日本語だの英語だのといろいろ御託(ごたく)をこねているが、さて 私自身の家族はいかに。
これが哀しいことに 息子、娘そして亭主殿はまったく日本語を話さない。そうではなかった 話せない のである。
一言で云えば私が怠け者であったのが最大の理由。
長男が産まれた頃は 小学生まで家庭内を日本語で通した。 これは 子供の父親が 殆ど留守だったから出来たことかもしれない。 月曜に出かけて金曜日に飛行機で帰宅という 出張亭主であった故、 母子二人で日本語を楽しませてもらった。もう 35年前になる。
まだまだこの州も英語が主体であったから息子が 保育園へ行く頃になると、保育園の保母さんから、お母さん家庭で英語を話して下さい。この子は言葉が理解出来ていないようです と言われるようになった。
そうではない、 息子は理解していたのだが、おしゃべりをしないのである。三歳まで全く無口な子だった。もしかしたら言語障害かしらと心配した事もあったし、
無知な人は、二カ国の言葉で頭の中が混乱しているのだと助言してくる。そんな事は決してないのに。
しかし、三歳の誕生の頃から 堰を切ったようにおしゃべりをするようになり、 英語も日本語もしっかりと使い分けてくれた。 とはいえ、三歳の子供の語彙などはまったく無にひとしいが。
その頃お向かいに住んでいたギリシャ人の家族は夫婦がギリシャからの移住者だから 内はギリシャ語、外は英語とはっきり区別していた。左隣は フランス人の奥さんとアメリカ人の旦那さん。 どうしても家庭内は英語になる。彼女に言わせると、もうフランス語なんて忘れたと嘆いていた。
お向かいのギリシャ人の奥さんは 買い物にも電話での交渉事でも娘の助けが必要であることと、またこの国の人たちは 祖国が同じ人たちとの結束が強く、外部との接触が極端に少ない。故に、奥さんが英語を学ぶ時がない。 それも考えさせられた事がらである。
ひとつの望みであった日本語補習校への子供の入学を願ったが、 「日本で税金を支払っていないアメリカの子は入学拒否」にあった。数年後には 違う返事が返ってきた、「日本のご家庭のお子様の為の学校、現地の子供はまず付いていけないでしょう?」という拒否にもあった。
しかし、これは甘えであって、 日本人の女性でも、子供との接触は一切日本語。 子供が英語で話しかけても母親は返事をしない。父親同席の食卓でも、父親には英語、母親には日本語と使い分け、母子の会話中は父親を含む第三者は理解できないという状態を貫いている人も居る。
その徹底した精神はアッパレだと思う。
しかし、我が家の子供たちが日本語を習わなかったのは私の怠慢からである。
学校へ行かなくても学ぶことは出来る。私に教える気力があれば。でも 子供の成長と共に親も成長しなければ、すぐに追い越されるのが怖かったのが最大理由かもしれない。
「お母さん一体何年この国に居るの」と言われるのが怖かった。 子供も一歳、私も一歳、一緒に勉強したっていずれは追い越されるけれど、何処まで付いていけるか やってみたかった。
子供の人生より、私の人生を選んだとも云える。 そんな結論に達してから 私は子供への会話を英語に切り替えた 情けない母親なのかもしれない。
娘は大学の第二外国語に日本語を選んだ。 カタカナ ひらがな程度は読める。 ゆえに日本食品店に買い物へ行くと ほんの少し便利だそうだ。しかし言葉などは 使わなければ消えるもの。娘がひらがなを読めるのもあと何年かであろう。
息子は 挨拶程度なら出来るだろう。しかし、これも月日が彼の語彙を消しさると思う。少なくとも彼らの今の生活の中では母親の祖国の言葉は必要ない社会に生きている。
日本に親戚や従弟たちは存在しても、 彼らがアメリカへ遊びに来たのも学生の頃。 その後の接触はまったくなしの親戚付き合い。息子、娘の日本への思い入れは浅いものかもしれない。
忘れていた、 子供たちの父親! これはもう論外である。一年に一語単語を覚えられるかと交渉したら、「努力してみる」、しかし、一語覚えても、 二語忘れるのだ。まるで笊の目のように底に留まらない。 もうどうしようもない。
「今度東京へ行った時、秋葉原で捨ててくるからね」と云ってある。
5 件のコメント:
ことばは、必要に迫られないと覚えないみたいですね。
ですから、旦那さんに日本語を覚えてもらうなら、日本語で要求しないと食事も出ないような環境を作るとか・・・。
ところで、多くの日本の家庭では、夫婦の会話なんて「あれ」「それ」「これ」の三語で通じてしまうようです。
第三者は何を言っているのか分りませんが、長年連れ添っていると、サインだけで十分のようです・・・。
・・・ということで、旦那さんに日本語を覚えてもらうのは、無人探査機で天体の砂を持ち帰るよりも難しいみたいですね。
まだ独身の頃は 福島、浜岡など日本の原子力発電所や火力発電所などの組み立てに何カ月も居ましたが、、 その頃は まったく日本語が出来なくても、日本の現場の技術屋さんたちとは 英語と日本語ちゃんぽんで 少しも不自由はしなかったそうです。 通訳も居ないのに、日本語の中の技術用語の英語と それをつなぐ日本語で 彼らの云う事は理解したし、 自分の説明も理解してもらえたと云います。
技術面には 言葉は要らないのだそうです。 製図を書きながらゆっくり云うことと現場に居るだけで意思は通じるとか。 多分そうなんでしょうね。でもそれも若かったから出来たことでしょう。 今は 英語も理解しません。まるっきり聞く耳持たずですから。
私の声を聴いたとたん、耳がシャットダウン するのだそうです。 医者の保障付きです。
そうそう、男性の耳にはシャッターが付いています。
でも、そのシャツター、悪口を言うと、全開になりますね。
ちなみに、小生の母にも便利なシャッターが付いていますよ。
あらま様
女性の口に戸が立てられませんから、男性の耳にシャッターが付いているのは 上の方に住んでいらっしゃるお方のご加護だと感謝しましょう。
でもシャッターにもフィルターが付いていて、 声の出どころによっては サット開くそうですね。
私のいる首都圏では幼稚園で英語の選択授業があります。結構授業者数はいます。”皮袋の一滴”さんの御家庭のようではなく両親とも日本人です。今小学校でどれほど英語の授業に取り組んでいるのかわかりませんが、すくなくとも”言葉”である限りお互い理解できあうもので出なければなりません。日常!どれほど必要でしょうか?
個人の考えでは、はじめに正しい日本語を身に付けることが大切です。今それがまったく失われている日本では外国語を学ぶ「基礎」が欠けているとしか言い様がありません。続きあり・・・
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