2007年6月26日火曜日

わたしの父

父は戦前に関西の師範学校で、現在は大学に変わっているそうだが、美術科の教授をしていたと聞いている。私が産まれる前後の頃に転職てサラリーマンになった。脱サラの逆である。入りサラとでも云うのかな。
サラリーマンを73歳で退職した。定年退職はそれ以前にしたが、何となく職場を紹介されては次の場所へ行く人生だった。退職後は朝食をすまし、新聞に目を通しそれから二階のアトリエと呼んでいる板の間の部屋に篭り毎日想いのままに油絵を描いていた。「こんなに楽しい人生があったのか」と89歳で亡くなるまで絵を楽しんだ。
私の長男秋夫君がアメリカで産まれたとき初めて外孫の顔を見るために海外旅行を試みた。飛行場に着いて南部アメリカの壮大な空、雲の色を見て、日本の空との違いを見て仰天した。
なるほど、「ワタシはね、どうしても外国人の絵描きの絵になじめなかったのだよ。でもこれで解った。絵空事ではなかったのだナー」空に風景があるんだね。雲が絵を画いている。全ての色が違うんだよ。 明るいね。なるほど、本当に明るいね。と感心していた。
それ以後、外国の空と空気に目覚めたち父はスケッチブックを片手に、母と一緒にヨーロッパ、アジア、を目指して旅行を繰り返し、八十四歳の時に「慶安」への旅を息子に引率してもらって出かけたのが最後の旅だった。
父の弟に雑誌の挿絵画家も居たのだから、案外美術系のDNAがあるのかもしれない。
隔世遺伝なのか、私の息子の秋夫君も大学は美術科。しかしこちらは写真科。写真だけでは食べられないと承知していて、今はコンピュターのグラフィック デザインで生業(なりわい)を立てている。一生涯に一冊でいいから「写真」の本を出版して見たいと希望は大きい。
私は写真は嫌いだ。カメラも持っていない。思い出は心の中になどと嫌味を言っているが本当は写真を撮られることが嫌いだ。 色白のマルポチャは写真には不向き。細面で凹凸のはっきりしている少々褐色の肌が宜しいようで。 色白は七難隠すなんてあれは写真に限り嘘。
「私は写真写りが悪い」と言ったら「写真は正直だからね~」と返した知人が居た。 勿論彼女は友人ではない。ただの知り合い。
夫と私は国籍が違う。彼はドイツとフランスとチェコの混血。雑種である。今時アメリカ人の血統で混ざっていない人を探すのは困難であろう。二十年ほど前になるがある白人女性の歌手が白人と結婚、子を産んだら黒人の子が出てきたという事件が起きた。亭主は猜疑の目で見るし、本人は、ハテ何処で何時私は?といろいろと悩んだことであろう。彼女の祖母の代で黒人との結婚が一組あったのだそうだ。それを云わなかった母親を彼女は告訴した。 血筋にたいして子供に正確に伝えなかったという理由。然し勝訴しても何が残るのかしら。

主人はドイツ人の頑固とアメリカ人の陽気性が同居している。三代前にドイツから三人の兄弟が船でガルベストン港から移民して。彼等の言葉を借りると「三人の兄弟が船から飛び降りた」と言うのだそうだ。それを言葉のまま受け取っていた娘は、自分は「不法侵入の移民の子孫」と信じていたらしい。最近になってそれが言葉のあやだと知り驚いていた。おまけに父親がこと在るごとに、自分の父親はカジノの「バッグボーイ」だったと云う。その昔ガルベストン港にカジノが存在して居た頃、賭博所から賭博所までの現金輸送は少年達の仕事だった。モノクロ映画の時代のように、吊りズボンにハンチングの少年が雑踏の中を紙袋に   入った現金をもって走り回っていた、あの種の少年だった。
娘の直美ちゃんは、不侵入の子孫ばかりか、ギャングの子孫でもあったのだ。可哀想に。 

2 件のコメント:

じゅんたろう さんのコメント...

小説の材料がそこかしこに一杯有りますね。
すると子供さんたちは四カ国の血が入っているということですね。ある学者の話ですと単一民族より混血したほうが頭脳が優れていくということだそうです。古代日本でも歴史に名を残すような人はたいがい渡来人の血をひいていたりします。お宅もひょっとしたら!

革袋の一滴 さんのコメント...

これはあくまでも私の目で見た意見です。
一般的に日本人との混血は大成功が難しいです。 気質が優しいです。皆そこそこ頭脳は良いですね。でも人を押しのける強行なものが欠けているように見えます。
中国系、ベトナム系の血筋の子供の方が自分を主張し、自分以上に自分を主張する強さがあるように見受けます。
これはあくまでも私個人の偏見です。