2007年11月15日木曜日

アクセント 2

お向かいにギリシャ人家族が最近まで住んでいた。 この奥さんの名前はアリキ。彼女に嫌味は決してないのだが、意思の疎通が実に原始的である。 彼女の二人の子供の医者への送り迎え、買い物などへの交通機関は私の手にあるのに、あまり頼むという感覚がないらしい。 私より以前にアリキへの奉仕活動をしていたお隣の奥さんフランソワさんはアリキから電話がかかってくるのに恐怖を感じるようになっていた。そして私にバトンタッチとなったのだが、イヤハヤすごい、
つたない英語はお互いさまなのだが、彼女の言葉に優しさがない。本当は情緒がないと言いたいがまあそれは外国人の会話には無理だろう。 しかし彼女の単刀直入、意味合いだけで文章が編成されている会話はいつもこちらが命令されているのではと勘ぐりたくなる。余計なものが全部省かれた単刀直入な会話はまだなれない外国人が共通して持つ欠点だが、それなら、プリーズとかサンキュウーを冒頭かお尻に取り付けてくれるといくらか情緒がでる。。ギリシャ語には敬語がないのかと聞いてみた、あるけれど友人には使わないと言われた。 彼女は一応私を友人と考慮してくれているのだと納得することにした。

最近ご主人の転勤でこちらに滞在している日本のご婦人が、「アノー英語には敬語がないんですよね?」と同席の日本女性に確認(?)していた。「ソーネ 英語って敬語ないわね」別の女性が返答していた。
「そうですよね、アメリカの英語ってイギリスの英語と違いますものね」??
同じ英語であっちには敬語があって、こっちには敬語がないってわたしは知らなかった。、日本語のように「ザーマス言葉」はないかもしれない。しかし語彙を増やすことにて、幼稚な英語から大人の英語には変化するはずだ。大学教授の会話と小学生の会話がおのずから違うように、むき出しの会話ではなく、言語表現が豊かになり、その人の知性が溢れた言葉が敬語ではないかしら。そんな意味だと英語にも敬語があるのではと考えるが、まあ私は黙ることにした。

アリキのご亭主カラースさんは小さいレストランの経営者。十四歳でギリシャを出て、カナダで皿洗いから始め、転々と移動して四十代の後半でこの街で店を開いた立身出世の有志。 見るからに精力みなぎる横から見ても前から見てもギリシャ人。ついでに中身もギリシャ人。彼は奥さんのアリキと同じに無償で隣近所の亭主族を使うのがとても上手だ。斜向かいのロンさんも、お隣のテイラーさんも我が家の亭主君もカラースさんと会話をすると結果いつも、カラースさんの家の電気器具、エアコン、自動車の修理をさせられている。ロンさんは芝刈りまでさせられていた。 どうしてそうなるのか彼等にも理解出来ないらしい。壊れた物を目の前に出されて、肩をすぼめて、ホワーイ? ホワーイ?と言われると何故か責任を感じるのだそうだ。そして結果は、「彼はグリーク(ギリシャ人)だから仕方がない」で終わる。
これはよその国の国民性を揶揄することの一つなのだ。 この地に居ると、ジョークと言う名のもとに、あらゆる国民性の特徴を笑の種にする。  
例えば、我が家の亭主が少しでも頑固な性格を現すと「ドイツだからね~」と言われるように。
 
或る日そのアリキが自分の夫の経営するキャフェテリアへ昼食に連れていけと言う。 私もどんな場所か興味があり二つ返事でOK。
町工場が立ち並ぶ中央高速から少し離れた土地柄、個人企業の店の並ぶ一群に小さな看板が「City Café」と書いてある。ドアを入って左側は四人がけのテーブルが六つほど一列に並ぶ、右側は食品の列。 トレーを持って一番奥に並び、順繰りに皿の上にドバッと盛り上げてくれる。 汁の中に浮いているステーキ、 マッシュポテト、茹でたインゲン豆、魚のフライ、ロールキャベツ、とんかつ風ステーキ、超大盛りのアメリカンランチ スタイル。町工場の職人さんたちがドアまで立ち並ぶほど大勢店に入り、人いきれでムンムンする感じ。なんか子供連れで来る食堂ではないなと感じた。わたしが息子の秋夫ちゃんと食べている姿を店中の客がジロジローのジロっていう感じのキャフェテリア。

食事が終わり支払いをしようと出口の前に設置されたレジスターの前に立った。すると奧で仕事をしていたカラースさんが大声で私の名前を呼び、ハローと怒鳴っている。 私も手を振り答えてから会計に向かい支払いを済まそうとしたその瞬間カラースさんは奥のキッチンから大声で怒鳴った。
「No 、I don’t need your money, I give you my food」
 さして大きくないキャフェテリアの隅から隅までズイーイと聞こえた。店の客も一斉に私を振り返った気がした。もちろん彼の気持ちは、「支払いは結構ですよ。 わたしの奢りです」の意味だと気持ちはわかる。しかし他の客はそんなことは知らないのだ。その時私は学んだ。アクセントなんてどうでもいい、心の通った言葉を使え。もうちょっと言い方があるだろう、敬語を使えとはイワン、だがもう少し考えろ。これは私の心の中の独り言。しかしご亭主はこの英語で人生の大半をアメリカに住み、食堂を経営している。付け加えれば従業員は大半がギリシャ人。彼に英語など必要ない。これは、「アメリカでは馬鹿でも英語を話す」に入らない。このご亭主は馬鹿ではない。しかし英語は話せない。耳障り? そうかもしれない。私は腰が抜けた。

このカラース家は夫婦共々大きな夢がある。 アメリカで働き財を築いて.、故郷ギリシャの彼らの出身地へ戻って余生を暮らす。二人はセッセとその夢に向かって歩んでいる。だからこそあらゆる家庭の修理、修繕には、ご近所の底抜けに陽気なアメリカ人たちを使うのかもしれないと私は勘ぐる。それによる人件費の損得は経営者である彼が一番良く知っているはずだ。

子供の夏休みが始まると毎年店の経営を友人のギリシャ人に頼み、二人の娘を連れて彼らは必ず故郷の町へ帰る。数年後にはヴィレッジの中に家を買った。 いつもいつもギリシャの話をして、ギリシャの食事を食べ、 パーテーを開くとギリシャのダンスを踊る。子供たちの学業が終わるときはギリシャへ家族全員が帰るのだと念じていた。 二人の生活はギリシャを向いて暮らしている。
   
 年月が経ち二人の娘も成長して高校、大学へと進む頃から子供たちのギリシャへの気持ちが少しずつ変化してきた。夏休みが来ても、自分たちはここに居るから両親だけで出かけて欲しい。 わたしたち学校へ行き始めてから一度も夏休みをアメリカで過ごしたことがないと不満を言い始めた。これは彼らの計算違いだった。親への会話も、ギリシャ語から英語へ変わり、 キャリアー女性を目指しだした。  彼らにとっての故郷はもうアメリカなのだ。
  そして二人が大学生になったとき上の娘のマリアが宣言した。  両親が故郷へ帰ることは自由だが自分と妹はここに残る。自分は大学の後、医者のコースをたどりたい、でもあのヴィレッジには病院なんてないでしよ。無医村の町では自分の就職口はない。それは言い訳の一つに過ぎない、本当は彼女には同じ研修生の婚約者が居る。
 それでは話が違うと烈火のごとく怒る父親と、がっかりする母親を慰める言葉などない。 
自分たちが十代で出た古里を三十年の年月毎日偲んできた、が、もしここで二人の子供を連れて帰れば、この子供たちが同じように、遠いアメリカを偲んで生きることになると気がついた。
無理に二人だけで帰ればそれは親子の別れ。 片道24時間が必要なギリシャへの旅、自分たちだってこの先何年この旅がつづけられるか心もとない。

昨年の寒い冬の夜、カラースさんは夜道をジョギングしている途中に心臓麻痺で病院へ担ぎ込まれた。数年前から糖尿病を患い食事制限と体重のコントロールに苦労していた彼は、毎日のジョギングを唯一の運動としていた。
救急車で担ぎこまれその父親を診たのが、医者になっている長女のマリア。 娘の看病の下に数日後に亡くなった彼は結局故郷のギリシャで余生は持てなかった。 

このカラースさんの人生を悲劇とは決して思わない。 彼なりに一生懸命に生きたと思う。決してアメリカ式に生きようとせず、同国人の中にだけ憩いを求め、一生涯ギリシャ語を通し、故郷に家を買い、しっかりと先の目的を持って生きた。その道のりで倒れた彼をアッパレと言ったら不謹慎だろうか。

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