2008年5月17日土曜日

墓参り

十二月の二十四日の舅の命日、家族揃っての墓参りは我が家の習慣になってもう三十年。そして七年前から姑もそこに一緒に眠る。広大な土地にあるその墓地はあらゆるデザインの墓標が立ち並び各々祈りの一節や詩が彫られ残された家族の想い入れが感じられる。 夫から贈る亡き妻への愛の詩、子どもから親への悲しみの言葉。
幼き子供の墓にはその子の写真が埋め込まれ、その前にはぬいぐるみの人形やおもちゃが並び両親の拭いきれない悲しみと、子供の墓への気持ちが悲しい。
クリスマス前後の墓参りはクリスマスを飾る真っ赤なポインセチアの花で墓地は飾られ、遺族が小さなクリスマス トリーの飾りを死者にプレゼントしているのもある。
我が家も毎年の墓参は赤いポインセチアの鉢植えをもち、パンの袋持参で出かける。墓地の敷地の内に大きな池がありアヒルの群れが泳ぎまわる風景はまた一つ楽しい。祈りと一年間の報告を終わると、近所の墓を散策し、子供たちと一緒にその池の淵に座り込、パンをちぎっては家鴨に投げ、まだひな鳥が尻を振りながら親鳥と一緒にパン残飯めがけて泳いで来る一時の和やかさを楽しむ。

或る年、池の淵一帯にペカーンの実が散らばっていた。 私は最初いくつかを拾って殻を割り食べ始めた。しかしよく見るとペカーンはあたり一面に散らばっていた。そこで車から袋を取り出し、家鴨と遊ぶ娘をせきたててペカーンを拾い集めた。 主人と息子にも手伝うように頼んだがまるで素知らぬふりをしてソッポを向く。薄情な奴め、 我が家の庭には腹をすかしたリスが居るのだ、これだけあれば当分スーパーで買う必要ないと私はその日の大量の収穫に満足であった。これは定めし舅様のお導きだと感謝もした。

一年が経つのは早い。また墓参の日が来た。今年のクリスマスはカリフォルニアに引っ越した息子は参加不可。娘はクリニック勤務でこれも不参加。 結局また二人だけになったが、やはり主人はポインセチアの鉢植えとパンの袋を車に積み込んでいる。私は去年のペカーンを思い出し、素早く大きな袋を準備した。墓参も済み、家鴨の食欲も満足させたが、いくらキョロキョロしても実が一つも見当たらない。 同じ季節なのだから、有る筈、もしや誰か別の墓参の人たちが私のペカーンを持ち帰ったのか? それとも今年は不作の年かしらネーと主人に聞く、
「上を見てごらん、この辺にペカーンの木が一本でもあるの?木も無いのに実が落ちているわけがないでしょう?」
「それでは去年の、アレは何?」
「あれはごどこかの親切な家族がリスのために持ってきてばら撒いたのだと思う、可哀想に去年のクリスマスには栗鼠の群れは腹をすかしたことだろうね」

今日も命日の24日には少し早いが、主人と私はポンセチアの鉢を持って一度も逢ったことのない舅と、 姑と嫁の戦いを何度も繰り返した、かつての戦士の墓へご挨拶をして来た。  

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