2007年11月7日水曜日

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アメリカ南部テキサス州に来て30余年。月日は矢のごとく過ぎていく。時々自分は本当にこのアメリカで生涯を終わるのだろうかと考える。 嫌とか良いとかではなく、感無量なのだ。いまだに日本の国籍を保ちそれを唯一の自我としているが、 気持ちは川辺の葦の如く国境を揺らぐ。この国で少しでも、本当に少しでも日本を否定するニュースが流れると烈火の如く怒る。 少なくとも誰も私の居る前で日本人を笑いものにするジョークは言わないほうがいいし、皆がそれを承知している。 もちろん日本人の前で日本人をけなすことを言うほど私の回りの人は非常識ではない。 しかし、 人種の坩堝のこの国では国籍とか国民性を揶揄するジョークは朝飯前である。 そして恥ずかしげも無く私も日本に関してでは無い限り アハハと笑う。失礼な話しだ。 しかし時々日本に帰国したとき、日本のメデイアがアメリカ批判をすると、「何も分かっちゃいないくせに、何を言うか」とムクムクと反対感情が沸く。 根っこの無い浮き草である。わたしは日本人であるが、わたしの子供はアメリカ人だからかな?と結論を出している。この先何十年とこの地に生きる我が子のことを思いやるとやはり世界が批判するような悪国アメリカでは困る。

何年居てもその国の言葉を習うのは難しい。ある程度すると変化がなくなる。 日常生活で使う言葉が決まってしまるから。単語を沢山覚えても、年齢を増すごとに増えるはずの語彙が、反対に下降して行く。一つ覚えて、一つ忘れる。頭の中の知識の引き出しがもう一杯に溢れてこぼれてしまう。それと同時に下に押し込められている知識が引っ張りだせない。
言葉としては、現代の日本の言葉の使い方は私自身すっかり置いていかれた。
三十年前の若い人は「全学連口調」で 「我々ワー」節で一直線な会話をしていたと覚えているが、 今の人は自分で意見を述べて、数秒後に「ウーン」と自分で納得しているのをTVで観る。
 
さて、「自分の使う英語」は横に置いての話にしてもらいたいが、 耳だけは一人前。 理解力は? 自分では解っているつもりとしておこう。
アメリカの英語には標準語がないということになっている。皆が自分の言葉遣いやアクセントを主張する。「ここの標準語は」?と聞くと自分の使っている言葉がそうだという。 私が最初にアメリカに到着した土地はカリフォルニア。別にカリフォルニアアクセントが身につくほどに長期滞在ではなかった。帰国して、イギリスの会社の東京支社に就職して人生の海原に船出した。
給料をくれるその会社は常時 四-五名の「イギリスアクセント」の社員がイギリスから家族共々転勤して来ていた。日本人が好む英国アクセントの御仁たち。その彼らが、私の西部アクセントが強いと批評した。縦に口を開けての会話と横に口を開けてのアメリカアクセントではそれは違う。 カメラをコーメラ。スケジュールをシェジュールと発音する彼らは勿論文章の言い回しも多少違う。
一時期TVのコマーシャルにインドアクセントの英語を使うのが流行った。舌の長い彼らの英語は口の中でクルクルと丸まったようで、普通の人の二倍の時間をかけて会話をするように聞こえる。また彼らは言葉を決してはしょることをしないから結構ダラダラと喋る。しかしインドアクセントが注目されたのはもう過去のこと、今はヨーロッパアクセントのコマーシャルが良く出る。 
自動車保険のコマーシャルにトカゲの小型ゲッコーがヨーロッパアクセントで
「オーイ ユー コ~ン パア~ ゼア~」そこは駐車できないゾ~と言っているのだが一度きいただけではまず理解できない。
このゲッコー君のシリーズが何本もテレビに出てくるが、結局彼のアクセント、多分オーストラリアだと思う、どこかが開いていて空気が漏れているような、それとも口が開きっぱなしなのかナ?というアクセンが売り物なのだ。本当は三回聞かなければ彼が何を言っているのか理解できない。それゆえゲッコー君が出ると部屋の会話が止まる。凄いコマーシャルだと思う。 

昔、父方の叔父が商用でロンドンへ出かけたおり、ある晩超一流の劇場へ観劇に出かけた。  休憩の間に、黒いスーツにステッキ、葉巻をくゆらしながらお茶を飲んでいるいかにもイギリス紳士のグループの近くへ行き、あのような上品な連中はキングス イングリシュでいったい何を話しているのだろうと聞き耳を立てたそうだ。  「イヤ驚いたね、話の内容は僕らが縄暖簾で話す内容とまったく同じなんだよね~。こっちは酒が入らないと話せない内容を、お茶一杯で始めるんだから、あれスコッチとやらを飲み始めたらどんな会話になるのかネ」と笑っていた。

そんなことはさて置き少なくとも言葉とは、自分の意志を伝える道具なのだから、自分が云わんとしている意味をはっきりと相手に伝えねばならない、然し聞いた相手がその言い回しで不愉快な気分になっては意味が無い。

先日ウエブの或るレポートで、「アメリカでは馬鹿でも英語を話す」それに付け加えて「アメリカ人の英語は耳障りだ」と投稿していた。なるほど、誰をアメリカ人と言うかが問題なのだ。人種の坩堝、どこから来ても市民権を取ればアメリカ人。最近の統計で一般にメイフラワーで来た白人系といわれる、ヨーロッパからの移民のアメリカ人はマイノリテイになった。 もうアメリカのマジョリテイはメキシコ系(ラテン系)と入れ替わった。彼等が人口の52%を占める。 少数派としての恩恵、福祉、奨学金、等々は受けられなくなるかもしれない。彼らはそれを知っているのかしら? 今度は白人が社会福祉の窓口に立って福祉を申請したら少しは受け付けてもらえるかもしれない世の中になったのだから、そうなるとアメリカ英語の姿ももう一度変わることだろう。実を言うと、政府はメキシコから来た移民が英語を習わなくても生活が出来るように少しずつ国のほうで変化してきている。 
学校もラテン系は英語の授業に出なくて良い。 スペイン語ですべて勉強できる。 買い物も英語は要らない。ウオールマート、ターゲット、など大型安売りデパートへ行くと英語など聞こえない。 
昨日は私の大好きなラジオトークショウでトーカーが息巻いていた。薬局で処方箋の薬を手渡すときに、 相手がラテン系の客のときは、彼らがしっかりと処方の仕方が理解されるように、英語で説明をしてはいけない。 必ずスペイン語の通訳を常勤として置くようにとなるのだそうだ。それが浸透したら、いつか私も英語がわかりません、日本語の通訳をお願いします、もし居なければ、それは人種差別ですと言ってみたい。

スペイン人の夫とフランス人の妻がいる。 二人はオランダで知り合ったそうで二人ともダッチを話す。 ついでに夫は四分の一がフィリッピン人だそうだ。故に彼はフィリピンの言葉も少し話す。これは私が証明する。英語、フランス語、スペイン語、ダッチと少しのフィリッピン語を話すこのご亭主は実に鼻息が荒い。
しかし、彼のフランス語は奥さんに言わせると、フランスでは通じないそうだ。スペイン語は先日スペインから遊びに来ていた彼の甥っ子が、おっさんの言葉は古いとけなした。 オランダに留学していた息子が帰宅して、父親のダッチを聞いてニヤーと笑って首を振っていた。それでは最後に残るのは英語だ。 彼はスペインで小学校からアメリカンスクールへ通学していたそうだ。 話しだしたら止まらない、立て板に水がごとくおしゃべりをする。 しかし、彼のアクセントはもうこの国に来て三十五年というのに強烈なスペインアクセント。我が家の亭主でも半分しかわからない。奥さんのフランスアクセントも強烈だ。しかし彼女もスペイン語もダッチも話す。その夫がフランス人の妻の英語のアクセントを絶えず揶揄する。いくら注意しても止めないので聞いている私もいい加減頭に来た。そこで優しく説明する必要があると思い、そういうのは 「目糞が鼻糞を笑う」っていうんだよ。と説明した。分かってくれたかナ。

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