2008年5月26日月曜日

体罰

日本の国の出来事に、小学校の教師が一年生の男子に「うそつき」という札を胸からぶらさげさせた記事があった。教師の生徒にさせたそのお仕置き行為が教師や校長の謝罪にまで広がっているらしい。

しかし「嘘をつくこと」は最初に人間が知る知恵なのだそうだ。 罪が何であるかも知らないときから自分を保護する行為は自然と覚える。二歳児三歳児にクッキーなどお菓子類を目の前に置き、一人部屋に置きざりにすると、さっと手を出して菓子をなめたり、食べたりするが、 大人が部屋に戻り、今このお菓子食べた?と聞けば一応に頭を横へ振り、食べなかったという。それが嘘をつくことなどと言葉も知らないうちから始める行為。しかし専門家に言わせるとそれはその幼児に知恵がある証明なのだそうだ。

大人の世界には「私は嘘をついたことがない」などと大嘘をつく人は沢山いる。意地悪と嘘と嫉妬は人間本来の本能なのかもしれない。  兄弟が、幼い弟や妹のおやつをかすめ取って食べるなどは誰もが教えないのに始める。それは横領である、しかし日常茶飯事に行われている。私は四人兄弟姉妹の末っ子に生まれた故、おやつや夕食の皿盛りのおかずを兄からかすめ取られたのはもう人生の一部のように覚えている。 それを家族も黙認して誰ひとり窘めなかったし、幼い私の所有物を家族は保護もしてくれなかったのが不思議といえば不思議だったが。

私の主人はこのアメリカで中学までカトリック系の私立の生徒であった。 教師の大半は修道女たち。 悪童の限りを尽くした主人は毎日下校するときは教科書を持つことも困難なほど両手首は腫れあがっていたと云う。修道女の教師たちは悪童には定規や木の棒で両手首の内側をビシビシと叩くからだ。あれは猛烈に痛いそうだ。それなら悪は辞めれば良いのに次の日は学校へ行ってまた繰替えし、また見つかって又叩かれて、両手首を真っ赤にして、教科書を小脇に抱えて下校となるのだそうだ。少なくとも私の主人に限り体罰は利かなかったらしい。

息子の秋夫が中学の時は体罰はなかったが、公立の高校では体罰が存在していた。(1992) 罰にもいろいろと選択権があるとかで、裁判所へ送られたり、作文を書かされたりいろいろあるらしいが秋夫は体罰を希望したと云う。そのほうが一発で終わりだという考えらしかった。しかし、体罰は体育の教師が板をもっての尻叩きである。 それを一度受けただけで彼は心変わりをした。その尻の痛さは脳天までも貫いたそうだ。 それゆえ、二度目からは、腕立て伏せの罰に切り替えた。故に息子の秋夫が高校卒業の頃には筋骨隆々、なんと腕立て伏せ三百回がクリアー出来ると自慢げであった。

残念なことに息子もその父親も過去に学校で受けた体罰は彼らの生活になんら感傷を残すことはなく、今では笑い話となっている。

今年の母の日に息子の秋夫から「母の日」のカードが届いた。 その中に彼が書き込んだ一行、「お母さんが僕と過ごした日々、良い日悪い日、じっと見つめていてくれた毎日本当にありがとうございました。僕を育てるって大変だったでしょう」愛 秋夫

そうです私は泣きました。

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