2007年6月23日土曜日

ヨイショ

ベトナム戦争が終わって三十余年。避難民受け入れの州としては最大数の人口がこの街へ入居した。一所帯月四百ドルの援助と子供の学資の保証。子供達が成長して大学進学希望者には成績がB平均をとっている限りその州が学資を援助する。しかし働き者のベトナムの人達はその援助を十二分に活用して大きなベトナム社会をこの街に築いた。この大きな街の一角は道の表示もベトナム語や中国語の言葉に書き変えられ、新しい建物の景色はここはアメリカだろうかと勘違いするほど町並みが変わり、東洋の建物の中に銀行や弁護士の事務所が入居している。  
一世が事業を起こす際は、マイノリテイー援助を建前としている国から銀行融資はこの土地の住民より優先的に援助がうけられる。 一世は中国ベトナム食料品店、ビューテイーサロン、マニキュアサロン、レストラン、酒屋、クリーニング屋。この土地で生まれた二世は弁護士、警察官、会計士、医者といろいろな職業につき、アメリカの中産階級にしっかりと根をおろしている。マイノリテイーの格差から云えば、黒人、ヒスパニックを乗り越えて中国系やインド系としのぎを削っているようだ。
両親に連れられてきた女の赤ちゃんが歯医者になり、研修生を終ると同時に診療所を居ぬきのままサット買える援助を州の銀行が出してくれる。  これをダブルマイノリテイーと云いう。同じ融資でも女性であるほうがなお宜しいのだ。

イタリーからのピザ、メキシコからのタマーリー、そしてベトナムからの春巻きや米の粉でつくったうどん(Pho)などはもうじきアメリカ料理に入りそうなほど店の数が増えている。こんなにベトナムの麺類が喜ばれるのなら、日本のラーメンの店を開けたらずいぶんと繁盛するのではいかと考えるが、日本食店は合いも変わらず「寿司屋」しか開かない。何故かこの南部の街にはラーメン屋がない。

もうあまり会うことは無くなったが、私は一人のベトナム女性と知り合った。彼女の下の二人の子供と我が家の子供二人が同じスイミング チームとカトリックの教会の火曜日の子供のクラスで一緒だった。
彼女には五人の子供が居る。 ベトナムから連れて来た二人。この土地に来てから産まれた子が三人。上の三人と下の二人のお父さんが違うのは一目で解る。

ハノイ崩壊、米兵撤退最後の日。彼女は二人の子供を抱えて南ベトナム軍の兵隊として出兵していた夫を待っていた。  もうアメリカ軍の全てのヘリコプターは飛び立ち、輸送用のC5Aも米兵とベトナム人を満載してドンドン飛び立っている。 北ベトナム軍はもうそこまで来ている、部落全体の人達が出来得る限りの持ち物を手にして輸送用飛行機に駆け込んでいた。 この女性も早く乗ろうと手荷物はしっかりと掴み、両脇に子供を立たせて夫の来るのを待ったが現れない。 逃げてくる同国の人達に主人のことを聞いて歩くが、答えは、知らない、聞かない、合わなかった、見なかった、そして、多分死んだよとしか答えが返ってこない。  
其のうちにスピーカーが、何分後に最後のC5A輸送用飛行機が飛び立つとがなりたてている。 もしこれに乗り遅れたらもう此処からは出られない、それは兵隊も同じ、最後まで残っていた米兵も必死に走って輸送機に飛び乗っている。。   一人の若い米兵がモタモタしている彼女を見つけて駈け寄り怒鳴っている。急げ、走れ、荷物は置きなさい、子供を抱えなさい。早く、早くと叫ぶ。やっと気持ちの踏ん切りがつき彼女も最後の輸送機へ向かうことにした。彼女は二人の幼い子供に走れと怒鳴り、自分も走り出したが、彼女はその時妊娠八ヶ月、走れるわけが無い。 
若い米兵は先の方を走っていたが、ヒョイと振り帰りモタモタしている彼女の所へ戻って来た。子供の一人を肩に担ぎ、もう一人を脇に抱え、残った手で彼女の手を引っ張って走る。C5Aにやっとたどりついたときには彼女達が本当に最後の駆け込みだった。 米兵は子供を飛行機の中へ放り込み、彼女の大きなお尻を押してヨイショヨイショ。中はベトナム人、アメリカの兵隊の群れでもうあふれるばかり。ヨイショのお兄さんが這い上がって後ろのドアはバッタンと閉まり一路アメリカへ飛び立った。

蒸し風呂のような飛行機の中の長い旅も終わり、受け入れ側のアメリカの土地についてから、難民は決められた宿舎へ落ち着く。そして始まる書類の手続きが山のよう。途方にくれた。妊娠八ヶ月でいったい自分はどうなるのだろう。主人はどうしただろう。考えるが多いが手が動かない。私ってのんびりなのよと自分を批評していた。
列に並び自分の順番が来るのを待っていたら、ヨイショの米兵がその宿舎へ入ってきた。 そしていろいろな手続きを手伝ってくれる。自分はこの後除隊して故郷へ帰るけど、考えて見たら貴女方には行く場所がないんだよね。 行き先が決まるまで手伝わしてくれと。保証人がこの米国に居る避難民から早く宿舎を出られる仕組みと知りその米兵は彼女達の保証人になってくれた。
その時彼女38歳 妊娠八ヶ月、子供二人。彼は24歳の独身。

私がこの女性に初めて逢ったのはその時から十三年後。二人は結婚十三年目。米国へ来て直ぐに産まれ落ちた子供は女の子。保証人から夫に成り代わった二人の間にも女の子と男の子が生まれ、この三十七歳の元米兵と五十一歳ベトナム女性には五人の子持ちの七人家族になり。
新しく買った寝室四部屋の二階建ての家はどう割り振りをしても人数分の勉強部屋が足りないと頭を悩ましていた。
   

2 件のコメント:

じゅんたろう さんのコメント...

ヨイショの米兵立派です。私は認識不足ですが、WASPはアメリカでは今どんな立場なのでしょうか?大学時代アメリカから派遣された教授は全てそうでした。学生とはいつもすれ違いの対話だったと記憶しています。現在アメリカでのカトリックは単独では個々のプロテスタント諸派よりかなり多いですね。
変わりゆくアメリカの多人種国家でどのような軋轢があるのでしょうか。

革袋の一滴 さんのコメント...

じゅんたろうさん投稿ありがとうございます。
waspの言葉を聞かなくなってもう随分になります。現在はむしろ政治的にどちらを支持するかが、共和党か民主党かの諸派に没頭しているように見えます。 一時はアメリカ人皆キリスト教などの考えでも不思議ではなかったのですが、無心論者、モスラム、など違う宗派のグループが存在を大きく表し、日常の生活の中のキリスト教文化を変えてきています。
いつかこのテーマでの考えをまとめてみます。