2010年9月19日日曜日

私の宗教ってなんでしょう   その二

20歳の時に留学先のサン フランシスコで、アパートを共有している友人と始めて 日曜日のミサへ出かけて驚いたことは、どの参列者も、両親と子供達が一単位で集まってきます。それは家族単位の行動でした。 私の育った日本での生活の中には 、家族揃って毎週何処かへ出かける事など皆無。 

どんな悪餓鬼も、えげつない女の子も日曜日になると 好む好まないにも関わらず、日曜日には洗濯された洋服を着て、両親に連れられて硬い木の椅子に座り、私語を絶たれて座ること一時間。
これは苦行以外の何物でもありません。

何時も同じ家族が同じ処に座り、 同じ挨拶をして帰路へつく。 共同体の集会です。 

それを眺めたわたしは 少なくとも自分は彼らより楽であったと感謝したものです。 監視する親は自宅に居ましたから。


親戚や祖父祖母の葬式の時に お寺で正座させられてお坊様の長い読経を我慢する、あれを毎週する子供の辛さを理解してください。 
それに加えて、普通はカトリックでは土曜日、プロテスタントは、(私の知るかぎり)礼拝の後か前に、一時間子供用の教室が口を開けて待っています。

その部屋へ、 三歳の時から母親のわたしに尻を押されて頭をたれて、スゴスゴと歩く悪餓鬼は 私の息子の秋夫でした。 結局自分がさせられた事を子供にもさせている悪い母親です。

秋夫は 「愛と許しを教える教室」から 何度も追い出されました。 お母さんお宅の息子さんはもうダメです。私の教室では受け入れられません。 高慢に言い放つ慈善と奉仕の鏡のような女性達に何度頭を下げなければならなかったか この母親の苦しみに同情して下さいと神様に祈りました。

私の同居人も同じような人生の始まりだったそうです。 それは 自分で車の運転が許される16歳まで普通つづきます。毎週日曜日の朝は家族で出かける処。それが教会です。

子供の意思は何処にある、 子供がその宗教を望むか理解もしていない年齢から宗教へ導くことはどうか?子供の権利は何処にある?
これは常識的な一般の日本の方の考えでしょう。

家は仏教らしいけれど、 一度も念仏も般若心経も唱えたことがない、その自由のある日本の家庭とは少し違いますね。
私たちは結婚の時に「将来産まれてくる子供を同じ宗教へ導く」ことを義務つけられます。

産まれた子供を 本人の意思も聞かずに、権利も主張されずに 年齢がくれば 小学校へ送りこむのと同じなのです。 子供には権利はないのです。 権利と自由は責任が取れる年齢になってはじめて与えられるものではないでしょうか。

宗教教育は学校教育と同じに考えているのです。そうやって子供たちは どの宗派にしても、日曜日には教会へ行くという習慣が付きます。
昨今の自由思想が強くなった現在でも、 独身時代に離れていた習慣も結婚して、子供が産まれると復活するらしいです。

ラジオ人生相談の時間の質問に含まれるのが、 「私はキリスト教、夫はユダヤ教です。 子供たちが産まれましたが、 どちらの教会へ連れていくかで喧嘩がたえません。どうしたらよいでしょう」 

結婚後、二人の宗派が違うのが再認識されました。(甘い恋愛中は寛容されたらしいですが)、 蜜月が終わると現実問題が浮き上がってくるのです。
お互いに違う教会へ行くのも不自然である、 相手を私の宗派へ向かせたいけれど、 彼が彼女が承知しません。  

日本の家庭は姑と嫁、介護問題が大変のようですが、 国が変われば違う問題が出てきます。 

2 件のコメント:

じゅんたろう さんのコメント...

日本でもいまだに同じ状態です。宗教というものの捉え方が欧米とは違うこともありますが、キリスト教の新教もカトリックも教勢は伸びていません。カトリックは約50万とフィリピンやブラジルの出稼ぎ?人を加えれば100万、プロテスタントは同じく約50万人です。
伸び悩みです。原因はアメリカなどと同じかも知れません。しかも一般的に日本人が宗教とかかわるのは初詣は神社、除夜の鐘のお寺参り。葬式、これはお寺。結婚式は神道。後、七五三は神社です。それのお盆もありますね。これらは信仰というより経過儀礼としてあるという感じです。
己の生き方としての信仰とは趣きが異なってきています。

革袋の一滴 さんのコメント...

外国人が日本へ観光に出かけて最初に観るのが 神社、仏閣と一口でいいますが。そこに置かれている英語版のカタログを読んで、初めて 神社と仏閣の違いを知る寂しい状態ですが、私も全くそうです。 
来月日本を訪れ、京都へ旅してみるつもりですが、(お恥ずかしい、たったの一泊ですが)今度はしっかりと予備知識を持って、 神社とお寺の違いを確かめてきます。