何かを利用して馬鹿騒ぎをする人がいるからといって、利用されるものに罪があるのではありません。日の丸を利用して、狼藉を繰り返す人がいるからといって、日章旗は、それらの人々の象徴ではなく、日本国家の象徴で、その象徴を無視すれば自分は過去の罪を逃れられると思うのは、卑怯です。
世界の有色人種国に、侵略征服を繰り返し、原住民を拷問虐殺したた西欧諸国が、それをキリスト教の布教の足がかりにした歴史があったって、キリストそのものに罪があるわけではありません。
カトリックの歴史が血塗られた歴史だからといって、分かれてプロテスタントの団体を組織すれば、過去の歴史から逃れられると考えるのは、エヴァの子なる人類の子孫として、卑怯ではないでしょうか。
原罪はすべての人間にあるのです。頬かむりすれば、自分は清く正しいと言える人間などいないのです。
日の丸を掲げて、過去戦争をしました。しかし、現在日の丸を掲げて、60年以上、低開発国の援助をし続けているのも、同じ日本です。
国外に行けば、菊のご紋のくっついたパスポートが、キリスト教徒も、共産主義者も、日本人ならば区別なく、守ってくれます。日の丸を挿げ替えて、旗に十字のしるしをつけようと、いざ、戦争になれば人間のすることに変わりはありません。人は胸の中に原罪を抱えている限り、表紙を変えようと、シンポルを代えようと、同じことをします。
要は印を変えて、過去にふたをせずに、過去を認め、償いをし、前に進んでいくことが大切なのです。私が日の丸を「隠すな」という意味は、日の丸を掲げて戦争をし、人を殺した自分を忘れるな、自分を隠すな、その上で、まっすぐ歩け、という意味です。
私は今の日の丸に敬意を評しています。
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