2009年7月23日木曜日

考えすぎて頭が痛い

先日私が愛読しているよそ様のブログで、 「神はいない」運動が世界で始まっていると書いてあった。 そのブログはヨーロッパ発信である。 暑さで頭がボーとしている昨今だけれど その思考能力の少し間延びした頭で少し考えてみた。
 「神はいない」ということは 反対に かつて「神は居た」 という、反動で「神は居ない」となると考えたい。存在を否定するのに キャンペーンを始めるはずはない。私の目の前にその広告を見せられたとしても、 「そー それで?神は居ないとどうして分かるの?」となる。

 世の中には 「無神論者」ときっぱりと言葉で表す人が居る。
それは 宗教があることを想定して、自分はそれらと共に歩みませんということになる。 以前読んだ 曽野綾子さんの本の中に
無神論者は 人生の中でいかなる事が起きても、たとえば 愛する子供が生死の中をさまよっている時でも、 誘拐魔に連れ去られたどうしようもない時にも 親として、 その時に手を合わせて祈ることをしないのか、 何かに助けを必要としたときに 何にすがるのか、本当に何かに向けて手を合わすことがない、本当に何に対してもすがることをしない強さが有って初めて 「無神論者」と云える。それだけの強い精神の持ち主が果たしてどれほど存在するだろうか。その様な事が書いてあった。   神の不在を嘆く人は多いが、 否定することには勇気が要るであろう。 

私は6歳の時 自分の意思とは関係なくカトリックの教会へ連れていかれたが、 それと前後しえ小学校へも、自分の意思とは関係なく連れていかれたのだから 文句をいう筋合いではない。 30年後には 私自身も自分の子供たちを 3歳の時から 教会の宗教教育クラスにブチ込んでいる。次いでに学校もミッシオンスクールに入れたから あまり自分の親を責められない。  現在の彼らはかろうじて自分はカトリック信者であると肯定してくれる程度ではあるが。

神は本当に存在するのだろうか?  もし神が私たちの目に触れる処に現れて、「自分は神である」と宣言したとしよう。その時人はどうするのだろう。 まず神は何処に現れて何後を話すのだろうと、そして愚かな人間は「それを証明せよ」とせまるだろう。

神様がそれではお望みどおりに証明しよう。そして、神が全ての癌の病を世界から取り除いてくれたとしよう、 それが証明であるとしたらどうなるだろう。  人は信じるだろうか?多分 何かの科学的自然現象ですべての癌細胞が消えたのだと 科学者は研究調査に没頭することだろう。それではどうやって証明したら 人間は納得するのだろうか。そして その次に何かの病気が蔓延し、 隣の人は健康なのに、自分が死病に取りつかれたとして、 「なぜ自分なのだ、神は何処へ行った。 きっと神など存在しないのだ」と、またなるのだろう。
故に神はその存在を私たちに証明することは出来ない。 毎日生かされているという秘跡が見えない私たちにこれ以上の証明はする必要が無いのかもしれない。
少し頭が痛くなってきた。 あまり考えないほうが良いのかもしれない。
 
  

2 件のコメント:

手負い虎 さんのコメント...

神不在の証明キャンペーンて、儲かるのかなあ。たかが100年前後の命で尽きてしまう有限存在の人間のすることって、漫画チックですね?

かつて、あるキリスト教系の学校で教壇に立っていたとき、牧師さんが生徒集めて一所懸命「旧約聖書の記述が科学的に証明される」と言う映画を見せていましたよ。科学的に証明されれば安心するんでしょうけど、その態度がすでに神否定の態度であることに気がついていないのです。神より科学が先行すると思っているんですよ。

神の存在に科学の証明が必要なもんですか。

普遍存在なるものは、有限存在の人間が証明なんぞできないほど不変なのです。神はいないと言う人の癖で、おらの病気を治してくれないからとか、うまい飯をくれないからとか、なんだか神というロボットを「全知全能の召使」と信じて、それがうまくいかないと、「いないいない」キャンペーンなんかを提唱するようです。

不変普遍なるものは、人間が生きてもしんでも、病気になっても、貧乏になっても、らい病になっても骨抜きになってもすってんてんになっても、祈りに応えなくても、不在証明にはならないのです。

意志はこちらに在るのではく、あちらに在るのですから。存在の元なる第一原因は結果的存在に過ぎない人間から証明されることなんか無用です。

ばっかみたい!(そのキャンペーンで儲けようとしている人に対してですよ。一滴さんにじゃないから、誤解しないでね)

じゅんたろう さんのコメント...

私も、多分同じブログを見ました。主張している内容が詳しく語られていませんが、ヨーロッパでいまや衰退していくカトリックに対する挑戦であろう。彼らは神のペルソナ的存在を認めず唯物論的な、世界はそれ自身によって成り立つと言う考えだという主張だと思う。それに伴って「スピリチュアリズム」が蔓延している。ふと私は、「伝道の書」の書き出し「空の空、空の空、一切は空である」の言葉を思い出した。あと御存知のように延々と語り、ついで全てに「時」があり全て自由に喜び楽しめ、しかし全て時が去り一切は「空」であると結ぶ。現在の人々の生き方がすでに二千数百年前に同じであった。最後に「あなたの若い日に、あなたの作り主を覚えよ・・・」とある。
この年になると生きていること自体苦痛である。早く死にたいと思うがそうも行かない。またもうひとつ「ヨブ記」を思い出した。これは史実では無く説話だが、生きるに苦しい時によく読んでいる。「無神論」の運動、人が根本的な問題の「気付き」に必要かもしれない。