2008年6月3日火曜日

手負い虎 さんが第二のコメントを投稿しました。


私はあえて過激発言をする。

生物と生まれ、子孫を残すことがあたりまえの生き物として、倫理も性教育も宗教も無駄だ。またはあってもなくても結果は換わりはしない。

私の家庭は厳格極まりないカトリックの家庭で、朝の祈りから始まって夕べの祈りまで、まるで修道院のような規律正しい生活をしていた。父は謹厳な信者で、母は武士道の塊であった。その子の私は、まったく自分に原因もなく、性的被害者である。

そのことが生涯に暗い影を落とし、娘には早くから性のすべてを、まじめに教えた。性の危険性も、女性の弱さも被害状況も、倫理も思想も宗教も、できることはすべて動員して教えた。しかし彼女もまた性の被害者となった。

今私は二つのことを思う。人間はどんな環境に育とうとも、ある運命の元にいて、その運命を避けられるものではないこと。与えられた運命の中で、そのつど生きなければならないこと。宗教や倫理やいかなる思想に基づいた性教育を施そうと、その運命から逃れられないこと。運命から逃れることを考える前に、運命を受け入れてどのように運命を生きぬくべきかを考えることのほうが、人生において有益であること。

もうひとつは、人間がいくら偉そうに生物界の頂点に君臨しようとも、生物であることの本来の生殖活動を規制することなどできないこと

宗教や倫理は、其れを見えないようにカバーするための道具に過ぎない。このことは、昔メキシコの男子修道院、女子修道院の間に、おきた事件からも証明できる。

両修道院の間に長い長いトンネルが掘られていて、トンネルの真ん中が嬰児の墓地であったという事件だ。この事件は、人間が生殖活動から逃れられない生物であることのすべてを語っている。

宗教的規制や倫理観によって嬰児を闇に葬ったことと、宿った子供は全部育てるおおらかさと、どちらを選択するかは、各人の問題であろう。

まして、人種によって、生殖活動のパーセンテージを出すのは、趣味としては納得できても、それは隠蔽率のパーセンテージに過ぎないのだから。




手負い虎さん第二のコメントありがとうございます。


人はそれぞれ自分の運命を背負って生きていくしかありませんが、その中で神は心の支えとして心の潤いを与えてくれるけれど、宗教がその人の持って生まれた運命を変えてくれることはないでしょう。 選択を与えられたときに、神の示す道へ進もうと努力は出来ますが、人は孤独ではあるけれど、その人が住む社会はたくさんのストレンジャーで成り立っています。そしてその社会に生きる以上は、自分の希望しない道へと流されていくのがほとんどではないですか?

神は私たちに福音をもたらしたが、それに従うのは弱くて、知恵にたけ、狡猾で嘘の上手なわれわれ人間がどれほど神の福音の道をまっすぐに歩めるでしょう。 そこに掟があるからその掟を破るのはもうアダムとエバが最初に証明してくれました。それ以来人間は戒律を破ることにいそしんで来たのではないでしょうか? 

修道僧、修道女、神父、牧師、伝道師、僧。人に生きる道を示す仕事の彼らが完全な人間だなどとは私は一度とて考えたことはありません。 みな罪を犯します。人間の本能のままに生きることもあるでしょう、でもそのあとでその罪に対して悔恨の気持ちになるか、不遜な気持ちで隠ぺいするかはその個人の選択です。 

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