2008年8月18日月曜日

三つの十字架

昨年の冬に或るキリスト教の教会の前を通ったら、その教会の前庭にわずかに土が盛られて小さな丘が作られ、その上に三つの裸の十字架が立っていた。一つはそびえ立つように高く、あとの二つはそれよりもやや低め。「十字架上のキリスト」と私たちが云うイエス.キリストの体は無い。 その十字架はまさに磔になる前にゴルゴタへ向かうイエス キリストがご自分で担いで運んだ十字架を連想する。わたしの目には実に生々しく映る裸の十字架という実感がした。 

その三つの十字架はどの角度から見ても、なにか恐ろしく、これからイエス キリストがあの十字架の上に磔になるのを待っているような無気味な気分になる。 夕方に又用事が出来てその教会の前を通ったのでもう一度眺めてみた。 それは夕方の薄暗闇の中で全てを威嚇するようにそびえ立っているように見えた。私にはそこから荘厳さも、親しみも、悲しみも感じない、むしろ恐ろしさと寂しさを感じるのはなぜなのだろう。

そして先日又別の教会の前に同じような三つの裸の十字架がそびえるように立っている教会を見つけた。偶然だが、その教会に所属している主人の友人が先日我が家でビールを呑んでいた。たしかその宗派は禁酒であったが、 まあそういうお堅い事は言うまい。

早速の私の質問に、ゴルゴタの丘に立った三つの十字架を表現しているのだと説明してくれる。その意味はわかるが、しかしキリストの両側で磔になった二人の罪人の一人は救いを求め、「今日あなたはわたしと楽園に居る」と許されているが、もう一人は救いも求めず、罪の悔悛もせず、イエス キリストを最後まで罵っていた罪人の磔になった十字架をなぜ教会の前にたてるのだろうか。 十字架は三つなければキリストの磔を表現できないと考えているのだろうか。

なんと今週はカトリックの教会の前にも裸の十字架が三本立っているのを見つけた。 こうなると教会間の流行りの飾りものとでも解釈したい。 いつの日から、十字架の上からイエス キリストの像が消えてなくなったのだろう。 私の目には十字架上のイエスの姿を仰いでこそ、「私たちは救われた」と想うが、裸の十字架は、またこれからイエスの磔の苦しみが繰り返されるような不吉な気分になるのは私の想い過ごしなのだろうかしら。

二千年の古い宗教である、時代と共に変化が現れるのは当然のことであるが、自然に出てくる変化では無く、 最近は、「違うことをする」「現存のいにしえをすべて取り払う」そのような行為に見える。外見をまず取り替えて、 教会の行き方を変え、式次第を変え、次に教理を変え、いつの間にか聖書の解釈も変わっていくのだろうか

3 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

大変重要な問題に触れられました。
 1981年2月6日の教皇の講話の中で、ヨハネ・パウロ二世教皇聖下も言っています。「今日のキリスト信者は、その大部分が途方にくれ、悩み、混乱し(perplexes)、さらには騙されているかのように感じている」と。教皇様は、この問題の根本的な原因を次のように要約されました。「私たちは、天主様が啓示され、教会が常に教えてきた真理に反する思想が、一般に多く広がっているのを今見ています。教義と倫理神学において、本当の異端が出現し、疑いと混乱と反逆をあおいでいます。典礼さえも損なわれています。キリスト信者たちは、知的で倫理的な「相対主義」にのめり込んで、明確な教義も客観的な倫理もないままに、曖昧に倫理について語るイルミネーション主義や、社会学的キリスト教に誘われています。」
以上のような文を見つけました。 今回のブログについて頭が痛くなるのを覚えました。 今いえることはもう一度私たちは素直に「使徒信条、あるいは使徒信教(文語)」を考察すべきだと考えました。 カトリックの信仰はそれ以上でもそれ以下でもないと言うことです。 エキュメニカル・ムーブメントという言葉に迷わされ迎合すべきではないのです。 
これについてはまだ多くの方々の御意見が出ると思います。 楽しみでもあり怖さをも感じます。
じゅんたろう

じゅんたろう さんのコメント...

じゅんたろう さんは書きました...
大変重要な問題に触れられました。
 1981年2月6日の教皇の講話の中で、ヨハネ・パウロ二世教皇聖下も言っています。「今日のキリスト信者は、その大部分が途方にくれ、悩み、混乱し(perplexes)、さらには騙されているかのように感じている」と。教皇様は、この問題の根本的な原因を次のように要約されました。「私たちは、天主様が啓示され、教会が常に教えてきた真理に反する思想が、一般に多く広がっているのを今見ています。教義と倫理神学において、本当の異端が出現し、疑いと混乱と反逆をあおいでいます。典礼さえも損なわれています。キリスト信者たちは、知的で倫理的な「相対主義」にのめり込んで、明確な教義も客観的な倫理もないままに、曖昧に倫理について語るイルミネーション主義や、社会学的キリスト教に誘われています。」
以上のような文を見つけました。 今回のブログについて頭が痛くなるのを覚えました。 今いえることはもう一度私たちは素直に「使徒信条、あるいは使徒信教(文語)」を考察すべきだと考えました。 カトリックの信仰はそれ以上でもそれ以下でもないと言うことです。 エキュメニカル・ムーブメントという言葉に迷わされ迎合すべきではないのです。 
これについてはまだ多くの方々の御意見が出ると思います。 楽しみでもあり怖さをも感じます。
じゅんたろう

匿名 さんのコメント...

きわめて個人的な物語ですが、私はエルサルバドルでロメロ大司教という方の暗殺を体験し、日本に帰ってから、内乱の語り部になろうと考えて、絵の修業をしました。

で、何とか、大司教の暗殺の絵を描き始めようと思ったとき、祭壇の後ろにあったはずの等身大のキリストのついた十字架を描くには、きちんと見なければだめだと判断し、東京じゅうの教会や修道院を探し歩いて、やっとある修道院の蔵の中に眠っていた、伝統的な十字架像を見つけ、デッサンをさせてもらうことをお願いし、許可を得ました。

ところが、私は生まれた時から、この手の十字架像を見てきたにもかかわらず、細部にわたって、まじまじと見たことがなかったのですが、デッサンですから細部にわたってみなければなりません。

それをしているうちに私は、涙が流れて流れて、どうにもしようがなくなりました。どうでもいいことで、信じてくださらなくても結構ですが、感情が乗り移ってきて、体が痛くなるのです。聖人ではありませんから、まさか聖痕が刻まれたわけではありません。でも、見上げれば、涙と震えでどうにもならなくなり、デッサンなどということは及びもつかず、私はあの姿を描くことを断念しました。

そういうわけで、「大司教暗殺」の絵は裸の十字架になりました。

だから、あの十字架が「象徴」として裸のまま飾られているほうが、あくまで個人的に私には精神安定の上から、受け入れやすいのです。

なお、革袋さんの結論ですが、私はいろいろな理由から、「そうなるだろう」と確信しています。子供の時から教え込まれてきた教義に矛盾することを見れば、私だって、抵抗は感じます。でも同時に、教会はやっと「本当のこと」を言い始めたと思っています。