2010年9月17日金曜日

私の宗教ってなんでしょう   その一

小生は日本人ですが、跡地にモスクを建設しようとする感覚、それを阻止しようとコーランを焼こうとする感覚、両方とも分りません。
相手が嫌がっても自分の主張をする。
それが、イスラム教であったりキリスト教なんでしょうか。
欧米の宗教は正義が前面に出ていて排他的なところを感じてしまいます。
その点、日本人は、仏教も神道も混在していても平気です。

これは 「コーラン焼却」のブログに寄せてくださった あらま様のコメントです。
実は このご意見に私なりにいろいろと考えてみました。自分にとっての宗教ってなんだろう、そんな気持ちで~

わたしは 日本でカトリックの信者になりましたが、わずか五歳の時でした。12歳の時に千曲川で水死した上の兄が疎開先、
長野県小諸市の小学校で、担任の教師から長い間放課後カトリックの教理を受けていたそうです。 
死後そのことを知らされた母は 小さな息子が望んだ世界とはどん世界なのか知りたくもあり、 残った三人の子供達を教会へ放り込んだのが始まりです。放り込んだとは誠に母親に対して失礼な言葉ですが、 受け身の私にはそのように感じました。 
多分 母自身は 自分が知らない世界へ引きまれるのに多少の不安があったかもしれません。

それが 偶然カトリックの教会だったのです。
四十年ほど後に母が話してくれましたが、子供たちをまず教会へ入れて、その変化を見て、それから「自分も行ってみよう」と計画していたそうです。
確信犯ですね。

もちろん私達に変化が出るはずはございません。 普通の子供と同じです。 ただ生活が変わりました。 毎週土曜日の放課後は電車に乗って、片道一時間かけて、教理の勉強へ尻を押されて行きました。翌日の日曜日には又、朝早くにたたき起こされて、 長い間電車に乗って 「ミサ」日本では 礼拝といわれている儀式へと 追いやられました。まったく何がなんやらさっぱり分からずに。 小学校一年生の私と三年生の兄と二人で。 それは それは 子供には辛い苦行でした。これは大正産まれの母の生きるモットーです「私が決めた事は絶対に子供たちにさせる」これを称して「躾」と呼ぶ時代でした。

そして、小学校では「オマエはアーメンか?」と呼ばれていました。



つづく

4 件のコメント:

じゅんたろう さんのコメント...

とても興味があり、今世界中の人々が一考すべき題材が出ましたね。続きが楽しみです。
日本人は宗教や信仰を十杷ひとからげに考えてしまいますが、元来一神教(ユダヤ教、イスラム教そしてキリスト教)の思考は不寛容です。そして排他的です。実はこの日本でも一神教的思考宗教が存在しているのです。高野山を中心とする真言密教です。似通った考えでは比叡山と日蓮宗です。しかし日本の場合長い歴史のうち混合主義的というのでしょうか、”シンクレティズム”となり人々を惑わせています。
しかし、欧米においても、特にイングランドやウエールズ似たような現象があるとある早稲田大の教授はリポートしています。

革袋の一滴 さんのコメント...

宗教専門家の方の前でこんな駄文を書くのはお恥ずかしいのですが、 私の愚かな考えも読んでください。

私の知る限り、日本に存在する仏教と言われるものでも、
真言宗、浄土宗、天理教、法華経(これは別派ですか)日蓮宗まだまだいろいろあります。最もそれらは皆一つなのですかしらね。 

じゅんたろう さんのコメント...

仏教と一口で言っても中心的考えがまったく異なります。天理教は仏教ではなく神道的要素です。また、禅宗は本来中心的”神”は持ちません。むしろ神的存在を否定していました。大きく分けて釈迦を始祖とするものとそれ以前のヒンズーから発展したものに分かれます。これは密教関係の派です。真言宗が其の代表で空海がそれなりに日本で発展させました。したがって真言宗はいまだに日本で仏教会の代表とされません。

革袋の一滴 さんのコメント...

たとえ ノン 仏教の人間として生活しても、日本で産まれ日本で育った私でも「仏教」への知識は「ゼロ」ですね。しかし、 天理教は神道。 ではその神はどんな神でしうか。興味あります。多神教の神の一つになりますか。
禅宗が宗と付いても 神を持たず。発見です。 己に心を統一させて自分が仏になるのでしょうかね。
そうすると、何が仏ですか? 日本では死者を仏様と呼びますけど~