2007年8月28日火曜日

秋夫君大学一年生

わが長男の大学入学。ダラスの北60マイルほどの小さな大学町。一言で言うと田舎である。我が家から500 マイル前後だろう。 本人が見つけた大学は美術科の写真部には多少名の知れた教授が席を置いていると説明を受けた。なるほど。願書を出す前に家族全員でオープン ハウスへ出かけた。新入生の為の大学説明会である。上級生達がニコニコと愛嬌を振り舞いて接客に忙しい。 すっかり気に入った秋夫君は、もうこの学校へ入らなければこの世が無いありさまだ。


当学校の特色は最初の学年二年間で専攻課目を取らせてくれること。 そして教養課程は後の二年間へ後回し。 お勉強の嫌いな秋夫君はこれに飛びついた。数学だ英語だなんてそっちのけで写真だ、色彩だ現像だとすっかりのめり込んだ。そして「ママ金足りない」コールも始まった。カメラ一つぶら下げての写真家希望は認識不足であった。 瞬く間に三台のカメラを買わされた。そしてまあ材料費の高いこと。 

12月クリスマスが来る。 誰でも家族から離れて暮らしている人たちの一年で一番楽しい時季が来る。秋夫君もガールフレンドを連れて帰宅すると宣言した。
彼女の名はアン。一年上級の「年上の女」。

六時間の運転から開放されて二人が荷物を運び込むその中に子猫が二匹籠の中でミー ミーと鳴いている。双子なのだそうだ。
アンが女子寮で飼っているがクリスマスで寮の生徒が居なくなるからと連れてきた。しかし我が家には性格のとても悪い小さい婆さん犬がいる。どうやら我が息子は彼女に先住者の犬の話は出来なかったらしい。彼女も婆さん犬を見て驚いていた。 私は知らないよ。

アンは秋夫君の部屋、我が家の一番奥まった部屋へ、秋夫君は玄関脇の部屋と一応部屋割りはスムーズに行った。これが母親のせめてもの注文。 私の道徳観念を尊重してもらわなければ我が家には入れないと一応彼等が来る前に伝えておいた。 目に見えるところだけ規律を守ってもしょうがないかもしれないが、何事も目の前から一歩が始まる。
猫はどうするのかと見ていたら、二匹の子猫、猫のトイレ、餌皿、水のボールと子猫が持参した荷物はアンがイソイソと秋夫君の部屋へ設置している。我が息子は年末と正月を猫と同室のようだ。 アンが好きならアンの猫までもと男の意地を貫くらしい。

朝アンが息子の部屋を開けると二匹の産毛もまだ生え揃っていない頭でっかちの子猫が秋夫の頭の上、脇の下からミャーと顔を出す。モソモソと起きだし、身に付けようとする息子のシャツの中へ飛び込む。なんとも可愛げな子猫達。


我が家の息子と娘の寝姿は今だうつぶせである。乳児の時主人がアメリカでは皆赤ん坊をうつぶせにしてクリブに寝かせはずだけど?と云い、あーそうかいなとそうした。 大人になったら半回転して上を向いてくれるのかと思ったが、まだそのままである。 夜秋夫君がうつぶせで寝るとその背中の上に二匹の子猫が上に乗って寝ている姿は正に猫が息子を支配している図としか見えない。

猫には驚いた、ガールフレンドにも驚いた。しかし耳と眉に付いているピアスと、茶色の髪を金髪に染めている息子を見たときは少しビビッタ。
日ごろから流行の刺青だけは警戒していた。折に触れ子供達に私がどんなに刺青に反対か熱弁を繰る返した。青春は一度しかない、でも誰もが必ずいつか老ける。引力の法則で全ての人間の体が年齢を増すと共に地球の中央へ引き込まれる。例外はナイ。その時垂れはじめた肉体は皺々(しわしわ)になって皮膚と共に刺青も地球の中心部へと垂れ下がるのだと力説して来た。
もし刺青を彫りたい欲望が湧いたら、自分の80歳の姿を想像してくれと子供達へ頼んできた。

だいぶ以前になるが、ミシン専門店へ針を買いに行った。およそ洋裁用具の店にはそぐわない老年の男性がカウンターの後ろで売り子をしていた。 ごま塩の角刈りの頭、出っ張った腹、サスペンダー付きのダブダブブルージーン。長袖のシャツの袖をたくし上げていたその腕に自慢?の刺青が手首から肘へとある。ピンク色をした裸体のベテイさんが腰をくねらせている画。かつて海軍の水兵さんだったのだろう。終戦直後に日本に駐屯していたと私に話しかける。この手の人間には良く合う。私の顔を見ると日本で駐屯していた頃の楽しかった話を始める、かつて日本に居たときに彼女が居たと言うのも同じだ。「彼女の名前はサチコさん、知っているか?」と聞く。彼等の為にも40年前のサチコさんが元気であって欲しい。
毛むくじゃらの腕に彫られた40年前のベテイさんのピンクの肌は色あせ何となく彼女の腹と乳が垂れて見える。
何度もこの話を二人の子供にして来たので刺青の話が出ると息子は「垂れ乳のベテイさんだろ」と返事をする。一度宗教面から話してみたことがある。 カトリックでは神様から与えられた肉体に故意に傷をつけたり、姿形を変えることは好まれないと話したら、「ママの耳のピアスはどうなるの」と来た、シマッタ。

クリスマスの帰宅中秋夫君の顔を見るたびに眉毛に張り付いている銀色の玉コロがチロチロしているのは非常に目障りである。母親の目が絶えずそこへ行くのきずいた主人がいち早く私の耳元で囁いた。
「何も言わない、何も見えない OK?」
金髪と銀の玉ころチロチロの秋夫君とアンは毎日楽しそうに遊びに行く。高校時代の友人が皆年末で帰ってきているのだろう。
しかし秋夫の眉のピアスの個所が赤く腫れ上がり炎症をおこしている。主人はそれでも母親は何も言うなと釘をさす。 親に言われて意地になり外すつもりの気持ちを止めてはいけないと言う。痛いのは本人なのだからこちらが口を出すことではないそうだ。


正月休みも終わり二人は大学へ帰っていった。 数日後息子から父親に電話があった。何となく新学期の話をしながら、眉のピアスは外したと報告して来た。 アンが取るように忠告をしたのだそう。 持つべきものはガールフレンドらしい。それからネー金髪の髪も一般的で面白くないから今度はグリーンに染めたから。



   もう本当に大学で何やってんだろうね。

2007年8月25日土曜日

A.A.A.D.D. Age Activated Attention Deficit Disorder

暫くぶりに天気のよい日で私は庭に水をまこうと決めた。そこで ホースを出し栓を開けようとして車を見たら汚れていてこれは洗車をしなければ。
そこで洗車もしようと車庫へ行き始めたらさっき郵便受けから出した今日の郵便の束が置いてあった。

私は洗車の前にまず郵便物から片づけようと思い、車の鍵を郵便物が置いてあった棚に置き、ジャンクメールを棚の下にある小さなゴミ箱へ投げ込もうとしたらそのゴミ箱がもう一杯。

そこで私は請求書などの郵便物を又棚に戻し、まずゴミ箱を空けることにした。でも 大きなゴミ箱は郵便受けの側にあるんだと気がついてそれならまず支払いの必要なものから小切手を切って封筒に入れてしまえば一緒に郵便受けに出しておけると考えた(アメリカの郵便受けは、出す郵便物の回収もしてくれます)。

居間のテーブルに座り小切手帳を開いたら残りが1枚しかない。新しい小切手帳を取りに書斎へ入ったらデスクの上にさっき飲みかけていたコーラーの缶を見つけた。
小切手帳を取るために引き出しを開けようとして、コーラの缶が落ちてはいけないと横へ置き換えようとして缶を持ったら少しコーラが温かくなりかけていたので冷蔵庫へ入れようと台所に行こうとしたらカウンターの上にある花瓶の水が減っている。 コーラをまずカウンターに載せたらそこに午前中探していた眼鏡があった。早く眼鏡とコーラの始末をしなければと考えたけどまずは花瓶の水を先にしようと決めて眼鏡をカウンターに戻し、ジョウロに水を入れていたら突然其処にテレビのリモートがあった。誰かが台所に持って来て置き忘れたのだと思い、今晩テレビを観るときに又リモート探しは嫌だと居間のテレビの前にリモートを戻しておこうと思ったけど、まずは花瓶に水を足そうとしていたら少し水を床にこぼしてしまった。そこで手に持っていたリモートを台所のテーブルに戻し、タオルを取って床を拭いていて考えたの、私は今日は一体何をしようとしていたのだろうって。でも思いだせない。

洗車は済んでいないし、支払いは済んでいないし、
ぬるいコーラはまだ書斎にあるし、小切手帳はまだ残りが1枚だし、
リモートも眼鏡も何処にあるか見つからないし、車の鍵を何処へ置いたか全然思い出せない。

結局今日一日忙しかったけど、私は一体何をしていたのかしら?
でも笑はないで下さいよ、 アナタにもその日が来るのですから。
それとも一緒にカウンセリングを受けましょうか?

2007年8月24日金曜日

コメントへの返事

じゅんたろうさんコメントありがとうございます。私のたわ言をいつも読んで頂いて本当に感謝です。
今朝TVのワイドショウの話題の一つとして、離婚家族の子供の権利を再考慮する案が出されているそうです。話題の一つですから詳しくは説明されませんでしたが、子供にも一緒に暮らす親を選ぶ権利が与えられるとか、 離れていった片親の「悪口」は子供の前ですることを禁止するとか、いろいろあるようですが悪口を云々とはどうするのかと思いましたら、親のセミナーみたいのを考案中とか。 
子供が絶えられないのは、分かれている片親の悪口を聞くことなのだそうです。

これはあくまでも私の見る目からの感想ですが、 アメリカの妻は日本の妻のように「絶対的に保証された磐石な地位」ではないです。競争相手が出てくればいつでも追い出されます。又彼女達も出て行きます。夫も妻も他に愛する人が出来たら、 二股はかけませんね。 日本の夫のように、「ほんの浮気だよ」が通じない国です。 妻が許しません。 面白いことはキリスト教の土台(許し)のもとになっている国のアメリカで妻達は夫の浮気を許しません。 
もうだいぶ前になりますが前大統領のクリントンさんがモニカ ルインスキーさんと浮気遊びをしたのを妻のヒラリーさんが許しましたね。許したヒラリーさんへの批判は大きかったです。
又現在大統領候補のジュリアニー前ニューヨーク市長が現職中に愛人を作って見事に妻を市長邸から追い出しました。 その時の手順が悪かったと現在は元妻と子供からの選挙妨害で苦労しています。

ジェームスもトラビスも今は三十二歳の立派な男性に成長していることでしょう。 トラビスは高校卒業と同時に陸軍へ入隊。四年後にレーダー技師になって除隊。現在サンホゼで仕事をしています。
ジェームスは大学でエレクトロニクス エンジニアーを専攻。卒業の年に一度我が家に訪ねて来てくれました。とても素晴らしい大人に成長していました。


じゅんたろうさん、こちらでは一週間分のまとめ買いをしますので、(勿論合間には新鮮なミルクやパン野菜の補給はしますが)手押しバスケットをサッカーボーイ(サックの中へ食品を入れる仕事です)
に時には車まで押してきてもらい車のトランクへ詰めてもらいます。その場合チップは出します。

2007年8月21日火曜日

ジェームスの場合

アメリカの離婚率は現在の統計で52%とあるテレビで発表していた。 私の周りで中年を過ぎても離婚せずに連れ添った夫婦を探すのはむずかしい。正直な話私と主人にしても良くまあ此処まで持ったものだと感心する。ひとえに私の努力の賜物と自負しているが多分連れ合いも、こんなにも波乱万丈、虐待の人生、殺されもせず良く生き延びたと自分をいとおしんでいることだろう。 

もう成長した息子と娘にある晩、親として働くことだけは一生懸命したけれど残念なことに財政的豊かな子供時代を二人に与えてあげられなかったことは残念に想うと話したことがある。これは私の正直な気持ちなのだ。
子供には生まれてくる前に親を選ぶチャンスは与えられない。子供達だって他所の両親の元に育っていれば又違う人生もあるかもしれない。しかし、秋夫君は嬉しいことを言ってくれた。  「自分の両親が離婚しないでいてくれたことだけで十分に感謝しています。今の時代に産みの親に育てられるなんて幸せなことですヨ。それ以上は何も要りません」これは以外な答えだった。

二人の子供の友人の六割は家庭崩壊の子供達だが、彼等は表面上は決して不幸を表に出さない。 彼等の間でも自分の環境を愚痴らない。隠すこともせず、いとも気楽な様子で自分の家庭環境を話題にする。暗くない。週末遊ぼうと誘っても 「今週末は出て行った親父の家へ行く週だから遊べない」そんな返事が戻るのもさして珍しいことではない。 ただ生き延びるだけである。ボヤイテも嘆いても子供達には何も出来ない。 両親の離婚に子供の思惑などなんの助けにもならない。 子供が別れないでくれとせがんで取りやめてくれる夫婦なら最初からそれほどの問題はない。 
裁判所で離婚と決定したその時から十八歳未満であるなら子供達が両親のどちらを選ぶからあまり権利がない。全てが離婚裁判の決定に従う。 
別れて行った片親に逢う日は、 週日、週末、学校の夏休み、祭日全て裁判所に定めらたとうりになる。そこには子供の意思は入らない。

母親側に引き取られてもいつ母親が次の男性を連れてくるか解らない。いずれ母親の再婚の日が来ても新しい父親が子供を連れて来るかもしれない。自分達だって連れ子になるのだ。まあ仲良くやるよりしょうがないだろう。寂しさに耐えて週末に産みの父親の住む家へ行けば父親にも新しい女性の姿が見える。あわよくば彼女には過去の結婚の連れ子が居ないことを望むだけだ。

ジェームスも秋夫と同じ高校生。 父親が小さな妹とジェームスを置いて一人家を出て行ってからもう久しい。 先日は学校の夏休中の夜のイベントが校庭で開かれたが、約束した父親は新しい彼女を連れて参加した。それを予測していた母親も競うように新しいボーイフレンドに参加を呼びかけた。 二組の嬉しげに寄り添うカップルの両親を眺めジェームスはニヤニヤするだけ。まだ若い両親は子供の思惑よりも彼等の気持ちが優先する。彼の母親だってまだ四十代。 これからの長い人生を思えばやはり寡婦のような人生は歩みたくないであろう。もう一花もふた花も咲かせてみたいのは女の性。

ジェームスは授業中我慢したが、どうも腹の具合が良くない。今朝食べたものが良くなかったらしい。 学校の医務室で少し休ませてもらったが少しも良くならない。こんなところで寝るより家へ帰ろうと決め教師から承諾をもらった。 この時間は母親が仕事だし、スクールバスは下校時まで動かない。 仕方ない彼は三十分の道のりを痛い腹を抱えて歩いて帰った。やっとたどり着いた自宅の前に母親の車が駐車してある。そして、もう一台見知らぬトラックが止まっている。冗談じゃないとジェームスは思った。 世慣れた彼は勢い自分の鍵を使ってドアを開けるような無粋なことはしない。子供だって嫌な場面は見たくない。 呼び鈴を押した。何度目かの呼び鈴で母親もドアの向こう側で返事をした。「何方?」 
医務室のベットで休む代わりに自分のベットを願ったジェームスは、炎天下のドアの外で母親がドアを開けてくれるまで三十分待たされた。

夏休みも終わりの日曜日、ジェームスの妹は昨晩から友達の家でのスランバーパーテイー。彼女は まず夕方にならなければ帰らない。 母親がジェームスに映画に行って良いと言ってくれた。なんと映画代、パプコーン代もくれるという。 昨日からつづく雨が少し気になったが、暫くぶりの映画に彼はその提案に乗った。母親が運転して映画館まで来た時も降り止まない雨に、映画が終わったら電話をするから必ず迎えに来てよと念を押して建物の中へ向かった。
映画館は入場券1枚で上手にすれば幾つかの映画が観られる。わずかの時間差で部屋を違えて上映しているから、一旦入場すれば切符をしらべられることはない。 どのドアに入って行こうが自由だ。 ジェームスも最初から二つ三つの映画を観るつもりで来ている。 しかし、雨音が激しくなり館内に居てもそれが聞えるようになると観客も一人二人と帰る様子。館内放送が始まり、映画館の従業員の帰宅安全の為に映画の続行を止めると放送がありジェームスも他の観客と外へ出された。

早速ジェームスも母親に電話をして迎えに来てもらよう頼む。
彼女は言下に言った。家の近辺も水かさが増し運転する車が危険のため少し水が引くまで待つように。 サテどうしよう。 雨の勢いは少し和らいだが水は自分のくるぶしまである。 秋夫に電話をした。そっちは水が出ているか? 我が家の近辺は水は出ない。少し高台になっているから。そこでジェームスは秋夫の家へ向かって歩き出した。
一時間後にずぶ濡れのジェームスが秋夫の家にたどり着く。 乾いた秋夫の洋服に着替え、キッチンでサンドイッチ食べ、ヤレヤレ、そこで母親に又電話をして自分の移動位置を知らせる。
二時間後もう雨もすっかり止まり、水もドンドン引き始めた。 太陽も顔を出し雨台風があったなんて忘れたような一変した天気に二人の高校生は遊びに夢中だが、気が付いて見たら今だ母親が迎えに来ない。 もう秋夫の家へ来て二時間、そろそろ夕方も近く彼もいい加減家に帰りたい。 あれから二度も母親に電話をしているが返事は同じで、まだこの近辺は水があると言う。

外も薄暗くなり、秋夫の頼みで私はジェームスを送っていくことにした。乾いた道路を走り、彼の家の前に来て私達が見たのは母親の車とトラックが家の前い止っていて、どうひいき目にみてもこの近辺も水かさが増したとは見えない。たとえ床上浸水の状態でもあのトラックなら難なく迎えに来られたのにと想うとなんともジェームスの顔が見られない。 
「ジャーまたナ、 オバサン有難う」とジェームスは車を降り自宅の呼び鈴を押していた。

帰路わたしは息子に聞いてみた。ジェームスはお母さんのあの無責任をどう感じているの?
しかし返事は意外であった。彼にしてみれば少しも無責任ではないという。 後二年、十八歳になって大学へ行くときに彼は家を出て、それからは帰るつもりはない。 大学はアパートか寮に入り、その後は就職して「ハイお母さんお父さんさよーなら」のつもり。その後の為にもやはり息子としても早く母親に次の男性を見つけてもらいたいと気にかけているそうだ。  寂しい一人住まいのお袋は困るって。  ただ彼が気にしているのは、お母さんの男性の趣味がもう少し良かったらいいのにと気にしているそうだ。
  
「子供は見ている」そんな題名の映画があったかしら。

2007年8月14日火曜日

パートタイマー

車の免許証は手に入ったが秋夫君もガソリン代を稼がないことには車は動かない。  車はママのを使えるが、ぶっ飛ばす車のガソリン代まで親がかりとは少し無理だろう。 そこでアメリカの高校生は仕事を見つける。 彼等の父親の時代は近所の家の庭の芝刈りが結構な収入源だったが、一時期はベトナム難民がグループになって仕事を始めていたが何時の間にかそれがメキシコ人の仕事に入れ替わっている。 グループの一人がわずかの英語を話すだけで仕事は成り立つ。 客が余計な仕事や文句を言っても、「言葉ワカリマセーン」でおしまい。 彼等はトラックに数台の芝刈り機や諸々の工具を積み込み4人5人とグループになって各家庭のドアを叩くようになれば、一匹狼の高校生たちでは太刀打ちできない。高校生が二時間かけてする一つの庭の芝刈りを四人の男が二十分で済ませ、隣の庭、またその隣の庭と大量生産並で芝を刈っていく。そこで少年達は身分証明証(ID)提示と尿検査の必要な職場へと流れていく。故にアメリカの若者は十代から所得税、失業保険税、老後年金を払い始める。
 ハンバーガー店、レストラン、 グローサリー(食料品が主なスーパーマーケット)の店員、薬局の店員、ピッザ店、などなど仕事はやる気があればいくらでもある。


秋夫も二流のレストランのバスボーイから始めた。 客の食後のテーブル掃除と皿洗いである。一時間5ドル、夕方から閉店まで、週3日私が仕事から帰宅すると待ってましたと私の車に飛び乗りセッセと稼ぎに行く。社会勉強の第一歩。 お金の有り難さと社会の理不尽さも一緒に勉強してくれる。高校生や大学生のする仕事には小売業の客との接触する仕事が多い、彼等には良い勉強である。 早くに職場の嫌がらせや、客の横柄な態度や理不尽を嫌になるほど見せられるわけだ。しかし客あしらいを悪くすれば即時首である。 次の日からの職探しを考えたらやはり言いたい言葉も飲み込んでニコニコすることを学ぶ。パートタイマーには職の訓練はするが、客の扱いに関しての訓練はしてくれない。 皆自分で覚えるのだ。 レストランで仕事をして客扱いが悪ければチップは望めない。 グローサリーで客と問題を起こしたり、相手に不愉快な思いをさせれば客は直ぐに支配人に報告する。普通苦情三度で職を失う。店によっては三度まで待ってくれない。
このように現場を見ながら社会勉強をする、その間に一生涯こんな仕事をしていたくないと思えば学校の勉強に身も入るというものだ。

若いときに要らぬ苦労をさせるよりも子供はおっとりと育てたほうが良いという考えもあるだろう。でも自分が痛みを感じるから人の痛みも解るという育て方も又一つ。
  
自分の子供が社会の端で仕事を始めるようになると、親自身も少し社会に目を向けることも学ぶようになる。 ピッザの配達に、「遅かったわね」という代わりに「有難う、ご苦労さん」と言葉も変わり、レストランでテーブルや床を汚しても、「悪かったわね、ごめんなさい」と掃除をしている店員に自然に謝れるようになった。 

自分の息子がアルバイトの年齢になるとは、彼の友達も同じである。 グローサリーストアーで大きなリンゴを選りすぐっていたら店員が後ろから「秋夫のお母さんでしょ こんにちは」と声を掛けられる。
買い物を車に積み終わり、店員にチップを渡すと「秋夫のお母さん有難う」と来る。チップの額を気にしてこちらはドキッと来る。近所のレストランにも友達があちらこちらで働き初めているから気が落ち着かない。
 
先日主人と二人で食事に出た。 翌日「ママのチップが昨晩の彼の最高だったって、サンキューって言ってたよ」本当に落ちつかない。高校の中で日本人の母親を持っているのは秋夫君一人なんだからやはり目立つのかもしれない。兎に角一度見られたら彼等は私を覚えてしまう。迷惑である。

まだ中学生の直美ちゃんが欲しい人形があるの、「たったの10ドルよ」と話すのを聞きつけて「10ドル稼ぐのに僕は何枚の皿を洗うか知っている?」と妹に聞いている。

世の中は金次第のアメリカ的子供の育て方には批判もあるかもしれない。 日本人が嫌やがるのがチップ制度だ。だが本当は日本の旅行者はその心配をする必要がないのだ。何故なら日本人がチップを置かないのはもう知られているから。 レストランで普通15%から18%のチップが常識になっている今日この頃だが、ウエイターやウエイトレスの基本給は普通2ドルから3ドルと低い。彼等はチップが収入が収入源と決まっている。サービスをして稼ぎ出す仕事だそうだ。コックや皿洗いはチップを受け取らないが基本給も彼等よりも高い。
これは高給レストランでも同じだそう。  そこでサービスが彼等の勝負となる。少しまともなレストランへ行くと殆どがウエイターで占められ、彼等は実に機敏に動く。 客の目線一つでサーッとテーブルに来て何か欲しい物はないかと聞く。週末などは彼等のチップは一晩で四百ドルを出ることもあるそうだ。医者やエンジニアーの卵、若い会社員が子供が生まれ妻が又仕事へ戻れるまで自分はウエイターをして副収入を得るなどといろいろある。
せっかく働いて見入りが無くては意味がない。サービスすることで収入が増すならサービスします。 それだけのこと。 その代わり客の側も気に入らなければチップの額で表現をすればよい。 もう二度と来るものかと思えば一銭も置かなくても誰も何も言わない。 客が不愉快だったのだと彼等が悟るだけ。
 
そこでいつも私が不愉快に思うのは、日本食のレストランだ。彼等はサービス料として18%をもう請求書に加えてくる。請求書の一箇所に明記してあるが、楽しい食事と快い酒による酔いと薄暗いレストランの光の中でそ明細書の項目などあまり読まない。そして明細書の最後にチップの欄が必ずあるからついつい其処に18%を加算してサインをする。 客がチップを置けばそれは黙って受け取る。サービス料とはサービスをしてもらわなければこちらは支払う義務はないのだが、たいしたこともせず請求されては困るのだが。 レストランへ入って食事を注文してそれをテーブルまでもってきてもらうのはサービスには入らない、問題はその後だ。 客が他に何を必要としているか? ナプキンは有るか、飲み物は有るか、他に何か注文したい品があるかと気を配る、結構な支払いをするのだ、今晩は楽しかったな、こうやって下へも置かないサービスもたまには良いものだと感じさせてもらわなければ 15-18%を出すのは辛い。それがサービスである。若いハンサムなウエーターが私の注文品を前に置き、今晩はごゆっくりとお楽しみくださいとニッコリされれば、前に座っている少しくたびれた連れ合いがチップを置くのに文句など言わない。  

この街の日本食レストランは、チップを全部集めてキッチンのコック達と一緒に頭割りで分けると聞く。自分のサービスの見入りが全部彼女達に行くのではない。それゆえか、まず日本食店のウエイトレスのサービスを期待しないほうがよい。アメリカのレストランでステーキの焼き方が悪いと突っ返すことは出来る。 レアを注文したのにこれは焼きすぎだから困ると言えば焼きなおしてきますと注文とおりのステーキを持ってきてくれる。
日本食のレストランで気に入らないからと返すと「キッチンに持ち帰り別のを持ってきますが、この品の料金はチャント頂きますよ」と恥ずかしげもなく言う。誰が一食しか食べないのに二食分支払うか、結局それならいいわよ「食べればいいんでしょう」となる。
寿司を注文したが、何となく幾つかの握りの上に乗っている魚の鮮度が悪そう。ウエーターに理由を言ってこれ食べられないはといったら、あーそうですかと私の皿から取り払ってくれた。 しかしそれだけである。 一緒にいた友人が、別のお寿司をもってこないの?と聞いたら? 「あのー嫌だったんでしょう。 ですからとりはらったのです。当店では品物の換えは致しませんといわれた。 こうなると怒りなどは湧かないおかしくて笑いこけた。 でもサービス料18%が請求書に加えられていた。 
小倉アイスを注文して、上に乗っているアイスクリームはいらないから取りはずして欲しい。かき氷とあんこだけにしてもらえないかと頼んだ、勿論アイスクリーム代は払いますと言ったが、 小倉アイスにアイスクリームがのって来た。何故と聞いたら、小倉アイス程度に特別注文は受け付けませんと言われた。

最近の話である。その日は直美ちゃんの新しいボーイフレンドに日本食を紹介したいという彼女の希望から起きた。もう食卓にはお寿司に天婦羅、焼き鳥、茶碗蒸と一般的な日本食が並んでいた。本当はおでんも欲しかったがこの街でおでんは中々見つからない。元気な若者はいくら食べてもまだ済ました顔をしている、どうやら底なし沼のような腹を持っているらしい。 そこで鰻の蒲焼をと考えてメニューを見たら「うな重」としか書いてない。ウエートレスに鰻とご飯を別々に注文できるかと聞いた、返事は出来ません。  それでは、うな重を注文するから上の鰻はお皿に載せて、ご飯はお茶碗にいれて下さいなと頼んだ。もちろん出てきたのは「うな重」である。そして山椒の粉を下さいと言ったら黒胡椒が出てきた。これもれっきとした日本食のレストランである。
しかしウエートレスは韓国人だという。 それもまだ英語の出来ない女の子。メニューを指で指し番号を書き取るだけの仕事。日本語もダメ、英語もダメではどうやってこちらの希望を知らせることが出来るのだろう。経営者が最初から、メニューの中のものだけを黙って注文してくれと意志表示しているだろうか。 
   

2007年8月4日土曜日

ドナルドの場合

私たちは彼をドニーと呼ぶ。長身で細身、もう五十代になっているかと思うが中年肥りもせず中々姿の良い男である。彼は新しい奥さんと時々日本料理屋へお寿司を食べに行く。日本酒も好きで酒屋で見つけると買って自宅で呑むが何となく雰囲気が出ないとボヤク。目の前に寿司がないと呑んでも美味しくないそうだ。アメリカ人には酒とお酒のおつまみという習慣がないから、箸でししゃもの焼いたのつまみながらという楽しいことは知らない。誠に残念なことである。

 そこで我が家が時々人を招いて「手巻き寿司」をすると聞き、彼は「自分と妻を招待した」これはアメリカ語的言い方なのだが、日本語では「謎をかける、何となく催促をする」というが、英語では He invited himself と表現する。なかなか面白い言い方だと思う。

彼は精密工作機の技師。今の時代に遅れをとらじとコンプユーター導入の研磨機だ旋盤だと大型機械を数台購入して請負仕事をしているが、人の会社の工場の一箇所を借りて営業している。 経理一般もその会社を通し彼の名前も収益も表に出ないように世の中から隠れた生活をしている。

十年前にドナルドはこの街で精密工作店を経営していた。
家庭には双子の可愛い娘もあり、妻と四人で平穏な毎日であった。
彼の妻は二人の娘に手が掛からなくなってから自分自身も学校に戻り、念願の女性弁護士を目指した。司法試験もとおり、就職先はこの街でも大手に入る「離婚訴訟専門弁護士団体事務所」。瞬く間に彼女は頭角を表し事務所ではやり手の弁護士になった。 彼女は仕事に励み、経験を積み、 いずれ独立して自分の会社をと希望している。
そして或る日彼女は夫のドナルドへ離婚の申し立てをした。彼女は仕事が楽しくなり家庭の妻をもうやっていられないと思った。

脳天をドカーンと叩かれた気持のドナルド、理由を「性格の不一致」と云われ己の過去を一生懸命に考えたという。何処で自分は間違いを犯したのだろう。何時自分は妻に不愉快な思いをさせただろう。 覚えていることは仕事が猛烈に忙しかったこと。やっとここ数年営業が上向きになって来たこと。やっと家族一緒に休暇を取れると心待ちにしていたことだけだった。

いつの間にか立派な弁護士に変身していた妻は意味不明な法律言葉を並べ分厚い書類を取り出し、署名を請求する。そして、「私を自由にしてくれ」と懇願する。
ドナルドは友人の中から急ぎ弁護士を探し助けを頼むが畑違いの弁護士では経験のない離婚訴訟にウロウロするだけで少しも頼りにならない。

裁判所からの呼び出し来た。
一歩裁判所の中へ入り彼はもう一度大変なミスをしていたことに気が付いた。

妻の母親、ドナルドの姑はこの街の司法検事だったのだ。 離婚裁判は陪審員裁判ではない。 裁判官と双方の弁護士で成り立つ裁判である。 そして妻の弁護士と共に司法検事の姑が同席していた。 
ドナルドの財産目論見書、営業の経理内容の書類、向こう十年間の収益見積り書など自分でも知らない彼の全てが裁判官の手元に渡っていた。 

妻側の要求: 二人の娘は妻のもとで養育する。それは子供の生活環境を変えない為、家屋敷は妻と子供が取る。

結婚後の共同財産は法律によって半分は妻の取り分。
ドナルドの経営する会社は妻との共同名義ゆえ、権利の半分は妻へ、それを妻は即時現金での支払いを要求。
離婚後の彼の収入の半額は二人の娘が十八歳になるまで養育費として支払う。
ドナルドが会社経営を続けるとして技術者としての収入を見積もって向こう十年間の利益の半分を妻への慰謝料として支払う。
「その査定金額二百万ドル」
その時ドナルドは全ての戦いを諦めた。裁判官と司法検事の密着を考えると勝てる目算のない戦いはする必要なし、彼は一切の要求を受け入れた。
「査定金額二百万ドル」彼はこれが姑からの案であることを知った。彼女は娘に満足な結婚生活を与えなかった婿を完全に抹殺することに決めたのだ。 これからどのように彼が頑張ろうが、個人企業の機械工場がこれだけの借財を荷っての営業は不可能である。


数ヶ月後、ドナルドは自分の精密機械工作店を売り、半分を妻に支払い、残額で三十年月賦の家屋のローンの支払いを済まし家を彼女達に手渡した。

妻が或る日離婚を申し立てた日から半年後、ドナルドは会社をなくし、家をなくし、妻も二人の娘もなくした。残された個人財産も半分は取られ、残りの半分を向こう数年間の子供達への養育費として手渡した。

無一文になった彼の手元に残ったのは、二百万ドルの元妻への借財と一匹の愛犬。その二つをトラックに乗せて彼はカリフォルニアへ向かって旅った。

サンヂエゴの地で彼は機械工として就職、家を持たず、アパートへも入らず、古びたヨットを借りそこに住み始めた。住居不定者になることが目的だった。少しでも稼いでは二人の娘へ送りつづけた。 自分が養育費滞納をした時の元妻の蔑みの言葉を可愛い娘達に聞かせたくなかったから。同時に住み始めたヨットを毎月少しでも支払い買い取らせてもらうように交渉した。他に何をする気もしない、暇を見つけてはそのヨットの修理をするのが唯一の楽しみ。

五年の歳月が過ぎた。二人の娘から嬉しい便りが届いた。双子の娘の一人は陸軍士官学校ウェストポイントへ入学。専攻はエンジニアリング、十八歳になり養育費はもう要らない。

それから二年。ドナルドは新しい妻と一緒に又この街へもどって来た。相変わらず何も持たず、おんぼろ車を転がしながら、又始めからやり直しだと言う。だがサンジェゴの港には彼が五年間で造り変えた大型ヨットには五万ドルの値で買い手がついている。

四年後の現在、ヨットの売上金を元に又彼は精密機械を買い始め、二百万ドルの借金はまだそのままだが、昔の友人知人に助けられ、昔の客も噂を聞いて彼のもとへもどって来ている。

長い間別れていた双子はいつの間にかに父親の新しい生活の中へ入って来て、昨年のクリスマスには婚約者と共に現れわれ、「お父さん、私たち明日のクリスマスにこの家で結婚式したいのお願いします」とドナルドを慌てさせた。

娘の一人はウエストポイントを卒業後、最近ドナルドの家で結婚式を済まし、二ヶ月後には将校としてイラクへ出兵、現在イラクで戦闘中である。。
もう一人の娘も消防士として男性に混じってこの街の消防署に勤務している。
彼は我が家で手巻き寿司を口に入れながらニコニコと今の楽しみは毎晩イラクの娘へメールを送って、「生きてるか~?」と聞くことが日課だと言う。

2007年8月1日水曜日

ボーイスカウト 2 ジャンボリー

全世界のボーイスカウトの結集がワシントンの郊外で四年毎に開催される。
「ボーイスカウト国際大会」である。 二週間の長さで世界中の少年が彼等の情報、技術、親睦の交換をする。スカウトに所属する少年なら一度は参加したい大キャンプである。

この時までの歴代アメリカ大統領は必ずこの大会で世界のボーイスカウトへ向かって演説をするのも恒例のひとつ。又歴代大統領が皆少年の頃ボーイスカウトの隊員であったことも親しまれてきたひとつに加えられているのだそう。しかし、それもこの年までのこと、次期大統領のクリントンの時代になり、彼は隊員であった過去がなかったことと、そこ頃論争の最中だった「スカウトの同性愛者参加禁止」にたいするクリントン氏のプロテストとして始めてアメリカ大統領の演説は中止になった。

十四歳以上の隊員が参加を許可される。 十一歳から十八歳で終わるスカウトに四年に一度の開催ではどの子も参加は一度しか機会がないことになる。今年を逃せば秋夫君ももうチャンスはない。経費は一応自己負担となる。飛行機代、二週間のキャンプ費、いろいろなイベントへの参加料、世界から集まるために突発事故への対策として保険料がバカ高い。わずかな金額では参加できることではない、そこで個人負担を少しでも少なくする為に、各隊ではあちこちに援助を求める。放課後や週末に少年達が制服を着て各商店、企業へ寄付を募りに歩く。

ある旅行社を営む婦人が隊に条件を出した。  二年ほど手入れをしていない空家を売りに出すつもりだが、その家の庭の手入を隊員がしてくれたら一人分の飛行機の切符代を出すと提案した。 くじ引きの結果それが秋夫君に来た。 

週末秋夫君と父親は芝刈り機、エッジャー、チェインソー、ウイールバロー(一輪の手押し)シャベル、鎌、と考える限りの道具と水とサンドイッチを持って出かけた。

住宅街を離れてだいぶ運転するが目的地にはまだ遠い。旧道を南に走って暫く進むとほどなく目指す門が見えた。野中の一軒屋。どうりで二年も手入れをしなくても市から文句が出なかったわけである。車を降り、門の内へ一歩?? 庭がない。ジャングルがあった。雑草は一メートルの高さ。木と木は枝葉がお互いに絡まりもう森林と言いたい風景。 恐る恐る主人が手に持っているメモを見た。 広さなんと二エーカー。 
秋夫君真っ青になって「お父さん、僕一人じゃないよね。 お父さんも手伝ってくれるよね」とビビッテいる。  
少し青い顔をしていた主人も一つ大きく深呼吸をして

「さあ 始めるゾー」とチェインーソーを手にしてジャングルに入っていく父親の後を行く秋夫君がなんとも情けなそうで、そこに二人を置き去りにする私の胸は少し疼いた。

四週間の週末を通い続けて働いたが二人の男のする仕事ではジャングルは一向に人並みの庭には変化してくれない。この土地は亜熱帯で、雨が多く、太陽光線も強いため、木々の育ちは早い。 その間に肥満隊の予備軍だった主人は少しスマートになり、秋夫君は少し筋肉がついたようだ。

当の婦人が様子を見に来て自分の提案が少し過酷であったことを認め、一応仕事は打ち切りになった。

秋夫君はそれでも一人前の飛行機の切符代をスカウトの預金箱へ寄付することが出来た。

何キロも痩せ、体中傷だらけになり、風呂上りには救急箱へ手にして、あちらこちらとバンソウコウを貼っている主人がか細い声でぼやいた。 
「これで息子は飛行機の切符一枚の重みが解ったかナー」


犬の品評会の糞掃除、車椅子の人たちの集まりの奉仕、飛行機ショウなどいろいろなイベントの群衆整理、大会のテント張りとスカウトへの奉仕活動の以来は春先になると毎週のように来る。それを一つ一つ出かけて行く息子だが、今回ほど肉体を酷使した奉仕活動はまずなかったはずだ、良い思い出になってくれればいい。

二週後にはこの州から参加するスカウト達のチャーター機はワシントンDCへと飛び立って行った。ちなみにこの時のアメリカ大統領は父親のブッシュ大統領。 秋夫君はしっかりと彼の演説を聞いて来た。