2008年2月21日木曜日

母の死

2007の終末、クリスマスの数日前から一月、二月と三年ぶりに日本へ帰った。 帰ってビックリ、想像外の寒い季節の日本に驚いた。地球温暖化を強く唱える日本のこと、もう少し天候は暖かくなっているのかナ? そんな愚かな考えは捨てましょう。 地球温暖化と気候の変化は関係ないのだろうか。  あれは暑い夏に始まる人工的都市の加熱状態のことだけなのかナ。

私の実家は終戦の後の焼け野原に建てた六十余年もたつ二階建ての木造家屋である。その間に増築やら、修理は何度もしたが、ついに建て直しの機会は逸した状態だった。だから古くてガタピシしている。

九十五歳の母が昨年の春に転び腰の骨を骨折し、お定まりの車椅子生活を強いられていた、それゆえ母が住む階下はバリア フリーにつくり変えられてある。 それは畳を取り除き木造の床に変わり、すべてのドアを取り除き、ドアがあった箇所は布地のカーテンと変わった。 トイレのドアも取りのぞき、やはり薄い布地のカーテンである。 これには少し驚いたがいたしかたない。私がそのトイレに用事がある間に、誰かが間違えてカーテンを開けないように望むしかない。
結果として母の住んでいた階下は隙間風の天下であった。 建て付けの悪い建物なんてものじゃない、頭の上に取り付けてある暖房器具がフル回転していてもその暖かい温風は薄いカーテンの両脇と布地を通してスーッと出て行く。

雪が降ると、昔の高貴な武士は火鉢1つの部屋の障子を開け放して雪見を楽しみながらの酒席を楽しんだとあるが、あの寒さを実感するとあのような話しは少し眉唾ものだ。私は信じたくない。
雪の降る東京の朝、私は温風暖房の部屋に電気ヒーターを持ち込み、着膨れのために少し腕が短く感じる体をガタガタと震わせ、今日は何があっても絶対に外出はしないゾと自分に誓っていたのだ。

母は今年の冬から始まった、カーテンによる隙間風天下の寒い冬を過ごすことなく昨年の十二月のはじめに心不全で入院し、大晦日の日に亡くなった。 暖かな病院で、若い元気な看護婦さん達から一ヶ月の間やさしく看護されて静かに亡くなった。九十五年間稼動していた体の機能が1つ又1つと止まっていくのを私は見つめることが出来た。  横に設置してある心臓のモニターがピーピーと発信音とともに上下に波を描いていた、そして、それがスーットフラットラインに変化し発信音がピーッと音を変えとき若い医師が腕時計を見て、声をだして時を読み、「ご臨終です」と横たえる母に深く頭を下げた。 頭が横にガクンと傾くわけでもなく、小さく息をしていた母の呼吸が止まったのも私の目には見えなかった。しかし器械は確実に人の死を伝えている。ピーッとストレート ラインを示している。

老いての死は苦しみも痛みもあまり伴わないと聞いていたが、母も有難いことに、痛みも感じず、呼吸困難もなく、静かに終わった。
母の人生に幕が下り、平成の時代から、明治大正の時代の一人がまた消えた。

翌日は正月一日、日本中が新年を祝う日に人の死を通知するのはあまりに申し訳ないゆえ通夜も葬式も密葬とした。それは寒い夜の通夜と葬式であったが、永い間母が所属していた教会の婦人たちが正月の三が日であるのもいとわず集まって下さっての祈りと聖歌に、母の人生は静かに心温まるミサと共に終った。

 

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