2008年8月19日火曜日

三つの十字架へのコメント

じゅんたろう さんが投稿 "三つの十字架" に新しいコメントを書き込みました。

大変重要な問題に触れられました。
 198126日の教皇の講話の中で、ヨハネパウロ二世教皇聖下も言っています。「今日のキリスト信者は、その大部分が途方にくれ、悩み、混乱し(perplexes)、さらには騙されているかのように感じている」と。教皇様は、この問題の根本的な原因を次のように要約されました。「私たちは、天主様が啓示され、教会が常に教えてきた真理に反する思想が、一般に多く広がっているのを今見ています。教義と倫理神学において、本当の異端が出現し、疑いと混乱と反逆をあおいでいます。典礼さえも損なわれています。キリスト信者たちは、知的で倫理的な「相対主義」にのめり込んで、明確な教義も客観的な倫理もないままに、曖昧に倫理について語るイルミネーション主義や、社会学的キリスト教に誘われています。」
以上のような文を見つけました。 今回のブログについて頭が痛くなるのを覚えました。 今いえることはもう一度私たちは素直に「使徒信条、あるいは使徒信教(文語)」を考察すべきだと考えました。 カトリックの信仰はそれ以上でもそれ以下でもないと言うことです。 エキュメニカルムーブメントという言葉に迷わされ迎合すべきではないのです。 
これについてはまだ多くの方々の御意見が出ると思います。 楽しみでもあり怖さをも感じます。
じゅんたろう

じゅんたろうさん コメントありがとうございます

イエス キリストが再臨をお約束になられてからもうじき2000年の歳月が経ちます。 その間に人々はキリストの再臨を待ち望み、恐れ、 そして世の終わりが何時か来ることへの準備をしていたはずですが、 そのときがまだ来ないままに2008年になってしまいました。 そして、キリスト教の人々の中からはもうほとんど神の子の再臨も、この世の終わりも胸の内からなくなり、口に上ることもなくなり、丁度、モーゼがシナイ山から降りてくるのを待てなかったイスラエルの民となってきているようですね。勿論私もその一人です。 

最近知人がこんなことを言いました。

「今の世界は「黙示録」を思わせる。黙示録の中の七つ印をもう一度読み返してみたほうがいいかナ。」





手負い虎 さんが投稿 "三つの十字架" に新しいコメントを書き込みました。

きわめて個人的な物語ですが、私はエルサルバドルでロメロ大司教という方の暗殺を体験し、日本に帰ってから、内乱の語り部になろうと考えて、絵の修業をしました。

で、何とか、大司教の暗殺の絵を描き始めようと思ったとき、祭壇の後ろにあったはずの等身大のキリストのついた十字架を描くには、きちんと見なければだめだと判断し、東京じゅうの教会や修道院を探し歩いて、やっとある修道院の蔵の中に眠っていた、伝統的な十字架像を見つけ、デッサンをさせてもらうことをお願いし、許可を得ました。

ところが、私は生まれた時から、この手の十字架像を見てきたにもかかわらず、細部にわたって、まじまじと見たことがなかったのですが、デッサンですから細部にわたってみなければなりません。

それをしているうちに私は、涙が流れて流れて、どうにもしようがなくなりました。どうでもいいことで、信じてくださらなくても結構ですが、感情が乗り移ってきて、体が痛くなるのです。聖人ではありませんから、まさか聖痕が刻まれたわけではありません。でも、見上げれば、涙と震えでどうにもならなくなり、デッサンなどということは及びもつかず、私はあの姿を描くことを断念しました。

そういうわけで、「大司教暗殺」の絵は裸の十字架になりました。

だから、あの十字架が「象徴」として裸のまま飾られているほうが、あくまで個人的に私には精神安定の上から、受け入れやすいのです。

なお、革袋さんの結論ですが、私はいろいろな理由から、「そうなるだろう」と確信しています。子供の時から教え込まれてきた教義に矛盾することを見れば、私だって、抵抗は感じます。でも同時に、教会はやっと「本当のこと」を言い始めたと思っています。

手負いの虎さん コメントありがとうございます


手負いさんが十字架をデッサンしようとして涙が出てきたとおっしゃいますが、私はそれを信じます。

十字架上のお像をジッと眺めて何も感じない人はごくまれだと思います。

私は絵を描きませんが、教会の祭壇に掲げてある十字架をジッと眺めますと私も涙が出ます。そして必ず、キリストの愛を感じます。最後にお御堂を出るときの気持ちの清清しさは素晴らしいです。  

手負いさんの、「教会はやっと「本当のこと」を言い始めた…」

教会はどんな本当のことを言い始めたのでしようかしら? 私には何も「本音」が聞こえて来ません。 

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