2008年6月1日日曜日

じゅんたろうさんからのコメント

じゅんたろう さんが投稿 "Child Development Class" に新しいコメントを書き込みました。

コメントが遅くなりました。 というのも考えていました。 思い起こせば我が家の子供達の時は如何だったか?次男は選択科目だ
ったので取らなかったが、長男の私学では必須だったように思う。 彼が縁側で縫い物をしている写真が残っている。 雑巾らしい。 
し かし「子育て」のカリキュラムは無かったようだ。 恐らく日本のどのような学校でも取り上げられない科目だ。 性教育でさえ絵本の段階でしかない。 まし て模擬であろうとも「子育て」プロ後ラムは出来ないだろう。 長い間、性というものが家庭ではタブーだった日本。 戦後解放されたといえきちんと受け止め られるだけの土壌を作りえなかった。 昨年来、世間を騒がせた「赤ちゃんポスト」は熊本のカトリック系病院で約一年を迎え「こうのとりのゆりかご」となずけられ活動をしている。 捨てられた赤ちゃん(20人近い)以外に68件の相談があり、それぞれ養子縁組や施設に預けられた。 闇から闇え葬られた赤ちゃんはどれほどだろう。 
Child Development のような授業が出来る日本、そして「命」というものを深く考えられる次の世代の日本を望むばかりである。


じゅんたろうさんコメントありがとうございました。
性教育を絵本でですか? でもそれも良いかもしれません。 こちらでは息子の時代からまた四年後の娘の時代はもっと実質的になり。  胡瓜にコンドームをかぶせる実習をするクラスがあるそうです。
お産の実写フィルムを見せる学校もあるとか。  
一度娘の直美が高校のとき、 友達の女の子を家へ連れてきて、彼女が妊娠しているらしいから、お母さん産科へ彼女を連れて行ってくれないか?と頼まれたことがあります。娘としては、友達に何か手伝ってあげたいと考えてなのでしょう。 
私は性教育のクラスはどうしたのだ? あなた達はクラスで何をしていた?ってついに怒鳴りました。
性教育なんてむしろ彼らを目覚めさせるだけではないかって思うこともあります。
隠すのもよくないでしょうが、見せるのも行き過ぎです。
何年か前の統計では、 未成年の女子の妊娠率は、ラテン系50%、黒人30%、白人系20%そして東洋系1%と発表されたことがあります。もうこうなったら教育ではありません。宗教でもありません。なんなんでしょうね。これ以上書くと又人種問題に入りますのでやめます。 




1 件のコメント:

手負い虎 さんのコメント...

私はあえて過激発言をする。

生物と生まれ、子孫を残すことがあたりまえの生き物として、倫理も性教育も宗教も無駄だ。またはあってもなくても結果は換わりはしない。

私の家庭は厳格極まりないカトリックの家庭で、朝の祈りから始まって夕べの祈りまで、まるで修道院のような規律正しい生活をしていた。父は謹厳な信者で、母は武士道の塊であった。その子の私は、まったく自分に原因もなく、性的被害者である。

そのことが生涯に暗い影を落とし、娘には早くから性のすべてを、まじめに教えた。性の危険性も、女性の弱さも被害状況も、倫理も思想も宗教も、できることはすべて動員して教えた。しかし彼女もまた性の被害者となった。

今私は二つのことを思う。人間はどんな環境に育とうとも、ある運命の元にいて、その運命を避けられるものではないこと。与えられた運命の中で、そのつど生きなければならないこと。宗教や倫理やいかなる思想に基づいた性教育を施そうと、その運命から逃れられないこと。運命から逃れることを考える前に、運命を受け入れてどのように運命を生きぬくべきかを考えることのほうが、人生において有益であること。

もうひとつは、人間がいくら偉そうに生物界の頂点に君臨しようとも、生物であることの本来の生殖活動を規制することなどできないこと。

宗教や倫理は、其れを見えないようにカバーするための道具に過ぎない。このことは、昔メキシコの男子修道院、女子修道院の間に、おきた事件からも証明できる。

両修道院の間に長い長いトンネルが掘られていて、トンネルの真ん中が嬰児の墓地であったという事件だ。この事件は、人間が生殖活動から逃れられない生物であることのすべてを語っている。

宗教的規制や倫理観によって嬰児を闇に葬ったことと、宿った子供は全部育てるおおらかさと、どちらを選択するかは、各人の問題であろう。

まして、人種によって、生殖活動のパーセンテージを出すのは、趣味としては納得できても、それは隠蔽率のパーセンテージに過ぎないのだから。