2009年4月26日日曜日

じゅんたろう さんが投稿「手負い虎 さんが投稿「じゅんたろう さんが ボストン ティーパーティー にコメントを書き込みました。...」にコメントを書き込みました。

お二方の御意見もっともだと思います。
つい二三日前のことです。渋谷区のスカルノ・デヴィ婦人宅前で右翼の宣伝カーが何本も日の丸を立てスピーカーでがなりたてていました。そこで彼女は宣伝カーに向かってヴェランダの植木鉢を投げつけたのです。右翼はフロントガラスが壊されたと騒ぎ立てました。そこで彼女は勇敢にも出て行きそうではナイト証拠写真をとろうとカメラを向けたところカメラをたたきつけられました。
事の発端は例の「将軍様」の生誕祭に彼女が平城へ出かけ祝ったと日本へも大々的に報道されました。北の人工衛星打ち上げの直後でもあり国内の世論も沸騰していた時です。
さて妙なことに双方からの被害届けは全く出されないばかりかそのニュースは一度だけでTVから消えています。普段ならヤイヤイとTVは面白おかしくあの拝金主義者婦人の事取をとり上げます。しかし、都合よく手のひらを返したように元スカルノ・インドネシア大統領夫人に早代わりします。そして閣僚の靖国参拝のニュースです。麻生首相は参拝はしませんでしたが、お榊料を奉納された由。
この英霊を祭る施設は宗教法人靖国神社です。目下委員会が設置され非宗教施設としての記念の場をと検討しているところです。
そうそう「君が代」も学校では歌われていません。スポーツの国際試合でだけです。
締めくくりの無い投書ですが・・・。





一滴です

デビ夫人はまだ健在なのですか~。  もう過去の人かと思いました。  

私がまだ 二十代の頃、 池袋の駅の前に軽トラックに幕をはり、 幅広のたすけを肩から掛けて、 プラカードには 「愛国党」と書き、右翼の宣伝カーが必ず週末になると止まっていました。   名前も忘れましたが、髪をオールバックにした痩せぎすの老人が雄弁に演説をしていました。
目の前に立つと目立つだろうと、少し離れたところで、いかにも買い物をしているようにしながらその演説を聴いた記憶があります。まだ私自身の主義主張などまったく持ち合わせていなかった頃ですから、この老人の弁舌さわやかな演説に多少なりとも引き込まれた記憶があります。
   そして、 足を延ばして、 立教大学を通りこして 要町の近くへ歩くと 或る建物に 全学連が籠城して、 そこからも、 ヘルメットにタオルで顔を隠し、 ゲバ棒をもった若者が スピーカーを通して、こちらは演説らしきもの、 ただ怒鳴っていました。 昔懐かしい 全学連節とでもいうのですか 
ワレワレワ~ アンポー ガ~ どうちゃら~ こうちゃら~ ともうこちらの方はいったい何を云うとしているのか聞き分けられない日本語を怒鳴るので 少しも説得力がなかった思い出です。 
しかし、あの頃から引き続く 日米安全保障条約もずいぶん永くなりました。 いつも懸念することは、 このアメリカは四年ごとに大統領が変わり、またシーソー ゲームのように 民主党、共和党と順繰りに主導権が変わります。 その流れの中で、 いざ 日本に激変が起きた時に、 いったいどの大統領が 日本の国を守ってくれるのか、 大統領が若くなるごとに、安保条約は 大統領の生まれる前の条約になります。  また 過去を切り捨て、 チェンジ を唱える政党がどれだけ 生前の他国との条約に命を削ってくれるのか、 この国に住んでいる私には一抹の不安を感じます。 

1 件のコメント:

手負い虎 さんのコメント...

何かを利用して馬鹿騒ぎをする人がいるからといって、利用されるものに罪があるのではありません。日の丸を利用して、狼藉を繰り返す人がいるからといって、日章旗は、それらの人々の象徴ではなく、日本国家の象徴で、その象徴を無視すれば自分は過去の罪を逃れられると思うのは、卑怯です。

世界の有色人種国に、侵略征服を繰り返し、原住民を拷問虐殺したた西欧諸国が、それをキリスト教の布教の足がかりにした歴史があったって、キリストそのものに罪があるわけではありません。

カトリックの歴史が血塗られた歴史だからといって、分かれてプロテスタントの団体を組織すれば、過去の歴史から逃れられると考えるのは、エヴァの子なる人類の子孫として、卑怯ではないでしょうか。

原罪はすべての人間にあるのです。頬かむりすれば、自分は清く正しいと言える人間などいないのです。

日の丸を掲げて、過去戦争をしました。しかし、現在日の丸を掲げて、60年以上、低開発国の援助をし続けているのも、同じ日本です。

国外に行けば、菊のご紋のくっついたパスポートが、キリスト教徒も、共産主義者も、日本人ならば区別なく、守ってくれます。日の丸を挿げ替えて、旗に十字のしるしをつけようと、いざ、戦争になれば人間のすることに変わりはありません。人は胸の中に原罪を抱えている限り、表紙を変えようと、シンポルを代えようと、同じことをします。

要は印を変えて、過去にふたをせずに、過去を認め、償いをし、前に進んでいくことが大切なのです。私が日の丸を「隠すな」という意味は、日の丸を掲げて戦争をし、人を殺した自分を忘れるな、自分を隠すな、その上で、まっすぐ歩け、という意味です。

私は今の日の丸に敬意を評しています。