2009年7月26日日曜日

じゅんたろう さんが投稿「考えすぎて頭が痛い」にコメントを書き込みました。

私も、多分同じブログを見ました。主張している内容が詳しく語られていませんが、ヨーロッパでいまや衰退していくカトリックに対する挑戦であろう。彼らは神のペルソナ的存在を認めず唯物論的な、世界はそれ自身によって成り立つと言う考えだという主張だと思う。それに伴って「スピリチュアリズム」が蔓延している。ふと私は、「伝道の書」の書き出し「空の空、空の空、一切は空である」の言葉を思い出した。あと御存知のように延々と語り、ついで全てに「時」があり全て自由に喜び楽しめ、しかし全て時が去り一切は「空」であると結ぶ。現在の人々の生き方がすでに二千数百年前に同じであった。最後に「あなたの若い日に、あなたの作り主を覚えよ・・・」とある。
この年になると生きていること自体苦痛である。早く死にたいと思うがそうも行かない。またもうひとつ「ヨブ記」を思い出した。これは史実では無く説話だが、生きるに苦しい時によく読んでいる。「無神論」の運動、人が根本的な問題の「気付き」に必要かもしれない。






一滴です
じゅんたろうさん 「早く死にたい」などとは考えないで下さい。お願いします。回りの人たちがじゅんたろうさんの存在を頼りに生きているのですから。しっかりと神様から宿題が渡されているではありませんか。  じゅんたろうさんこそ、聖ペトロの
前に堂々と「じゅんたろう人生のレポート」が提出出来ます。  
前にも書いたかもしれませんが 私の好きな唱の一節 
「I know soon St. Peter calls my name」 それまで生かされるのです。 「一瞬たりとも自分の意思で命を短くすることは出来ない」こんな言葉がどこかにありましたね。

ヨブ記はいつ読んでもその時の気持ちのありようで受取方が違ってきますね。 ヨブに同情して涙を流したり、 神が悪魔とした取引に怒りを感じたり、 はたまた、 でも ヨブは良いよね、かつては富と家族に満たされていたのだから~それに 結局又以前の幸せを取り戻しのだから。 現実の世の中には 同じ苦しみを受けても、最後まで苦しみで終わる人はいくらでも居るのにと多少ひねくれを感じたりと、読む時の気持ちが現れます。 
しかし、これは あくまでも 何時においても 読みの浅さを表す私の聖書への姿勢となりますけど。 
しかし聖書とは、 いつ何処のページを開いても その時の気持ちが癒されるのは やはり神の恵みでしょうか。

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