2007年6月29日金曜日

秋夫君5歳

幼稚園から高校まで続くキリスト教系の私立校を見つけた。 何度も受験を繰り返した自分の育ち盛りに良い思い出を持たない私は自分の子供にこの人生を繰り返してもらいたくない。「可愛い子供には旅をさせろ」、これは好きな言葉ではない。 可愛いから愛でてあげたい。親が子供を可愛がらずに、この冷たい世の中いったい誰が私の二人の子供を愛してくれる。 親しか居ないではないか。
これは私の屁理屈であるが。

宗教教育は非常に盛んだ。幼稚園生に毎週聖書の一節を暗記させ、月曜にはクラスの前で暗誦させる。中々宜しいようです。プロテスタントも結構悪くないと感謝した。
夕食の準備中不注意から私は指を切った。バンソウコウは何処だったかと探している母親を見た秋夫君は自分の部屋へ走り子供用聖書を手にして来た。
「ママその怪我した手をこの聖書の上にのせて」どうして? 「聖書に手をのせれば全ての傷が癒されるんだよ」ヒエイーそれはそうだけれど、まず血を止めようよ。

小学校一年生になり、一人前に彼等にも試験期間が来た。しかし一向に自室に篭り試験勉強をしている様子はない。 たまりかねた母親はついに催促をした。
「ママ心配いらないよ。明日は100点を持ってくるから」 ヘッどうやって?
「さっき部屋で神様にお祈りしたから。明日の試験は100点が取れますようにお恵み下さいって」準備OKと満足げに漫画番組を見る息子にどう説明すればよいのだろう。
わずかに母の反撃は「多分友達も神様にお祈りしているだろうけど、それに加えて勉強もしていたらどうする」
「ソーカ、皆が祈ってたら、神様困るね」

学期末近くにPTAの会合があった。 主人と二人で人生はじめてのPTAへ出席した。 新しく校舎と建てると張り切る女校長と牧師。一時間に及ぶ寄付の必要性と奉仕精神の再教育を受けた親たちは、高い月謝の次はこれかヨとヘナヘナとなる。
「サー皆さん立ち上がって下さい、貴女方の周りにある目で見える物、机、椅子、キャビネット何でも良いです。 手を載せてください」
牧師は両手を広げて、上に掲げ目を閉じ、厳かに始めた
「祈りましょう、 神よ、あなたはわれわれ罪深き民の為にご自分の命を捧げてくださいました。 その深い愛を感謝します。 神の民であるわたしたちは今手を載せている品々が神からの賜物であることを感謝します。 
私たちは神のお慈悲によって大勢の両親がこの学校の教育を望んできます。それを感謝します。今、新しい校舎が必要です。あなたの子羊達が学ぶ新しい校舎、机、椅子が必要です。 神はわたしたちに必要な物は何でも与えてくださると信じています。 神の恵みをもう一度わたしたちにお示しください。」
その祈りの途中で主人が手をスーッと家具から離しポケットに入れた。 
我が息子が受けている教育はこれなんだ。これは他力本願ではないか。これは困る。学校側と宗教問答をするつもりはさらさらない。 昨日今日出来た学校ではない、幼稚園から高校まで大量の生徒を毎年世の中へ送りだしているこの学校の教育者に私や主人の宗教観など何の意味もない。
そこで秋夫君は小学校二年生から公立の学校へ転校した。
 
  

6 件のコメント:

じゅんたろう さんのコメント...

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じゅんたろう さんのコメント...

日本では幼稚園、小、中、高、大学と私学の割合が70%近くになります。特に公立より私学は教科内容がより高く我も我もと押し寄せます。キリスト教系学校は優秀な学校が多いのです。宗教教育を求めては決して入学しません。 ほとんどのキリスト教系の学校は外国語のレベル、特に英語のそれが高く人気が有ります。ただし授業料を考えると二の足を踏みます。
私の長男は幼、中、高校ともカトリックの学校でしたが、次男は幼稚園以外全て公立でした。二人とも私学へ行っていたら親の老後はどうなった事でしょう。
ところで日本ではあまり宗教色を出しません。、毎週ミサがあったり研究会が有りますが、自由参加で強制はされません。しかし信者の子弟は徹底的に使われます。一握りほどの子弟ですからミサの侍者に引っ張りだこ。
長男はしまいに拒否反応を起こしました。
まあ、そんなことも有りますが日本ではキリスト教系の学校はかなり歓迎されます。
理由は文部科学省の馬鹿みたいなカリキュラムに従わなくてもいいからです。 

革袋の一滴 さんのコメント...

子供達は中学生から今度はカトリックの学校へ編入しましたが、 娘も息子も一生涯分のミサへ出たからもういやだと教会拒否反応がでました。
娘は大学をカトリック系、教授陣は司祭が多い学校でした。又神学の課目がとても多くおかげさまで娘も一年間課目としてとりました。この大学の授業料も大変に高額でした。その内訳に、留学生への奨学金があり、それでも足りなくて各教会へ寄付を募ってまでも留学生へ援助するのを地元の生徒が怒りを表していたのが興味を引きました。
自分達の月謝を値上げして留学生に与えるのは理不尽だと。こちらの大学生は自分で学生ローンとか育英資金及びアルバイトで学費を払う学生が多くいますから毎年6%の授業料値上げは生活問題なのです。
ここがアメリカの国の面白いところで、他所の国から嫌われても、嫌われても、その嫌われている国から来る学生さんへ奨学金をだしてあげるのです。

手負い虎 さんのコメント...

なんだかよくわかります^^。実は私はあるプロテスタント系の高校に務めていたことがあって、プロテスタントの聖書の捉え方を知っていますから。

私は個人的に、聖書は一字一句を暗記するものではなくて、与えられた人生に照らして「生きる」物だと心得ています。プロテスタントはそれを嫌います。一字一句を暗記し、それがどこででているかをそらんじ、疑問を持つことを禁じ、学問の対象としての研究を禁じ、すべてをそのまま、現代の頭で信じ込むように勧めます。いえ、ほとんど強要します。

私も娘もカトリックの学校で育ちました。ほかは知りませんが、私たちが受けた教育は、宗教の強要でなく、理性的な哲学のほうが主でした。

カトリックは現在、かなりの改革をして、他の宗教の研究も熱心で交流もしています。昔のように、信者にならなければ即地獄などと言うような脅迫的なことをいうものはおりません。

だからカトリックの布教の仕方そのものは、プロテスタントからみれば異端です。^^。異端とはかつてカトリックの指導者が政治的に人民の思想を統一して支配に便利なように取り決めたものですが、それを嫌ってカトリックを批判して分かれたプロテスタントは、今カトリックを「異端」とよんでいます。

ところで、神を信ずる宗教はすべて「他力」です。自力のつもりでも「生かされてある」限り、人生は神のみ胸のうちにあります。自由意志で自力を生きたつもりでも、思うようにいきません。結果が思うようにいかないとき、その体験が元になって、アア、自分はこういう結果を感じるために、あの過程が与えられたのだな、と感じます。

もう一つ。神は願い事をかなえる自動販売機ではありません。全知全能の召使でもありません。信じて祈れば、聞き入れられるとプロテスタントはよくいいますが、信じて祈っても神のみ胸は人知の及ばないところにあります。

とんでもなくわけのわからないことを信じるという条件で救われるのでなく、神の意思に従おうという心を持ったときに、その状態が救いそのものなのです。その意味で他力です。

人祖の罪はりんごを食べたことではなくて、自力を信じすぎたことにあります。信者になれば、天国に行くなどと言うことは、うそっぱちです。信者になる、と言う条件ですべてを獲得し、神を従わせたと思うほうが、とんでもない背信です。

ただし、公立は嫌いです。特に日本の公立は価値基準が浅はかです。あれは堀衛門を育てるだけです。

革袋の一滴 さんのコメント...

手負い虎さん、アナタの神への捉えかたに共感を唱えます。現在のカトリックは改革、刷新どちらの言葉を使えばよいのか戸惑いますが、私はその変化に「置いてきぼり」をされた一人です。付いていかれないのです。頭が硬くというか、小学校の一年生から連れて行かれた教会から高校まで受けた教育はからだで会得した教えです。あえて信仰とはいいません。小学生に宗教だの信仰だのがわかるはずがありませんから。ただ現在はミサへ行くたびに戸惑っています。変化についていかれないのが老いの表れでしょうかしら?
でもカトリックの教えは私の人生の指針です。他力といえば確かにそうでしょう。私には「操られている」なんて思うときがありますね。「神のみ旨のまま」なんて思いますが、でもヨブ記のように、神ご自身が定めたその人の人生を悪魔の囁き?挑戦?にのって手渡すこともあるかと考えると、自分の人生の下降線をたどっているとき、 「神様、私はヨブではございませんよ、間違えないで下さいと祈ります。
全能の神も間違えを犯したと小さな息子が昔主張したことがあります。神はこの世にゴキブリ、蚊、蚤としらみを造った。これらはいかに科学的にも医学的にも利用価値の無い、害を加える生き物だと言うのです。 鳥類哀れみを説いても、人は蚊を顔から叩くそうです。

革袋の一滴 さんのコメント...

手負い虎さん、アナタの神への捉えかたに共感を唱えます。現在のカトリックは改革、刷新どちらの言葉を使えばよいのか戸惑いますが、私はその変化に「置いてきぼり」をされた一人です。付いていかれないのです。頭が硬くというか、小学校の一年生から連れて行かれた教会から高校まで受けた教育はからだで会得した教えです。あえて信仰とはいいません。小学生に宗教だの信仰だのがわかるはずがありませんから。ただ現在はミサへ行くたびに戸惑っています。変化についていかれないのが老いの表れでしょうかしら?
でもカトリックの教えは私の人生の指針です。他力といえば確かにそうでしょう。私には「操られている」なんて思うときがありますね。「神のみ旨のまま」なんて思いますが、でもヨブ記のように、神ご自身が定めたその人の人生を悪魔の囁き?挑戦?にのって手渡すこともあるかと考えると、自分の人生の下降線をたどっているとき、 「神様、私はヨブではございませんよ、間違えないで下さいと祈ります。
全能の神も間違えを犯したと小さな息子が昔主張したことがあります。神はこの世にゴキブリ、蚊、蚤としらみを造った。これらはいかに科学的にも医学的にも利用価値の無い、害を加える生き物だと言うのです。 鳥類哀れみを説いても、人は蚊を顔から叩くそうです。