを書き込みました。

いと申します。この間スキーへ行った時シューズにすれてかなり痛かったのですが、普段はくるぶしを覆うような履物ではないのでそのままにしています。
もう直ぐ”豆まき”です。”鬼は外!”お大事に。
じゅんたろう




じゅんたろうさん  同情してくださってありがとう ございます

難儀の全ては足を固めたときに技師があまり良い仕事をしなかったからだと思います。  もっともこちらは眠っていたのですから文句を言えた義理ではないのですが。  歩かせないようにしたのか、つま先を伸ばしたままになっているのです。 踵で曲がっていないので足を下につけることも出来ず、難儀はここからです。明日は 医者の予約の日、今晩はうれしい夢を見ます。

2009年1月14日水曜日

お豆 2

朝九時に出廷せよ。 そんな気分で整形外科医のドアと叩いた。 医者の予約日を、感謝祭があるから、 クリスマスが来るから、サンジェゴへ行くからと出来うる限りの云い訳を使って引き伸ばしてきたが、ついに長年連れ添ったお豆さんとお別れの日。 

レントゲンで診ると、かかとの骨の先に直角に何かが生えている。 医者に何ですかと訊いても分からないという。 切り取って検査しなければ返事が出来ないそうだ。 
それでは、
過去にこんな症状の患者を診ましたか?の質問に、
居ましたよ。 時々こんな患者がきます。
それで、それらは何でした?
いろいろでしたネ。
まるっきり頼りにならない医者ジャ。

たかだか、本当にたかだか、かかとの先のお豆をえぐるのになんと全身麻酔をするのだそうだ。 冗談じゃない、 局部麻酔でいいでしょう?と訊いたが、 骨を削るのに耐えられますかと嫌なことを云う。 

ベッドに寝かされ、 心電図の先を背中に貼り付け、(うつ伏せになるから背中なのだそうだ)シャワーキャップを被せられて、手術室へ直行。ハイ麻酔を打ちますと云われたとたん私は眠ってしまった。
またやってしまったのだ。
 
 34年前に息子を帝王切開で産んだときも、もろもろの事情から緊急切開だったがその前に多少の陣痛はあった。 しかし、 数分おきに来る陣痛が始まると私はカクンと眠ってしまう。 ほらー痛みが来ると聞いた途端にカクンを繰り返すのを姑と主人と医者がベッドの脇でそれを見ている。 姑が「あらイヤダ この子眠っているよ」と大声で言って呆れている。「このクソババー出て行け」と怒鳴りたかったが声にならない。 
後で、あれは痛みで気絶したのだと云い訳を云ったが、主人は信じてくれない。 「気絶した人がイビキかくかな~」それを境に私の主人への愛情が薄らいだことは責めないで欲しい。

目が覚めたらまた元の部屋。 麻酔医がニコニコしている。  
「それで手術はいつですか?」と聞く私に、 「もう済みましたよ、よく眠っていましたね、コーヒーでも飲みますか?」コーヒーカップを手渡してくれるこの真に親切なお医者さんが私は気に入った。それに若い。

しかし、シーツを剥がしてみたら私の右足は膝の処までフャイバーグラスで固められあった。
昔は石膏を使ったのだろうが、叩くと音がする。松葉杖が良いですか? それともウオーカーにしますか?一週間は右足を床に付けないで下さいね。床に付けるも何もない。 丸太状の足でどうやって歩くの。 

あれから五日、私は家の中でウオーカーのお世話にならないと体の移動が出来ないというみじめな毎日を過ごしている。

コーヒーカップを手に持って歩く事が出来ない。本を取りに行っても、それを持って歩けない。片手が留守になるとウオーカーが持てない。ゲッと思う事の繰り返しである。 そして副作用は、両腕が痛い。自分の体を持ち上げて歩くのだから腕立て伏せまがいの運動と同じだ。
足の痛さ、のどの痛さ、これは呼吸をするためにのどに何かを指し込んだらしい、そして全身に来る筋肉痛。  本当にたかだかかかとのお豆一つに良くもこんなに大袈裟なことが出来るものだと感心する。 これはさしずめ病院の料金稼ぎの仕業ではないかと思う。それ以来考えられない。 だから私は病院が嫌いだ。みんなでよってたかって私をいじめる。
 
娘に電話で嘆いたら、 ママ、治ってもそのウオーカーを使うと、筋肉が引き締まるね。などと云うし、 差し入れをしてくれた友人は、そのウオーカーはあなたの将来の為に持っていたほうがいいわよ。  いずれそれが必要になるから、などとつれない事を言う。 
心と体の痛みなどは所詮本人しか分からない。

 しかし一番余波を受けたのは我が家の亭主クン。 気の毒に、料理、洗たく、掃除と私の世話、訪ねてくれた私の友人にお茶とクッキーを出して、なれない仕事でフラフラになっている。まあこれは、私に相談なく医者にわたしを売った償いが今来ているのだろう。
 そして四日目には朝6時、まだ私が眠っているうちにそっと起きて仕事へ逃げてしまった。哀れな歩けない妻を家に一人取り残して。 気奴私を私を兵糧攻めにするつもりかと思ったが一応冷蔵庫に食糧は詰まっているから文句は言えない。

手負い虎 さんが投稿「お豆 1」にコメントを書き込みました

私なんか、何言ったって、精神科に行けといわれるモン。私にそういうのができたら「精神的筋腫」とかいわれそう。

しかも、23年前帰国時、下腹に自分で触ってもわかるくらいのピンポン玉ぐらいの大きさの異物がでて、町医者に行ったら、子宮筋腫だとか言われて、手術の運びとなったことがあります。

手術の運びとなって入院までしたのですが、手術の直前、ピンポン玉は消えました。想像妊娠ていうの知っているけど、「精神性ピンポン玉呼び込み炎」だったらしいです。

以後、家族にはどんな病気も相手にされません。

ともかく、お大事に^^。




手負い虎さん お見舞いありがとう

ピンポン玉が消えたのはきっと 球コロが恐怖のあまりに一時的に逃げたのですね。球コロにも生きる権利があるわけですから。
  わかるナ~。 それまだ体の中で生息していますね。 私たちの年齢になって生活に害を与えていないのでしたら仲良く生きていけばいいのです。 
私は心臓の一部の管に穴が開いています。 これは産まれたときからですが。 もう新しい医者へ行くと皆んなびっくりして、同僚の医者やインターンを診察室に呼び込んで、ひどい時は一列に並ばせて、一人一人聴診器を手に持って私の心音を聴いてから、意見の交換などします。

専門家は直ぐに、 その管の穴を閉じましょうって意気込むけれど、 穴が開いたまま此処まで生きてこられたのに、今さら閉じたら、生きられなくなるのを心配していつも丁寧に断ります。

一病息災っていう言葉があります。 お互いに、静かに、そっと生きましょう。 
健康体を保つためにしてはいけないことは何カ条かありますが、 
法律だって、宗教だってしてはいけない事項が山とあります。 その延長戦だと思えばどうってことないです。

2009年1月13日火曜日

お豆 1

大きさにして、豆粒ほど、 触ると柔らかい、押すと脳天を貫く痛さ。 痛さにはそれぞれその人が絶えられる段階があるだろうが、私にはこのお豆を押すと痛みが脳天に来る。 このお豆が右足のかかとの先に出来てもう十数年になる。  最少は痛みがあまり無かったと思う。 朝出かけようと靴を履くとその日によってお豆さんは自分の存在を表す時もあるし、 気がつかずに眠っていてくれる時もあった。 歩きだして多少の痛みを感じても、 すぐにそれが消えてしまうので 神経の塊がかかとに出来ていてそれこそこちらが神経質にならなければ大丈夫と安心していた。  

しかしこの一年間にこのお豆さんが少し成長して、年齢を重ねて来たのか少しイライラしていると見えて全く靴が履けない。 靴に圧迫されると、涙など出ない、胸が痛くなる痛さに耐えるしか仕方がない。故にこの一年私はかかとの覆われている靴は履かないで過ごして来た。サンダル形式の履物でも昨今の店には結構洒落たのがあるからそれで済ましている。

このお豆さんは私一人の秘密であまり家人にも話さない。話せば返ってくる言葉は一つ。「医者へ行けば」だから秘密なのだ。
しかし最近体重の増加と共に運動靴を履いて「歩け、歩け」をしなければ間に合わなくなってきたがその運動靴が履けない。 
主人に、このかかとの神経の塊は何とかならないかしらねとボヤいたら、
かかとの先に神経なんてあるの?
痛みがあるのだから神経は通っているでしょう。
でも骨だけだよ。
靴ずれが出来ても痛いのは神経があるからでしょうがと云い負かしてはいたけれど
本人も最近このお豆さんに不自由して来ている。  もう十数年の付き合いだし、お互いがもう少し妥協し合えば共存できるのにと思うが、相手さんは最近少し暴れ出している。非常に不愉快である。

主人にボヤいたのがアダになった。 彼は知人の医者に相談し紹介された整形外科医に予約をとった。足のかかとなのになぜ整形外科医なのか不思議なのだが、それよりも、こういう出過ぎたことを家人はするから困るのだ。 痛い痛いと云いながらも十数年連れそった私のお豆さんと別れるつもりはまだなかった、それに私だけが頼りでかかとにへばりついている小さな生き物を切り離すのは少し可哀想ではないか。   

2009年1月4日日曜日

手負い虎 さんが投稿「グランド ホグ (Ground hog)」にコメントを書き込みました。

明けましておめでとうございます。

可愛いですねえ。見たことも、聞いたこともない動物だけど、表情がウサギみたい。ところで、アルマジロは、うろついていませんか?あれ、地域によって少しづつ違うので、知っているのと比べてみたいのです。

この動物、どこにも流用しませんから、コピーして保存しちゃいけませんか?「革袋動物集」作っちゃおうかと・・・。



手負い虎さん 新年おめでとうございます。
今年も宜しくお願いします

もちろん、私のけったいな写真で宜しければ何時でもコピー保存なり、流用なりご自由にして下さい。  私も今年はもう少しまともな写真が撮れるように努力します。  

アルマジロはこのテキサスに良く生息している筈です。 中南米産の動物ですね。  良く土産物屋のマスコットになっています。 カメラはいつも携帯するように自分に習慣つけるようにしていますから、案外いつか見つけて写真が撮れるかもしれません。 

2009年1月3日土曜日

グランド ホグ (Ground hog)




話には聞いているが実際に見たのは初めての小さな動物である。  穴を掘って冬眠する動物だそうだ。
サンジェゴの海岸沿いを歩いていたら、海岸線に並行して並ぶ公園の土が掘り起こされて小さな穴ぼこだらけ。 その穴から穴へ小さな動物がかけずりまわっていた。 最初はリスかと思ったが、警戒心が強く傍によると急いで穴の中へ入ってしまう。そしてこちらが行き過ぎると穴からポット頭を出していかにも人間をやり過ごすしぐさが何とも可愛らしい。 

こちらはてっきりリスだと思ったから、 サンジェゴのリスはヒューストンのリスより器量が悪いねなんて言っていたら彼らはグランド ホグなのだそうだ。  

歩みを止めて、こちらを停止状態にしたら彼らは安心したのか、あちらの穴、こちらの穴から顔を出す。そしてお互いの穴から穴へとなんとも忙しい。 

正直なところ、穴を掘って暮らすゆえモグラなのかと思ったが、辞書を引いてみたら、土竜とは違いモルモットの一種だと書いてあった。

確か何年か前に 「グランド ホグ デイ」 という映画があった。 毎年二月の第二週目に穴からグアンドホグを引っ張りだし、自分の影を見たら再度穴に潜りその後六週間は出てこない。 すなわち冬が後六週間続くという意味なのだそうだ。  春の来るのを待ちわびる雪多い地方で実際に行われる祭りだそうだ。現在でも二月になると、 テレビやラジオのニュースで、グランド ホグが影をみました。 春は六週間後に控えていますと報道される。しかし、一年中温度の差が少なく、 少し寒い程度のサンジェゴのではクリスマスの時期でも穴に籠らず、陽の中をかけずりまわっているらしい。