2008年2月27日水曜日

マニュアル

物事はなんでもマニュアルとおりにすれば無難であるのは当然だが、しかし、マニュアルでは駄目でそこには融通を利かす、常識を働かせるという塩味も必要だ。

一般的にアメリカ人は大衆の中にいるときはあまり苦情を言わない。レストランで長く待たされても、席を蹴って出て行く客を見ることはまれだ。言葉荒く「早く、まだか?」と催促することもあまりしない。普通公では大人しい。これはあくまでもアメリカ生まれでアメリカ育ちのアメリカ人のことをさしているつもりだ。同じアメリカ人でも、産地が違うアメリカ人の話はしていない。長い待ち時間の後やっとの思いで自分の順番が来ても後の人が待っているからと自分の用事を手早くしようともしない。自分が待たされたのだから敏速に事を運んで後ろの人を待たさないようにしようともしない。そういう意味では待つことにストレスは感じない人種に見える。案外辛抱強い人種かもしれない。 もしかしたら、他人がどう想うかなどと気にしない人種かもしれない。  彼らが文句を言いたいときはまっすぐ弁護士の事務所へ向かう。そして「精神的負担云々」という大儀名文の元に裁判所で決着をつける。苦痛を金銭に換える 。 「まあ嫌だお金なんてネー?」などと格好の良いことは云わない。 「あやまれ」なんて言葉のゲームもしない。 これが面白いと思う、 キリスト教国でありながら、誤るとか、許すとかはあまり問題ではないのだ。又日本の仏教国が、「悟り」の国のはずなのに、「あやまれ、あやまらない」が絶えず問題になるのと対照的である。

キリストの教えの「右の頬を打たれたら左の頬を」の代わりに「目には目を」のユダヤ教の教えをキリスト教と入れ替えて、絶えず戦争に加わるく国なのだから、実際には宗教と政治などは関係ないのかもしれない。聖書は皆読むが、都合の良い箇所だけを利用するのかもしれない。

しかしこの表面的には物事を穏便にする行為も人種によって多少違ってくる。肌の黒い方々は一応に被害者意識が強いし短気である。二台の車が軽く接触したとしよう、相手側の人が大丈夫ですか?と聞いたとたん車から飛び出て、道路にひっくりかえって痛いよー痛いよーと泣きだす。
公共の建物などでガス漏れがしたと発表されたり、非難要請が出ると、素早く気分が悪くなって担架に乗って救急病院へ担ぎ込まれるのは大半が黒い肌の方々だ。多分体内の組織の反応が普通より早いのだろう。実に敏速に病気になる。

平岩弓枝作家の本を読むと、ホテルのロビー、或いは買い物の場などの光景が小説の中に出てくると、「マナーを無視して声高にしゃべる騒がしい一団が入ってきたので目を向けるとそれはアメリカ人の観光団だった」と書いてあるのを何度か読んだ。多分そうだろう。多分他の国の人たちの団体旅行は静かなのだろう。私はあまり旅に出ないからそのような群れにぶつかったことはない。たとえ騒がしい一団にぶつかっても、それがアメリカ人とは見分けが付かない。英語圏の国は世界地図の上で結構大きな範囲をしめるから。

先日生地屋(洋服生地屋というのかも?日本語が分からなくなった)へ買い物に出かけた。わたしは時間があるとキルトでいろいろなものを作るのが好きだ。 ついでに洋裁もする。自分のスラックス程度はたいした時間が要らないので週末に作り、月曜日にはそれを身に着けて出勤する。ゆえに生地屋へは少なくとも毎月一度は出かける。出かける店は月に一枚、一品限り40%割引クーポンが郵便で配達される。 これはなかなか無駄にはできない。 それに何ヶ月かクーポン券を使わないと名簿から消されるそうだ。やはり毎月顔を出さなければ。

その日もキルトに使える一つの生地を選び5ヤード買った。40%引かれるのだから其の一品はいつもまとめ買いをする。
会計のテーブルでその生地の束を良く見たら最初の二ヤード当たりまで汚れていた。急ぎカッターのテーブルへ戻り汚れている二ヤード分を切り取ってもらい、新しく二ヤードを切ってもらった。するとその若い店員は「 そのクーポン券は一品限り有効ですから、 あとから付け加えた二ヤードは二品目になりますので40%割引は出来ません」とシラーとわたしに言った。
結果はもちろんこの若い店員の負けである。年の功、亀の甲の私がそんな理屈を飲み込むはずがない。私が感心するのは、そんな通らない理屈を恥ずかしげも無く言う頭の固さなのだ。彼女は規則でそうなっていると主張していた。マニュアル通りにしているのだ。それではその規則には汚れて返品の例はどうなっているか?と正したら、そんなことは書いてないという。

開店早々のドレスショップ、直美と私は「当日に限り25%割引」のクーポン券を持ってはせ参じた。帰宅して娘が一枚のブラウスがどうもサイズが合わないと言う。そこで翌日、同じ店に戻り、同じ品でサイズ違いとの取替えを頼んだ。雇われたばかりらしくまだレジのコンプユーターの使いかたもおぼつかない若い店員は、「昨日はこの商品は割引でしたが、今日は違いますからこのブラウスの25%差額料を支払ってください」という。コンプユーターに打ち込むとこの商品は割引と出てこないからだという。あわてて財布に手を出す直美を抑えて私は説明した。買い物は昨日で済んでいる、今日はその商品のサイズの取替えだけだから、今日の売り上げの品にはならないと説明しても彼女は聞く耳持たず一人自己主張をする。そこでわたしはこの売り場のマネージャーが同意したら支払うと提案し、彼女は急ぎ電話をしてお伺いを立てた。   
(ちなみにマネージャーの返答は、コンピューターには触るなと怒鳴っていたのがテーブル越しにも聞こえていた)

わたしの子供たちがアルバイトを始めたとき、彼らの職種が小売店すなわち接客業が多いことから私は口をすっぱくして言い含めたことがいくつか在る。
たとえどんな仕事でも、その時間の給金がたとえ5ドルでも、その給金を受け取る限りはその勤務時間中はプロだと思え、お客の身になって物事を処理しろと。
又、不確かなときは自分だけで処理をするなと何度も教えた。分からないことがあったら人に聞きなさいと。絶えず世の中には自分よりも知識のある者はいくらでも居るのだと頭に叩き込めと。

アメリカの子供の育て方の一つに、 「自分が正しいと思ったら、主張を曲げるな」と親達は教える。 「Go for it」と激励する。
5歳、6歳の子供に「自分は正しいと思ったらそのまま主張しろ」冗談ではない。何を基本に自分が正しいと決める?そんな年齢でどうして善悪が分かるのだといつもハラハラする。
モーゼの十戒も、福音の教えもまだ知らず、その国の法律も知らず、常識も、教育も身についていない子供がどうして自分の主張が正しいと判断出来る。出来るはずがない。そんな子供たちが自分は正しいと自己主張をし、親がそれを全面的に信じるから世の中が面倒くさくなる。だからわたしは子供たちに言い聞かせてきた。解らなかったら人に聞けと。自分で判断して自分で処理したことが全て正しいとはかぎらないと。
人はいつも、「もしかしたら自分は間違っているのかもしれない?」と立ち止まることが世の中をスムーズに生きられると考えるから。

還暦を過ぎているこの私自身でもいまだに、本当の善悪など解らない。その善が自分の利益に損失を伴うときは決断に多少のずれが出てくる。その善と思う行動が自分の家族に痛みを与えるようでは、それは善ではないと判断するときもある。そんな時は小さな悪魔の囁きが聞こえる。
神に近づこうなどとはサラサラ思わないが、少なくとも天使のすることを真似たいと思うが、時には天使だて、天国の雨水の入っているバケツを蹴飛ばしても、蹴飛ばしたのは自分ではないと言うことだってあるだろう。あって欲しい。


 

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