2010年9月19日日曜日

私の宗教ってなんでしょう   その三

息子の秋夫が大学生のときのガールフレンドがセブン デイーズ イヴァンジェラスの家族の娘さんでした。この宗派は かつての大統領ジョージ ブッシュの信仰する宗派としても知られています。キリスト教に狂う大統領と世間では不評でしたが、この宗派は確かに一味違います。身も心ものめり込む人たちが多いようです。毎週三回教会へ行きます。
私は一回でも辛かった。
そして、息子の寮友がモルモン教でした。この宗派は男子18歳から20歳までの間は 一般社会から離脱して、団体生活に参加して、二人つるんで街の中へ出ての個別布教生活を二年間する義務があります。 黒いズボンに白いシャツ、二人一緒で自転車に乗って布教です。 又菜食主義の人も多いです。 一度 バイキングスタイルのファミリー レストランで、 野菜料理がみつからず、若い男の子が二人でフルーツを主食に食べているのを見たことがあります。  己の皿の上のてんこ盛りの肉料理が少し恥ずかしかったです。  

息子の寮友はそれから逃れ、学業を続けることを主張しましたが、それではと両親と教会から経済面の糸をぷっつりと切られたとか。
その後はこの学生は生活費と学費の為に寮を出て 夜中の勤務の工場仕事をしながら、朝の授業に間に合わせる苦学生の生活でした。 
でもその友人は学業が終わった時点でその布教活動へ出かけたと噂で聞きました。

時々行われる息子を交えての三人で週末の夜の宗教談義は 何時も白熱して、 息子は自分がエセ カトリックではないか?
と自問するほど彼らの自分の宗派についての知識は深く太刀打ちできず、いとしい彼女が頑固の権化に変化すると嘆いたそうです。

結局は 宗教とは 体で会得するものではないでしょうか。 すべての本や教理は 「信じることから始まる」とか 「愛から始まる」とありますが、
私は 体で知らされるもの、一緒に育つもの、一緒に生活するもの、心の支え、人生の指針と理解しています。
この考えに目を玉剥いて怒る人も居るでしょう。 でも単純な頭の私には 此処までが限度です。

そこで、 先ほどの あらま様のご意見の: 欧米の宗教は正義が前面に出ていて排他的なところを感じてしまいます。

排他的というより、 頑固さではないでしょうか。 自分の生きる信条を犯されたと反応するのではないですかね。 自分にとって大切な聖書があるから、 コーランを焼くことが同じように彼らの信条を攻撃する一つと捕らえるのではないですか。そこには 優しさも 許しも見えません。 復讐の権化と化しています。

「キリスト教は偽善者だ」宗教を信じているから 善人だとか、正義とか、それは違います。 もちろん真っ先に 善悪を教えられます。掟と法令と定めですね。それは宗教上の掟です。社会の中の善悪ではありません。 もう一度 繰り返しますけれど、 私は カトリック教を土台に書いています。 それは私がそれしか 知らないからです。 勿論他所の宗派には それなりの 掟とさだめがあるでしょう、約束事もあるはずです。 それについて キリスト教宗教論をとなえるほど私は知識も豊かではありませんし、 頭も良くないです。 いつも自分の足元がフラフラしている 弱い人間です。

何度か知人が、「私は悪い事はしないし、法律も犯さないから宗教はいらない。」と話してくれました。

旧約聖書に戻ると、神への裏切りを繰り返す「民」がいます。その民は、 人をあやめ、そしり、謀反を犯し、他人をさげすみ、どうしようもない人間の弱さとずるさが描かれています。 「キリスト教は偽善者」まったくそうです。 人間は偽善者です。神を信じようが、神から生きる為の戒律をもらおうが、 それに従うかどうかは人間に選択の自由があります。出来る人間は善人でしょうが、出来ない人間は悪人になります。 そして 神から出された約束の戒律を全て守れる人は 聖人になるのでしょうね。 その聖人に等しい人が一体この世の中でどれだけいるでしょう。

病気になれば まず医者へ行き、薬に頼り、それでもダメなら神に祈り、 完治すれが医者に感謝し、治らなければ 神を恨みます。結局神はいつも傍に居るということを承知なのです。

4 件のコメント:

あらま さんのコメント...

なにか、小生のコメントが一敵さまを悩ませてしまったようで申し訳なく思います。
誰でも、自分が信じていることに対して、批判されたり、疑問視されたりすることは快くはないですよね。
一滴さまの寛容に感謝する次第です。
さて、‘三つ子の魂、百まで’と、日本の諺にありますが、宗教に対する信念が、幼児のころから躾けられたものであることが良く分りました。
小生は、あまり日本から出たことがないので、世界の事情が分りませんが、それでも、人種差別とか宗教の違いを感じたことがありました。
そうした違いがなかなか埋まらないのは、互いに‘頑固’差があるからだと思いました。
しかし、今のアメリカは、黒人が大統領になっています。
なのに、日本で白人が皇族と婚姻を結ぶことは、考えられないことです。
そうした意味では、日本のほうが、はるかに排他的かもしれませんね。
一滴さまのお陰で、日本にいたら考えないことを考えることが出来ました。

じゅんたろう さんのコメント...

大変興味ある話題です。日本ではともかく、200派とも300派ともあるといわれているアメリカのプロテスタント事情です。それにローマ・カトリック、ギリシャ正教、ロシア正教や各東方教会にコプトなど、さらにこのたび話題のイスラムなど人種の坩堝に加え宗教の混在であるアメリカです。
あるアメリカ人に注意されました。「アメリカ人と会話するとき政治と宗教の話題は取り上げるな」。特に自己主張の激しい彼らは日本人のように「まあ、まあ」と済ませません。日本の場合は長い鎖国とキリスト教禁教の激しい時代がありましたからいまだに宗教を会話の中に主題として入れません。恐怖のDNAが脳に組み込まれているのでしょう。
私もカトリックですが、父方の祖先は秋田の隠れキリシタンでした。明治27年生まれの父は亡くなる前年まで一切それを口にしませんでした。学生時代は私も喧々諤々と信仰論をやったものですが、今は唯「己の生き方として」のカトリックの生活をしています。周りの人たちはほとんどそれを知りません。

革袋の一滴 さんのコメント...

あらま様いろいろと考えるキッカケを作って頂いたことを感謝しています。

旧約聖書の中に 「バベルの塔」のお話があります。 沢山の人が一つの塔を築いて世界を統一しようとするのです。 神は、世界を統一するのは神のすること。人間のすることではないとして、そのバベルの塔を壊します。そこから人種の違い、言葉の違いが産まれる。 そのようなお話です。

人種の違い、言葉の違う、それから産まれる「差別」「偏見」は神様からの賜物です。
その中で、わたしたちがどれだけ してはいけない事、差別、偏見を抑制できるか? そのように私は理解しています。 
でもダメですね。 世界中が差別と偏見で満ち溢れています。 

革袋の一滴 さんのコメント...

確かに初対面では 宗教の話しはしません。しかし、昨今の男性群は初対面から一躍政治談議です。 それも凄い。 どこから皆こんなエネルギーが出てくるのかと感心します。
宗教はお付き合いをするうちに、会話をつづけるうちに 自然と相手の宗教が分かります。 結局いろいろな会話の中から、物事へのとり方で分かります。
ヨーロッパ系はカトリック。生粋のアメリカ人は普通は新教、プロテスタントが多いです。