2007年10月3日水曜日

娘の一人たち

我が家では子供の独立宣言は親の貧困経済と睨み合わせて各々個人の経済のもとで執り行われることに暗黙の約束がある。  息子も娘も間違っても「お母さんアパート代少し援助してくれる?」などと聞かない。 聞いても出さない。出せない。家はここにある。この家に居ればよい。けれど外へ出ると言い出しても止めない。 本人が出来ると思うからするので、親の口を出すことではない。  もうひとつかつて在る本に、年齢を重ね、伴侶が先立った折に、子供に頼らず一人で頑張れるのは、若い時代に一人住まいをした経験の持ち主とあった。 長い人生一度とて一人暮らしをしたことのない年寄りは寂しさに打ち勝てないのだそうだ。 真実かどうか知らない。しかし、一人暮らしをしで、どんなに待っても誰も帰ってこない家に毎日一人で帰宅し、一人で食事をし、一人で居るのはやって見なければ判らない寂しさ。それゆえ、若いうちに試すのであれば大いに結構。
子供たちは皿洗い、洗濯、掃除?一応見よう見まねで出来る。娘にもスカートの裾上げぐらいは教えてある。 
直美ちゃんが大学を出てからの独立宣言はむしろ遅いほうかもしれない。

昔、私が二十五歳、まだ日本に居るとき、アパートへ移りたいと言い出した。「世間体が悪いからいけません」と母に一括された。やはり習慣の違いだろう。

日本からの留学生がアメリカの家庭へホームステーをする場合この個人の自由という問題がある。子供は中学生ともなれば、男女を問わずチョアーと呼ぶ日課がある。ゴミだし、食卓上の皿の片付け、洗濯物のたたみ。小さいころ母親が遊んだ後のおもちゃの片付けにうるさかったように、少し大きくなってもやはりするべきことはしなければ家族の一員ではない。 
日本からの留学生が下校して自室に篭り勉強をする。夕食の時間が来ても、食後でも大手を振って自室にこもるのが理解されない。 留学生に言わせると、自分は勉強しているのだから何もする必要がない、家の掃除は自分の仕事ではない。 学生は勉強をしていればいいのだ。」日本でまかり通る理屈だが、国が違うとそれは奇異に映る。 共同体の観念が違うのかもしれない。一時期或る地域の団体では、日本からの留学生のホームステーお断りが出たことがある。家族として受け入れる側としては自分たちの家族への影響を恐れるという理由から。

個人の自由の確立と言葉は綺麗だがやはりそこには共同体の一員である、家族の一員であることは否めない。それを学ぶ場はもしかしたら家族で出かける日曜日の教会ではないだろうか? 毎日バラバラに生活していても、日曜日になれば皆が一緒に教会へ向かう。 一緒に説教を聞き、聖歌、賛美歌を歌い、ときには会館や前庭で紙の皿とプラスチックのフォークでケーキを食べ、一緒に帰路に着く。これは日本にはない習慣。 私の昔を振り返っても、一度として家族一緒のミサへ出た記憶はない。いつも一人だった。

自分の子供が生まれ、幼児になって暴れまわる息子や娘を押さえ込みながらのミサが辛く、二人が交代で行けば、お互いに一人静かに祈れると提案したが主人は妥協してくれなかった。 教会へは子供を連れていく、子供が暴れるなら暴れないように親が努力するまでと言われた。 だが、今二人の子供たちは思い出話として、妹がチョロチョロと歩き回り、それをママが追っかけたとか、お兄ちゃんが鉛筆をわざと床に落としてはそれを拾う振りして床を這いずり回ってパパに足を引っ張られたとか話す。
親の努力が子供たちの想い出になっているなら、あの頃の親の憤怒も消えるというものか。
 

1 件のコメント:

じゅんたろう さんのコメント...

そうですね、日本では個という観念がいまだにありません。また共同体という言葉も独り歩きしていています。日本の有名なビート・タケシのジョークで「赤信号、皆で歩けば恐くない」は日本人の行動をよく言い表しています。若い頃に「自由と規律」慶応大教授、池田潔著をひたすら読みました。イギリスの文化を紹介したものだったと思いますが、規律はともかく自由という言葉の概念は戦後始めて考える言葉だったのです。「進め福ちゃん」という新聞の連載漫画に「おとうさん、自由ってなーに?」「自由って自分の思うとおりにすることだよ」というその父親の答えが有りました。今思うとおかしいのですが、その程度の考え方しか出来ないものでした。
大学に入った時、中央の建物にラテン語で「真理は汝らに自由を得さすべし」という聖パウロの言葉が掲げてありました。 前者と後者の意味の違いは大きいものでした。
ありがたいことにカトリックではミサは家族で与る利点があります。家の子供達もミサの後のケーキを楽しみにいったものでしたが、次第にこれ等を理解していったようでした。高学年になるとミサの侍者当番を楽しみにするようになっていました。何百人の人々の前に立つのです。おかげで人前で上がらないで自分の意見を述べることが出来るようになりました。(ちょっと親ばか)
しかしこれは成人し社会に出てから大いに役立ったと思います。
摂りとめも無いことを書きすみません。