2009年10月19日月曜日

手負い虎 さんが投稿「ダライ ラマ」にコメントを書き込みました。

言っていいのか悪いのか、実は長いこと躊躇していました。

前提として、
「私はダライラマへも、オバマ大統領にも、共産主義にも、特別の好悪の感情を持っていません。少なくとも、他人のブログに記述するに当たっては、個人的な好悪の感情で記述しようとは思いません。」

で、私には、この革袋さんの記述だけは、どうも、短絡的に過ぎるのではないかと思っています。

1)オバマさんの政治家としての評価はともかく、ダライラマと会わないからといって、中国よりで共産主義に接近かという結論は、国際政治のバランスというものに対する深謀遠慮が不足しているのでは、と考えます。彼は国際政治のバランスを考慮するうえで、イスラムとも中国とも、関係の改善を図っての行動だと思いますが、間違いでしょうか。
2)ブッシュさん親子の評価はともかく、この二人がダライラマにあったのも、「政治的判断」であって、ダライラマに対する「理解」または「尊敬」ではなかったと思います。彼らのキリスト教観が、かなり狭量な事実を見ても、他宗にたいする「理解」があるとは思えません。中国への面当てのような気がします。
3)「共産主義」という言葉は、その主義と掲げる国家のイメージが先行して、世界中で「悪辣な全体主義で無神論」という意味で捉えられています。そして、ある一定の国家の政策に対して反意を唱えるものは、すべて「共産主義者」と呼ばれ、その人格を認めなくても殺しても良いような扱いを受けます。エルサルバドルのロメロ大司教も、かつて、官憲から「共産主義者」と呼ばれました。そして私も、そう呼ばれました。

考えてみてください。かつて、アメリカ大陸を征服したヨーロッパのカトリック教国は、「キリストの愛によって」アメリカ先住民を虐殺したのです。そのことによって、カトリックの教義が「帝国主義、侵略主義、虐殺主義」とプロテスタントから批判を受けています。教義の内容も、ルターの宗教分裂以後の歴史もをまったく研究もせずにです。(私はルターの行動を「宗教改革」と呼ぶのは間違いであると思います。「改革」ができるのは中に残っているものだけです。外に飛び出して別の組織を立てるのは、改革でなく、分裂です。)これは、スターリンや金正日を見て、あれが「共産主義」の実態だとする考えと同じです。


3)以下はじゅんたろうさんのコメントに対するコメントです。
ノーベル平和賞の基準は、「国際政治」です。そうでなければ、日本の佐藤栄作がもらったり、アラファトがもらったり、マザーテレサがもらったり、オバマ大統領がもらったりする、この世界的な「賞」を、理解することなど、できません。

「人間的に」見て、佐藤栄作、金大中、アラファト、オバマは、マザーテレサと並べられる人物ですか?

その1年の間に、国際政治の中で、国際的に影響力のあった人物に送られるのが、この賞であって、私はオバマさんが、おっしゃるように原爆を使い始めたアメリカの大統領として、「核廃絶」をたとえ口先だけでも言い始めたことは、歴史的に評価できることだと思います。

ダライラマはその人格がどうであれ、世界的に発信することを封じられているからか、どうか知りませんが、世界をあっといわせるほどの働きが「見えません」。

埋もれた人格者はどこにでもいます。アメリカの大統領ほどの影響力が出てくるのは、多分、死んでからでしょう。人間が作ったヨーロッパの基準による「平和賞」など、マザーテレサだってもらわなくてもいいのです。ダライラマも、もらわなくていいのです。政治の世界でもらう賞など、どうせ胡散臭いものですよ。

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