2009年1月27日火曜日

あの頃のあの人

誰でもそうだろうが、時折自分の生きて来た道のりの中で出会った人たち、通り過ぎた人たちをフット想い出すことがある。あの折の、あの人は今何処で何をしているだろう。まだあの人は元気だろうか、そんな過去を考えることが多くなった。

私の父は昔関西のある大学の美術の教授であったそうだ。それは私が生まれる前、戦前の事であるが。 
戦後間もなくに建てた新築の二階建ての家のそれも一番隅に父のアトリエを設置した。 あの頃はまだ父も大學を辞めて、会社勤めに忙しく二階のアトリエに籠って絵を画くことはまれであったが。 私の覚えているかぎり父は寡黙な人であった。
必要以上の言葉は口から出ることがなかった。しかし無口とは違うと思う。たぶん母が人一倍おしゃべりであったからまず父が口を出す機会など与えられていなかったのだと考えるほうが妥当だろう。
夕食後のひとしきり母のおしゃべりの相手が済むと父はあの頃の言葉で「応接間」と呼ばれていた洋間で一人たばこを吸ってじっと考えごとをしていることが多かった。 典型的家庭の主婦の母は「私はお仕事の話はわかりません」と宣言していたから仕事上の問題などを家庭で話すことはまずなかった。 きっとあの部屋で一人たばこを吸っていたのはもろもろの考えを整理していたのかもしれない。
 
その父が時折二階のアトリエに入り、絵筆をもってキャンパスに向かっている時は、とても穏やかな表情であった。きっと想うに任せて自分の気持ちをそのまま表現していたのだと思う。

私も、もしも神の許しがあってもう一度この世に生まれてくることがあったら、迷うことなく絵描きになりたいと望んでいる。 たぶんそれでは生活が出来ないであろうが、夢の又夢を想うときは現実の生活は必要ない。
 自分の言葉、気持ちを筆に換えてキャンパスに表現できることが私にも出来たらどんなにか素晴らしいだろう。

私がまだ中学生の頃だったと思う。 一人の青年が曜日は覚えていないのだが、一週間に半日、父のアトリエに来て絵を描くようになった。 
どのような経過を辿って我が家に来るようになったのかは知らないが、この青年は母のとても親しい友人の長男であったと思う。 彼の父親は最も左翼的なことで有名な大手の新聞社の一流記者であったと記憶している。
彼の家庭が一流志向であったことは何となく母からの話から知っていた。むしろかれはその家庭の落ちこぼれではなかったかと、それはまだ中学生だったわたしでも感じていた。 親の希望する大学を出て、親の希望する会社へ入り、 サラリーマンとして生活しているが、彼は絵が描きたかったのだそうだ。  絵を描きたい気持ちを消しさることが出来ず、 かといって美術を目指すことも許されず、父親や母親から、絵を描きたい? ふざけるなと云う家庭環境の中で彼は必至に我慢していたのではないだろうか。

今はもう大学も出て、就職もして、そこで初めて自分の意思を少し主張したのかもしれない。 結局母親同士の話し合いで、 父のアトリエに通い、父から絵筆の指導を受け、時間の許す限り描くだけ描いてみると結論がでたのかもしれない。
しかし、私の父は、 絵を描くことは教わることではない、 兎に角自分の思うままに描きなさいと諭し、彼の我が家への通いが始まった。 

この青年は時間を見つけては背広にネクタイ、カバンをもって我が家の門の前に立ち、蚊の鳴くような声で「こんにちは~」。玄関の扉を開けるとそのままスーッと二階へあがり、一人絵を描き始める。 数時間、無言のまま彼は絵筆をもち、 夕方になると又カバンを持って「失礼しました」とか弱い声で挨拶をして帰る。

帰宅した父が時折二階へ上がって彼の絵を見ることもある。 又時には彼の絵に父が筆をなぞらしていた時もあった。そして次にその青年が来た時は私にそっと尋ねるのだ、「あの~、お父さん僕の絵を見ました」?そして嬉しそうに微笑む。

土曜日の午後など一緒の時は二人の間には一切の会話がない。 私の部屋がその隣の部屋であるゆえ、いつも壁に耳あり、二人の会話が訊きたくて耳を澄ますが何も聞こえてこない。ある日たまらなくなって私はドアを開けて部屋の中を覗いたが彼らは仲良く各々のキャンパスに違う絵を描いている。  ただ違うのは、その青年が父の描く絵をジーット見つめているだけ。 二人共同じ部屋に居て長い時間をまさに無音である。 

ある日私は父に尋ねてみた、あの人に絵の描き方を教えないの?何も云わないけれど、あれで良いの? 父の答は簡単であった。  

「絵描きというのはネー 最も芸術家と称する一般の人も同じだが、決して後から来る者の作品は褒めない。 人によっては徹底的に批判し、もう二度と立ち上がれないほどにこき下ろすものだよ。 芸術家はその酷評から立ち上がることになっているのだけど、 お父さんはそれが嫌いだ。  絵なんていうのは、自分が良ければいいのだよ。 なんでもそうだ。 規格はない。表現の世界だから」
「それであの人の絵はどうなの? もし批評するとしたらやはり酷評になるの」しかしその答えは貰えなかった。
そうかもしれない、芸術とは人が芸術家と評価するもので、私の作品は芸術ですなどというのは可笑しいのだけれど。しかし時々そんな自称芸術家は居るけれど。

あの青年は描きたいから描くのであって、絵描きになりたいわけではなかったはずだ。 趣味の域などと云う言葉を私は嫌いだが、少しでも自分の頭にあること、胸に潜むもの、 目で見る物をキャンパスに自分の気持で表現できるかということになるのだろう。 あ~うらやましい。

ある冬の夜、その日の夕食はすき焼きと決まっていた。父の帰宅を待って母はその青年に夕食を一緒するように誘った。
  
すき焼きが食べ処になり、母の一言、 「さーみんな食べてちょうだい」の言葉に家族一同は生卵を器の中に割り食べ始めた が、彼はその生卵をじっと見つめている。 卵が嫌いなのかと母の問いに、 「いえ、そうではありません。 卵をわったことないのです。」「???」そして彼は夕食後に出た林檎の皮むきも出来なかった。
一瞬私は、「みかんの皮むける?」と聞いたら母に睨まれた。

食事中にあの青年は 「アノーこの家ではいつもこうやってお父さんと一緒に夕食をするのですか」と訊く。 「勿論そうですよ、うちではお父さんが帰らないと夕食は始まりませんヨ」という母の応えに、 
「僕は父親と夕食を食べた記憶があまりないのです。父はいつも遅くて、子供の頃から僕たちが寝てからの帰宅でしたから」 家族みんなで食事をするって云いですね。 
母親と祖母に育てられていたこの青年はゆえに、卵もわれず、リンゴの皮むきも出来ない産物と化したらしい。 

その青年も一年後には我が家に来なくなった。 見合い結婚をしたと聞いた。 それと同時に彼はもう絵を描くことを辞めたそうである。
もしあの青年がまだ元気で居たら、また絵筆を持っているだろうか? 結婚を境に絵を辞めると聞いたが、あの青春のひとコマ、私の父のアトリエをあの人は覚えているだろうかしら。  

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