2007年10月19日金曜日

エチオピア 2

一年間私たちと一緒に仕事をしてから彼女は飛行操縦シュミレーシオンの会社で整備員の仕事が取れた。 一年間訓練したのだ、もうはんだ付けも、ある程度のプリント基板の図式も理解できる。
 
追いかけるようにエチオピアから婚約者も亡命してきた。どのような経過を経て彼はこの国へ入国したか彼女はあまり話したがらない。アデイースが独り立ちしてすればドリスは次の人の保証人になれるわけだから順送りというわけか。   婚約者が来ても、まだ古い習慣を保っているエチオピアの社会では二人が一緒に暮らすことは許されない。新天地を目指してきても、習慣やモラルはそのままお国からもってきている。誠に宜しい。二人は早々と結婚式を計画している。しかし、国を捨てても、中身はエチオピア。やはり国でするのと同じ結婚式をするのだと張り切る。それには花嫁の父が必要だ。花嫁の父が花婿へ娘を手渡すのは大切な儀式。その花嫁の父にアデイースは私の主人にその役をやってくれと頼んだ。

かの国の習慣がどんなか知識もなく、アメリカでする結婚式、もちろんアメリカ式に近いものと勝手に決め込んだ主人は二つ返事でOK。しかし始まってみて驚いた、なんと結婚式の儀式は三日間続く。
第一日目は「結婚式」これは直々の親族だけで執り行なうのだそう。儀式はメソジスト教会でエチオピアの牧師によりつつがなく「娘」を花婿へ渡したとうれしそうに主人は帰宅。そして翌日は披露宴。
 
あのアフリカ独特の雄叫び、喉の奥から絞りだすような高い声でヒラヒラヒラー、ヒラヒラヒラー (私にはそう聞こえた)とおおぜいの女性達が叫びながら花嫁を囲んでの行進に秋夫君も直美ちゃんも口をポカン。白いウエヂングドレスを着た花嫁とスーツやドレスで装った一群がアフリカの土人そを想わせる行進は教会前を行きかう車も珍しそうに徐行していく。

エチオピアの女性たちが三日前から準備したという料理はすべて超辛、激辛のスパイスのきいたインドカレー風の料理。ずらりと並ぶ数々の料理は食欲をそそる。

私はどこで何を食しても、それが気に入るとサッサと我が家の台所で真似た物を料理するのを常としているが、今回もこの披露宴から一つ持ち帰った。  大鍋で煮たカレーの中にゆで卵を大量に落とす。 二日も煮込んだソースはもう材料が何かわからないほどにトロリとソース状になっている。それをナンの上にかけて食べるのだが、その大きな入れ物の中にポカリ、ポカリと白い物が浮いていた。それはゆで卵。食卓に出す前に浮かせるのだそうだ。子供たちが喜んだことはい言うに及ばす、大人の私もすっかり気に入った。それ以来我が家のカレーにはゆで卵が浮いている。 

宴席では花嫁も花婿も食卓に列を連ねない。皆の前に座り、自分たちでは食事をとることは許されない。 出席者が雄叫びをしながら、自分達の皿の上の食べ物を手でつまみ、新しいカップルの口に入れる。 入れるとはやさしい言葉である。あれは押し込んでいた。新婚さん二人が顔を見合わせてにっこりしているところへやおら誰とも知れない人が手の中で丸めた食べ物をグワッと突っ込む。一人でも多くの人から口へ入れてもらうことでその結婚への祝福が多くなるのだそうだ。




宴たけなわ、皆が皿を手に持ったまま、あちらの人と、こちらの人と会話をしながらも、右の手だけは忙しく食べ物をくるくるとかき回して手の中で丸めるとヒョイと自分の口へ入れ、又丸めて花婿の前へ行き彼の口にねじ込むと戻ってきてまた会話が続く。そのうちに別の一人がまた自分の皿の中の食べ物を花婿の口へ詰め込んでいる。
その間にも、どこかで、誰かがヒラヒラヒラーと雄叫びをしている。
もう彼らは誰の皿の食べ物か、誰の手が口にねじ込まれるか区別がつかない。
人様に食べ物を渡すときは、箸を変えるとか、箸の反対側を使うとかなんてまどろっこしいことはナシである。簡素化もここまできたら潔いとしなければ。


息子はそんな新婚さんをジット眺めていたが、宴が終わりに成る頃にはすっかり彼らに同情的になり、ママあれは花嫁、花婿への拷問だね。可哀想だよ。  

三日目はまた主人一人の儀式。今度は花嫁を花婿の家へ連れていく日。彼はもう二日も前に式の済んでいる花嫁をやっと花婿の家へ届けた。
突然振って沸いた「花嫁の父」に我が亭主は三日間楽しませもらった。

あれから15年。「15回目の結婚記念日の夕食会」の招待状が届いた。
教会の会館は溢れるばかりのエチオピア人。 並ぶ食事はもう私たちにはなじみの品ばかり。あれ以来新婚の二人のアパートへは何回か訪ねたし、アデイースの母親が癌の治療にアメリカに来ていたときも会っている。

彼女の下の弟がアメリカに着いたときも私たちはしばらくの間彼を預かった。 しかし夕食会には彼女の六人の妹が一列に並んで挨拶をしている。
15年の歳月、アデイースと夫は、二人の子供を育て、家を買い、永住権と次の市民権を取得して、今は自分たちが保証人になって親族一同を呼び寄せている。 妹たちの中にはもちろん結婚しているのも居た、そうなると家族ひっくるめての移住だ。 大変な勢力である。
「アデイース、あなたはエチオピア全部をアメリカに呼ぶつもり?」と聞く私に彼女は出来たらそうしたいと笑う。

十五年前に亡命した一人の若い女の子がもう彼女自身の社会を造りあげていた。

痩せていつも恥ずかしそうにしていた娘が今は、すっかり体重もふえ、ニコニコと微笑みも顔から消えることなく妹たちを紹介するアデイースは、少し民族衣装のスタイルを取り入れたとても素敵なドレスを着て、これも妹の一人が縫いました、綺麗でしょう?どこかにお針子の仕事があったら妹をお願いしますと宣伝もわすれない。
もう家では何もする必要ないです、妹達が私の子供の面倒から料理、掃除までします。私身内の中では女王様なんです、今とても幸せですとうれしそう。


故郷には彼らの父親は他界しているが、癌の治療が成功して元気になった年老いた母親が居る。数年前に刑務所から釈放された弟がただ一人母親の世話をしながら家を守っているという。

11歳になるアデイースの娘がフォークを使って食べていた。 やはりお母さんの国のお料理は美味しいねという私に、でもハンバーグのほうが好きとニコニコしていた。そうなのだ、この子達はアメリカ生まれ。もうお母さんが戦火の中を走り回って逃げ延びたエチオピアは知らない。 同じように私の二人の子供たちが本当の日本を知らないように。彼らは皆なアメリカ人なのだ。
 



 

 

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