2007年6月22日金曜日

セロリーソルト

終戦からニ年、焼け野原に二階建ての我が家が建った。又ニ年、あれは秋の始めの夜だった。
我が家の玄関のドアをドンドンと叩く音がする。近所の人が叩くのと音が違うようだ。 いつもだったら母が「どなた~」と声を掛けるが、この晩は父親が炬燵からやおら立ち上がり「何方様ですか」と声をかけた。
ドア越しにくぐもった声がはっきりしない。然しドアを叩きつづけている。仕方なく父が玄関の扉を開けた。
お入りなさいとも云わないのに二人の米兵がグアと玄関に滑り込み自分達でドアを後ろ手に閉めた。一人の兵隊の肩には大型進言袋がある。
慌てた父が「これお前達後ろに下がりなさい」と少しか細い声で言うが、六畳の部屋のど真ん中に炬燵があるのだ、子供三人に母親が隠れる場所なんてない。 父の後ろにへばりつき、目だけは大きくして成り行きを見る。 なんか家族がさらし者になった気分だ。街を歩くと進駐軍が二人蔓って歩くのをよく見かけるが、こう鼻先に立たれると圧迫感がある。おまけにこちらは座っているからますます彼等が大きく見える。それでも彼等はニッコリしようとしているらしいがあまり笑顔には見えない。濃いカーキの制服と六尺豊かな米兵二人。
父親は腰を抜かしたようにベッチャと座りどもったように「何ですかあなた方は、此処は民間人の家ですよ」と日本語。父が大学に行っていた頃の第二外国語はドイツ語だったそうだから英語は無理だ。多分ドイツ語でも無理だろう。普段使用していない外国語なんてのはそう簡単にスラッと出て来るはずもない。
気を取り直した父はやおら正座をし、両手を膝の上に置き、一生懸命背筋を伸ばしこの侵入者達と渡り合うつもりらしい。よく見ると一人は日本人の顔をしている。それに背丈もそれほど高くはない。ナニナニ同じ日本人ではないかと考えれば気持ちも落ち着くというものだ。

米兵は肩の袋を下に下ろし紐をほどいて中から品物を一つ一つと取り出し父の目の前に並べはじめた。日本人の顔をした兵隊が説明を始める。 「ワタシは通訳です。怖くありません。ワタシ達はアメリカ兵です。この品物を買って下さい。彼等遊ぶお金欲しいです」これは後で父が説明してくれたことで、その時は私にはそんなようには聞えなかった。なんかテニオハの抜けた妙な日本語。
目の前に並べられた品物は勿論PXから兵隊への配給品であるそうだ。缶詰めにもラベルがないし、缶の色までカーキ色の1ポンド詰めのコーヒーが三個、チョコレートが数枚、バター数ポンド、そしてコーヒー缶と同じカーキ色の缶詰め3個。これぞアメリカ版押し売りである。これは彼等の違法行為だが、チョット前を失礼と表へ出てMPを呼べるわけもなし変な日本語の二世とバカ丁寧な父の日本語の商談は始まった。

母が横で「ネーもし買わなかったらどうなるの?」と父に聞いている。
「知らんよそんなこと。買うしかしょうがないだろう」
「お金ないって云いましょうよ」と母が囁く。
払うもの払って早く追い出そうとする父と、この場になっても金は出すまいとする母との小競合いは瞬時に終わった
「オイ お前の財布持って来い」と父が手を出す。そうだ自分の財布を持ってこられても何も入っていないのは本人が知っている。もう其の頃から、父は働く人、母は使う人と選別されていた。
いくらかの現金を掴み彼等は「サンキュウー ベリマッチ、グットバイ」と玄関の外へ消えた。

コーヒーの缶詰め三個、だが我が家にはコーヒー沸かしがない。早速次の日からポコ ポコ ポコポコと噴出すコーヒー沸かしが加わり日曜になると父と母はアメリカ産コーヒーとチョコレートを楽しんでいた。 もう一つの大きな缶詰めが解らない。 中は薄茶色の粉が詰まっている。舐めると塩っぱい。しかし味がある。今迄に味わったことのない味。そこで母が一つを所属しているカトリックの教会へ持って行った。 
アイルランドから赴任している神父がその粉をひと舐めして、「アー これはセロリーソルトです」調味料の一つ、セロリーの味のする塩。肉の下味、魚のソテー、野菜炒め何でも良いと言う。母は半分を彼等のキッチンへ置きうれしげに帰って来た。

それからの我が家の食卓にはいつも唐辛子とセロリーソルトが並んで座っていた。兄が考えたレセピーはアツアツのご飯の上にバターを加えセロリーソルトを振り掛けると何となく洋食を食べているようで美味しく、いくらでもご飯が食べられる。

始めがあればいつも終わりが来る。  一年もするとそのセロリーソルトはなくなった。デパートにも、アメヤ横丁にも見つからず、自然消滅の幻の塩。

十年後、高校を卒業して、カリフォルニアの大学へ留学した。そして一年、兄から一通の手紙が来た。
「お母さん、スーパーマーケットでセロリーソルトをみつけたよ」 

   

1 件のコメント:

じゅんたろう さんのコメント...

そんなことありましたね。我が家では父が”レーション”といっていた濃いグリーンの箱をいつも持って帰ってきていました。
兵隊の一食分の食料が詰め込んで有りました。わけのわからないものばかりでした。始めてチュウインガムなるものを食べました。味がなくなると捨てるとは知らないで飲み込んでしまったのを覚えています。後で笑われ何時腹痛が起こるか心配の数日間でした。