2010年4月19日月曜日

宗教団体

Lakewood Church という全米一の大規模なキリスト教教会がある。教団本部はこの街ヒューストン。

日曜礼拝人口平均43,500. 100ケ国へのテレビ中継もされている。 まさにメガ教会である。席数16,800のマンモスドームを持ち、日曜日の礼拝は四回。 ここに君臨する 教祖である牧師とその妻は財力の現人神である。牧師の独特のスマイルと話術は誰もが納得がいく説得力を持つ、敢えて言うなら、 これぞ 神から与えられた恵みである。

この牧師のインタビューをTVで観たことがある。 大学で神学を勉強したわけでもない、特別の訓練を受けたわけでもなく、 先代Lakewood  Churchの牧師家庭の中に産れ育っただけ。
インタビュアーの質問に、牧師になるための神学校を卒業したのか?その答えに対しては言葉を濁していたから、多分それもないのだろう。しかし 或る日 父親に勧められて説教台に立ち、自分の心に思うことを話し始めたら 言葉が次から次へと口から出て来た、とニコニコしていた。

人を引き付ける素養を身につけているのかもしれない。 いや、神から与えられているのかもしれない。

私の所属するカトリック教会の神父の説教には ニコヤカなる笑みなどまったくない。円壇上で歩いたり、ため息をついたり、 そしてニコニコを絶やさぬ話術などまったくない。 そっけないものである。 神父たちもこの牧師のテレビ中継を観て少しは勉強したほうがよいかもしれない。

一般庶民で、何処の教会にも所属しない人たち、もう車の運転が面倒になった多くの老夫婦たちがインスタント礼拝をTVの前でするわけだ。
自分の教会の礼拝を済ませてからも、 日曜日の朝10時にはテレビの前に座り、チャンネルを合わせ、牧師の話を聴き、毎週25ドルの小切手を切り、郵送している老婦人を知っている。

さわやか系、癒し系という言葉が当てはまる語りかけ。 毎日の生活の中の事がらの中での神の存在。生活の中の全ての事がらはすでに神の働きによるものである。
わたしたちは神の支配の元に、計算されて、生きているのですと力説する。
右の道を通って帰路に就くつもりが、何かの都合で 左を通った。しかし、右の道に大きな事故があった。 それは神が 事故が起きる事を知っているから、 あなたに違う道を行かせたとこの牧師は説く。神に守られていると。 多分そうだろう。

そこが私自身のどうしても受け入れられない処なのだ。 二つの道の一つを選ぶのは わたしの意思であり、 神はいつも 私たちに選択権、自己の責任を与えてくれていたと信じているのだが、
神はこの世を創造した、そして どう生きるかを説いた、その後の選択権は人間自身のものと理解している私とは根本が違ってくるのだ。 

しかし、この牧師の理論のほうが世間には受けるのである。 自分の意思で人生を歩まず、神の計画の元に全てが執り行われていると考える人生を多くの人が受け入れ、それを良しとしている。多分そうなのだろう。しかし、どこかで、それでは 個人の意思はないのだろうか? 良い事が起きて神に感謝、それでは 意思に反する悲しいことが起きた時は、それも神の意志と受け入れるのか。 神は人に、病と事故と災難と悲しみも与えているのか、 それも神の意志なのだろうか。それを祈ることで災難から離れる事が出来るのか? それでは、悲しみを持っている人は 神に祈らないと云う事か、 どこか違うと考えたい。 

貧しさは 幸いです、 お金がなにになりましょう。 心さえ豊かであるなら、 金銭なんて問題ではないのです。 祈りましょう、神がそこに居ます。胸を張って、毎日を過ごして下さい、あなたがたは素晴らしいと説くこの牧師夫妻が、一年ほど前に、或る州からの帰路、飛行機の乗客となっていた。そして、その数日後、その飛行機会社のフライト アテンダントに暴力行為を牧師の妻から受け、精神的打撃を受けたと告訴された。牧師自身ではない、その奥様、副牧師、いつも夫の傍に寄り添う、金髪の綺麗な女性がである。フライト アテンダントと少しの言葉の食い違いからそれが諍いとなり、 牧師の妻が手で相手をドアまで押した(こずいた)というものである。 

告訴するフライト アテンダントなど 機内で見ていない。何もなかったと否定する牧師側との間で、早速裁判になった。
人間である以上、 気分の悪い時もある、 たまたまその日は双方とも気分のすぐれない日だったのかもしれない。 しかし、 告訴したアテンダントは 相手側の懐の重さを量り告訴したかもしれない。 又牧師側も世間体を考えて、小競り合いはあったが、決して自分たちは過ちを犯さない人間であると意思表示したかったのかもしれない。どちらの言葉が正しいかは それこそ 神のみぞ知ることである。

しかし、いざ裁判の蓋を開けて驚いた。 牧師側を代表する弁護士団。 この街で最も悪名高き、一般人は足元へも行くことが許されないような 最高級の弁護士であった。この弁護士が立てば連続殺人犯も明日は大手を振って街を歩けるようにしてくれる。 テレビ中継される裁判、セレブの裁判そんな時には 必ず出てくるご本尊が、私が牧師の妻の無実を証明しますと お定まりのニュース中継の中で、ニコニコと微笑む牧師と並んで記者会見。 牧師自身は、記者の質問攻めの中で、全てを神の御手にゆだねます、そしてニコニコ。

この弁護士の登場で結果は分ったも同じ。勿論結果は無罪、告訴取り下げ。
飛行機の機内では訴訟側との接触は一切なかった。 全てが告訴側の造り話であるという結果となり、敗訴したアテンダントは テレビ中継の中で、 公式に相手側に謝罪をした。


貧しさは幸せ、 金銭は人を助けず、心さえ清ければ、あなたは素晴らしい、と毎週ミリオンの世界の人たちに説いている牧師が、財力の無い人には 依頼することも出来ない弁護士を雇い、無罪を証明、相手側へ公に謝罪させる感覚が分らないのだ。
この牧師の聖書の中には 「許し」という言葉が無いらしい。そんな牧師を一言「偽善者」と呼ぶには あまりにも多くの人たちが彼の言葉に酔い、寄付をする事に喜びを感じ、絶大なる支援を受けることが不思議だ。

先日はオバマ大統領の医療保険講演会で、この牧師夫妻が最前列に並び、オバマさんに向かってニコニコしていた。医療保険支援団とはおよそ縁のなさそうな 宗教団体の教祖が大統領の入場する入り口で ニコニコと拍手をしているのを見るのは 何とも 世の中の不思議を見るようだ。神が政治にも関与し始めたという事だろうか。          

3 件のコメント:

あらま さんのコメント...

日本では、「地獄の沙汰も金しだい。」といいます。
どんなに綺麗ごとを唱えても、カネには適わないという現実は、洋の東西を問わず‘真理’みたいですね。
また、「カネの切れ目が縁の切れ目。」とも言います。
夫婦関係にしても、宗教の繋がりにしても、金がなければ継続しないと言うことなんでしょうか。
「そうではない ! ! 」と青年のように叫びたくもなりますが・・・
とにかく、野球の解説者にしても、神父さんにしても、日本の坊さんにしても、結果論で話をするのですから正しいに決まっています。
運命が宿命なのか、それとも偶然なのかを考えるよりも、かつて、レーガン元大統領のナンシー夫人がお抱えの星占い師に国政を相談をしていたことを思い出しました。
しょせん人事なんて、そんなものではないでしょうか ?

革袋の一滴 さんのコメント...

あらま様こんにちは

五木寛之の本の中ですが、
赤ん坊が産まれてくるときにギャーと泣くのは、人生の悲哀と地獄へ送り出されてくることへの恐怖で泣くのだそうです。

私はこの頃、もし有るかもしれない地獄が怖いと思わなくなりました。 何故なら 政治家、権力者、偽善者が皆いる処ですものね。きっと地獄へ落ちても、又この世で生きて来たのと同じ繰り返しが待っているだけではないだろうか、と。
この世で生き延びられるのですから、地獄でも生きられます。 怖い思いをするのは わたしだけではない、 大勢の霊魂と一緒にくぐる世界ですから。そんな事考えていたら 小心者の私も思い切り大罪を犯したくなりました。しかし、それも 夢のまた夢です。

手負い虎 さんのコメント...

面白い面白い。エルサルバドルにこの牧師さんと同じタイプの牧師さんが、同じタイプの説教をして、人々の熱狂を買い、金銭無用論を唱えながら、貧乏人のお金を吸い取って自分は高級車を何台も買い集めている人がいますが、同じ流れかな。とにかく宗教って、無知な相手を熱狂させてしまうから、最も手っ取り早い金もうけの道らしいです。

ところで本当に、どうしてカトリックの神父さんは「世界的に」説教が下手なのでしょうね。あれだけ下手だと、信者に苦行を強いるだけで、金は儲かりませんね。それって、やっぱり神様のはからい?