2009年5月22日金曜日

じゅんたろう さんが投稿「手負い虎 さんが投稿「今 話題になっていること 2    つづき」にコメントを書き込みました。」にコメントを書き込みました。

この場合男性は、---と考えています。苦しむのは女性ですね。男性はことさら偉そうに意見を述べる立場に在りません。わたしは四十から五十台にかけてS・マザー・テレサの下部組織のあるグループに参加しました。初めは東南アジアやインドなどの子供達の里親になる仕事でした。次に目を日本へ向けるとそれどころではありません。闇から闇へ葬られる子供達の多いこと、これは大人の都合なのです。
したことは私は自分の都合勝手です。一人の人が出来る範囲は知れています。けれども月の収入の殆どをつぎ込み堕胎寸前のこどもたちのためにやりました。家族からは「家の迷える子羊達のことも考えてよ」と非難を受けました。家内の苦しみも相当だったと思います。長男はいまだに私を許しません。
とてもすまないことだったと家族に思いをはせます。
自分のしてきたことが正しかったとは決して思いません。私がのめりこんだ十年か二十年のこと、家族の苦しみ以外、誰も記憶にないでしょう。今、祈りのうちに家族に対して悔悟の日々です。
けれども米大統領の発言や問題に無関心なわが国の政治家をはじめ多くの人々にあらためて「いのち」というものを考えてもらいたいのです。日本では裁判員制度が始まりました。
死刑判決にもその人たちの判断が求められます。私がキリスト者で在ろうと無かろうと人の「死」には関われません。そんな勇樹がありません。






一滴です

人が何かに命を掛けて没頭するときに家族という愛する人たちが居ると その人たちへの責任がついて回り 難しいですね・ それゆえ キリスト教の世界には 独身制がまかり通るのかもしれません。

日本でもやはり裁判員制度が始まりますか。  これは大変なことですね。

身近な処で 私の主人は この六か月の間に二度も責務の召喚が来ました。今月の29日も責務の日です。 でも あくの強い我が家の主人は 未だかって一度も陪審員に選出されたことはありません。 いつも朝早く出廷して いくつかの 審査を受けて 「ハイ サヨーナラ」となります。 
多分 プロファイルに 最右翼的思想、 共和党支持、 銃保持賛成、死刑賛成、等々が載っているのでしょう。決して陪審員には選ばれません。

陪審員は 裁判で提出された証拠や質疑応答から結論を下すわけですから 自分の意見を持ち、自分自身の判断をする傾向のある人は選ばれないそうです。また、テレビやラジオ、新聞のニュースによる事件の予備知識を持っている人はまず選ばれないと訊きます。
さて、日本の最初の陪審員に選ばれる人たちは どのような人たちでしょうね。 

3 件のコメント:

手負い虎 さんのコメント...

革袋さん、私が載せた一言も、載せてください。重要な誤解の訂正です。

「私は革袋さんを『不遜』といったのでなく、オバマ大統領の命に対する取り扱いを不遜と申しました。」
http://plaza.rakuten.co.jp/lapislazuli344/diary/200905200005/

手負い虎 さんのコメント...

追伸:私は日本の裁判院陪審制度は、失敗すると思います。理由は、

1)日本人は、いつまでたっても「お上」の意見を仰ぐ癖が直っていません。大樹の陰が好きです。しかもその大樹は、とりあえず、そばにいつ強そうな人ですから、始末におえません。

2)日本人は学校でも、実社会でも自分の意見をしっかり持つという訓練ができていません。信念に基づいてしっかりした意見を持つと、私のように、孤立して「孤高の虎」とかかっこいいことを言いながら、実は歯を食いしばって孤独に耐えなければなりません。私は小学校のとき、先生の目を見ろとか、正直にせよとか言われて、その通りにしたばかりに、退学になった人間です。そのこと、56年経っても忘れません。

3)日本人は情に流されやすく、「遺族の気持」とか言うものを、自分に信念がないもんだから、何よりも優先させます。そういう人間集団に裁判されたら、たまったものではありません。

4)日本は長いこと、裁判官は「お上」であったのです。「お上」意識の強い裁判官が、「下々」の陪審員の意見など、尊重するはずがありません。

じゅんたろう さんのコメント...

日本の裁判員に選ばれる人はそれほど法的知識があるといった人たちではありません。
私がある日突然選ばれるかも知れないのです。しかしよほどの理由がない限り拒否することが出来ないのだそうです。
たまたま今夜のニュースでアメリカにおいて過去25年間で130人の無実の人たちが処刑されたとの事です。日本での場合は公けにされていません。ある人は処刑された翌日に真犯人が判ったということでした。
人にとって一番苦しいのは自由を束縛されることです。「殺してくれー」と死によって苦しみから逃れようとする人の気持ちはどんなでしょう。人前にさらされる苦しみ、それも真犯人ならば受け止めるべきでしょうが、そうではない場合の苦しみはとても想像できません。
第三者の感情や付け刃の法知識で人の「死」を私が左右できるでしょうか?